品格の話・・・続き [<坐禅、仏教、お寺の話>]
お約束をしておきながらすっかり遅くなりましたが「品格の話」の続きです。m(_ _)m
思えば品格と言う言葉、小さい頃から九子の身近に転がっていた。
小さい頃、父からも祖父母からも良く言われたのが「お品な悪いなあ。お品な良くしなさい。」だった。
要するに「品が悪い。品良くしなさい。」という事だけれど、今思うと単にお行儀が悪いからお行儀よくしなさいよと言う躾の言葉だったように思う。
M氏も同じ事を言われた覚えがあるそうだ。長野辺りの方言なんだろうか。
父が亡くなって我が家にこの言葉を使う人間が居なくなってしまった今、なんだか無性に懐かしい。
単純に「お」がついてるからという訳でもあるまいが、結構雑(ざつ)と言われるこの辺りの言葉のなかでは雅(みやび)な香りがする気がして好きだ。
九子が大本山活禅寺(←ここ)で坐禅(座禅)を始めてから、実は23年が経つ。
う~ん、無駄に年を重ねたものだ。(^^;;
同期に入門した人々は、皆墨染めの衣を身につけ「居士」やら「大姉」などの位を得て、修行を積んだ証である「和尚」への道をつき進んでいる。
それにひきかえ・・・。(^^;;(^^;;
九子が熱心にお寺に通っていた昭和60年代は、無形大師(当時は無形老師)もまだ90才手前でかくしゃくとしておられ、毎朝のように皆の前に出て来られて提唱と呼ばれる御説法をして下さった。
御提唱はいつでも、人間と言うものはいかに偉大な力を持つものであるか、そして人間が強い願いを持って努力すれば、そしてその願いが正しいものであれば、すべての願いは叶うものであるという力強い言葉で結ばれるのが常だった。
「おどおどびくびくして生きて、何の生きる価値があるか!坐禅(座禅)の呼吸によって堂々とした人生を行き抜こう!」と言う言葉は、まさに当時人の顔色ばかりをうかがっておどおどびくびく生きていた九子には天啓の如く響いた。
響いただけではない。無形老師のおっしゃる通り、わからないながらも坐禅(座禅)の深い呼吸を続けていくうち、いつのまにか不安もあせりも妬みもすべてが消え去って、何とも言えない幸せな気持ちになる事が出来たのだ。
坐禅(座禅)について話し出すといくら中身の伴わない九子であっても(^^;;ある程度の長さになってしまうので興味の有る方はこちらをゆっくり見て頂く事として、今日の主題の品格に話を戻そうと思う。
そんな訳で無形老師の提唱はいつでも、「人間と言うものは偉大なものなのだ。仏様と同じ無限の力を持っている。人間に出来ないものなど無い。出来ないのは、やらないからだ!」と言う、こう言ってはなんだが超ポジティブシンキングpositive thinking(^^;;なものだった。
あれほど悩まされた長年の劣等感やら不安感やらがわずか数十分の坐禅(座禅)によってあっさりと消えて、幸福感が身体中にみなぎるのを目の当たりにした九子は、自分にもそんな力が宿っているのだと信じ込んだ。
(それがそもそもの間違いだった・・・・・・・・。
うんっ?いやいや(^^;; )
坐禅(座禅)を始めてからの約10年間は、九子が人生の中で最初で最後頑張ったと言える10年間だった。
朝5時に起きて片道20分ばかりだが坂の多い道を徒歩で活禅寺を目指す。
水行(つまり水をかぶる)、読経(お経を読む)、坐禅(座禅)というメニューをこなし、7時過ぎに家に戻る。
これをほぼ毎日続けた。
こんな九子を偉い!と言って下さるだろうか。
本当にエラかったのはその間五人の子供達の面倒を見る出来過ぎ母であった。(^^;;
活禅寺に通い始めて最初の4、5年間は、一度もウツに悩まされなかった。これは16、7才の頃から毎年少なくても三ヶ月以上続くウツに悩まされていた九子にとって画期的な事だった。
「私は坐禅(座禅)でノイローゼに勝った!」
自分でも自分の状態を皆が言うところのノイローゼ=神経症だと信じていたし、当時うつ病などという病名を知っている人を探すのも難しい時代だった。
とにかく三日坊主で有名な九子がこれだけ長い間坐禅(座禅)を続けられたのは、ただただ結果が伴ったからという一言に尽きる。
坐禅(座禅)をした日としなかった日では、一日の充実感がまるで違うのだ。
その上あれほど苦しんだ不安も劣等感も嘘のように消えていた。
☆九子が坐禅を始めてから最初の5年間ほど、ウツ状態が来なかったのは紛れも無い事実です。
ただしその後わかる事になるのですが、坐禅はうつ病には効きません。くれぐれもお間違いなく。
うつ病と診断されていない方で不安や劣等感でお悩みの方、うつ病の方でもうつ状態が治まって普通の生活を送られている方は是非お試し下さい。
えっ?品格の話?あっ、もうすぐもうすぐ。(^^;;
とにかく、無形老師の御提唱のテープを聞きながら、あるいは今となれば何と贅沢な老師の肉声による生の御提唱を聞きながら坐禅(座禅)を組むという至極の一時を毎朝送っていた九子であった。
老師の数ある御提唱の中で、あれっ?と思うものがあった。
実はその御提唱を一字一句間違いなくお伝えするためにお寺の機関誌をあちこち探していたのだが、何しろ膨大な御提唱の数なので見つけられない。
とにかく確かに無形老師は「自分の分際」とか、「分をわきまえて」とか、「分相応」とか、「身の程を知る」とかいう意味の言葉を何度も何度も使われた。
ずっとずっと声高に「人間の力は偉大なものだから絶対に出来ない事は無い!」「仏の赤子として人間は皆平等。」と言い続けられた無形老師の言葉として、なんだか矛盾していない?「分相応」っていう制限があるの?人によって出来る事には限界があるの?
