Tさん一家 [<学校の話、子供たちの話>]
あれはもう10年も前のことだろうか。
九子の家の真向かいに、転勤族のTさん一家が突然越してきた。
あちらも偶然長男R、次男Sと同じ年の男の子が二人、それとしっかりとした一番上のおねえちゃんと長女N子と同じ年の一番下のお嬢ちゃんの4人きょうだいだった。
何しろ九子の住む町は善光寺のお膝元だから、古くからの家ばかりで転勤族の人が来るなんてそれはそれは珍しいことだった。
前に住んでた設計士のHさんが建てた家で、お風呂が2階にあったり、中2階みたいな部屋があったりで風変わりな家だったが、Hさんがよそへ移って自宅を貸し出し、しばらくして入って来たのがTさん一家だったわけである。
九子とTさんは、すぐに親しくなった。
Tさんと言えばすぐに思い出すのが、育成会ピクニックの一件だ。
育成会と言っても全部で20戸ほどの小さな町だ。
小学生の子供がいる家はわずか3軒で、育成会などつぶれる寸前だった。
そこへ、やり手のTさんが、子供を4人も連れてやってきたのだ。
Tさんには何しろ不思議なエネルギーがあった。
そう、肝っ玉母さんのエネルギーだ。
彼女は本当の意味で賢い人だ。
とにかく何でも自分でやってしまう。
そのピクニックの日、各自が車を出して長野市郊外の霊仙寺湖へ向かったのだが、九子の前を走っていたK4さんの車が突然パンクした。
みんな慌てて車を止めた。
「どうしよう。困ったねえ。」
誰もJAFを呼ぼうと言わなかったとこみると、今ほど普及してなかったのかな?
その時Tさんがこう言った。
「じゃあ私やってみようか!」
「えっ?Tさん出来るの?」
みんなTさんの回りを取り囲んだ。
Tさんの行動は的確だった。
ジャッキで車を持ち上げ、パンクしたタイヤをはずし、予備の黄色いタイヤをトランクから取りだして取りつける。
これだけの事だが、この一連の作業をよどみ無くこなせる女性は少ない。
だからTさんが作業を終えるとみんなから歓声が湧き、拍手が起こった。
彼女がこれだけの事が難無く出来る人だということは、日頃の彼女の仕事ぶりを見ていると何となくわかった。
とにかく主婦業の達人!
彼女の子供達だけあって、九子がうらやみ、彼女が照れて「さる」と呼んでいた外遊びの天才の男の子二人の靴が、おろしたてのようにいつも真っ白なのだ。
秘訣は洗濯!
彼女は大の清潔好きで、子供の靴はみんな質の良いスニーカーにして、こまめに洗濯する。
それも、ありったけの力を込めて、ブラシでこする。
このこまめさで掃除だって手抜き無くやるのだから、彼女の家はいつもピカピカだった。
その上料理上手でもあった。
しゃれた料理を作るって言うよりも、定番料理をきっちりと、材料を吟味して作るのだ。
潔い人だなあといつも思った。
服装などは地味にしているが、料理の素材にはお金を惜しまなかった。
たとえばビーフシチュー。
九子などはオーストラリア産の百グラム90円位の肉を真っ先に選ぶのに(^^;、Tさんはデパートで百グラム500円位のを買うのだ。
魚料理もお手のものだった。
海辺の町で育ったTさんは、良い魚の少ない長野の事とてさびしい思いをしていただろうが、近所で大きな料亭専門に卸している魚屋さんを目ざとく見つけ、通い詰めていた。
九子なんぞは生まれてから一度もその店に行った事が無かった。
いつかTさんの真似をして行きたいと思ってるうちに、数年前店は閉じられてしまった。
そんなTさんの料理がまずかろう筈は無い。
シャケとエノキダケをコブだしで炊き込んだ混ぜご飯も、お店やさんのじゃない基本に忠実なコロッケも、形良くふっくらと焼けた餃子も、一回でお好み焼きソースが一本終わってしまうと言うお好み焼きも、お米と同じくらいたっぷり小豆のはいったお赤飯も・・・・・。
本当に、何もかもが彼女の子供達に対する愛情ではちきれんばかりだった。
Tさんを少しでも見習いたいと、九子もなるべく手作りに挑戦し、彼女のを見よう見真似で、ほうれんそうが隠れるほどすりごまが入ったごま和えやら、ふっくら餃子やらを作り始めた。
それまで九子が作った餃子は、横に寝ていた。(まるで誰かみたい・・・(^^;)
「あ~らやだ、九子さん。焼く時に底を押さえつけるようにして立てるのよ。」
あっ、本当だ!(^^;
彼女のご主人は某ビールメーカーに勤務していて、全国各地を飛びまわっていた。
長野の前は金沢、その前が高松だったかな?
