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母を亡くす・・・両親からの贈り物 [<父を亡くす、母を亡くす>]

おかげさまで4月1日、両親の一周忌を無事すませました。
3月いっぱいで「母を亡くす・・シリーズ」はおしまいにして4月から新たな気持ちでダメ母日記を 書いていくつもりでしたが、結局最後の一話のみ4月にずれ込んでしまいました。
まあ、私にしてみれば極めて普通の成り行きです。


次回からはいつもの気楽な日記に戻りますのでお楽しみください。




思えば、父の事を書き切らないうちに母が亡くなってしまったので、父の事が尻切れトンボになっていた。父の事ももう少し書いておきたいと思う。



父は、今の言葉で「うざい!」と思うほど一人娘の私を可愛がってくれた。



父母の一周忌。

M氏の許可を得て、施主の代わりに挨拶をさせてもらった。


その冒頭から引用させてもらう。






もう少しで桜が咲くから、またお花見に行こうねと言うと、ああ、行こうやと言っていた父が、桜を 見ずに逝ってしまってから早一年。そのあとを追いかけるように母が亡くなってから四ヶ月が過ぎようとしています。


今更ながら、一人娘として二人に注いでもらった愛情の大きさをかみ締めています。


父十兵衛は、体力が落ちて一人で歩けなくなるまで、ブログ書きなどして深夜までパソコンに向かっている私に「もういい加減にして早く寝ろ。」と毎日のように小言を言いました。


そして私がしぶしぶ狭い路地一本離れた裏のうちに向かうのを、見えなくなるまで心配そうに見送る のです。


私が裏のうちの鍵をしめ、階段を上って二階の寝室の電気を点けるまで、いつまでも父の影が遠くに見える母屋の窓ガラスに映っていました。


私はその頃もう50歳でした。50になっても父にしてみればどんなにか心配な一人娘だったのでしょう。


思えばいいお婿さんがもらえたのも、子供を5人も育てられたのも、みんな父母が居なければ決して出来ない事でした。


産院から退院してくるともうすぐに、夜中の授乳の二回に一回は母が代わってしてくれましたし、子供たちの入浴など私や主人はほとんどした事がありません。


手がかかるようになれば子供たちの定席はおじいちゃんとおばあちゃんの間と決まっていました。

大変なところはすべて二人にしてもらっていました。








父は職業柄、視察や旅行でいろいろな場所に行く度に必ず私にみやげを買って来てくれた。

さすがに結婚してからは私が口を酸っぱくして言ったのでアクセサリーなんかに代わったが、それまで父が買ってくるのは、安っぽい置物とか観光地の名入りのキーホルダーとか、いつでも小学生に買うような土産だった。

父にとって、私はいくつになっても幼いままの一人娘だったのかもしれない。



それでも二十歳くらいまでは「パパ、パパ」と慕っていた子供じみた娘が、突然手のひらを返したように冷たくなって、父は内心驚いたかもしれないし、もしかしたらそんな事にはまったく無頓着だったかもしれない。



とにかく世のお嬢さん方が皆そうなるように、父親がすることなすことどうも気に食わない時期が以 降何十年も続く事になる。



父の事を本当にいとしいと思うようになったのは、父が年老いてすっかり弱ってからだ。



父が軽い脳梗塞の発作を起こして救急車で病院に運ばれた時も、その時ばかりは心配になったが、なんとか一人で以前と同様の事が出来るとわかってからは、もう今までと同じく反発ばかりしていた。



父の、年とともに痩せては来たが骨組みのがっしりした大きな身体を、私の肩がなければ支えられなくなってはじめて、この人をいつか失う事になる日が来る事を本気で悲しく思った。





