ユング心理学と禅 [<坐禅、仏教、お寺の話>]
ユング心理学には、東洋思想、特に禅の思想が色濃く反映されているというのは周知の事実である。
石に枕の漱流日記(ユング心理学から見た日記)を書いていらっしゃる南方城太郎さんの、「鶴の脛も切るべからず」につりこまれてメインのHPまで読ませて頂いて、彼が大変優れた臨床心理士(カウンセラー)さん、学者さんだなあという事がわかった。
禅と言っても、まだ入り口でちょろちょろしてる状態の九子がそんな城太郎さんのところにトラックバックするのもおこがましいのだけれど、九子が尊敬する大本山活禅寺の創始者、徹禅無形大師の言葉に通ずる所を感じたので、それについてちょっと書かせて頂こうと思う。
言うまでも無いが、これは九子の浅い経験で語る言葉に過ぎない。
もしもより深いところを極めたい方がいらっしゃれば、お近くの禅寺に出向いて欲しい。
それは九子が活禅寺に行き始めの20年前頃、80才を過ぎてもまだカクシャクとしていらした無形大師は、毎朝ほとんど欠かさないくらい「御提唱」という説法をされた。
当時自分に自信が無くてびくびくおどおど生きていた九子は、ただ坐るというそれだけで、自分がどうしても持つことの出来なかった自信が自然にみなぎり、明るく幸せな気分になれて、長年苦しみ続けた独特の生き難さが解消していくことに嬉々としていた。
「私は一生坐禅を続けよう。」
飽きっぽくて何事も長続きしなかった九子がただひとつ、その良さゆえに続けているのが坐禅である。
あっ、ここで本当の事を言えば、一生毎日続けるはずだった坐禅は、持病のうつ病により、はたまた「忙しい」という極めてあいまいな理由により、数日、いや数週間、いや数ヶ月間(^^;されない事もしばしばである。
長い空白があっても、いや、長い空白があるからこそ、その間に積もりたまった悩みであるとか、いらいらであるとか、ありとあらゆる人生に関する否定的な気持ちが、姿勢と呼吸を整えて数十分間坐る間にものの見事に氷解し、前向きで楽天的な自分が生まれる事に、始めてうまく坐れた時に感じたのと同じ驚きと感謝を覚える。
ならばなぜ欠かさず毎日坐禅をしないのか?
そう出来ないのが九子という人間なのである。(^^;
そうやって20年前、坐禅によって新しく生まれ変わった九子の耳に心地よく響いてきたのが、その日の無形大師の御提唱だった。
九子は「とかげも一生、なめくじも一生」と言う風に覚えていたが、提唱集では「とかげも一生、かたつむりも一生」となっている。
とにかく言わんとすることは、とかげは一生をちょろちょろすばしこく動き回って生きる。
反対になめくじやかたつむりは、のろのろのろのろ動いたこともわからない位ゆっくりと生きる。
とかげもかたつむりも、それぞれの生に与えられた安心の道があって、彼らなりの生き方で一生を満足して過ごす。
にもかかわらず、万物の霊長たる人間だけが、とかげのまねをしたり、かたつむりのまねをしたり、ああでもない、こうでもないと右顧左眄(うこさべん)し、我が智恵に敗け、智恵あるが故に苦しみ、悲しみに明け暮れて過ごすとはなんという愚かで滑稽なことだろうか・・・・・。
そんな内容だったと思う。
九子は自分がかたつむりやなめくじで、決してとかげにはなれないと思っている。
でも当時確かに、とかげになることを夢見ていた。
つまり城太郎さん流に言えば、長すぎる脛を切って少しでも俊敏に動き回る事を望んでいたのである。
とかげとは、言ってみれば出来すぎ母である。
母のように、なんでも手早に器用にやってのけて、しかも疲れを知らないエネルギーの塊みたいな人間に成りたかった。
なめくじがとかげになる事は、本来無理なのである。
トカゲのように早く走るなめくじがいたら、それはもはやなめくじではない。化け物なのである。
それがわからなくて、必死に無理を通そうとしていた。
自分に自信がないので、会う人話す人すべてがうらやましくてたまらない。
