袖すりあうも・・・ [<坐禅、仏教、お寺の話>]
前回の日記をすごいぞイチロー!スレッドから投稿した時、偶然隣あわせたのが「悲しみにせよ、喜びにせよ」という暮石さんの日記だった。
渋い大人の文章に惹かれて、すぐにマイアンテナに入れさせて頂いた。
(九子が紹介するまでもなく、すでにかなりの有名サイトである。)
「袖すりあうも・・・」という件名で、マイアンテナに登録させて頂いたご報告を書いたBBSの答えに、暮石さんは「他生の縁」と応じて下さった。
九子は心の底で「さすが!」とうなった。
あれは確か、子供たちが皆通った信大附属長野小学校の廊下。
子供たちはもう皆卒業してしまったが、九子は学校薬剤師というのを仰せつかっていて、年に数回足を運ぶ。
去年だったかその廊下に書いてあった「袖すりあうも、他生の縁」という文字をまじまじと眺めながら、「えっ!マジ~!!」と本気で驚嘆している九子がいた。
他生の縁って、こう書くんだ!
・・・・・・・てっきり「多少」かと思ってた。(^^;
九子の論法によるとこうなる。
ちょっと袖がすりあった、今風に言うと、ちょっと肩が触れただけの人でも、その人とは何か多少なりとも縁があったって事。
・・・ってことは、あくまでこの世の中での浅い縁の事だよね。
それに対して「他生の縁」とは、生まれ変わりを何回も繰り返してきた数えきれない年月の間に、今こうして巡り合えた縁を生じさせる何かがあったという、それはそれは深い過去世からの縁(えにし)の事だ。
ひとつの言葉が漢字一つでこんなに違った意味になるなんて・・。
(って驚く前に、勝手に間違えてた反省ってものはないの?(^^;)
九子は一応仏教徒だ。
つまりZen buddhistである。
英語で書いたのはかっこうつけたいからではなく、Zen buddhistに相当する日本語が見つからないからだ。 禅仏教徒とは言わないよねえ。
だから、生まれかわりは信じる。
というか、信じなければ仏教徒には成れない。
九子がお世話になってる活禅寺(←ここ)のお経の本の最初に、開経偈(かいきょうげ)というお経本を開く時に唱える短いお経がある。
そこには、正しい仏教に会う事は、「百千万劫難遭遇(ひゃくせんまんごうなんそうぐう)」、つまり百千万劫(ごう)年生きたとしても正しい仏教にはなかなか巡り合えないという事が書かれている。
一劫年(いちごうねん)という長さの単位をご存知だろうか?
最初に和尚様からこれを聞いた時、九子はのけぞった。
一劫年とは、何キロ四方だかのとてつもない大きい石の上に、百年に一度天女が舞い降りて舞いを舞い、その羽衣がすれて石が削れて無くなってしまうだけの時間という事だそうだ。
言うまでもないがお相撲さんみたいな天女が、鎧かぶとを身に付けて踊る訳ではない。
あくまでもやんごとない天女が、絹の羽衣をまとっているのである。
それだけ考えても、とてつもない時間だ。
それが百千万劫年!
自分なんてもんがちっぽけに思える、
仏教のこういうスケールの大きさって好きだ。
ところで開経偈の全文はこうだ。
「無上甚深微妙の法は、百千万劫にも遭い遇う事難し。我れ今見聞し、受持する事を得たり。願わくば、如来の真実義を解し奉らんことを。」
ふ~ん。百千万劫難遭遇の正しい仏教に巡り合った幸運にあぐらをかいて、全然日々研鑚してない人、どっかにいませんかあ?(^^;
なんだか自分が天女に思えてきた。
もちろん九子に一目会った人は、みんな九子に酔いしれて「天女のような人」って思うであろう事は想像に難くないが・・・(^^;、そうじゃあなくて・・・。
仏教という途方も無い大石の上へ、たった百年に一度だけ舞いを舞いにやって来る九子。
あ~たがそうやって遊びほうけているうちに、他の人は三年も五年もみっちり坐っているのですよ。(これを称して、石の上にも三年。(^^;)
ほうら御覧なさい。あ~たと同じ時期に入門した人は、みんな黒いお衣着けて法名までもらっている。
それなのにまだ入り口辺りでウロウロしていて、まったくもう、自分が情けなくないんですかあ?
えっ?何ですって?
