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母を亡くす・・・懺悔 その1・・・ [<父を亡くす、母を亡くす>]


懺悔と書いて「ざんげ」と読むのはキリスト教で、仏教の場合「さんげ」と読むのが正しいそうである。とにかく、懺悔の無い宗教は邪教であると活禅寺の無形大師もよくおっしゃった。



「過去に犯した罪を神仏や人々の前で告白して許しを請うこと」と広辞苑にある。



これから書く事は、亡くなった母には知られたくない事だ。

反面、そんなことは母には最初からみんなお見通しだったかもしれないとも思う。



たぶんそうに違いない。

知っていながら、「あの子のすることなんて、所詮そんなもんだよ。」と笑っていたのかもしれない。



親思う心に勝る親心。



親が遠くに行ってしまってはじめて、切実にその通りだなあと肯(うなず)かされる言葉である。





父が亡くなって、私がいの一番に頑張らなくちゃと思った事、それは節約だった。

父が居たときは、食費から何から、みんな父頼みだった。



もちろん、現在私大歯学部卒業を控えた長男の学費は、すべてと言って良いほど父に払ってもらっていた。



その父が、突然亡くなったのである。



当然、80才まで市議会議員として働いてくれた父の退職金代わりに入っていた年金はお終いになる。

その代わり、今度はその半分の金額が、長年議員の妻として苦労した母に振り込まれるのである。



父は亡くなる少し前、夜間せん妄というのをやった。

しかしそうなる直前、極めて明瞭な意識の中で、遺言とも言うべき言葉を家族に残していったのだ。



その中に、「薬剤師は女の子には良い職業だから、下の娘も薬剤師にしろよ。」という一言があった。



下の娘は日大付属高の一年生だ。



そんなにお勉強が出来る訳ではなかったので、せめて付属高推薦で日大の簡単な学部にでも入れて貰えば恩の字と親は思っていた。



それが突然、「おじいちゃんの遺言だから私も薬剤師にならなくっちゃ。」と言い出した。



上の娘の方は最初からなんとなく無言のプレッシャーを感じてくれたのか「薬屋の娘だから私も薬剤師になるんだよね。」と、同じ日大付属高に入って、現在三年生である。



そんな訳で二つ違いの娘が二人、薬剤師を目指してくれる事になった。



本来ならば「有難い。」と無条件で感謝すべきなのだろうが、昨今の薬学部事情と、我が家の経済事情を考えた時、そう楽観的になってはいられない。



ご承知の通り、薬学部は最近6年制になった。



実は長女が日大付属高への進学を決めた時、私はしめしめと思った。



日本大学は総合マンモス大学である。もちろん薬学部もある。

受験するよりはるかに有利な付属高推薦枠で日大薬学部の入学が決まってしまえば、こんなに楽な話はない。



もちろんこの時、薬剤師にするのは上の娘だけ・・と思っていた。



それが下の娘も・・・という事態に直面して、この考えはあっさりと捨てざるを得なくなった。



日大薬学部は、なぜか知らないが同レベルの私立薬大と比べても学費が高かったのだ。

その上、訳のわからない寄付金というのもあった。



今の段階で長女は浪人ほぼ決定、次女は絶対に現役でと言うことだから、つごう5年間は二人一緒に薬大通いだ。



安い国立大学人気はますます高まるから、たとえ一浪したとしても国立へ入るのは至難の業だ。



となると、二人が同時に私立の薬学部という可能性がかなり高い訳で、その場合の二人合わせた年間の学費は、長男の学費に匹敵する。



もちろん私は、どちらか一人分位の学費は、母の年金、すなわち父の遺族年金で出してもらうつもりで居た。



「それにしても、母の年金だって父本人が貰っていた半分しか来なくなっちゃう訳だから、食費も切り 詰めて緊縮財政にしなくっちゃ。」



ケチな私の頭の中に真っ先に浮かんだ考えはそれだった。





母は食道癌の手術の後、食が細くなった。

一度にたくさんは食べられないので、ちょこちょこ間食したりして、それでも元気なうちはなんとか必要なカロリーは取っていたようだ。



癌はそんな訳で見事に取り除いてもらったのだが、思わぬ伏兵が母を苦しめた。



めまいである。

術後すぐに起こった理由のわからないめまい。

先生には、体重がせめて30キロになれば、きっと良くなると思いますと言われるばかりだった。



もともと太れない体質の母が、あと5キロ6キロ太るなんて奇跡に近かった。



おととしの10月に、たまたま入院していた父の見舞いに行って、病院の玄関で転んで大腿骨骨折をして、母は2ヶ月以上入院することになる。



晦日(みそか)に帰って来た母は、今までのように外出することもままならず、ほとんど一日中寝ていて、食事の時だけ隣の食堂へ移動するのがやっとの生活になった。



そうこうしているうちに父が亡くなり、私にもかなり時間的余裕が出来た。



その頃母は、パック入りの白粥が食べたいと言った。

スーパーでひとつ170円くらいで売っていた。



「あのおかゆはどっか違うんだよ。」



M氏が買って来てくれた。母はとてもおいしそうに頬ばった。



私も味見してみた。

うちで炊くのよりもあっさりとしていたが、そんなに違うようには思えなかった。



「またあのおかゆ、買って来てくれないかなあ。安売りで売ってるやつでいいんだよ。」

私はその170円をケチった。もったいないと本気で思った。



「安売なんてしてないんだよね。」の一言で片付けた。



一応新潟こしひかりの2キロ入りを買った。

それを一合だけといで、圧力鍋でおかゆを作った。



たっぷり出来たおかゆは、母には3日分以上あったと思う。

私には十分おいしく思ったが、母はあまり嬉しそうではなかった。

すぐに「もう、たくさん。」と言った。

私は構わず、おかゆがおしまいになるまで、同じおかゆを出し続けた。



この「もう、たくさん。」という母の言葉は、母が亡くなるまでの間、幾度と無く耳にすることになる。



最期は、どんなに食べたい物でさえ、一口、口に入れるともう受け付けなくなった。

「もう、たくさん。」

最期の最期まではっきりしていた頭で、母はこの言葉を繰り返した。



母がかなり弱ってきて、ようやく事の重大さに気が付いた私は、始めて悔いた。

あの時母に、1パックたったの170円のおかゆを毎日食べさせてあげていたら、今頃まだ母は元気で ここに居たかもしれない。



白粥の事は、ほんの一例だ。

一番世話になって、一番大事にしなければならなかったかけがえの無い人を、私はずっと粗末にし続けた。




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