九子はなんだか釈然としない思いを抱えながらお寺を後にした。
その後機関誌を読み進めるうちに、無形老師は結構いろいろな御提唱の中でこういう意味の事を言われていた事がわかった。
長い間くすぶり続けた疑問は、つい最近氷解した。
それは昭和54年の10月の無形老師の言葉である。
学問があろうが、なかろうが、住む家も、その日の食物もない人であろうが、位、人臣を極めた大統領、大臣と呼ばれる人であろうが、そんなことは、ただ役者が、舞台へ立った時の姿に過ぎんものであって、みんな人間である。その一役、一役の姿である。(中略)人間という一元に帰る時みんな平等である。
(略)
役、役によって、その人の使命によって、使命に生きるのであって、位に上下も無ければ、人間に上下も無いのである。 ただその自分に生かされた役割を、堂々と生き抜く。不満を持ったり、或は軽蔑をしたりする間違いを起こしてはならない。
その為には、自分という者の尊さをはっきりと知っておかなければそうした不満が起こり、そうした人の前に出た時に、偉いと呼ばれる人の前に出た時に、手が震えたり何か息が弾んできたりして、非常に歪(いびつ)な人生が起こるのである。
話し言葉なので少々わかり難いところもあるが、この一文を読んであの時老師がおっしゃった「身の程を知る」という意味がわかったような気がした。
そして思った。品格とは、身の程を知る事ではないだろうか。
本来仏様の赤子として平等に生まれたはずの私たちは、社会と言う枠組みの中での役割を演じている。そして確かに、その役割には楽なものも苦しいものも、うらやましがられるものも疎まれるものも、豊かなものも貧しいものもあるだろう。
自分に与えられた役割がどんな物であれ、それを堂々として演じ抜く。
自分の役割に不満を持ったり、他人の役割をうらやんだり、逆に軽蔑したりしてはならない。
今、与えられた役割の中で、最善を尽くす。
人間と言う尊い存在に生まれた幸せに感謝し、自分の命も他人の命も同じくかけがえの無い命として尊重し、お互いの「役割」ではなく、「人としての存り方」を基準にして礼節を保つ。
本来平等なはずの人間社会の中で、与えられた役割によって見かけ上の上下関係が出来る。
社会の中でそれをくつがえす事はなかなか難しい。
(もしかしたらお釈迦様は、インドのカースト制の最下層不可触賤民(アンタッチャブル)に向かってこれを説いていらっしゃったのかもしれない。)
だから現状のままで最善を尽くす。
人をうらやまず、自分を卑しめず、淡々として、堂々として、するべき事をきっちりとして、満足して、感謝して一日を過ごす。
そして相手が誰であっても、人として、人間に生まれついた幸運な者同士としての礼を尽くす。
それを毎日続けていくと、その人の生き方がきらりと輝く。
身分が高かろうが低かろうが、金持ちだろうが貧乏だろうが、強かろうが弱かろうが、人間として輝いている人はあなたの回りに必ず居る。
それがその人の品格というものではないだろうか。
偉大な力を持って生まれてきた人間の端くれであっても、みんながみんな強い意志を持って不可能な事を可能に出来る訳ではない。
肉体が弱い人も居る。意志が弱い人も居る。両方が弱い九子みたいな困った奴も居る。(^^;;
仏様はそんな事も先刻ちゃんと御存じで、「分相応」と言う言葉を使っては、弱いなら弱いなりの、強いなら強いなりの努力というのをちゃんと評価して下さるのではないか。
怠け者のぐうたら人間九子みたいなもんでも、いったん弟子になった以上、困った顔をなさりながらも目をつぶってじっと待っていて下さる。受け入れて下さる。赦していて下さる。
その仏さまのお慈悲にすがって、すっかりあぐらをかいているのがこの九子なのである。(^^;;
