新米ママの憂鬱・・・・子育てにイライラしているあなたへ・・・ [<ダメ母のすすめ・・・・新米ママへ>]
一人で子育てするって、本当に大変だよね。
四六時中子供といっしょじゃあ、ストレスも限界だ。
子供の虐待が増えてるって、きっとお母さんの心に余裕が無いんだよね。
一人娘の九子は、人一倍出来すぎ母に頼っていた。
そして母も、何も出来ない娘であることを熟知していて、まあ責任上、精一杯力を貸してくれていた訳だ。これを称して「蒔いた種は、自分で刈り取る法則」と言う。(^^;
たとえば長男Rが生まれてからすぐ、夜中に何度も起きては九子が可哀想だと、母が代わりにミルクをやってくれたりした。
その上、オムツの洗濯だって、九子はほとんどしないで済んだ。
(その頃はまだ布おむつが主流で、パン○ースなど使うのは母親の恥みたいな感覚が社会のどこかに残ってた頃だ。長男の頃がたぶん過渡期で、M子の頃になるとみんな当たり前で紙おむつを使っていた。)
もちろん全然しなかったわけじゃない。
その頃たまたま友達になった子沢山のアメリカ人女性に、ウンチのついたオムツは、洋式トイレの水が溜まってるとこで直接洗っちゃえばいいのよと教えられたのを、鼻高々で実践したりなんぞした。
(これを称してウンチクと言う。(^^;)
子供たちは誰か誰か、いつの頃からかおじいちゃんおばあちゃんと一緒の部屋で寝ていた。
夜中に起きるような手のかかる子は、たいていおばあちゃんと一緒だった。
外出するにしたって、母がいつも見ていてくれたから、参観日に下の子を連れて行く必要は無かった。
役員決めの日だけは、「下の子がいます。」とアピールして役を逃れるように、子供を連れて行った。(^^;
要するに、大変なところはみんな、出来すぎ母がやってくれていたのである。
人間は経験を積んで始めて大人になる。
経験というものを積んでいない九子は、ゆえに自分をダメ母と呼び、いつまでたっても母親としての確たる自信というものが身に付かないままで、現在に至っているのである。(ぐすん。)
長男Rが外遊びが嫌いで、なかなか幼稚園で友達ができなかった話は前回書いた。
九子は慌てた。
どうにかして彼を外に連れだして、ボール遊びを好きにさせなくっちゃ。
そして、自分でも気の進まない公園へ子供達を連れて行った。
自分でも楽しいと思わないのだから、無理やりやらせて子供たちが楽しめるわけがない。
若かった九子は、それに気づかなかった。(言うまでも無いが、九子は今でも若い。より若かったという意味だ。(^^;)
自分のなかにある理想の男の子のイメージに長男Rをあてはめようと、必死でもがいていた。
九子が坐禅と出会ったのは、長男Rが2歳半の時だ。
それまでの九子は、とにかく自分に自信がなくて、うまく子育てが出来ないことにイライラしていた。
夜中にRがぐずってどうしても泣きやまなかったことがある。
頭に来た九子は、彼をベッドに投げつけた。
Rは火の付いたように泣いた。
そんな事が覚えてるだけで二度ほどはあった。
もちろん悪いと思わないはずがない。
人一倍気の小さい九子は、自己嫌悪に苦しんでいた。
ただ、自分の気持ちを抑えられなかったのだ。
だから子供の虐待がニュースになるたびに、お母さんの気持ちが分かって切ない。
九子だってまかり間違えば・・・・・・・・。
坐禅と出会ったのは、そんな自分の衝動をもてあましていた頃だ。
次男も生まれ、ますます子供に手がかかり、そしてひょっとしてうつ病の影響も多分にあって気分は最悪。
なんでも良いから、すがりつくものが欲しかった。
そうやってわらをもつかむ気持ちで出会ったものが坐禅だったなんて、九子はなんと幸運だったのだろう。( ^-^)
坐禅を終えると、本当にすがすがしい気持ちになる。
お寺に着く前、どんなにもやもやした気持ちを抱えていようとも、坐禅のゆっくりとした呼吸が、すべてを浄化し、朝の空気を一杯含んだ澄んだ血液が、からだ中を隅々までめぐっていくようだった。
そして、自分を含めてすべてのものが、自然に、心の底から、愛しく美しく思えて来るのである。
「以前は言うことを聞かない子供が鬼みたいに思えましたが、坐禅をして帰って来て見る子供達の姿は、まさに仏様みたいです。」
九子が活禅寺の機関紙によせた感想文だ。
そんな気分が1日中続くわけだから、自然に笑顔が増え、子供達を叱らなくなったのは想像に難くない。
まあ、九子がただ一つ母親として誇れることがあるとしたら、坐禅をやって日々幸せな気持ちで過ごそうとしていた事かな?