母が亡くなった時、頭の中が真っ白になった。



母はいつでも私にとって一番大事な人であり、母の居ない毎日など考えられなかったからだ。

何も出来ない娘を、まるで自分が育てた責任を取ってくれているかのように、何でも手助けしてくれた。





私と言う人間はどこまで冷淡に出来ているのか、父母を一緒に同等に愛せた記憶が無い。

父が大好きな時は母がおろそかになり、母に肩入れしている時は父をうとましく思った。



父の身体が弱くなって父に対する愛情が復活すると、とたんに母の事がおろそかになった。

まるでいつまでも釣り合わない秤(はかり)のようだ。



その秤は、母が亡くなるたった三日前まで、本当の意味で母に傾く事はなかった。





父の時のように「この人を失う日が来る事」など考えた事も無い。そんな事永遠に無いと思っていた。私にとって母とは、そんなにも身近な存在だった。



居てくれて当たり前。居ないことは考えられないけれど、居るからといって別段どうって事ない。

そんな風に思っていて母の日に特別なプレゼントなどした事も無いわがままな一人娘は、仏様から母を取り上げられるという手痛い罰を受ける事になる。





罰と言えば、更に罰当たりな事がある。



母が亡くなった時最初のうち本当に私を悲しませたのは、母が亡くなった事そのものではなくて、父が80歳まで市会議員として働いて残してくれた年金が、母が亡くなったことによってもう受け取れなくなってしまったという現実だったような気がする。



うつ状態の時に特異的だと言われる「自分が一文無しになってしまう」と言う妄想が絡んでいたかもしれないとは言え、こんな事を先生の問診の時も話していたかと思うと顔が赤くなる。





母が亡くなって辛くて辛くて、最初に考えた事は「私は子供たちに嫌われるくらい長生きしよう。」という事だった。



私は一人っ子だったから母を亡くして悲しむのは私一人だけだったけれど、かりそめにも私は五人の子の母親なのである。

私が死んでとりあえず子供たちが悲しんでくれると仮定すると、単純に考えて五人の人間が同時に私と同じだけ・・・かどうかわからないが、悲しむことになる。



今の私の年で母親を亡くしてもこんなに悲しいのだ。

少なくとも末娘が私と同じ年になるまで生きていてやろう。



娘のどちらかが面倒を見ていてくれるに違いないから、「あのババア、早く死なないかなあ。」と悪態つかれるまで長生きしてやろう。



そうしたら、私が死んでみんなほっとしてくれるに違いない。お赤飯炊いてお祝いするかもしれない。





だけど世の中そううまくは運ばない事もある。



「憎まれっ子世にはばかる」のはずが、「美人薄命(エッ!!)」でころっと逝ってしまうかもしれない。



でも少なくとも末娘の子供たちに手がかからなくなるくらいまでは生きて居てやりたい気はする。



もっとも今になれば、父母が居なくなった寂しさよりも、自分の時間がたっぷり出来た気楽さの方が勝っていたりする。



やっぱりほどほどのところで死んで行ってやるのが子供のためか・・・。





自分の気持ちを冷静に書いておきたくて、そうする事が悲しみから早く抜け出すよすがになるかもしれないと書き始めた「母を亡くす・・」シリーズだけれど、もしかしたら子供たちのために、いつの日か私が死んだ時、子供たちがこれを読んで母を亡くす悲しみを少しでも薄める事が出来るのであれば幸いである。



「ママはおばあちゃんにあんなひどい事したんだ。そんなら自分だっておんなじ事されて当然だよね。」と、子供たちは思ってくれるだろうか。

「ママに比べたら私たちって親孝行な方だよね。」と安心してくれるだろうか。








両親が私に残してくれた数え切れないものの中で最大のもの、それは460年続く雲切目薬です。


一番忙しかった頃、母は私の祖父16代十兵衛の介護をし、目薬の機械を回し、一人で目薬を作っては店や家の仕事もしていました。一体どうやっていたのだろうと驚くばかりです。


中身は別物になってしまいましたが、父母の尽力で名前だけでも残せたお陰で、幸運がたくさん重なってマスコミにただで宣伝してもらい、全国から注文を頂ける様になりました。