「まあいいかあ。
一劫年も経てば、石だって少しはちっちゃくなる。(^^;」
渋い大人の文章に惹かれて、すぐにマイアンテナに入れさせて頂いた。
(九子が紹介するまでもなく、すでにかなりの有名サイトである。)
「袖すりあうも・・・」という件名で、マイアンテナに登録させて頂いたご報告を書いたBBSの答えに、暮石さんは「他生の縁」と応じて下さった。
九子は心の底で「さすが!」とうなった。
あれは確か、子供たちが皆通った信大附属長野小学校の廊下。
子供たちはもう皆卒業してしまったが、九子は学校薬剤師というのを仰せつかっていて、年に数回足を運ぶ。
去年だったかその廊下に書いてあった「袖すりあうも、他生の縁」という文字をまじまじと眺めながら、「えっ!マジ~!!」と本気で驚嘆している九子がいた。
他生の縁って、こう書くんだ!
・・・・・・・てっきり「多少」かと思ってた。(^^;
九子の論法によるとこうなる。
ちょっと袖がすりあった、今風に言うと、ちょっと肩が触れただけの人でも、その人とは何か多少なりとも縁があったって事。
・・・ってことは、あくまでこの世の中での浅い縁の事だよね。
それに対して「他生の縁」とは、生まれ変わりを何回も繰り返してきた数えきれない年月の間に、今こうして巡り合えた縁を生じさせる何かがあったという、それはそれは深い過去世からの縁(えにし)の事だ。
ひとつの言葉が漢字一つでこんなに違った意味になるなんて・・。
(って驚く前に、勝手に間違えてた反省ってものはないの?(^^;)
九子は一応仏教徒だ。
つまりZen buddhistである。
英語で書いたのはかっこうつけたいからではなく、Zen buddhistに相当する日本語が見つからないからだ。 禅仏教徒とは言わないよねえ。
だから、生まれかわりは信じる。
というか、信じなければ仏教徒には成れない。
九子がお世話になってる活禅寺(←ここ)のお経の本の最初に、開経偈(かいきょうげ)というお経本を開く時に唱える短いお経がある。
そこには、正しい仏教に会う事は、「百千万劫難遭遇(ひゃくせんまんごうなんそうぐう)」、つまり百千万劫(ごう)年生きたとしても正しい仏教にはなかなか巡り合えないという事が書かれている。
一劫年(いちごうねん)という長さの単位をご存知だろうか?
最初に和尚様からこれを聞いた時、九子はのけぞった。
一劫年とは、何キロ四方だかのとてつもない大きい石の上に、百年に一度天女が舞い降りて舞いを舞い、その羽衣がすれて石が削れて無くなってしまうだけの時間という事だそうだ。
言うまでもないがお相撲さんみたいな天女が、鎧かぶとを身に付けて踊る訳ではない。
あくまでもやんごとない天女が、絹の羽衣をまとっているのである。
それだけ考えても、とてつもない時間だ。
それが百千万劫年!
自分なんてもんがちっぽけに思える、
仏教のこういうスケールの大きさって好きだ。
ところで開経偈の全文はこうだ。
「無上甚深微妙の法は、百千万劫にも遭い遇う事難し。我れ今見聞し、受持する事を得たり。願わくば、如来の真実義を解し奉らんことを。」
ふ~ん。百千万劫難遭遇の正しい仏教に巡り合った幸運にあぐらをかいて、全然日々研鑚してない人、どっかにいませんかあ?(^^;
なんだか自分が天女に思えてきた。
もちろん九子に一目会った人は、みんな九子に酔いしれて「天女のような人」って思うであろう事は想像に難くないが・・・(^^;、そうじゃあなくて・・・。
仏教という途方も無い大石の上へ、たった百年に一度だけ舞いを舞いにやって来る九子。
あ~たがそうやって遊びほうけているうちに、他の人は三年も五年もみっちり坐っているのですよ。(これを称して、石の上にも三年。(^^;)
ほうら御覧なさい。あ~たと同じ時期に入門した人は、みんな黒いお衣着けて法名までもらっている。
それなのにまだ入り口辺りでウロウロしていて、まったくもう、自分が情けなくないんですかあ?
えっ?何ですって?
「まあいいかあ。
一劫年も経てば、石だって少しはちっちゃくなる。(^^;」
[あらっ、わたしも]
そう思ってました。ええっ、違ったんだ。
「袖すり合うも他生の縁」の意味って、私も九子さんと
同じように思ってましたよ。
けっこう、思い違いって多いですね。
新聞なんかでもよくとりあげてますよね。
あれ、違ったの?って思うこともしばしば。
by チョッコ (2004-10-09 21:52)
[日本語って難しいですよね。]
一回そう思いこむと、辞書なんか引かないから余計に確信しちゃうんですよね。
今は電子辞書なんていう優れものもあるから、まめに辞書を引こう!
