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母を亡くす・・・きたさんの昔話 [<父を亡くす、母を亡くす>]

☆このところ2週間ほど、日記のトップページが表示できない不具合があり、大変ご迷惑おかけしました。


こんな時期と重なったのでわざわざどうしたのかとメールを下さった方もあり、ご心配おかけしてしまったこと申し訳なく思っています。


お陰様で私はもうほとんど元通り元気にしています。


どうしてもコメントなしで書きたかった懺悔の部分も終わりましたし、今まで外しておりましたコメント欄を今日から復活させました。


もしよろしければ、また今まで通りコメントして頂けたらと存じます。


有難うございました。



***************************************





きたさんは我が家の10人目の家族である。



母の畑作りの指南役でもあり、梅や杏の木の消毒やら、たわわに実った実の収穫やらは、早朝から当たり前のようにきたさんが来てくれて一人でやってくれる。



何か困ると母も私も、まずきたさんに電話する。

手があいていさえいればすぐにでも駆け付けてくれる頼りになる助っ人がきたさんだ。



きたさんはスーパーマンだ。



年は母より二つ上、つまり81才だが、20年前と同じ日に焼けた浅黒い顔、隆々とした筋肉で、今でも薬店経営のかたわら、生まれ故郷の村に毎日車で通っては、畑仕事やら山采取りやらで人の何倍も働いている。



年をとらないきたさんの事を、うちの子供達は「おばけみたい。」と言う。

そして何よりすごいのは、その記憶力だ。



親戚のある人は、きたさんを称して「笠原家の歴史そのものだから、この人には長生きしてもらわなくっちゃ。」と言う。



そう。きたさんは誰よりも良く昔の我が家のことを知っているのだ。



きたさんがうちに丁稚奉公に来たのは、15歳の時だったそうだ。

以来今日まで60年以上、昔の人らしい律儀さで、うちの事は決して悪く言わず、悪く取らず、心底尽くしてくれる得がたい人だ。



当時は16代十兵衛、つまり私の祖父と祖母の時代で、祖父は名誉職、つまり無給の市議会議長だったから、お客はたくさん連れてくるは、当時の習慣で飲み食いの接待でお金はかかるはで、祖母は一人雲切目薬を作って稼がねばならず、大変苦労したんだそうだ。



祖父は「仏の十兵衛」と言われて人当たりの良い穏やかな人だったが、家の中ではあまり物をしゃべらず、電話に出たりは一切せず、すべて忙しいきたさんに取次ぎさせた挙句「なんであんな人間からの電話を取り継ぐんだ!」と文句を言ったり、その反対に取り継がないと叱られたり、結構大変だったらしい。



「17代、あんたのパパはその点楽だったよ。電話でもなんでも、みんな自分でしてくれたからねえ。」



にも関わらず、きたさんの話はいつも決まってこう終わる。



「あの人(地元の名士の名前)なんか今じゃふんぞり返って威張っているが、このうちがあったからこそ、十兵衛さんの信用があったからこそ、銀行だってお金も貸してくれたんだ。本当だよ。そういう恩義を今の若い奴らはちっともわかっちゃいない。なんてったって一番偉かったのは、市会議長を長年やって全国に顔を知られた信用あるあんたのおじいちゃんさ。」





母が父と結婚した時の事をきたさんからはじめて聞いたのは、母が亡くなる間際だった。



病院を退院してからの母は、食事もほとんどとれなくなり、酸素の値も日ごとに落ちてくるので、主治医の指示で在宅酸素機という部屋の空気から半永久的に酸素を作りだす機械を借りることが出来てほっとしたのも束の間、亡くなる3日ほど前から肺の機能が更に落ちてきて、機械の作る酸素でも足りなくなって、母は何度も危篤状態に陥った。



しかし持ち前の気力で、再三蘇ってくれたのだ。



きたさんは都合三度、母の枕元へ呼ばれた。

そして決まって母の頭を抱き起こしながら、同じ言葉を目をしばたたかせながら語りかけた。



「奥さん、あんたは笠原家の中興の祖だよ。あんたは良くやった。あんたが居なかったら、この家は持ちこたえられなかったと思う。



細いちっちゃい身体で、一人で目薬作ってさあ、(父の)選挙になれば駆けずり回り、その上先代の世話もしてさあ。

あんたは本当に良く働いてくれた。決して誰にも真似出来るこっちゃない。



男前のうちの先生(17代・・父のこと)に惚れたばっかりに苦労したけれど、あんたが来てくれたお陰でこの家は立派になった。



一人娘の九子ちゃんは、子供を五人も作ってみんな良い子たちだ。

あんたが立派に育てた孫達だよ。だから、後のことはなんにも心配しなさんな。」



同じ言葉を同じ様に3回耳にしたけれど、誰も笑う者は無くみんな神妙に聞いていた。

一度目よりも二度目の方が、そしてさらに三度目というように、だんだんきたさんが声を詰まらす回数が増えていった。



母が父に惚れて結婚したなどという話を聞いたのはその時始めてだった。

考えてみるとわかる気がする話だった。



30代の父は、大柄で美男子だったからきっとかなりもてただろうと思う。

そして母も、小柄だったがちょっとバタ臭い顔立ちで、新聞の「街でみかけた素敵な女性」みたいなコーナーで何度か取り上げられたと自慢していた。



事実何年もずっと会うことのなかった従兄に葬儀の席で「おばさん若い頃本当に綺麗だったんだから・・・。」と言われた。



そんな目立つ事の好きな母が面食いだったろうと言うことは容易に想像できる。





「長野の市会議員さん何人いたって、奥さんと社交ダンス踊れる人なんてそうそういるもんじゃないよ。オリンピック招致の時、二人は外人さんの前でも颯爽とダンス踊って評判だったんだってよ。」