とりわけ母の四十九日(七七忌)の直前に出たディアゴスティーニ社の日本の100人山本勘助特集号に載せて頂いた時は嬉しさがこみ上げました。


あの時ああしていたら、こうしていたら、母はまだ生きていてくれたんだろうかと悔やんでばかりいた時期だったので、母が私の親不孝をすべて赦してくれたようで、救われた気がしました。


でも考えてみると両親は、はなっから私の親孝行など期待していなかったのかもしれません。どんな欠点があろうともそのままを丸ごと受け入れて目の中に入れても痛くないほど可愛がってくれる、そんな両親でしたし、自分が親と言われる立場に立った今、そうすることがいかに難しいかをつくづく 思い知らされます。




雲切目薬は、両親が私に遺してくれた最大の有形の遺産であるが、両親、特に母が命を削って私に遺してくれた偉大な教訓がある。

でもこれは私にとっては大きな教訓だが、普通の大人ならきっと何でもないこととして日々実践しているに違いない。



普通の大人になりきれなかった私は、母を亡くしてみて初めてそれに気が付いた。

母の命という大きな代償と引き換えに・・・・。





それは、自分より先に人に与えること。

受け取るばかりではなく、自分から与えること。



両親の愛情を貪り食って育った私には、根本的にそれが足りなかった。



パックの白かゆが欲しいと母が言った時、まず母が喜ぶ物を自分の事情などお構い無しにいの一番に母に与えること。



不思議な事に、子供に対しては本能的にしていたかもしれないこと。

それが母には出来なかった。



「自未得渡先渡他(じみとくどせんどた)」

活禅寺で無形大師からも幾度も教えられた。



(船着場で)まだ自分が渡らないうちに他人を先に渡せ。



自分の利益を最後に考えるのが人の道なのだ。

それなのに、両親の愛情をむさぼり続けた私。



貪(むさぼり)じん(いかり)痴(ぐち、無明)は仏教でいう三毒だ。

一番卑しむべき煩悩である。



それを優先させたがゆえに、大事な母は痩せ細って死んでしまった。





父母の口癖が今でも鮮やかによみがえる。



父のは「おい恭子、やってやれや。九子がもうらしいじゃないか・・。」



もうらしいというのは長野の方言で、可哀そう・・みたいな意味だが、父がそういう時の「もうらしい」は、可哀そうよりももっと情が濃かったような気がする。



結局母に押し付けて、父は何もやっていない・・というのがいつも反発の理由だったが、何もしていないのは私も同じ事だった。



母の口癖は「どう、どう・・。」

「どら、どら、貸してごらん。」と言う時のどら、どらだ。



「どう、どう・・。」と言われてすべてを母の手にゆだねるとあら、不思議!

今までどうしても出来なかった事がまたたくまに仕上がってしまうのだ。



この「もうらしい」と「どう、どう」の二人の愛情によって、私は五十年余りを生きてきた。



二つの言葉に共通するのは、他(・・と言っても血を分けた娘ではあるが)への熱い思いであり、常に寄せられる関心であり、自分を捨てても他に尽くそうとする奉仕であった。



そしてそれが、私に決定的に欠けていたものだった。





「私のことなんかどうでもいいんだよ。だけどさ、あんたのもう一人の一番大事な人、Mさんの時にはちゃんとやっておやりよね。」



もの言わぬ母がそう言っているような気がした。





父が亡くなってもう一年。母が亡くなってまだ4ヶ月。



二人が遺してくれたものは計り知れない。




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あずーる

[やれやれですね♪]
おひさしぶりです、九子さん。こちらは桜が満開です!
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お父様とお母様の続けての他界、大変だったですね。
桜の季節、色んな生き物が動き始める春、素敵な季節の一周忌。
お父様とお母様も千の風にのって楽しく動かれていることでしょう。
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山本勘助特集号!?にのるほど歴史のある雲切目薬?
今、ちょうど風林火山をみているので驚きです
by あずーる (2007-04-08 22:44) 