(子供達を預けられたおばあちゃんにしたら、迷惑この上なかったろうが・・・・・。
これを称して、「誰かの幸せは、誰かの不幸の上に成り立つの法則」(^^;)
もちろんいつもうまく坐れるってわけじゃないし、坐禅がうまくいかない病的な落ちこみは少なからずあったわけだから、そんな時はまたイライラ母にもどるわけだ。
結局そんなイライラ母の直接の被害を一番受けてしまったのが、他ならぬ長男Rだったのである。
長男Rの気の小さいところ、不安感の人一倍強いところ、パニックになると、どうしてよいかわからなくなってしまうところ。
もちろん生まれ持った気質も影響しているのだろうが、九子はもしかしたら・・・と後ろめたく思う。
もしかしたら、九子がベッドに投げつけたあの時の不安がまだ残っていたのかもしれない。
イライラ母に邪険にされて、愛情不足だったのかもしれない。
その上公文までやらせた。
意味もわからずせきたてられて勉強することで、彼の頭の中はパニックになったのではないか?
ただ彼も彼なりに求めるところがあったのだろう。
大学3年生の夏に、
活禅寺の夏安居(げあんご)という一週間泊まりこみの修行に入った。
まだ坐禅はうまく組めないが、生来の真面目な性格も手伝って、お寺では大変受けが良い。
和尚様には「R君、お母さんよりよっぽど人間が出来てるねえ。」と言われて、九子は複雑な気分だった。(^^;
不安な気持ちに悩んだ人間でなければ、坐禅の良さはわからないのかもしれない。
ほかの子供達は、不安の不の字もわからないような奴らだから(^^;、ご縁がなくてもまあ仕方がないか・・・。
今、子育てで悩んでいる新米ママさん、イライラしても絶対に子供を殺してはいけない。
こんな子死んじゃったらいいのに・・・と思う分にはかまわない。かくいう九子も何度もそう思った。(^^;
だけどそう思った子供に、何年もたってから助けられた。
どうしてもイライラして仕方が無かったら、時間を作って坐禅をして欲しい。
お寺で数回、正しいやり方を習えば、あとは家でだって出来る。
母親が幸せでなくて、どうして良い子供が育つだろうか。
坐禅はどんな環境にある人でも、幸せな気持ちにさせる魔法の薬である。
お金が沢山あって贅沢に暮らしている人でも不幸な人は不幸だし、戦火にあって惨めな生活をしている人の中にも、小さな幸せを見つけられる人がきっといる。
九子は上述のような人もうらやむ環境にありながら、幸せを見つけるのが下手だった。
ましてや、助けてくれる人も無く、赤ちゃんと毎日悪戦苦闘してるあなたが、幸せだと思えないのはむしろ当然かもしれない。
その九子が、毎日ただただ坐禅をするというその努力とも言えない数十分間によって、幸せ探しの名人に変身したのである。
だから是非、あなたにも試して欲しいのだ。
こうやって坐禅だけを薦める事が、正しいことなのかどうかはわからない。
仏教と切り離したら何の意味も無いと言われることはもとより承知だ。
そもそも、何かを求めて、つまりここでは「幸せ」を求めて坐禅をするのは邪道でもある。
だけどとにかく九子は坐禅で幸せになった。
その体験を語りたい余り、活禅寺のBBS(掲示板)で何度も勇み足をした。
何と言われても良い。
今子供を可愛いいと思えずに苦しんでいる新米ママさんは、だまされたと思って一度是非近くの禅寺へ行ってみて欲しい。
新米ママ九子は今、古米ママになった。(いや古々米ママかな?(^^;)
坐禅で幸せにはなったが、やってることは昔のままだ。
そんな九子も、臆面も無く生きている。いや、生かされている。
だから・・・・・・。
あなたが幸せになれない理由など、きっと、なにひとつない。
★雲水ネットでは、あなたのそばにある禅寺が一覧出来ます。
なお参考に、臘八接心(ろうはちせっしん)も読んで頂くと、気楽にお寺に行けるかもよ・・・・(^^;
もちろん臘八接心(ろうはちせっしん)は特別なお行だから、いつもそうかと心配しないでね。
「いつでも坐禅が出来ます。」というお寺があったら、なるべくそういうお寺を選んでください。
四六時中子供といっしょじゃあ、ストレスも限界だ。
子供の虐待が増えてるって、きっとお母さんの心に余裕が無いんだよね。