きたさんはそう言ったが、きっと上手かった母の方がリードして、運動音痴の父が引っ張られていたって言うのが真相のような気がする。





勝ち気で陽気な母は、きたさんに言わせると「発展家」だったそうだ。

発展家とは、社交家・・というような意味か。



母は東京の癌研病院に勤めていた。

母の調剤の早さは、きっと忙しかっただろう病院勤めで培われたものだ。



そこの薬局長の先生に勧められて、社交ダンスも俳句も始めたと聞いている。





昭和30年代、薬局および薬剤師は今と比べたら夢のように華やかな時代だったらしい。



何より薬剤師は、医者の処方箋なしに好きな薬を勝手に調合できたらしいのだ。



母ときたさんのコンビで作った名処方が、当時長野市内で結構効き目で評判だったというカサハラ薬局特製風邪薬だったそうな。



母は夕食後の分にだけ副作用で眠くなる抗ヒスタミン剤を入れた。

朝昼は仕事の邪魔になるから入れない。



良く考えてみれば、今ある朝昼夜用コンタックみたいなもんだ。

それがとても評判で、店を開ける前から並んでいた人も居たらしい。



びっくりだったのは、薬剤師はともかく、薬種商さんのきたさんまでが勝手に抗生物質を売れた時代だったという事だ。

(今現在、薬剤師はお医者様の処方箋なしに勝手に調剤は出来ませんし(薬局製剤は除く)、薬種商さんは調剤行為そのものが禁じられています。もちろん薬剤師も薬種商さんも、処方箋薬である抗生物質を処方箋なしに勝手に売ることは出来ません。)



だから製薬メーカーも左うちわで、年に一度は贅沢な温泉旅行に招待してくれたり、高価な抗生物質の試供品を束にしてくれたりしたのだそうだ。





とにかく多才多趣味な母だったので、男女を問わず友人も多かった。



だから16代もきたさんも、こんなに大変な家に嫁いで来た「発展家」の母が、嫌気がさして実家に帰ってしまう事を本気で心配していたようだ。



「九子ちゃんが出来て、おかあさん変わったんだよ。」

ときたさんに言われた。



「はじめてどっしりとこの家に腰を落ち着ける覚悟ができたんじゃないのかな。」





母が亡くなる少し前、ふり絞るような声で私に言ってくれた母の言葉が突然思い出された。



「九子~お、あんたに会えて良かったよ~!」



なんとなく私も同じ言葉を母に返したけれど、今思い返すと、母が言ってくれた「会う」と言う意味は、単なる「会う」ではなくて、一期一会の出会い、つまり邂逅・・という意味で言ってくれたのではなかったのか・・・と都合良く解釈したくなる。





そうだったら本当に嬉しい。

もちろん確かめる術はもうとっくにないのだけれど・・・。




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コメント 4

ケロ

[おかえりなさい(^_^)]
おかえりなさい。
ブログ、表示できるようになって、よかったです。

お母さんの「あんたに会えてよかった」という言葉、涙が出ました。
九子さんは色々懺悔されてたけど、お母さんにとって、すごくいい娘だったんですよ。
亡くなる前にそんなこと言ってもらえるなんて、本当にすばらしいことだと思います。
お母さんの言葉、一生の宝物ですねぇ。
by ケロ (2007-03-08 21:46) 

九子

[ケロさん、いろいろご心配頂いてありがとう。]
う~ん。そう言って貰うと嬉しいけど、どっちかというと、母親ってもんはどんな出来損ないの子供でも受け入れてくれるすごい存在で、どうやっても子供はかなわないものじゃないかなあという気がします。

たぶん母にとっては、私がどんな娘でも、たとえ極悪人の犯罪者であっても、目に入れても痛くない可愛い娘にうつってたような気がします。

でも本当に母のあの言葉は救いでした。

また後でメールのお返事も書かせて頂きますね。
いろいろホントにありがとう。とっても嬉しかったです。
( ^-^)
by 九子 (2007-03-09 16:10) 

あずーる

[おかえんなさい!]
きたさんを通して、お母さんの知らない一面みれてよかったですね。それから、お母さんの九子さんへの愛情も改めて感じられて、子供としてうれしいですよねっ★<img src='/image/hammy/m001.gif'><img src='/image/hammy/m001.gif'><img src='/image/hammy/m001.gif'>
by あずーる (2007-03-11 03:00) 

九子

[あずーるさん、有り難う。( ^-^)]
あの言葉を聞いたと聞かなかったとでは自分の気持ちが大分変わっていたのは確かなのですが、やっぱりケロさんにもお書きしたように、母親っていうのは凄い存在で、子供を無条件で受け入れてくれるものだという感慨のほうが大きいです。

でもお陰様で、今では両親がいつも二人揃って笑っている顔ばかりが出てくるんですよ。

やっと安心してくれたのかなあと思っています。
by 九子 (2007-03-12 11:43) 

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