「九子ちゃんは人の悪口を言わないね。」と良く言われたが、実際は我が身と比べて人の長所ばかりが目に付いて、短所など見つけている余裕がなかったというのが実情だった。
そして誰と話をしても「あの人は凄いなあ。それに引き換え自分はダメだなあ。」というバカの一つ覚えの結論にいつも到達するのだ。
今にして思えば、そういうのを「認知のゆがみ」というのだろうが、もしも当時そういうのを矯正してくれる「認知療法」みたいなプログラムがあったとしても、上手く行かなかった気がする。
とにかく意志薄弱人間なので、意志の力でこういう風に考えて自分の偏った考え方を矯正してみようなどと言うことはほとほと苦手であったのだ。
坐禅の良さは、まったく意志やら性格やら体力やら能力やらと無関係に、正しい姿勢、正しい呼吸が出来さえすれば、誰でも等しく不安や焦りが消え去って、前向きで幸福な毎日が送れることにある。
正しい坐禅をする事により、無限の力が生まれて偉大な生き方が出来るのだと無形大師はいつもおっしゃった。
もちろんしっかり修行を積めばの話である。(^^;
その一方で、自分の器とか自分の分とか在り方という事も時々言われた。
「自分の分をよくわきまえて・・」と言うのは、つまり、なめくじはなめくじなりの、とかげはとかげなりの在り方があるのでそれを守ってという事のように思う。
何だか「人間には無限の能力がある」という言葉と相反するような気もするが、たぶんそれも禅独特の言い方なのかもしれない。
とにかく悟った大師の頭の中では、みじんの矛盾も無いのだと思う。
自分の本来の在り方を一生懸命生きる事、自分の自分らしさを尊重して、他人の他人らしさも尊重出来る人間になる事。
自分の自分らしさを愛するというそのスタートでつまずいていた九子は、坐禅によって救われた。
ユング心理学と禅の行きつく所は極めて近いように思う。
石に枕の漱流日記(ユング心理学から見た日記)を書いていらっしゃる南方城太郎さんの、「鶴の脛も切るべからず」につりこまれてメインのHPまで読ませて頂いて、彼が大変優れた臨床心理士(カウンセラー)さん、学者さんだなあという事がわかった。
禅と言っても、まだ入り口でちょろちょろしてる状態の九子がそんな城太郎さんのところにトラックバックするのもおこがましいのだけれど、九子が尊敬する大本山活禅寺の創始者、徹禅無形大師の言葉に通ずる所を感じたので、それについてちょっと書かせて頂こうと思う。
言うまでも無いが、これは九子の浅い経験で語る言葉に過ぎない。
もしもより深いところを極めたい方がいらっしゃれば、お近くの禅寺に出向いて欲しい。
それは九子が活禅寺に行き始めの20年前頃、80才を過ぎてもまだカクシャクとしていらした無形大師は、毎朝ほとんど欠かさないくらい「御提唱」という説法をされた。
当時自分に自信が無くてびくびくおどおど生きていた九子は、ただ坐るというそれだけで、自分がどうしても持つことの出来なかった自信が自然にみなぎり、明るく幸せな気分になれて、長年苦しみ続けた独特の生き難さが解消していくことに嬉々としていた。
「私は一生坐禅を続けよう。」
飽きっぽくて何事も長続きしなかった九子がただひとつ、その良さゆえに続けているのが坐禅である。
あっ、ここで本当の事を言えば、一生毎日続けるはずだった坐禅は、持病のうつ病により、はたまた「忙しい」という極めてあいまいな理由により、数日、いや数週間、いや数ヶ月間(^^;されない事もしばしばである。
長い空白があっても、いや、長い空白があるからこそ、その間に積もりたまった悩みであるとか、いらいらであるとか、ありとあらゆる人生に関する否定的な気持ちが、姿勢と呼吸を整えて数十分間坐る間にものの見事に氷解し、前向きで楽天的な自分が生まれる事に、始めてうまく坐れた時に感じたのと同じ驚きと感謝を覚える。
ならばなぜ欠かさず毎日坐禅をしないのか?
