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因果律 [<坐禅、仏教、お寺の話>]

どうしても忘れられない顔がある。

見るたびに切なくて、柄にも無く自然に涙がこみあげて来て困る人がいる。



その人が久しぶりに、またテレビに顔を出した。

佐世保の小六殺人事件で殺された御手洗怜美(みたらいさとみ)ちゃんのお父さんの恭二さんである。



怜美さんの小学校で卒業式があり、怜美ちゃんの代わりに卒業証書を受け取るために出席されたのだという。



大柄な人だが、なんだかやつれて見えた。

彼は一体誰のために、式に出席したのだろう。



もちろん娘のため。

怜美ちゃんの墓前に、卒業証書を手向けるため・・・・・。



それなら校長が後でひっそりと御手洗さんのうちに出向いて、届けてあげれば良かったんじゃないの?



わざわざ娘が殺された学校へお父さんを呼びつけて、卒業証書を受け取る級友たちを見せつけて、ああ、娘はこうやって卒業証書を受け取ることはないんだなあという厳しい現実を、なぜ思い知らせる必要があったのか?



校長としたって、良かれと思ってした事には違いない。

でもこれだけの事件となってしまった以上、マスコミに再び晒される御手洗さんの気持を、もう少し思い遣ってもよかったのではないか?





御手洗恭二さんは、本当に律儀な人だ。



ご自分が毎日新聞社の支局長であるという責任感だけで、娘が殺されたその日に、憔悴してはおられたが、しゃんとされて記者会見を開かれた。



病気で奥様を数年前に亡くされたばかりだと、その後、知った。

おにいちゃん二人と怜美ちゃんの3人兄妹を、以来恭二さんが男手ひとつで育てて来た。



その日の朝も、恭二さんが洗濯機を回している脇をすり抜けて怜美ちゃんが学校へ行った。それが玲美ちゃんの最後の姿だったそうだ。



彼の手記は、なおさら胸を打つ。

無論そうだ。彼はプロのもの書きなのだから・・・。



誰かがコメントしていた。

彼の手記は上手すぎて、却って切ない。



自分の娘が同級生の女の子に殺害されたなんていうとんでもない事件の渦中で、こういう慣れた文章が自然に書けてしまう、そういうマスコミ人の習性が悲しい・・・・・・と。



マスコミ人の習性と言うならば、彼の立場として、学校側から卒業証書授与式出席の要請があれば断る訳にはいかない。



彼の胸のうちには、「自分はマスコミ人として、辛い立場の被害者にずっとマイクを向けてきた側の人間だ。 自分が被害者の立場になったからと言って、拒む訳にいかない。」という思いがいつもあったはずだからだ。



それにしても、最愛の妻を病気で亡くしてから間もないうちに、今度は一人娘をこんなむごい形で殺されるなんて・・・・。

こんな不幸に立て続けてあうほどの、彼は何をしたというのか?





仏教 の二大原理は、言うまでも無く「無常観」と「因果律」である。

「この世の中のものは、刻一刻と変化して、変わらないものは何も無い。」というのが無常観で、こちらの方は誰にでも受け入れやすい。



もう一つの「因果律」の方が、私のような似非(えせ)仏教徒にはどうも納得がいかないのだ。



因果律と言うのは、すべての出来事は、そうなるべき原因があって、起こるべくして起こったというのである。



その原因というのは、自分が過去において造った罪の事らしいのだが、過去と言っても、自分が生まれてから今までの事ではない。



自分が生まれ変わり死に変わりを続けた前世の罪や、前世のそのまた前世の罪が、現在に影を落とすという事もあるのだ。





真面目な常識人である御手洗恭二さんがこの世において、そこまでの罪を犯したとは考え難い。

彼がこれほどまでの仕打ちを受けなければならない理由は、とりあえず幸せに暮らしている私たちと隔たっていると考える理由は、だったら一体どこにあると言うのか?