とは、思うのですが、せっかく買った優れものの電子辞書を娘に取られて・・・。(^^;
あれって使い出すと便利なので、紙の辞書を引く気がしなくなっちゃうんですよね。
手が早ければ、紙の辞書でも全然問題ないのですが・・・。(^^;
by 九子 (2004-10-10 19:36)
[こういった勘違いですが]
こんにちは。お褒めにあずかり光栄です。
こういった勘違いですが、実は結構面白いものも多いです。
「同棲しよう!」・・ でも言えなかった が
「同棲しよう!」・・ でも家なかった
とか
テレビの発する情報がテレビのハッスル情報
とか(^^)
意外と本質を突いている場合も多いですね。
by 暮石 (2004-10-11 11:51)
[暮石さん、有難うございます]
>「同棲しよう!」・・ でも言えなかった が
「同棲しよう!」・・ でも家なかった
これは当人同士にしたら切実な問題!(^^;
耳からだけ聞く言葉は、しっかり調べてみないとだめなんですよね。
暮石さんの日記blogはとても面白くて読み応えがあります。近々またトラックバックさせて頂く予定でいますので、よろしくお願い申し上げます。 m(_ _)m
by 九子 (2004-10-11 20:28)
出会う人は多いですが
その度にご縁を感じられるかどうかは
ナイーブでなければ無理かな。
そういうナイーブもありますね。
確かにこの言葉嫌がるひともおられるし。
でもナイーブでなければわからないことがある。
だからこれも個性だと思っています。
ところでご縁を感じるという話。
先日ある絵描きに物書きを紹介されたのですが
(いずれも伊人さんです)その物書きが初対面でいきなり
「お前とは前世であったことがある」と言ってました。
びっくらこいたのですが
そういうことを言う異星人のような西洋人もいるんですなあ。
輪廻転生は人がナイーブであればあるほど
感性で捉えることのできるものなのかもしれませんね。
それはZen Buhddist でなくとも
世界中の常識の範囲内になりつつあるようです。
これを話すと怖がるひともいるのは事実ですが。。。
by mu-ran (2010-09-08 21:43)
mu-ranさん、こんばんわ。( ^-^)
>先日ある絵描きに物書きを紹介されたのですが
(いずれも伊人さんです)その物書きが初対面でいきなり
「お前とは前世であったことがある」と言ってました。
それは凄い!
確かにそういう感性(と言っていいのかしら?)の鋭い人って時々居ますよね。その瞬間に何かを見抜くって言うか、何か他の人に無いものを見つけるんでしょうね。
感性が鋭いっていうのは芸術の世界では最高の誉め言葉じゃありませんか?日本語や英語のナイーブとはまた違いますよね。
出来るならば自分の言った事をすぐにぴんと解ってくれる感性の鋭い人と話をする方が、解ってくれない人と話すよりは楽しいですよね。( ^-^)
by 九子 (2010-09-08 23:29)
ブッデイストのスペル間違えてますね(笑)。
自分があほみたいですが。。。まあよくやるんですわ。
お許しを。
確かにナイーブはネガテイブな言葉にとる人多いんですが
それはネガテイブな気分を匂わす時だけでしょうかね。
そういう言い方をしますから。彼らは。言う前からもう否定的な口調ですから
よくわかるんですが。。。
僕は男性に女性性を求めていますね。最近気がついたんですが。
つまり相手を受け入れる準備ができている男性という意味なのですが。
女性には母性を求めますね。
男性における女性性、あるいは女性における母性は
ある意味同じなんですが、それがないと自分を相手と比べてしまい
相手の相手らしさをそのまままるごと受け入れるなんて芸当できないんですね。
でもそこから人間関係は始まるじゃないですか。
海外は男性に女性性感じるんですが、日本の男性は女性性がある人って
本当に少ない。自己確立の問題とも絡んでくるので、あまりはっきり
言いたくないんですが。。。女性でもおっさんがいますよね。母性のまったく
ないおっさんが。
人間っておもしろいですね。
わかってもらうっての、そういうことじゃないかって
最近思うんです。
by mu-ran (2010-09-10 00:15)
mu-ranさん、こんばんわ。
>僕は男性に女性性を求めていますね。最近気がついたんですが。
つまり相手を受け入れる準備ができている男性という意味なのですが。
女性には母性を求めますね。
いつもながらmu-ranさんは面白い事をおっしゃいますね。( ^-^)
ちょっと聞くと不思議な感じですが、懐の広い度量の大きい人というような意味でしょうか。
>海外は男性に女性性感じるんですが、日本の男性は女性性がある人って本当に少ない。
草食男子とか言われて女性的な男性が増えているとよく言いますが、mu-ranさん的に言うと女性性がない人ばかり・・ってことになるんですね。
言い方は正反対ですが、同じような感じはよくわかります。
ただ、女性でもおっさんみたい・・というのは、どんな人なのかな?(^^;;
一昔意前に親父ギャルなんてのが流行りましたが、そんな感じの女性なのでしょうか?
by 九子 (2010-09-10 21:38)