一人娘の九子は、人一倍出来すぎ母に頼っていた。
そして母も、何も出来ない娘であることを熟知していて、まあ責任上、精一杯力を貸してくれていた訳だ。これを称して「蒔いた種は、自分で刈り取る法則」と言う。(^^;
たとえば長男Rが生まれてからすぐ、夜中に何度も起きては九子が可哀想だと、母が代わりにミルクをやってくれたりした。
その上、オムツの洗濯だって、九子はほとんどしないで済んだ。
(その頃はまだ布おむつが主流で、パン○ースなど使うのは母親の恥みたいな感覚が社会のどこかに残ってた頃だ。長男の頃がたぶん過渡期で、M子の頃になるとみんな当たり前で紙おむつを使っていた。)
もちろん全然しなかったわけじゃない。
その頃たまたま友達になった子沢山のアメリカ人女性に、ウンチのついたオムツは、洋式トイレの水が溜まってるとこで直接洗っちゃえばいいのよと教えられたのを、鼻高々で実践したりなんぞした。
(これを称してウンチクと言う。(^^;)
子供たちは誰か誰か、いつの頃からかおじいちゃんおばあちゃんと一緒の部屋で寝ていた。
夜中に起きるような手のかかる子は、たいていおばあちゃんと一緒だった。
外出するにしたって、母がいつも見ていてくれたから、参観日に下の子を連れて行く必要は無かった。
役員決めの日だけは、「下の子がいます。」とアピールして役を逃れるように、子供を連れて行った。(^^;
要するに、大変なところはみんな、出来すぎ母がやってくれていたのである。
人間は経験を積んで始めて大人になる。
経験というものを積んでいない九子は、ゆえに自分をダメ母と呼び、いつまでたっても母親としての確たる自信というものが身に付かないままで、現在に至っているのである。(ぐすん。)
長男Rが外遊びが嫌いで、なかなか幼稚園で友達ができなかった話は前回書いた。
九子は慌てた。
どうにかして彼を外に連れだして、ボール遊びを好きにさせなくっちゃ。
そして、自分でも気の進まない公園へ子供達を連れて行った。
自分でも楽しいと思わないのだから、無理やりやらせて子供たちが楽しめるわけがない。
若かった九子は、それに気づかなかった。(言うまでも無いが、九子は今でも若い。より若かったという意味だ。(^^;)
自分のなかにある理想の男の子のイメージに長男Rをあてはめようと、必死でもがいていた。
九子が坐禅と出会ったのは、長男Rが2歳半の時だ。
それまでの九子は、とにかく自分に自信がなくて、うまく子育てが出来ないことにイライラしていた。
夜中にRがぐずってどうしても泣きやまなかったことがある。
頭に来た九子は、彼をベッドに投げつけた。
Rは火の付いたように泣いた。
そんな事が覚えてるだけで二度ほどはあった。
もちろん悪いと思わないはずがない。
人一倍気の小さい九子は、自己嫌悪に苦しんでいた。
ただ、自分の気持ちを抑えられなかったのだ。
だから子供の虐待がニュースになるたびに、お母さんの気持ちが分かって切ない。
九子だってまかり間違えば・・・・・・・・。
坐禅と出会ったのは、そんな自分の衝動をもてあましていた頃だ。
次男も生まれ、ますます子供に手がかかり、そしてひょっとしてうつ病の影響も多分にあって気分は最悪。
なんでも良いから、すがりつくものが欲しかった。
そうやってわらをもつかむ気持ちで出会ったものが坐禅だったなんて、九子はなんと幸運だったのだろう。( ^-^)
坐禅を終えると、本当にすがすがしい気持ちになる。
お寺に着く前、どんなにもやもやした気持ちを抱えていようとも、坐禅のゆっくりとした呼吸が、すべてを浄化し、朝の空気を一杯含んだ澄んだ血液が、からだ中を隅々までめぐっていくようだった。
そして、自分を含めてすべてのものが、自然に、心の底から、愛しく美しく思えて来るのである。
「以前は言うことを聞かない子供が鬼みたいに思えましたが、坐禅をして帰って来て見る子供達の姿は、まさに仏様みたいです。」
九子が活禅寺の機関紙によせた感想文だ。
そんな気分が1日中続くわけだから、自然に笑顔が増え、子供達を叱らなくなったのは想像に難くない。
まあ、九子がただ一つ母親として誇れることがあるとしたら、坐禅をやって日々幸せな気持ちで過ごそうとしていた事かな?