そう出来ないのが九子という人間なのである。(^^;
そうやって20年前、坐禅によって新しく生まれ変わった九子の耳に心地よく響いてきたのが、その日の無形大師の御提唱だった。
九子は「とかげも一生、なめくじも一生」と言う風に覚えていたが、提唱集では「とかげも一生、かたつむりも一生」となっている。
とにかく言わんとすることは、とかげは一生をちょろちょろすばしこく動き回って生きる。
反対になめくじやかたつむりは、のろのろのろのろ動いたこともわからない位ゆっくりと生きる。
とかげもかたつむりも、それぞれの生に与えられた安心の道があって、彼らなりの生き方で一生を満足して過ごす。
にもかかわらず、万物の霊長たる人間だけが、とかげのまねをしたり、かたつむりのまねをしたり、ああでもない、こうでもないと右顧左眄(うこさべん)し、我が智恵に敗け、智恵あるが故に苦しみ、悲しみに明け暮れて過ごすとはなんという愚かで滑稽なことだろうか・・・・・。
そんな内容だったと思う。
九子は自分がかたつむりやなめくじで、決してとかげにはなれないと思っている。
でも当時確かに、とかげになることを夢見ていた。
つまり城太郎さん流に言えば、長すぎる脛を切って少しでも俊敏に動き回る事を望んでいたのである。
とかげとは、言ってみれば出来すぎ母である。
母のように、なんでも手早に器用にやってのけて、しかも疲れを知らないエネルギーの塊みたいな人間に成りたかった。
なめくじがとかげになる事は、本来無理なのである。
トカゲのように早く走るなめくじがいたら、それはもはやなめくじではない。化け物なのである。
それがわからなくて、必死に無理を通そうとしていた。
自分に自信がないので、会う人話す人すべてがうらやましくてたまらない。
「九子ちゃんは人の悪口を言わないね。」と良く言われたが、実際は我が身と比べて人の長所ばかりが目に付いて、短所など見つけている余裕がなかったというのが実情だった。
そして誰と話をしても「あの人は凄いなあ。それに引き換え自分はダメだなあ。」というバカの一つ覚えの結論にいつも到達するのだ。
今にして思えば、そういうのを「認知のゆがみ」というのだろうが、もしも当時そういうのを矯正してくれる「認知療法」みたいなプログラムがあったとしても、上手く行かなかった気がする。
とにかく意志薄弱人間なので、意志の力でこういう風に考えて自分の偏った考え方を矯正してみようなどと言うことはほとほと苦手であったのだ。
坐禅の良さは、まったく意志やら性格やら体力やら能力やらと無関係に、正しい姿勢、正しい呼吸が出来さえすれば、誰でも等しく不安や焦りが消え去って、前向きで幸福な毎日が送れることにある。
正しい坐禅をする事により、無限の力が生まれて偉大な生き方が出来るのだと無形大師はいつもおっしゃった。
もちろんしっかり修行を積めばの話である。(^^;
その一方で、自分の器とか自分の分とか在り方という事も時々言われた。
「自分の分をよくわきまえて・・」と言うのは、つまり、なめくじはなめくじなりの、とかげはとかげなりの在り方があるのでそれを守ってという事のように思う。
何だか「人間には無限の能力がある」という言葉と相反するような気もするが、たぶんそれも禅独特の言い方なのかもしれない。
とにかく悟った大師の頭の中では、みじんの矛盾も無いのだと思う。
自分の本来の在り方を一生懸命生きる事、自分の自分らしさを尊重して、他人の他人らしさも尊重出来る人間になる事。
自分の自分らしさを愛するというそのスタートでつまずいていた九子は、坐禅によって救われた。
ユング心理学と禅の行きつく所は極めて近いように思う。
[トラバありがとうございます。]
記事に取り上げてくださり、ありがとうございます。
今、ユング著の「人間と象徴」という本について記事を作成中であり、
もう暫くしたら、投稿していこうと思っていますが、
その中で思ったのは、心や、心の中の現象は、「自然」であること、
――加工したものではない、自然なものであること――です。
それは九子さんの実践する「禅」にも通じるものであり、
「俳句」にも通じるものであると感じました。
まさに、自然であり、そのままなんですね。
俳句はそれをそのまま受け取るもの、
禅はそれに近づこうとするもの、
――そう思いました。
その自然(あるいは自然体)というキーワードを、
九子さんの記事にも感じました。