たぶん仏教の考え方で言ったら、前世か、そのまた前世での原因にまでさかのぼる。



そんなのフェア(fair)じゃない!

自分の知らない罪の為に、この世で苦しむなんてまっぴら!





ところが仏教徒になるためには、いの一番にこの「因果律」を信じなければならないと言われる。



たしかにフェアじゃないかもしれないが、今この世で苦しみを受けることにより、来世ではまた幸せになれるのだと言う。



「来世の幸せより、今の幸せの方が肝心だ。」と、きっと誰もが思うだろう。

あるかどうかもわからないあの世の幸せなんてどうでもいいから、今幸せになりたい。それはきわめて当然の望みだと思う。



しかし同時に、この世であんな酷い目にあった御手洗さんみたいな人には、せめて来世では、いの一番に幸せになって欲しいと願う気持にもなる。





不条理な事件が起こるたびに、重い重い荷を背負って生きる人々に出会う度に、私の心の中に、いまだ信じきれないでいる「因果律」が、何度も何度も浮かんでは消えて行く。





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コメント 2

MIYU

[Re:そんなのフェア(fair)じゃない!]
因果律は、救いの為の物なのだろうなと思います。

私は「自力では回避できない事件に巻き込まれて」障得を得ました。自分には不条理で有っても、それが決して無意味な事では無い、という事は救いかもしれません。

人間の力では、フェア(fair)な状態を取り戻せない場合が有ります。また人間は、不条理には耐えられない生き物だったりします。だから、自分が左右できない分で、自分が抜け出せない状況を押しつけられた私のような者には、「それにさえも意味があるのだ」という教えはとても強い意味を持ちます。

上手くは言えませんが、それは多分弱い側にいる人間の絶望を和らげ、強い側にいる人間の驕慢を抑える物なのでしょう。「自分はどんな悪い事もしていない・いなかったのに」と不満を持つ弱者にも、「自分の力だけで自分は勝利者になった」と考える強者にも、そしてつつましやかに日々を生きる普通の人々にも、その教えは平等に語りかけます。

そんな大仰に言わずとも、去年丸まると太った種からはすくすくと太い芽が育ち、あまり大きくなれなかった種からは細い芽しか出ない、という自然の理を眺めていると、割合に受け入れやすいものだったりします。

多分私は、考えが足りないので、もっとしっかり人間として考えるように、と言われているのでしょう。
by MIYU (2005-03-22 10:50) 

九子

[う~ん、深いです。]
MIYUさんのような科学者の方が、大らかなお気持で因果律を捉えていらっしゃる事に、まず驚きを覚えました。そして、凄いなあと思いました。

>自分には不条理で有っても、それが決して無意味な事では無い、という事は救いかもしれません。

確かにそうかもしれません。
ただ、私なんかそう言う立場になった時、この不条理が無意味な事ではないと言う風に素直に信じられるか自信がありません。あまりにものほほんと人生を生きて来てしまった人間ですから・・・。

>そんな大仰に言わずとも、去年丸まると太った種からはすくすくと太い芽が育ち、あまり大きくなれなかった種からは細い芽しか出ない、という自然の理を眺めていると、割合に受け入れやすいものだったりします。

これを読むとMIYUさんが、大地に足をつけて生きていらっしゃる人なのだなあという感じがします。( ^-^)

自然の摂理の方も体験不足ではなはだ恥ずかしいのですが(^^;、回りを見ていると確かになあと納得する事はたくさんあります。

ただ、それがわが身に降りかかってきた時に果たして納得できるか・・というのが心もとないところなのです。

一応これでも仏教徒の私が、こんな事書いているようじゃ罰が当たりそうですが(^^;、でも、MIYUさんのコメントで、はっきりして来た事があります。

不条理を意味があると受け止められた時、始めて救いが得られるのですね。

深いです!MIYUさんのコメント。
これからもいろいろ教えて下さいね。( ^-^)
by 九子 (2005-03-22 16:39) 

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