高松の夏は暑苦しくて大変。
金沢は古い城下町で素敵な町だが、気位の高い人が多い。
長野は彼女の目にどう言う風に写るのかな?
しっかり者の奥さんには、なぜかしっかりしない旦那さんというのが相場みたいで、彼女の家も彼女で持っていた。
四人の子供達は、みんなお母さんを尊敬していたが、お父さんの事はどうでも良いみたいだった。(^^;
お父さんの名誉のタメに言っておくが、お父さんはとても仕事の出来る人だった。
ただ、お酒、たばこ、パチンコ、マージャン、エロ本に費やすお金が多かったという話だ。(^^;
彼女は九州生まれだ。
御多聞にもれず、気性の激しいところがあった。
「うちのかあさん、怖いんや~。」と息子のM君が言っていた。
それを聞きながら彼女が、「そうなの。腹立つとちゃぶ台ひっくり返すんだから・・・・。」と信じられないことを言った。
でも九子は知っていた。
N子が転んですりむいた時、トロい九子より先にN子に駆けつけて(^^;、傷から土をはらいながら心配そうにしていてくれたTさんの姿を・・・。
Tさんは情が深いのだ。放っておけないのである。
怒りも、深い愛情の裏返しと子供達がみんなわかっているから、叱られても大好きなのだ。
薄情な(^^;九子が同じ事をしたら、ますます子供に軽蔑されるだけだ。
つまり、ちゃぶ台返しにも仁義があるって言うわけだ。
Tさんはしかし、自分が大学を出ていないのを気にしていたみたいだった。
九子が一応薬剤師なので、いつも「凄いわあ。」と言っていた。
九子という人間をを知れば知るほど、「凄いわあ。」が「そうでもないのねえ。」になり、いづれ「本当に薬剤師~?」と評価が変遷するのが、普通の人のパターンなのだが(^^;、彼女は違った。
九子にしたら、Tさんこそが賢い母親の典型であった。
彼女ほど賢い子供を育てられる母親は日本中探してもいないと、九子はいつも思っていた。
今でもそう思っている。
でもTさんは、「九子さんちはみんな大学出だから・・・。」と言った。
大学を出ようが出まいが、Tさんと九子のどちらが社会の役に立つか比べてみたらまず、結果は一目瞭然。100人が100人、Tさんに軍配をあげるだろう。(^^;
九子のうちの芝生は、例によって母が植えてくれたものだが、例によって九子がなあんにもしないので(^^;、いつも母が草むしりやら刈り込みやらやってくれていた。
それが、母がだんだん身体がきつくなって、いよいよ芝生を剥ぎとって、当時もたぶん土が出ていた筈である。
そんな芝生でも、Tさんには青く見えたのであろうか・・・・。
Tさんが長野を離れてもう10年になる。
次の次の赴任地まで年賀状を出し、たまあに電話も入れた。
最後は3年前位だっただろうか。
彼女の声はいつも明るくて、離れてた距離も時間も軽く飛び越えた。
しかしなぜか去年の年賀状に返事が来なかった。
今年の年賀状は、ついに住所違いで戻ってきてしまった。
もちろん九子はTさんと、一生友達でいたかった。
彼女の子供達が、明日の日本を背負う逸材に育つのを見届けたかった。
でも、最後の電話で聞いてしまった事があった。
長野に、顔を見るのも嫌な人がいたのだと・・・。
悪い人じゃ無いのはわかっている。
だけど、会うと生理的にだめだったのだと・・・。
だから、出来たら忘れたいのだと・・・・。
世の中にはどうしようもないことってあるんだなあと、九子が遅れ馳せながら気が付いた一瞬だった。
我が家のごま和えは、数年間はTさんのレシピのまま、一袋すりごまを入れていたのだが、そのうち三分のニになり、今ではまた半袋くらいになってしまった。
Tさんの記憶を消したかったためではもちろんない。
単純に経済の問題であった。(^^;
九子の家の真向かいに、転勤族のTさん一家が突然越してきた。
あちらも偶然長男R、次男Sと同じ年の男の子が二人、それとしっかりとした一番上のおねえちゃんと長女N子と同じ年の一番下のお嬢ちゃんの4人きょうだいだった。
