母を亡くす・・・千の風になって・・・ [<父を亡くす、母を亡くす>]
悲しみに暮れる時にひとつだけ、肝に銘じなければならない事がある。
母を亡くすことは、誰もが必ず一度は体験しなければならない事である。
いわば人生の通過儀礼のひとつにすぎない。
その体験を若い時にするよりも、年を経てからした方が楽である事は言うまでもない。
母の死を体験せずにすむ人は幸福かと言うとそうではない。
それは母よりも先に自分が死ぬ事を意味するからだ。
逆縁(さかえん)と呼ばれるこの体験をせねばならない親も子も実に不幸である。
特に子供がすでに父親母親となっており、つれあいや幼いそのまた子供達もがその不幸の輪に組み込まれた時はなおさらである。
父母が少なくとも私がこの年になるまで生きていてくれた事。
そして、父、母と年の順に亡くなって行った事。
悲しんでばかり居る前に、それらにまず感謝せねばならない。
大学時代からの親しい友人が、「千の風になって」のCDブックを送ってくれた。千の風になって CDブックの画像
大晦日の紅白歌合戦を見るともなく見ていたら流れてきたこの歌は、作者不詳の英語詞に日本人が曲をつけたものだと言っていたが、作曲者は新井満氏だった。
本の後ろには新井氏の長い解説があり、まずこの詩歌は新井氏の弁護士の友人に捧げられたものであるという事だった。
弁護士の妻は30代で乳癌にかかり、40代で脳腫瘍を発症し、2度の大手術ののち48歳で亡くなった。後には3人の子供達が残された。
この悲しみの一家に対し、一体どんななぐさめの言葉が見つかろう。
そこに偶然飛び込んで来たのが、「千の風」の詩だったという。
天国からの、死者からの手紙という形式に大変驚いたという新井氏。
この本のお陰で、少し前に書いた
「散る桜、残る桜も散る桜」という歌が、良寛和尚の歌だった事も判明した。
実はこの日記をあらかた書いたところで、紅白で聞いた「千の風になって」が、オリコンチャート一位になったというニュースが流れてきた。
クラシック歌手の歌が一位になるのははじめてとかで、テリー伊藤氏が「日本人は亡くなった人はお墓の中にいると考えるから、そういう考え方は目新しいですね。」とコメントしていた。
だが考えてみると、昔から日本人は魂があらゆるものに宿ると考えて来た。
あらゆるものに命があるから、「ものの命を大切に」と小学校で習ったはずだ。
そう考えると、とりたてて目新しい考え方ではない。
亡くなった人の魂は、ずっとずっと生き続けて、風の中にも川の流れの中にも土の中にも、ありとあらゆる物の中に存在し、自分や家族を片時も離れずに守ってくれる。
そして自分の魂もまた、時が来れば朽ちていく肉体を離れて、宇宙のありとあらゆる物に形を変えて遍満(へんまん)する。
遍満するとは「あまねく満ち広がること」だ。
これぞまさに私が学んだ仏教の考え方そのもののような気がする。
★これを書きながらでも、私の心は揺れていました。
人生の通過儀礼・・・などと強がりながら、どうにもならない悲しみが襲ってきます。
自分の心が揺れている事を、誉めてあげてください。
落ち込みっぱなしではありません。必死に立ち直ろうとしているのです。
そして落ち込みが長くなるようなら、どうか医者に行くのをためらわないで下さい。
医者に行く目安は「母を亡くす・・母の死とうつ病・・」をお読み下さい。
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