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母の新盆に [<父を亡くす、母を亡くす>]

食欲も失せるような酷い夏だった。


三人の息子達も次々と帰省しては巣立つ前と同じ場所を占め、相も変わらず乱雑な家に顔をしかめては埃を摘まみあげたりしてみるものの(^^;;、どこかしら安心したような顔をして笑い、しゃべり、食べ、寝転がり、そしてまた当たり前の様にそれぞれの場所へと戻っていった。


違っていたのは、「ただいま」と言ってみても、「おかえり」と鼻にかかった彼らの祖父の声もしないし、いくら気分が悪くても声だけには元気がみなぎっていた祖母の姿も無い事だった。


去年の春に父が、暮れに母が亡くなって、9人の大家族だった我が家はこじんまりとありふれた日本人の平均的な4人家族となった。


おととしの秋頃から、父母はベッドを並べて食事の時以外は寝てばかりいるような生活だった。


母が骨折して二ヶ月入院した病院を暮れに退院してから、父が亡くなるまでの4ヶ月間、私は二人のベッドの足もとで寝袋にくるまって寝ていた。


たいした食事を作った訳ではないけれど、三度三度の食事の世話があった。
デイケアだ、やれ訪問入浴だ、やれ点滴だで、毎日のように何かしら準備があった。


洗濯物もすぐに溜まった。
たまには薬局に客も来た。(^^;;
その薬局も、父母につきそって病院へ行くんで頻繁にシャッターをおろした。


今から考えるとまるで私でないみたいに結構頑張ったが、一体どうやってこなしていたのか、あまり記憶がない。
たぶん私にとっては欠くべからざるお昼寝の時間すらほとんど取れていなかったと思う。


長年の経験で、体力がひどく落ちる事がうつ病の引きがねになる事を知ったので、薬だけは目一杯飲んでいた。毎日が綱渡りの連続だった。


そんな風に過ごしたのがまるで嘘のような、今年のゆる~い生活だ。


体力的にもそうだけれど、昼寝をするにも、遅くまでネットをするにも、昔は父母には一応気を遣っていた。
それが今では、恐いのも無しの一人天下である。( ^-^)


母が思いがけずに死んでしまった時は、本当に途方に暮れた。


まったくひどい話だが、今思えば当初母を亡くす事で一番辛かった事は、母が居なくなるともう貰えなくなってしまう父の年金だったのだ。


父が40年間、何度も落選の危機を乗り越えながら市会議員を続けて貯めてくれた年金だ。
当然のように娘達の学費の当てにしていた。


(娘達は二人とも薬学部志望だ。)


母は衰弱死だった。
食べたいものが食べられなくなって死んだのだ。


父が亡くなって、父に入った額の半分しか母に入らなくなった。
だから、もともと節約家の私は節約にこれつとめ、大事な母が一番食べたがったものまで節約しようとした。


節約家というのもまあ聞いたところはいいが、要するに怠けものなのだ。
母みたいに働き者で商売の才能があれば、自分が働いて儲ける事を考える。
働くのが嫌な怠けものは、出し惜しみをするって訳だ。


おかゆも、そうめんも、かき氷も、母にはお気に入りがあった。
好き嫌いのはっきりした性格の人だったから、母のお気に入りを買って来てさえやれば、きっともっと食べられて、去年の夏を乗り切れたと思う。


母は夏が乗り切れずに1ヶ月入院した。
そして退院して十日で亡くなった。
こんなに早く母が亡くなるとわかっていたら、一日でも早く母を病院から連れ戻したのに・・。


百円かせいぜい数百円の母のお気に入りを買うのを惜しんだのはこの私だ。


はたして母は、お気に入りとは違うおかゆもそうめんも、一口すするともう食べなかった。


かき氷は「身体に悪いよ。」と言って、買う事さえ控えた。



今年のこの暑さの中、私は毎日アイスクリームばかりを食べている。
冷たくて甘いものはこの時期、本当に涙が出そうなくらい嬉しい。


母はどんなにか、たった60円のイチゴのかき氷を食べたかった事だろう。


最後の最後にN子のアイスクリームをおいしそうに食べてくれた母だ。
最初から食べさせてやっていたらなら、ちゃんとカロリーも取れてあんなに早く死ぬ事はなかったに違いない。


母は「かき氷が欲しい。」とは言わなかった。
母が一言そう言いさえすれば、いかに非情な私でも買ってきて食べさせた。


母にそれを言わせない雰囲気をかもしだしていたのもまた私だったのかもしれない。


とろりと甘いはずのアイスクリームが、母を思うとほろ苦い。



すべては、「まさか」という思いゆえだった。


あの、人一倍体力、気力の充実していた母が、まさか死ぬなんて。
まさか女性の平均寿命86歳の時代に、70代の母が死ぬなんて。
食道癌も治ったし、他にどこにも悪いところのない母がまさか死ぬなんて。


