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母を亡くす・・・最後の日々 [<父を亡くす、母を亡くす>]


母が退院してから亡くなるまでの十日間は、今にして思えば仏様が私たちに与えて下さった特別の別れの時だったような気がする。



ほんの一週間の入院のつもりが入院は一ヶ月にもおよび、母はしきりに家に帰りたがった。



母が一番元気だったのは最初の二週間。

あの頃は、「ああ、うちに帰ったら美味しいすき焼きが食べたいよ。」と言って、帰るのを楽しみにしていた。



院内で開かれた誰かのお誕生日会で、母は歌まで披露したという話を看護師さんから聞いて、本当にび っくりした。



母は元気な時、仕事をしながらいつも鼻歌を口ずさんでいた。

歌は布施明だったり、さだまさしだったり、年相応よりも若い歌がほとんどで、演歌なんかは大嫌いだった。



昔は独唱もしたくらい声が良かったのに、鼻の手術をした後からは高い声が出なくなったと嘆いていた。



母の鼻歌は母の元気の証拠で、食道癌の手術をした7年前以降はめったに聞かれなくなった。



その母が人前で歌を歌ったというのだ。



看護師さんは確か曲名まで覚えていて私に伝えてくれたはずだったのに、いい加減に聞いていた私にはどうしても思い出せない。



ただ、母がふだん歌いそうにない曲で、「えっ?母がそんな歌を?」と思ったことだけは確かである。



今になれば、看護師さんが忘れてしまわないうちにもう一度T病院に行って曲名を確かめたいと切実に思う。



それが、玄関に置いてある車椅子を見るたびに母が乗っていたのを思い出して切なくなるから、本当は一番行きたくないはずのT病院だったとしても・・・。





三週間目くらいを境に、母の元気は急速に萎えて行った。

しきりに家に帰りたいと言い出したのもその頃だ。



「九子お~、もうこんな病院いやだよ~。早く家へ帰りたい。先生に頼んで明日にでも帰してちょうだい。」



自分の命がもう長くないのをわかっていたのだろうか。

あの気丈な母が、一度などは3階の病室の窓の外を指差して「うちに帰りたくて帰りたくて、できるもんならあそこから飛び降りたいよ。」とも言った。



そんな言葉を聞いても、私は母の切実な思いなどまったくわかってやれなくて、院長先生に頼み込んで母に抗うつ剤を出してもらおうなどととんちんかんな事を考えていた。



あの時母を家に帰してやれたら、母はすき焼きを食べて元気になって、今頃まだ生きていてくれていたのだろうか・・・。





そんなにしてまで帰りたがった母だったのに、いざ帰って来てみても、そんなに嬉しそうにも見えなかったし、あんまり元気も出なかった。



あれほど食べたがったすき焼きすら、私にしたら大奮発の柔らかい和牛の霜降りロースを買ってあげたのに、ほとんど箸もつけなかった。



母にはもう、喜ぶ体力すら残っていなかったのだと思う。



それでも帰ってから5日くらいは普通に生活していたけれど、6日目に急に呼吸が苦しくなって救急車 で市民病院へ運ばれた。



病院はもうこりごり、家に帰りたいと母が言うので、酸素吸入だけしてもらって家に帰って来た。



それを境に、母の指につけられたパルスオキシメータ(心拍数・血中酸素濃度測定器)の値はちょっと した事で大きく変動するようになる。



母が苦しそうな時には血中の酸素濃度が70%くらいに下がっている。



不思議なもので、そんな時でも私の顔を見ると安心してくれるのか、下がっていた酸素濃度がすぐに上がって来るそうで、M子は「ママはおばあちゃんのそばにずっと居なくちゃダメ!」と言ってくれた。



それでもその週末母は持ち直し、遠くに居て卒業試験を控えた長男Rはだめだったが、比較的近くに住んでいる次男Sと三男Yが帰ってきて、「なんだ、ばあちゃん。元気そうじゃないか。」と安心して下 宿先へとまた戻って行った。