林檎

[母を亡くしてが心の支え!]
去年の末、母を亡くし寂しさからネットで〔母親を亡くす〕で検索し今年の2月にここにたどり着き 食い入る様に読ませて貰いました。 自分だけじゃ無いんですね、母を失い凹んでいるのは・・ もう44歳に成るし私もチャンとしないと。 今回でこのシリーズ最終回で少し残念ですが  経験者として 半年、1年 2年と時が経った時の心の変化を教えてください。 楽しみにしています。
by 林檎 (2007-04-09 12:37) 

九子

[あずーるさん。( ^-^)]
コメント有り難う!!
そちらはもう桜満開ですか。
こちらはまだ一分咲きくらい。

でも今週中に満開になりそうです。

そうですね。桜の季節が一周忌なんて、なかなかいいですよね。
無粋な父でしたが、いい時期に死んでいったかもしれません。

ディアゴスティーニの本をスキャンしたものがあるんのですが、ファイルが大き過ぎてメールに添付も出来ません。これを加工して小さく出来たらお送りしますね。( ^-^)

風林火山、実はついこの間見始めたところなのですが、これ以外にも私の周りと関連が深いみたいなので、しっかり見ようと思ってます。

あずーるさん、これからもまたよろしくね。( ^-^)
by 九子 (2007-04-09 16:07) 

九子

[林檎さん、コメントとっても嬉しかったです。( ^-^)]
嬉しいコメント本当に有り難うございました。

書く事が好きで、何気なく始めた日記がもう3年目になって、こんな日記を楽しみにして読んで下さる方がいらっしゃると言うお話を伺うのは本当に嬉しく、励みになります。

そうですか。
林檎さんも私と同じような時期にお母様を亡くされたのですね。しかも林檎さんはまだ44歳。まだまだお母様に生きていて頂きたかった事でしょう。

母を亡くすのは一年でも先がいいと心底思います。

先に母親を亡くしたいとこが、何年経っても悲しみがなくならないと言っていました。そう言う人は結構多いみたいです。

母親ってすごいですよね。そして、その凄い母親という存在に私自身もなったんだと思う時、中途半端な気持ちではいられない感じです。

私の場合は五児の母ですから、とにかく早死にしないことがとりあえずの命題です。


林檎さん、表紙ページ上の赤い記者名をクリックして頂くとメールも出来ますから、一度メール頂けませんか?
いいことあるかもしれませんよ。( ^-^)
by 九子 (2007-04-09 16:24) 

林檎

[必ず!!]
 必ずメールします。
by 林檎 (2007-04-10 07:54) 

九子

[お待ちしてますよ。( ^-^)]
そんなに長いメールじゃなくていいので、気楽に書いてくださいね。( ^-^)
by 九子 (2007-04-13 15:52) 

あずーる

[圧縮ソフト]
九子さん、こんにちは。もう桜吹雪です。
でも、緑もまじって綺麗!
今年は、寒いせいか桜がよくもっています。

ところで、大きなファイルはZIPとか圧縮ソフトを
使えば軽くなります。使い方しっておけば便利ですよ。

圧縮ソフトは一般的に使われていて簡単なので、どなたか
近くの詳しい人にきけばいいと思います。

(記事、催促しているのではないのですが^^)
by あずーる (2007-04-13 16:28) 

nonnon

[おかあちゃん]
母を亡くすを読んで九子さんがご家族をお持ち以外は私のなくなった母に対する気持ちを言葉ではっきりと表してくださってます.鬱です.いつも両親にすまないと泪してます.特に母にはこの人が居なくなったらどうしようといつも恐怖を憶えていて、自分のことばかり考えていたのでは行けないと今年からしっかりと母と歩もう、百歳まで長生きしてもらえるよういい娘で居ようと誓ったとたん、別れもなく母は行ってしまいました.私以上に元気だったのに.今は仕事に行くのがやっとです.姉妹も私のメソメソにうんざりのようで.もう、相談もできません.でも、ひたすら母が恋しいです.どうしたらいいでしょう.心を分かち合える方がおられれば・・・
by nonnon (2009-04-12 21:48) 