いや、その「まさか」にすら思い至らなかった。


いくら親不幸とはいえ、母がもしかしたら死んでしまうのではないかという怖れの気持ちがほんの一瞬でもあったなら、どこかの時点で正す事が出来たはずだった。


母は元気で当たり前。
今まであまりにも強く、明るく、比類ないほどの楽天主義者で、我が家を一人で支えてきた。
そう。母は私の中で、生きてて当たり前の人だった。


そして母に死なれてみて、この世の中に当たり前のことなど何一つなかったことに遅まきながら気付かされた。


思えば仏教の一番大事な教えが無常観と因果律だ。


母がいつまでも変わらず元気で、私のために何でもやってくれる。
まさか死んでしまうなんて考えられない。
でもそのまさか!を警告してくれていたのが無常観だった。
この世の中にいつまでも変わらない物などないし、ましてや死なないものもない。


母が私にいろいろやってくれるのは、親として当たり前。
いや、この世の中に当たり前なんてものはない。
見えない因と縁によって全てのものはそこにあるのだ。


私にとって当たり前に見える事だって、母の愛情という原因が根底にあって、それをすることをいとわない母の努力という結果によってずっと支えられてきた。



一人っ子で育った私に、父母はなんでもしてくれた。
そして自分は指一本動かさずに、何でもしてもらう事に慣れていった。


今でも思い出す光景がある。
小学校5年生の時の参観日。


4月に新しく担任になったS先生の前で、母はいつものように私を立たせて、コートを着せてくれていた。
私は直立不動でつっ立って、母に着せられるままになっていた。


「手は無いのかな?」
S先生に言われた言葉を今でもはっきりと覚えているところをみると、子供心によっぽど堪えたのだろう。


何しろ優等生だった私(^^;;が、それまで先生に何か注意されるなんてほとんど無かったのだ。



子供が5人も生まれれば、ふつうは何かをしてやる側に回るのが当たり前なのに、出き過ぎ母は5人の孫までも、何も出来ない娘の代わりに育ててくれた。与え続けてくれた。


相変わらず母がしてくれるのが当たり前と思っていたわがまま娘は、自分では何もしないまま、してもらう事だけを当然の事として求めていた。



母が弱くなった時、それでも気丈な母は、出来る限りの家事は率先してやってくれた。


骨折で入院する前日まで、風呂の浴槽をブラシで洗って水を張る、考えてみると当時もう22キロほどの体重だった小柄な母には危ない仕事を、これまでもいつも母がしていたからという理由だけで、母がやってくれるのを止めもしなかった。


心のなかでは、そろそろ自分がしなければ・・という気持ちはもちろんあった。
でも最後まで母に甘えきっていた。


母が亡くなった時、ばちが当たったと思った。


母を愛情深く看てやらなかったばち。
大事な母に食べさせるものすら節約したばち。
自分がやらなければならないことをおざなりにして母に任せて頼りきっていたばち。



辛い辛い数週間が過ぎた。


あんまり辛いので、何ヶ月ぶりかで活禅寺へ行った。
そして母のために改めて大法要というのをしてもらう事になった。


自分という人間を根底から救って、生まれ変わらせてくれた禅寺でしてもらう、納得のいく祈り。


父母も仏様の掌中で幸せにしている事をひしひしと感じる事が出来、自分の罪が赦されて行く気がした。



仏の教えとは、何と厳しく、非情で、正確で、誠実で、せつなく、慈悲深いものであろうか。


母との最期の日々は、私に課せられた信仰を試される試練だったのだ。


無常観、因果律をよくかみしめて、何よりもまず大事な母に与える努力を最優先していれば、母は死なないで済んだはずだ。


まず仏様は、私の、積極的に母を愛することをしなかった罪を厳しく断罪された。
その結果、母は亡くなった。


でも罰したままで放って置く事は決してなさらないのが仏様だ。


時間という何よりの薬のおかげで、父母の側も「老いの苦しみ」という絶え難い苦しみから開放された事を知る事が出来た。


何より、私の前に現れる二人の顔がいつも笑顔なのがそれを物語る。



一周忌のために用意した二人並んだ写真の中で、母はいつもどおり笑っていて、父は心配そうにこちらを見ている。


生きていた頃の二人そのままだ。


心配性の父は、いつも家族の心配ばかりしていた。


でも今は、私の前で父もいつでも笑っている。


私自身も楽にしてもらった。


一応主婦(^^;;の私にとって、人が少なくなると言う事がこんなにも仕事量が減るもの、すなわち体力的にも精神的にも楽になって、何より大好きなお昼寝が何度でも出来ると言う事実は、想像をはるかに超えていた。( ^-^)


結局二人が、私を楽にしてくれるために早く亡くなって行ってくれたのかもしれなかった。
「こんな身体になって、あたしゃもう長生きなんかしたくないよ。あんたに長い事迷惑かけるのも可哀想だから、さっさと死んでくからね。」