二人の姿を見送るように母の容態は再び険しくなり、日曜の夜中から酸素マスクを離せなくなった。



たまたま調達してあった酸素ボンベが朝方で切れてしまい、朝からコンビ二の3分くらいしか持たない簡易式の酸素スプレーを買い漁った。



困って主治医の先生に電話すると、在宅酸素の機械が借りられそうだとのこと。



この機械は全くの優れもので、部屋の空気から半永久的に酸素を作り出す事が出来るから、これがある限り一生酸素が途切れる心配はない。



以前借りてもらうように頼んだ時は、特別の肺の疾患がない限り借りられないとの事だったのだが、救急車で運ばれたいきさつがあるので借りる資格が出来たらしい。



午後には来るはずの機械が結局夕方になり、なんとかあちらこちらに頼み込んでボンベを調達し、それこそ綱渡り状態で最後のボンベが切れる寸前で機械が間に合った時には、母の命をまた仏様が助けて下さったと思った。



こんなに母は運がいいんだもの。絶対にまた元気になる!



本気でそう考えた。

人間が酸素だけで生きていられたらこんなに楽な事はないのだけれど・・・。





結局一生酸素を作ってくれる機械は、丸一日しか働く事はなかった。





母に親不孝は星の数ほどしたけれど、最後の数日間だけはなんとか精一杯尽くしてあげられたようには思う。



一番は母の希望通り、家で看取れたこと。



勤めや学校を休んでくれたM氏や娘たちにも見守られ、最後には大好きだった庭を思う存分カーテンも戸も開けっぱなって、寒さもものともせず好きなだけ見ることが出来たね。



考えてみると病院で一人で死んでいった父は気の毒だった。

もちろん心不全だから、あっという間に逝ってしまったには違いないのだけれど・・。



M氏も本当によくしてくれた。



M氏のお母さんの時、苦しむのを見るのが辛くて、家族はみんな「もう(頑張らなくて)いいよ。」と 言ってしまったのが今でも心残りだと言って、「お母さん、頑張ってください。弱気になっちゃだめですよ。」と励まし続けてくれた。



酸素ボンベを調達するために奔走してくれたのもM氏だ。

お陰で母は一度ならず二度までも蘇った。



母の臨終に間に合わない事はわかっていたのに、次男Sと三男Yがその夜のうちに帰ってきた。



特にYは、結構感情の起伏が激しくてカッとなると見境もなく叱るおばあちゃんの恰好のターゲットになっていて、一番叱られた孫だ。



まじめで素直な彼は、叱られるとすぐに言う事をきくので一番叱りやすかったのかもしれない。

家族みんなの記憶の中でも、おばあちゃんがYを叱っていた姿が焼きついているみたいだ。



そのYが、母を見るなり号泣した。



思う存分泣いた後、「オレ、ばあちゃんに叱ってもらってよかった。」と言った。

おばあちゃんに叱られ慣れていた彼は、誰に叱られてもめげない人間に育った。





高校生の娘二人も、学校を一日休んでまで看病してくれた。

特に受験生N子のアイスクリームの一件は、死に行く母の心にも響いたようだ。





N子は兄が三人もいるせいか、やることなすこと男っぽい。

特に言葉使いはまったく男の子そのもので、いくら口を酸っぱくして直そうとしても、本人に直す気がないのだから仕方がない。



だけど、自分のものを惜しげもなく他人に振舞える心根の優しい女の子だ。



その日も夕食はほとんど箸もつけずに「もうたくさん。」と言った母の部屋の障子を開けて、N子が飛 び込んできた。

手にはその日のおかずのチンジャオロースーを乱暴に盛り付けたのを持っている。



「ばあちゃん、これ食えよ。」ぶっきらぼうないつもの口調で、怒ったようにN子が言う。



「食わなきゃだめだよ、ばあちゃん。ばあちゃんはどこにも悪いとこないんだよ。それなのに、食べないで死んじゃうなんて、悔しい・・・。」そう言ってN子は泣き崩れた。



はっとしたように母がN子の顔を見た。

「わかったよ。食べるから・・・。」と言って、本当に食べようとした。



母はもう長いこと固形物を口にしていない。



「Nちゃん、気持ちは嬉しいけど、おばあちゃん急にそんな固いものは食べられないよ。そうだ。なに かおばあちゃんが簡単に食べられそうなもの、コンビニで買ってきてあげて!」