>なめくじがとかげになる事は、本来無理なのである。
>トカゲのように早く走るなめくじがいたら、それはもはやなめくじではない。
>化け物なのである。
私もそうですが、人間というのは、とかく不自然になりがちで、
あるものに気づかず、無いものを追い求め、
そして、そこにはそうしてしまうだけの理由があったりしまが、
そんな中で、自然な状態に戻そうという試みが、
「心理学」であったり「禅」なんでしょうね。
禅には自然への回帰やアプローチの意味合いもあって、
九子さんのおっしゃるとおり、
正しい座禅が出来れば、誰でも自然な状態になれるのだと思います。
――と、無心になるのが苦手な私が思いました(笑
(煩悩と脱線思考の塊なのです(笑 )
とかく不自然になりがちな我々現代人ですが、
それぞれのやり方で、自然に帰らねばならないのかもしれませんね。
というわけで、これからも九子さんの記事を楽しみにしています。
【追伸】
因みに、私は臨床心理士でも、学者でもないですよ。
ただのヘンテコ人間です(笑
by 城太郎 (2006-05-13 11:48)
[かたつむり _@/´]
私も似たようなものなので、笑ってしまいました。^^
かたつむりより、いつも大きくカメさんペースです。
>自分に自信がないので、会う人話す人すべてがうらやましくてたまらない。
私は自分に自信がなかった頃は、人と会うときは、とにかく沈黙がいやで、なにか話題をさがしていました。それから、誰でもいいから誰かとあってないと嫌で、週末は無理にスケジュールを入れてました。
今は、無理に気がすすまない相手とは会わないし、会えば、時間を楽しむために色んな話をする。ひとりの時間も使いこなせるようになりました。(ぐうたらだから、何もせずTVみて だれぇ~としているときも多いですが。)
>「九子ちゃんは人の悪口を言わないね。」と良く言われたが、実際は我が身と比べて人の長所ばかりが目に付いて、短所など見つけている余裕がなかったというのが実情だった
人の長所ばかりが目に付いてというのは、九子さんのすごい能力だと思います!私は悪口ばかり言う人より長所をほめる人と話がするのが好きです。
>坐禅の良さは、まったく意志やら性格やら体力やら能力やらと無関係に、正しい姿勢、正しい呼吸が出来さえすれば、誰でも等しく不安や焦りが消え去って、前向きで幸福な毎日が送れることにある
それ、ヨガでも同じようなことを言われます。(今、教室にいってないのでさぼりぎみ^^ヾ)
>自分の本来の在り方を一生懸命生きる事、自分の自分らしさを尊重して、他人の他人らしさも尊重出来る人間になる事。
そうそう!とうなずいてしまいました。
ユング心理学いってきまぁす。
by あずーる (2006-05-13 17:47)
[バランス]
九子さん、こんばんは。
「とかげにはとかげの、かたつむりにはかたつむりの」という考え方、とても頷けますし、好きです。
座禅を通して感じ方や心の持ちように変化が現れたなんて、素敵なことですよね。九子さんが座禅に巡り会われて良かったなぁ、と思いました(^-^)
誰もが、その人に合った気持ちの落ち着けどころがあると、きっと毎日の心もちが違いますよね。行き詰るようなことがあったときにも、気持ちのバランスを常態へと戻す助けになってくれそう。
私は、BODYとSOULで言えば、BODYの方をとても蔑ろにしていているので、近々武術を始めるつもりです。日頃の私の足りない要素を補ってくれて、自然と今よりもバランスを取れるようになるといいなぁと、期待しているところです。
by あづみ (2006-05-14 01:13)
[城太郎さん!( ^-^)]
わざわざご挨拶にお出で頂き、有難うございました。( ^-^)
「人間と象徴」ですか、すごいですね。
確か大学時代に読めと言われて読んだような読まないような・・。(^^;
とにかく内容さっぱり忘れてますので、楽しみにさせていただきます。
自然とか自然体とか、おっしゃる通りの気がします。
無理をすることが一番いけませんよね。無理はいつかだめになる。水が低い所へ流れるように、自然なのが一番ですよね。
あの、今ちょっとした疑問が生まれたのですが・・。
仏教は生善説ですから人間の自然の状態、あるいは本来の状態は、一応仏様、つまり「仏性」ですよね。
その点ユング心理学ではどうなのでしょうか?
