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父のこと・・・・その2 [<父を亡くす、母を亡くす>]

父の戒名は「誠心院」ではじまる。
確かに父は40年間、誠実な政治家で在り続けた。

「笠原はきれいな選挙をする。」と良く言われた。
田舎の選挙にはつきものの酒も一切出さなかったし、金の疑惑など皆無だった。

もっともこれは、本人金にはとんと縁も無く、人を騙す才覚も、度胸も無かったという事も幸いしていたのだが・・・。(^^;

父は若い頃酒が大嫌いで、宴会の席では出来る限りジュースでしのいでいたらしい。
代わりに大の甘党で、視察旅行の汽車の中でも、酒盛りをしている議員仲間に、伊勢の「赤福餅」なんかををふるまっては顰蹙(ひんしゅく)を買っていたようだ。

いつしか父の甘い物好きは皆の知るところとなり、頼まれ事のお礼には甘いお菓子が届けられることが多くなった。

たまにその菓子包みのなかに「御礼」と書かれた金包みが混じっている事があると、父は即座にそれを現金封筒で差出人に送り返すのだ。

「うまくいったお礼なんだから、頼まれ事の前にもらう訳じゃないんだから、貰っちゃえばいいんじゃないの?」と母や私などは良く言ったものだが(^^;、父は頑として譲らなかった。

父の子供の頃のあだ名は「泣き隆(なきりゅう)」だったと言う。
気が小さくて泣き虫の男の子は、当時の友人の弔辞によると「旧家の坊っちゃんだから人が良くて、その上面倒見がいい」子供だったそうな。

その世話好きの性質は、議員として遺憾なく発揮され大いに役だったと思われる。

記憶の中で、元気だった父は家に居る時、いつも電話を抱えていた。
誰かから頼まれ事の電話がかかると、即座に誰かに電話をするというのが父の日常だった。

電話嫌いの私にはとても真似出来ない芸当だなあと思いながら、いつも父を眺めていた。

議員生活の長かった父にはいつも高飛車なイメージがつきまとっていて、彼の声を威圧的だと感じる人々も多かったみたいだ。

しかし実のところ、父はいつも電話をする時、なぜかわざと胸をそらし、シャツの上から胸といっしょに少々突き出た腹を右手でなでまわしながら話をしていた。

今考えるとあたかも気弱な「泣き隆」が、気の強くなるおまじないをしているみたいで可笑しかった。


父に死なれて見てはじめて、いかに父に護られていたかを知った。

生まれてから今まで、私はいつでも長野市議会議員笠原隆一(十兵衛)の娘だった。

父が引退を決めた時、自分が後を継ぐ事を考えた時期もあったが、どんなに
「次は九子ちゃんだね。」と言って下さる人が現れても、父は「お前なんかには勤まらん。」という顔をしていた。

父が集めた何千枚かそれ以上の名刺。
そればかりか、自分で作っていた「長野オリンピック招致特別委員長」やらのすべての名刺まで、始末の良すぎる出来すぎ母の手によって一枚残らず処分されてしまったのは大変残念であるが(^^;、そうして培った人脈は父の何よりの財産だったに違いない。

少々演説がうまかろうが、少々人目を引こうが、不肖の娘にもとよりその人脈を築く才覚は無い。

そもそも人前に出るのは嫌い、電話も嫌い、人の顔も覚えられず、人の世話などしたことも無い、押しも弱く、酒も弱い娘が、何も無かったら選挙の候補者になどなりようがない。

すべては笠原十兵衛という「看板」と「地盤」があったからこそ人の口に上っただけの話であった。
(金の入ったカバンだけは、最初から無かったが。(^^;)

選挙と言うお祭り騒ぎは人間を変える。
その最も際たる者がこの九子であった。

ハイになるという言葉があるが、あれほど人前に出ることの嫌いな人間が「十兵衛の娘でございます。」と進んで先頭に立ち、見ず知らずの人々に電話をかけ、全く知らない家々を訪ね歩いた。

今考えると信じられない話であったが、すべては父を当選させるため・・、と言えば聞こえがいいが、議員は落ちたらタダの人、その日から生活に困ってしまうのだから、家族が必死になっても無理は無かった。

父という隠れみのがあったからこそ出来た事だった。
十兵衛の娘でなかったら、鼻もひっかけてもらえなかったろう。

考えてみると、人生の中ではその場の勢いでやってしまって、後で取り返しのつかないことをしたと悩む事がよくあると思う。

うつ病があることがわかって、選挙なんかに出ずに済んだ。
それだけはうつ病に感謝している。


父の姿の中で一番鮮やかなのが、ある年の選挙で遊説中に親友だったY議員の宣伝カーとすれ違った時のことだ。

その年は新人候補が十数人も出て、父もY議員も苦戦が伝えられていた。

父にしてもY議員にしても都市部を地盤としているので、農村部のような土地のつながりを基にした磐石な地盤がある訳ではない。

その上、Y議員も旧家の坊っちゃんで人が良く礼儀正しい事この上ない人だったから、つまりは二人とも真面目なだけが取り柄であんまり選挙上手ではなかった訳だ。

そういうところがお互いにひきつけあったのか、父と数年年下だが初当選は一緒のY議員は馬が合って一番仲良くさせてもらっていた。

父よりもいつも更に下のほうで当選することの多かったY候補の宣伝カーに向かって、父はなんと、今まで政見をとうとうとしゃべっていたマイクを離さずに大声でこう言った。

「Yさん、頑張れよ。落ちるなよ。また一緒にやろうなあ。」

それに答えてY候補の宣伝カーから、Y候補自身の律儀な声が聞こえてきた。
「笠原候補のご健闘を心よりお祈り致します。」


もし私が父の立場だったら、自分の当落が危うい時に人を思いやることが出来ただろうか・・?
この時の父の姿は、九子の思い出の中でひときわ輝いている。


幸運なことに父とY議員はその年なんとか当選を果たしたが、まだ若かったY議員はその任期を全うせずして不治の病で逝ってしまった。

父は足が動かなくなるまで、毎年正月の命日にはY議員の未亡人宅を訪ねてお焼香させてもらうのが恒例となった。

その頃から父は、一人また一人と、たくさんの友人達に先立たれる憂き目を見続けてきた。
(・・・続く)
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