ジュエリーのネットショッピング中毒に陥った身で、品格の話など書くな!と叱られそうだが、なんと厚顔無知な九子は、次回、怖れ多くも坐禅(座禅)の座り方について書いてみようかと思っている。
坐禅(座禅)に興味をお持ちの方、ぜひ読んでね。そしてくれぐれも、鵜呑みにしないでね。(^^;;
[身の程ってのは・・・]
わかりませんね。私はそれほど悟りきっていませんので。いつも他人をうらやんでばかりいます。どうも私にはそんな生き方しかできないようです。
ものすごくありがたいお話ですが、どうやらその老師の考え方の中の"品格"は、私には無理なようです。
と言いつつも、以前私が書いた「自分は自分であればいい」という考え方が、実は今回の老師の考え方に近いのかもしれないとも感じました。非常に恐れ多い話で九子さんに怒られそうですが。
もしかしたら、私はアプローチの仕方が違うだけで、目指しているところは九子さんや老師と同じなのかもしれません。
私自身、ブログで書いたのですが、今の競輪のテレビ・コマーシャルのテーマは、「勝利とはなんだ」です。勝利を目指して戦う競輪のキャッチ・フレーズが、「勝利とはなんだ」。矛盾しているようで、競輪という非常に人間くさい競技の本質をついた、見事な一言だと思いますし、競輪が表す人生というものを考えさせてくれる言葉でもあります。
人それぞれに人生があり、そのどれもが大切な命です。それぞれにそれぞれの勝利の「ゴール」があり、それに向かってみんな必死に走り続けているのです。
9人の欲望がぶつかる、まさに人生の縮図ともいえる競輪という競技に私が魅せられて、すでに10年以上になりますが、改めて競輪の奥深さを知らされたCMでした。
またもや参考までに・・・
<a href="http://blogs.yahoo.co.jp/zolotvolkov/31254154.html">http://blogs.yahoo.co.jp/zolotvolkov/31254154.html</a>
九子さんに座禅があったように、私には柔道がありました。私は柔道というもの、ひとつのスポーツではなく、哲学だと捉えています。スポーツなら、柔術(柔の術)でいいはずです。それがなぜ"柔道"なのか、術ではなく道なのか、そこに柔道の創始者、嘉納治五郎氏がこれを哲学として作り上げたという事実が現れているように思えてなりません。
柔道とは、まさに道です。この道を、私ははるかかなたにあるはずのゴールに向かって歩き続けます。今は何も見えません。時々何かが見えるような気がします。でも近づいてみると、それは蜃気楼か幻かで、結局求めていた何者でもなかったことに気づき、やはりまた歩き続けます。そして結局は、ゴールにたどり着けないまま死んでいく。人生って、そんなものなのかなと思っています。
「人生旅的途上」とは河島英五氏の歌ですが、私もまったくその通りの実感を抱きつつ、妻と、ひとつの小さな命に伴われながら、今日も明日もあさっても、この命がいつか消え去るそのときまで、悩みながら、苦しみながら、もがきながら、あがきながら、這い蹲りながら、人をうらやみながら、後悔を繰り返しながら、罵声に耐えながら、屈辱をしのびながら、それでも幸せを感じつつ、また幸せを探しつつ、歯を食いしばって歩き続けようと思っております。
余談ですが、『木枯し紋次郎』もまた、そんな話だったと、私は捉えています。
by 轟 拳一狼 (2008-01-27 23:06)
[拳一狼さん!( ^-^)]
あっ、品格の話は私がただ老師の提唱を勝手に解釈しただけなんでどうか誤解のありませんように・・。
>もしかしたら、私はアプローチの仕方が違うだけで、目指しているところは九子さんや老師と同じなのかもしれません。
私もそう思います。
拳一狼さんはどちらかと言うと人間を性悪説で捉えていらっしゃるような気がするのですが、違うかな?