キリスト教だと生悪説になってしまうところを、どうやってユングは「自然が善」と教えているのでしょうか?
知らない事だらけなのでとんでもない質問かもしれません。
すみません。
初めてお訪ね下さった城太郎さんに不躾なとお思いの事でしょうが、気になって思わず伺ってしまいました。
もしかしたらそちらのHPをじっくり読ませて頂ければわかることなのかもしれませんよね。ごめんなさい。すべてにおいて勉強不足なもので、お許しください。
城太郎さん、カウンセラーでも学者さんでもないの?
いやあ、それこそ驚きです!
・・というか、もったいないです!
あなたなら高給取りのカウンセラーさんになれるのに・・。
私ならきっと通いつめますよ。( ^-^)
これからもよろしくお願い申し上げます。
by 九子 (2006-05-14 21:59)
[あずーるさん!( ^-^)]
本当は昨日コメント書くつもりだったのですが、昨日の夜マイぷれすがひどく重くありませんでした?
管理人さんから連絡が無いから、私一人の現象だったのかしら・・。
・・と前置きは置いといて・・・。(^^;
アメリカでしっかり暮らせるあずーるさんが、かつて九子と同じ悩みを持っていたなんて信じられない!
そうそう。沈黙が怖いのよねえ。
でも私は基本的に口下手なので、口下手な人と話すのが苦手でした。
その点M氏はおしゃべりなので助かってます。(^^;
私はどこまでも一人の方が気楽な人かもしれません。もちろん誘われればどこへでもついて行きますが・・・。(^^;
ヨガやってると体力も付きそうでいいですよね。
坐禅は坐るだけなので、怠惰な私にはぴったりですが、体力はいまいち・・。
あっ、というか、これも修行しだいで、寝ずっぱりで坐禅や読経したりすれば、それはもうすごい!
(^^;
なんでも九子がやると九子流、つまりいい加減になってしまうらしい、ううっ。
by 九子 (2006-05-15 22:24)
[あづみさん!( ^-^)]
コメント有難うございます。( ^-^)
はい。私も坐禅に出会わなかったらどんな人生を送っていたか考えると恐ろしい気がします。
>私は、BODYとSOULで言えば、BODYの方をとても蔑ろにしていているので、近々武術を始めるつもりです。
おお、あづみさんは武闘派でしたか・・・、うそうそ(^^;;
でも静かな雰囲気の女性を連想してましたので、ちょっと意外でした。
そう。Bodyも大事ですよね。
私はもうハナッカラ身体を鍛えることは諦めちゃってます。あと10年後が怖い九子です。(^^;;
by 九子 (2006-05-15 22:32)
[重かったですよ~]
日曜の夜も、月曜の夜も・・・
私も私だけの現象かと思ってました。
ヨガもね、ぴんからきりまであって、基本は呼吸方法。私のは座ってるだけとか あんまり体力使わないのがおおいですよ。
by あずーる (2006-05-16 23:07)
[「ユング1」]
再びおじゃまします。
>仏教は生善説ですから人間の自然の状態、あるいは本来の状態は、
>一応仏様、つまり「仏性」ですよね。
>
>その点ユング心理学ではどうなのでしょうか?
>キリスト教だと生悪説になってしまうところを、
>どうやってユングは「自然が善」と教えているのでしょうか?