(子供達を預けられたおばあちゃんにしたら、迷惑この上なかったろうが・・・・・。
これを称して、「誰かの幸せは、誰かの不幸の上に成り立つの法則」(^^;)
もちろんいつもうまく坐れるってわけじゃないし、坐禅がうまくいかない病的な落ちこみは少なからずあったわけだから、そんな時はまたイライラ母にもどるわけだ。
結局そんなイライラ母の直接の被害を一番受けてしまったのが、他ならぬ長男Rだったのである。
長男Rの気の小さいところ、不安感の人一倍強いところ、パニックになると、どうしてよいかわからなくなってしまうところ。
もちろん生まれ持った気質も影響しているのだろうが、九子はもしかしたら・・・と後ろめたく思う。
もしかしたら、九子がベッドに投げつけたあの時の不安がまだ残っていたのかもしれない。
イライラ母に邪険にされて、愛情不足だったのかもしれない。
その上公文までやらせた。
意味もわからずせきたてられて勉強することで、彼の頭の中はパニックになったのではないか?
ただ彼も彼なりに求めるところがあったのだろう。
大学3年生の夏に、
活禅寺の夏安居(げあんご)という一週間泊まりこみの修行に入った。
まだ坐禅はうまく組めないが、生来の真面目な性格も手伝って、お寺では大変受けが良い。
和尚様には「R君、お母さんよりよっぽど人間が出来てるねえ。」と言われて、九子は複雑な気分だった。(^^;
不安な気持ちに悩んだ人間でなければ、坐禅の良さはわからないのかもしれない。
ほかの子供達は、不安の不の字もわからないような奴らだから(^^;、ご縁がなくてもまあ仕方がないか・・・。
今、子育てで悩んでいる新米ママさん、イライラしても絶対に子供を殺してはいけない。
こんな子死んじゃったらいいのに・・・と思う分にはかまわない。かくいう九子も何度もそう思った。(^^;
だけどそう思った子供に、何年もたってから助けられた。
どうしてもイライラして仕方が無かったら、時間を作って坐禅をして欲しい。
お寺で数回、正しいやり方を習えば、あとは家でだって出来る。
母親が幸せでなくて、どうして良い子供が育つだろうか。
坐禅はどんな環境にある人でも、幸せな気持ちにさせる魔法の薬である。
お金が沢山あって贅沢に暮らしている人でも不幸な人は不幸だし、戦火にあって惨めな生活をしている人の中にも、小さな幸せを見つけられる人がきっといる。
九子は上述のような人もうらやむ環境にありながら、幸せを見つけるのが下手だった。
ましてや、助けてくれる人も無く、赤ちゃんと毎日悪戦苦闘してるあなたが、幸せだと思えないのはむしろ当然かもしれない。
その九子が、毎日ただただ坐禅をするというその努力とも言えない数十分間によって、幸せ探しの名人に変身したのである。
だから是非、あなたにも試して欲しいのだ。
こうやって坐禅だけを薦める事が、正しいことなのかどうかはわからない。
仏教と切り離したら何の意味も無いと言われることはもとより承知だ。
そもそも、何かを求めて、つまりここでは「幸せ」を求めて坐禅をするのは邪道でもある。
だけどとにかく九子は坐禅で幸せになった。
その体験を語りたい余り、活禅寺のBBS(掲示板)で何度も勇み足をした。
何と言われても良い。
今子供を可愛いいと思えずに苦しんでいる新米ママさんは、だまされたと思って一度是非近くの禅寺へ行ってみて欲しい。
新米ママ九子は今、古米ママになった。(いや古々米ママかな?(^^;)
坐禅で幸せにはなったが、やってることは昔のままだ。
そんな九子も、臆面も無く生きている。いや、生かされている。
だから・・・・・・。
あなたが幸せになれない理由など、きっと、なにひとつない。
★雲水ネットでは、あなたのそばにある禅寺が一覧出来ます。
なお参考に、臘八接心(ろうはちせっしん)も読んで頂くと、気楽にお寺に行けるかもよ・・・・(^^;
もちろん臘八接心(ろうはちせっしん)は特別なお行だから、いつもそうかと心配しないでね。
「いつでも坐禅が出来ます。」というお寺があったら、なるべくそういうお寺を選んでください。
2004-04-24 21:11
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