九子

[nonnonさん!( ^-^)]
はじめまして。お訪ね頂き、コメントも頂戴し、本当に有り難うございました。m(_ _)m

お母様の事、心よりお悔やみ申し上げます。
素晴らしいお母様だったのですね。もちろん母親というのは、いつまでも娘が決して越えられない壁なのかもしれませんが・・。

大切な人を亡くした時の鬱状態であっても、薬はかなり有効だと思います。信頼のおける精神科や神経科の先生が見つかれば、お話をするだけで気持ちが楽になるかもしれません。

どうか一度、勇気を出して受診されることをお薦めします。

nonnonさんは三人姉妹の真ん中でいらっしゃるのでしょうか。お姉さま妹さんとは性格が少し違うのかしら?

うちも男の子が3人でしたが、どうしても2対1になってしまいがちでした。うちの場合は一人が軽い学習障害がある変った子供だったので、小さい頃は特に一人で取り残される事が多かったみたいです。

nonnonさんはきっと優しい人なのでしょうね。優しい人はなかなか
気持ちが次のこと次のことへ移って行き難いかも知れません。

たぶん皆さんがおっしゃる事だと思いますが、時間が過ぎるのを待つしかないと思います。すぐに涙を拭こうなんて思わずに、泣きたい時はたくさん泣いて、涙が枯れるまで泣いて、泣くのに疲れた時にきっと見えてくるものがあるのかもしれません。

お姉さんや妹さんがなんとおっしゃろうとも、悲しいときに泣ける事は誇らしい事だと思いますよ。

メールを書いて気が紛れるなら、どうぞいつでもメール下さい。
kasahara@mx1.avis.ne.jp

というか、必ず一度メール下さいね。( ^-^)
by 九子 (2009-04-13 15:40) 

あんず

はじめまして。三回忌が終わったところですが、未だに母を死なせてしまった罪悪感に苦しむ中、九子さんのブログを見つけました。
日付が随分前だったので、今頃コメントなどしたらご迷惑かと心配ですが、せずにはいられませんでした。自分でブログもしていないし、コメントも初めてなので失礼があったらごめんなさい。でも、お母さまを亡くされた話は、これは私?と思うほどの内容で、私と同じように苦しんだ方がいらしたのかと、少しだけ、少しだけ楽になりました。また、読ませていただきます。
by あんず (2015-09-12 21:27) 

九子

あんずさん、こんばんわ。
古い記事を見つけてくださって、心より感謝します。

お母様の三周忌が終わられたところなのですね。それでも直後に比べたら少しはお気持ちが軽くなられていらっしゃるのではないでしょうか?

親というものはつくづく有り難いものだと思います。当時は自分を責めていた気持ちも、だんだん薄れて現在に至っています。

親は私をとても愛してくれましたので、私が母を愛するよりももっとずっと愛してくれましたので、私がしたことなんかとっくにお見通しだったように感じています。そして、どんな風に私が行動しようとも、それを最後は笑って受け入れてくれたような気がします。

当時は私が母の命を短くしてしまったように感じていましたが、今では、きっと母は、自分自身の生きる望みというか、生きようとする力がだんだん萎えてしまっていたのではないかと思えるようになっています。

あんずさんも、決して無理しないでも自然にそういう風に思えてくる日が来ると思います。
無理してそういう風に思い込もうとするのは却ってよくないかもしれません。お気持ちのままでいいのではないでしょうか?

あんずさん、もしよければkasahara@mx1.avis.ne.jp
にメールを下さいませんか?お待ちしています。


by 九子 (2015-09-13 21:34) 

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