何しろ九子の住む町は善光寺のお膝元だから、古くからの家ばかりで転勤族の人が来るなんてそれはそれは珍しいことだった。
前に住んでた設計士のHさんが建てた家で、お風呂が2階にあったり、中2階みたいな部屋があったりで風変わりな家だったが、Hさんがよそへ移って自宅を貸し出し、しばらくして入って来たのがTさん一家だったわけである。
九子とTさんは、すぐに親しくなった。
Tさんと言えばすぐに思い出すのが、育成会ピクニックの一件だ。
育成会と言っても全部で20戸ほどの小さな町だ。
小学生の子供がいる家はわずか3軒で、育成会などつぶれる寸前だった。
そこへ、やり手のTさんが、子供を4人も連れてやってきたのだ。
Tさんには何しろ不思議なエネルギーがあった。
そう、肝っ玉母さんのエネルギーだ。
彼女は本当の意味で賢い人だ。
とにかく何でも自分でやってしまう。
そのピクニックの日、各自が車を出して長野市郊外の霊仙寺湖へ向かったのだが、九子の前を走っていたK4さんの車が突然パンクした。
みんな慌てて車を止めた。
「どうしよう。困ったねえ。」
誰もJAFを呼ぼうと言わなかったとこみると、今ほど普及してなかったのかな?
その時Tさんがこう言った。
「じゃあ私やってみようか!」
「えっ?Tさん出来るの?」
みんなTさんの回りを取り囲んだ。
Tさんの行動は的確だった。
ジャッキで車を持ち上げ、パンクしたタイヤをはずし、予備の黄色いタイヤをトランクから取りだして取りつける。
これだけの事だが、この一連の作業をよどみ無くこなせる女性は少ない。
だからTさんが作業を終えるとみんなから歓声が湧き、拍手が起こった。
彼女がこれだけの事が難無く出来る人だということは、日頃の彼女の仕事ぶりを見ていると何となくわかった。
とにかく主婦業の達人!
彼女の子供達だけあって、九子がうらやみ、彼女が照れて「さる」と呼んでいた外遊びの天才の男の子二人の靴が、おろしたてのようにいつも真っ白なのだ。
秘訣は洗濯!
彼女は大の清潔好きで、子供の靴はみんな質の良いスニーカーにして、こまめに洗濯する。
それも、ありったけの力を込めて、ブラシでこする。
このこまめさで掃除だって手抜き無くやるのだから、彼女の家はいつもピカピカだった。
その上料理上手でもあった。
しゃれた料理を作るって言うよりも、定番料理をきっちりと、材料を吟味して作るのだ。
潔い人だなあといつも思った。
服装などは地味にしているが、料理の素材にはお金を惜しまなかった。
たとえばビーフシチュー。
九子などはオーストラリア産の百グラム90円位の肉を真っ先に選ぶのに(^^;、Tさんはデパートで百グラム500円位のを買うのだ。
魚料理もお手のものだった。
海辺の町で育ったTさんは、良い魚の少ない長野の事とてさびしい思いをしていただろうが、近所で大きな料亭専門に卸している魚屋さんを目ざとく見つけ、通い詰めていた。
九子なんぞは生まれてから一度もその店に行った事が無かった。
いつかTさんの真似をして行きたいと思ってるうちに、数年前店は閉じられてしまった。
そんなTさんの料理がまずかろう筈は無い。
シャケとエノキダケをコブだしで炊き込んだ混ぜご飯も、お店やさんのじゃない基本に忠実なコロッケも、形良くふっくらと焼けた餃子も、一回でお好み焼きソースが一本終わってしまうと言うお好み焼きも、お米と同じくらいたっぷり小豆のはいったお赤飯も・・・・・。
本当に、何もかもが彼女の子供達に対する愛情ではちきれんばかりだった。
Tさんを少しでも見習いたいと、九子もなるべく手作りに挑戦し、彼女のを見よう見真似で、ほうれんそうが隠れるほどすりごまが入ったごま和えやら、ふっくら餃子やらを作り始めた。
それまで九子が作った餃子は、横に寝ていた。(まるで誰かみたい・・・(^^;)
「あ~らやだ、九子さん。焼く時に底を押さえつけるようにして立てるのよ。」
あっ、本当だ!(^^;
彼女のご主人は某ビールメーカーに勤務していて、全国各地を飛びまわっていた。
長野の前は金沢、その前が高松だったかな?