ユングは特にどちらかが善でどちらかが悪とは、定義していないように思います。
そして、自然を善だとも捉えてないようです。
むしろ、どちらにも善があり、どちらにも悪があり、
そういう二面性があって、そこにバランスの神秘や可能性がある、
――そういう風に捉えているのだと思います。
自然にしても、善悪両方を包含したものであると捉えているようですね。
(あるいは、善悪とは人間の主観であって、自然はそういうものを超越していると捉えているのかもしれません)
by 城太郎 (2006-05-17 19:16)
[「ユング2」]
ユングの家系と彼の生きた時代を鑑みると、
それは多分にキリスト教的な価値観に彩られていたと思われますが、
ユングはそういう一面的な西洋の価値観に少年時代から限界を感じていた(あるいは疑問に思っていた)節があり、
後に、東洋思想や錬金術、神話や未開社会の儀式なども研究しています。
しかし、これはどちらか一方に傾倒したということではなく、
足りなかった片側を知ることで両面を知ろう、
そしてそれらを何とか統合しよう、
――そういう試みであったように思います。
ユングは易経に精通し、禅にも興味を持っていたようですが、
同時に、自身が科学者であるという態度は崩さない人でした。
彼の仕事のひとつは、神秘的なものをいかに合理的に紹介するかという事だったようです。
by 城太郎 (2006-05-17 19:31)
[「ユング3」]
随分長くなりましたが、やはり、
ユングは自然を「善悪を超越したもの」と捉えているようです。
そして、現代人が進化の段階で多くのものを獲得した半面、
不自然な存在になったことを認めています。
そして、
進化を拒否して引き返すでもなく、
不自然な存在として単に進むだけでもなく、
そういう中で、人間はどうあるべきかという事を、
科学と神秘的なもの、両方を材料に探求した人が、ユングであるように思います。
ユングの捉えるこのような「自然」についてですが、
後々の「人間と象徴」に関する記事で紹介できたらと考えています。
【追伸】
そうそう、
最近、マイぷれす、夜に重いですよね。
by 城太郎 (2006-05-17 19:35)
[再びあずーるさん!( ^-^)]
やっぱり重かったんですね。城太郎さんのコメントやケロさんの日記にも書かれてたので皆さん感じられてる事だったんですね。
どうしたんでしょう。きっとまた大いなる発展のための生みの苦しみって奴でしょう。( ^-^)
そうそう。ヨガも坐禅も一番大事なのは呼吸ですね。
なかなかこれが極められないんですね・・・。
でも極められなくてもぜんぜん構わないと思っちゃってる人ですので・・・。(^^;;
by 九子 (2006-05-17 23:44)
[城太郎さん、ご丁寧なお返事、感謝します!]
城太郎さん、長文のご回答、しかもわかり易く書いて頂き有難うございます。
なるほど!ユングは自然を善でも悪でもない、善悪を超越したものと捉えて居た訳ですね。
その見方の方が、善か悪かとこだわっていた私よりもよほど東洋的な見方ですよね。
>あるいは、善悪とは人間の主観であって、自然はそういうものを超越していると捉えているのかもしれません。
この部分、まさに禅の思想ですよね。
キリスト教の価値観の世界に生まれて、こういう考え方が出来るユングという人のすごさがわかるような気がします。
>そして、現代人が進化の段階で多くのものを獲得した半面、
不自然な存在になったことを認めています。
>そして、進化を拒否して引き返すでもなく、不自然な存在として単に進むだけでもなく、
>そういう中で、人間はどうあるべきかという事を、科学と神秘的なもの、両方を材料に探求した人が、ユングであるように思います。
目からうろこ!でした。
「人間があるべき姿」という深いところまでを追求した人だったんですね。
フロイトの弟子だった人だから、ついつい精神分析とか、(夢分析はユングでしたっけ?)そういう部分ばかりに目が行ってしまいがちでしたが、さすが城太郎さんが研究されてるだけあるの事はある偉大な人物なんですね。
そうそう。生善説、生悪説と書いてしまいましたが、性善説、性悪説でした。すみません。
そして、城太郎さんの回答で私がはっきりしなかったことがより明確になりましたので、もう一度だけ質問させて頂いてもよろしいでしょうか?
仏教は人間をもともと仏の性質をもった者、つまり善と定義していますが、ユングは人間をどう捉えていたのでしょうか?
キリスト教的に悪と捉えていたのか、東洋的に善と捉えていたのか、それとも自然とおなじように悪でも善でもないと捉えていたのでしょうか?