仏様を身近に感じるようになってからというもの、すぐには解らなかった仏様の本当の慈悲を、じっくり時間をかけてゆっくり納得出来たという経験を何度もした。


その時はしまった!失敗した!と思って落ち込んだ事、仏様に頼んでおいたのに仏様って頼りにならないわと思った事が、後になって考えると、実は知らないうちに良い結果を生んでいたという事実だ。


仏様の前では、決して嘘をつけない。
すべてを見ていらっしゃって、厳しい顔もなさるが、最後の最後にはきっと赦して下さる。
何よりこんなにいい加減な仏弟子に対しても、仏様は救いの手をさしのべて下さるのだから・・・。


その本当の優しさがわかるのは、だいぶ時間が経ってからだ。



そして後になってからじっくり考えてみると、試練と思われる事どもは、時に応じて自分にとって必要欠くべからざる尊い教えであったのだと心の底から納得する。


人生の辛さはすべて、仏様が下さった試練だと思えるようになると、そして最初はわからなかったその本当の意味をわかるようになると人生が違って見えるような気がする。



以来、母も私もずっと年賀状を送り続けたS先生が、母と何日も違わずに亡くなられていた事がわかった。


ちゃんと私が手を動かして、自分から人様に与えているかどうか、たくさんの目に見つめられている気がする。


母の死 仏教 母
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ちゃら

[私も同じだわ]
九子さんの日記を読んでいると、自分の事のように思える。
私も母に甘えてもらい助けてもらう日々である。
去年、亡くなるかもという時でも亡くなるなんて事は考えられなかった。不思議とそういう気が起きなかった。
おかげで元気になった母だが、2月の終わりに戻った時は足がふら付いて玄関の20cmの段差を上がるのに大変だったのだが、気づけば現在は、何もかも元気な時のように動いている。
朝は朝食の支度をし、洗濯物も干してある。最初は父に指図していたが最近では全部やっている。
お昼のしたくも気づけば終わっている。
私が出かける日はしっかり家を守って、すべてやってくれている。
楽な生活をしているのは私だ。

だから私も母が亡くなる事は想像できない。また、去年死の淵まで行ったから長生きするだろうと思っている。
それって間違っているよね。
何とか私が母を助けなければいけないのに、私が助けられている。
本当に不思議な親子の縁だと思う。
出来の悪い子にはしっかり物の母がつくんだわ。
いつも私はそう思う。

それでも、母には感謝の心を教わり、そして人間は必要とされるから生きているんだとも思った。必要がその人を元気にさせるんだと思った。
母のおかげで父も元気になった。やはりうちの太陽は母なのだなと今更ながらに思います。

九子さんには本当に悲しい出来事で、時が経つほどに辛いのではないかと思います。1つ1つ思い出して故人の功績を日記に書いてさしあげたら、それも供養だと思います。
by ちゃら (2007-08-27 15:44) 

九子

[ちゃらさん、いつもながら温かいお言葉有り難うございます。m(_ _)m]
ちゃらさん、コメント一言一言かみしめながら読ませて頂きました。感謝です。

ちゃらさんのお母様も昭和一ケタ生まれでいらっしゃるかしら?
昭和一ケタは本当に強いです。

食道癌の手術をする前の母は、本当に我が家の太陽でした。
食道癌は抗がん剤も放射線もしないで手術だけで治ってしまったのだけれど、なぜかめまいを訴えるようになって、母本来の輝きは失われてしまいました。
それでもたまには畑に出たり、病院もちゃんと一人で行っていたのだけれど、おととしの骨折がいけなかったと思います。

退院してもそろそろうちの中を歩くだけで、好きな畑仕事も、外へ一人で出かけることも出来なくなって、生きる意欲を失ってしまったのかもしれません。

「人間は病気では死なない。寿命で死ぬ。」と、漢方の有名な先生がおっしゃいましたが、その通りだと思います。

お母様は三途の川を渡りかけて戻っていらっしゃったのだから、絶対にまだまだ寿命がおありなのだと思う。

お父様もちゃらさんたちも、みんなが元気でいるのだから、自分もまだ死ねないと思っていらっしゃると思います。

母の場合は、結局のところ、隣のベッドで寝ていた父が4月に亡くなっちゃったのが最後の生きる望みが湧かなくなっちゃった原因みたいです。お医者さんにもそう言われました。

ちゃらさんもまたお母様が元気になられたのだから、いつもどおりに甘えていていいんじゃないの?

それがお母様の生きがいだったりなさるでしょうし・・。

この日記は、「母を亡くす」とだぶる部分がたくさんあるのだけれど、新盆を迎えて、私がどんなに楽させてもらってるかを中心に書きました。(^^;;

私の場合両親の介護と言っても、せいぜい1年やそこらでした。もともと根性無しなので、長くなったらどんなにひどいことを言ったりしたりしていたかと思うと、父母は早く亡くなって賢明だったと思います。(^^;;

時が経つほど辛いという事は無いけれど、親の有難みは日を増して感じるようになるみたいです。
by 九子 (2007-08-27 21:07) 

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