そして彼女が買ってきたのが、倹約家の彼女にしてみたらまさに清水の舞台から飛び降りるような気持ちで買ったに違いないハーゲンダッツの小さいカップ。



それを母は、おいしい、おいしいと言って三口も食べた。そしてお決まりの「もうたくさん。」を言わなかったのはその時が最初で最後だった。



「Nちゃん、おばあちゃんこれ後でまた食べるから、冷蔵庫にしまっておいてね。」



N子の背中が見えなくなった途端、「あの子は優しいねえ。」と母が何度もつぶやいた。





納棺の時、N子は最後の最後に、あの時のアイスクリームを母の口元に近いところにそっと入れた。



母が食べたそうにしているように見えた。




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away

[お察しします。]
九子さん、こんにちは。

お母様の思い出、読ませていただいています。
亡くなった方のこと、こうやってお話されたり思い出したりすることは
何よりの供養だと思います。

それから「ああしてあげたらよかった」「こうしてあげればよかった」
と思うこと、これはどういうケースでも、どんなお別れであっても、
絶対避けられないことですよね。
思い出すことは、その方を自分の中で生かし続けることでもありますし。
だから、お気持ち本当にお察しします、と申し上げるほかありません。

ただどうぞお疲れが出ませんように。
by away (2007-03-21 16:02) 

九子

[ご心配頂き、すみません。]
awayさん、いつも優しいコメント有り難うございます。
書いている事と現在の心境には、実は時間差がありまして、本人すっかりもう元気で、いつまでも母親の亡くなったことなど引きずっていたくない気持ちが大部分なのですが、やはりけじめとしてどうしても書いておきたいと思いまして・・。

どちらにせよ、あと一度で終了させて、4月からは新たな気持ちで書かせて頂こうと思っています。
これからもよろしくお願い申し上げます。

実はawayさんのドイツ語のお勉強の記事でコメントさせて頂こうと思ってました。私も触発されましたって・・・。

恥ずかしいのでコメントではなくてメール差し上げようと思います。

とにかく両親が残してくれたもの、たくさんありますけれど、自由な時間が出来たというのもとても大きいので、なにか始めたい気持ちになっています。

ではまた。

有り難うございました。( ^-^)
by 九子 (2007-03-22 20:55) 

ちゃら

[お久しぶりです]
九子さんの気持ちを思うと何を書いていいのやら・・・
ただただ考えるばかりで文字には出来なかった。
立て続けだし、何もかもが一度に降りかかったのだから、九子さんの体の方が心配でした。
落ち着いて色々省みている九子さんの日記。
読むと何となく見たことも無い人たちが浮かんで見えるようでした。
客観的に見ている九子さん。
それが九子さんにとって一番良いことですね。
自分を責めたり、時間が戻らない事を実感したり、そういう辛い毎日では参ってしまいます。
時間が経てば癒されるものなのでしょうか?
私には経験がないので分かりません。

九子さんが思うように暮らしたらいいんですよね。
大黒柱のM氏と支えあいながら過ごしてくださいね。
気の利いた慰めは出来そうにありません。
くれぐれもお体を大切にね。
by ちゃら (2007-04-03 13:07) 

九子

[ちゃらさん、有り難う。]
いつもいつも優しいお言葉、胸に響きます。
本当に有り難うございます。

実はおととい、父母の一周忌を一度にしてしまいました。
やっと一区切りがついて、これからだなあという気持ちになりました。

そんな訳で、お陰様で気持ちのほうはすっかり元通りですのでどうぞご心配なく。

数日中に母を亡くす・・・の最終分を更新して・・・。
実は3月中にしてしまって4月からは新たな気持ちで書いていくつもりでしたが、何しろ何でも一歩遅れる人間なもので、結局4月にずれ込んでしまいました。(^^;;

自由な時間がたくさん出来ました。
だから、コメントのお返事も早かったでしょ。( ^-^)

これも両親がくれたプレゼントと思って大事に有意義に使わなくちゃと思っています。

親はいつか亡くなるもの。この年まで生きてもらった事に感謝しています。

とは言え、決して辛くないと言ったら大嘘だから、私も子供に嫌がられるくらい長生きして「あのばあさん、早く死なないかなあ。」と言われながら死んで生きたいと思います。

ちゃらさんのとこもこれからせいぜい遊びに行かせてくださいね。( ^-^)
by 九子 (2007-04-03 14:47) 

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