(すみません、しつこくて。城太郎さんのところのコメント機能が無効になっているので仕方なく・・。(^^;)
by 九子 (2006-05-18 18:37)
[「ユング4」]
再び、おじゃまします。
>仏教は人間をもともと仏の性質をもった者、
>つまり善と定義していますが、
>ユングは人間をどう捉えていたのでしょうか?
>
>キリスト教的に悪と捉えていたのか、
>東洋的に善と捉えていたのか、
>それとも自然とおなじように悪でも善でもないと捉えていたのでしょうか?
ユングは人間を善とも悪とも分けていないようです。
善も悪も備えている、あるいは、善にも悪にもなると捉えていたように思います。
(あくまで、私の感想ですが)
ユングの時代、またキリスト教的倫理観が今より幅を利かせていた時代、
「如何に善であるか」が問題にされたと思われます。
欲を抑え、隣人を愛し、神に尽そうという試みがなされたと思います。
しかし、実際のところは、
欲に流され、隣人と憎みあい、神に尽くすにも限界があったはずです。
(いつもそうであるとも思いませんが)
つまり、当時の社会において、
「如何に善であるか」=「如何に、人間の悪なる部分を殺すか」
そういう試みがなされたのですが、実際は敗北したのです。
事実、人間は欲に流され、隣人と憎みあい、神を愛しきれない、
そういう現実を突きつけられ、無視できなくなってしまったわけです。
(戦争もあり、その後の東西の冷戦もありました)
少なくとも、ユングはそれを認識していました。
ユングはそれを目の前の事実として認めていたようです。
認めた上で、そこからはじめようと思ったようです。
by 城太郎 (2006-05-20 14:00)
[「ユング5」]
人間が完全に「善なる存在」であろうとする時、
自身の内部にある、悪を締め出さねばならず、
しかし、それが本能など、人間に根ざし、欠くことのできないものである以上、
それを締め出すのは無理で、
結果、自身から悪を分離し、
それに蓋をして見えないようにしたり、
背を向けて見ないようにしなければならなくなります。
そうやって、体裁を保つしかなくなるわけですね。
しかし、お分かりのように、
それは一時しのぎ的であり、脆く危うい行為です。
できるだけ見ないようにしても、それはそこにあり、
たとえそれを無視し続けても、
今度は別のカタチのものとして、目の前に突きつけられたりします。
(これを心理学では「投影」といいますが、目の前の対象を鏡とし、自分の影なる部分を見ることになります)
ユングはそれに気づいたんですね。
個人的なことも、社会的なことも、宗教的なことも、含めてです。
by 城太郎 (2006-05-20 14:02)
[「ユング6」]
そして、本当の意味で善なることを行なおうと思えば、
当然のように、自身の中の「悪なる部分」=「影の部分」に責任を負わねばならなくなります。
それをしない限り、人間は自身の片側を無視し、
それを誰かのせいにする、冷酷な存在になってしまいます。
つまり、善であろうとすればするほど、
自分の中の悪なる部分を、ひとつの現実として受け止めばならない、
そうしないことには、善なることは行なえない、
そういう矛盾を抱え込むことになります。
その中で、人間は苦しむんでしょう。
by 城太郎 (2006-05-20 14:03)
[「ユング7」]
このように、ユングは人間を善とも悪とも定義していません。
ただ、各個人の中の悪を無視することには警笛を鳴らしています。
そんな中で、
自身の中の悪なる存在を認めた上で、
尚、各個人の思う善なることをしようと努める、
そこに価値を置いていたのではないでしょうか。
また、そのやり方は、人それぞれで、
・できるだけ自分の中の悪を無くそうと思う人、
・自分の中の悪とうまく付き合っていこうと思う人、
・また、その他のやり方、
方法は、何でもいいのだと思います。
(まあ、自分の中の悪というのは、多分に本能的なもので、人間に備わっている機能のようなものなんですが――その辺も、後々の記事で書いていくつもりです)
と、またまた、長々と失礼しました。
また疑問があれば、よろしくお願いします。
【追記】
自分の中の悪を認めて戦うというのは、
洋の東西を問わず、聖人と悪魔(あるいは竜)の戦いなどとして各宗教の中に残っているようにも思います。
悪魔の誘惑とかも、ですね。
by 城太郎 (2006-05-20 14:11)
[わかりやすい解説、感謝です!( ^-^)]
なるほど。
自分の中の悪を認めて、「いかにして善たるか」に価値を置いたわけですね。
自分の中の悪を認めると言うこと、そしてそれを排除しないで共存しながら全体として善に向かわせると言うことに気がついたユングと言う人はやはり偉大な人ですね。
それは彼が無意識と言うことに注目していたから出来たことでしょうか?