高松の夏は暑苦しくて大変。
金沢は古い城下町で素敵な町だが、気位の高い人が多い。
長野は彼女の目にどう言う風に写るのかな?
しっかり者の奥さんには、なぜかしっかりしない旦那さんというのが相場みたいで、彼女の家も彼女で持っていた。
四人の子供達は、みんなお母さんを尊敬していたが、お父さんの事はどうでも良いみたいだった。(^^;
お父さんの名誉のタメに言っておくが、お父さんはとても仕事の出来る人だった。
ただ、お酒、たばこ、パチンコ、マージャン、エロ本に費やすお金が多かったという話だ。(^^;
彼女は九州生まれだ。
御多聞にもれず、気性の激しいところがあった。
「うちのかあさん、怖いんや~。」と息子のM君が言っていた。
それを聞きながら彼女が、「そうなの。腹立つとちゃぶ台ひっくり返すんだから・・・・。」と信じられないことを言った。
でも九子は知っていた。
N子が転んですりむいた時、トロい九子より先にN子に駆けつけて(^^;、傷から土をはらいながら心配そうにしていてくれたTさんの姿を・・・。
Tさんは情が深いのだ。放っておけないのである。
怒りも、深い愛情の裏返しと子供達がみんなわかっているから、叱られても大好きなのだ。
薄情な(^^;九子が同じ事をしたら、ますます子供に軽蔑されるだけだ。
つまり、ちゃぶ台返しにも仁義があるって言うわけだ。
Tさんはしかし、自分が大学を出ていないのを気にしていたみたいだった。
九子が一応薬剤師なので、いつも「凄いわあ。」と言っていた。
九子という人間をを知れば知るほど、「凄いわあ。」が「そうでもないのねえ。」になり、いづれ「本当に薬剤師~?」と評価が変遷するのが、普通の人のパターンなのだが(^^;、彼女は違った。
九子にしたら、Tさんこそが賢い母親の典型であった。
彼女ほど賢い子供を育てられる母親は日本中探してもいないと、九子はいつも思っていた。
今でもそう思っている。
でもTさんは、「九子さんちはみんな大学出だから・・・。」と言った。
大学を出ようが出まいが、Tさんと九子のどちらが社会の役に立つか比べてみたらまず、結果は一目瞭然。100人が100人、Tさんに軍配をあげるだろう。(^^;
九子のうちの芝生は、例によって母が植えてくれたものだが、例によって九子がなあんにもしないので(^^;、いつも母が草むしりやら刈り込みやらやってくれていた。
それが、母がだんだん身体がきつくなって、いよいよ芝生を剥ぎとって、当時もたぶん土が出ていた筈である。
そんな芝生でも、Tさんには青く見えたのであろうか・・・・。
Tさんが長野を離れてもう10年になる。
次の次の赴任地まで年賀状を出し、たまあに電話も入れた。
最後は3年前位だっただろうか。
彼女の声はいつも明るくて、離れてた距離も時間も軽く飛び越えた。
しかしなぜか去年の年賀状に返事が来なかった。
今年の年賀状は、ついに住所違いで戻ってきてしまった。
もちろん九子はTさんと、一生友達でいたかった。
彼女の子供達が、明日の日本を背負う逸材に育つのを見届けたかった。
でも、最後の電話で聞いてしまった事があった。
長野に、顔を見るのも嫌な人がいたのだと・・・。
悪い人じゃ無いのはわかっている。
だけど、会うと生理的にだめだったのだと・・・。
だから、出来たら忘れたいのだと・・・・。
世の中にはどうしようもないことってあるんだなあと、九子が遅れ馳せながら気が付いた一瞬だった。
我が家のごま和えは、数年間はTさんのレシピのまま、一袋すりごまを入れていたのだが、そのうち三分のニになり、今ではまた半袋くらいになってしまった。
Tさんの記憶を消したかったためではもちろんない。
単純に経済の問題であった。(^^;
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