たとえば悪に蓋をして隠そうとしても、悪は無意識の中に貯められてエネルギーを蓄えていく・・。
そのエネルギーの大きさに気がついたから、彼は悪を隠さずになんとか共存する道を探ったのでしょうか。
いづれにしても、人間というものは根本的には、洋の東西を問わず善なるものを求め続けているという事実に、ほっとさせられる気がします。
特に西洋の価値観の中で、「自分の中に「悪」があってもいいんだよ。」とユングに言われたら、きっと多くの人が気楽になったでしょうね。
そういう意味でユングと言う人は、心理学者というよりもある意味宗教家に近いような存在だったのかもしれませんね。
城太郎さん、たくさんのコメント本当に有難うございました。
これからもよろしくお願い申し上げます。( ^-^)
by 九子 (2006-05-22 18:39)
僕を含めこの文章に励まされるひとが多いのではないでしょうか?
人のいいところが眼に入るのは
それは破格の能力だと思います。
出会う相手との間に上下を作らず
自分を自分として認めれば
相手を相手そのものとして受け入れられると
教わりました。
今まで出会った数限りない外国の人たちからね。
でも20代前半までは日本語の社会だけでしたから
それは無理だったですね。
すごく苦しかったです。
日本語の中には無意識に上下関係が組み込まれていますよね。
だから年齢を経て初めて上下関係から自由になるチャンスが
生まれる。
目下の人を受け入れるかどうかは目上が決めるから。
目上が無礼講を認めさえすれば
上下の差をつけずに、人間同士として付き合える。
そういう社会で自分自身そのものを受け入れてやることは
相当過酷な作業ですよね。
でも会う人会う人のいいところがすぐに眼に入るのは
自分がその人より能力が低いのではなく
同じかそれ以上の能力があるから
わかるのであって。。。。
これには確信以上の信念がありますね。
by mu-ran (2010-09-03 00:27)
mu-ranさん、こんばんわ。( ^-^)
城太郎さんのコメント、読み返してみると本当に深いですね。4年も経ってから読み返す機会を与えてくださったmu-ranさんに感謝です!
けっこう九子もいい質問してますねえ。(^^;;
今じゃ同じ質問できない気がする。
>出会う相手との間に上下を作らず
自分を自分として認めれば
相手を相手そのものとして受け入れられる
なるほど。外国でmu-ranさんはそうやってお付き合いされていらしたのですね。それに対して向こうの方々がmu-ranさんを受け入れて下さった訳ですね。
>日本語の中には無意識に上下関係が組み込まれていますよね。
確かに、敬語とか謙譲語、丁寧語、やかましいですね。
>目下の人を受け入れるかどうかは目上が決めるから。
目上が無礼講を認めさえすれば
上下の差をつけずに、人間同士として付き合える。
無礼講なんて、男社会の宴会を想像させますが、mu-ranさんもそんな社会のご経験おありなんですか?
>でも会う人会う人のいいところがすぐに眼に入るのは
自分がその人より能力が低いのではなく
同じかそれ以上の能力があるから
わかるのであって。。。。
今ならmu-ranさんのこの言葉、素直に受け入れられます。
ただ、自分に自信が無い時は、なぜか自分に対する賛美の言葉を絶対に受け入れない「強さ」(^^;;がありました。
それがやっかいな所でした。
どちらにしても私が、私なんかでも幸せにしてくれた坐禅を、より多くの人に
勧めたいですね。( ^-^)
by 九子 (2010-09-03 22:15)