仏教と言うのは性善説ですから・・。
「自分は自分であればいい」というのが、その通り、「坐禅をして一体何になるのか。自分自身になるのだ。」という言葉に共通すると思います。
拳一狼さんはこういったら何ですが、血と汗にまみれる汚れ役とかに理想像というか、美学を見出していらっしゃるのでしょうか。極めて男性的とも言えると思いますが、女性としてはそういうものはなるべく避けて通りたい本能があるので、そういう違いなのかもしれません。
>妻と、ひとつの小さな命に伴われながら、今日も明日もあさっても、この命がいつか消え去るそのときまで、悩みながら、苦しみながら、もがきながら、あがきながら、這い蹲りながら、人をうらやみながら、後悔を繰り返しながら、罵声に耐えながら、屈辱をしのびながら、それでも幸せを感じつつ、また幸せを探しつつ、歯を食いしばって歩き続けようと思っております。
とても素敵な生き方ですね。( ^-^)
by 九子 (2008-01-29 00:02)
[身のほどって・・その2]
「継続は力なり」
禅寺に10年間も通ったという九子さんは立派です。
「子に優る 宝はなし」
毎朝、寺に行く九子さんを見守り孫の世話をしていた
母親の愛。ノイローゼの娘?を案じながら、すがる思いで
九子さんを見守っていたのでしょうね~^^
それから
「品格とは身の程を知ること」
あらら~(^^; です。
私は、分不相応の身の程以上の夢を抱いてます。
身のほど知らず!と言われますよ 笑
「品」なんですが
私が思う『品』とは、どんな相手でもきちんと礼がつくせる人だと思います。物が豊かでも 心が豊かでないと
「品」がでませんものね~^^ 心に『品』を持ちたいです
by eiko (2008-02-03 08:37)
[eikoさん!( ^-^)]
お返事遅れてすみません。
>ノイローゼの娘?を案じながら、すがる思いで
九子さんを見守っていたのでしょうね~^^
あっ、母のこと、そんな風に感じた事ありませんでしたけど、そういえばそうだったのかもしれませんね。
母はあんまり何でも深刻に考える人じゃなかったので、私が暗い顔してても「いつもの事」くらいな風に見えましたが、本当は心配だったのかもね。
>私は、分不相応の身の程以上の夢を抱いてます。
身のほど知らず!と言われますよ 笑
えっ?どんな夢?eikoさんのHP見ればわかる?
分不相応な夢をもっているなんて、今時すごい人ですね、eikoさんって!( ^-^)
>物が豊かでも 心が豊かでないと「品」がでませんものね~^^ 心に『品』を持ちたいです
同感です。でも、なかなか品を持ち続けるって難しいわよねえ。
お互い、努力しましょうねえ。( ^-^)
by 九子 (2008-02-05 23:29)
[夢は世界制覇!]
あはは~かなりの身のほど知らずですよ(^^;
7サミットに挑戦中なんですよ~
でもねー課題が多くて。
でも、頑張るよ。十年後までには何とか
達成したいのですが....笑
by eiko (2008-02-06 13:07)
[eikoさん!( ^-^)]
7サミット・・・。最初、狙ってるのは女性首相かと思ってしまいましたが。(^^;;
七つの頂上ですね、世界の。
え~と、エベレストでしょ、モンブランにキリマンジャロにマッキンレー・・くらいしかわかりませんが、残りはどこ?
それにしても確かに壮大な計画ですね。( ^-^)
eikoさんなら、全部は無理でも四つ五つは行けるでしょう!(予言)
長生きして頑張らなくちゃね。( ^-^)
by 九子 (2008-02-07 10:30)
[性悪説と性善説]
私は性悪説ではありません。性善説でもありません。
また汚れ役に美学や理想像も見出しておりません。
人間が人間であること、私が私であること、命がこの世に生まれ出でてきたこと、その意味をただ探し続けているだけです。
私は"善悪"の判断は極力控えるようにしております。多くの人が"善"と言っているものにも、必ず不条理で醜くて、他人に苦しみをもたらすものが含まれている。多くの人が"悪"と呼ぶものの中にも、必ずそれなりの理が備わっている。子供の頃からそう思ってきました。これからもその考えは変わらないと思います。
「いいは悪い、悪いはいい!」というのは『マクベス』の中の一節ですが、まさにその通りだと思います。
"美学"というのも同じです。学問としての"美学"というのはものすごく難しいものらしいですが、ただ"美しい"という概念だけに絞って見ますと、"美しい"という概念の中には必ず残酷な何かが含まれているものですし、"醜い"と呼ばれるものの中にも、必ず美がある。それを私は見出していきたいです。
「美しい国造り内閣」と自称した政権が、醜聞まみれの中で崩壊していったさまを、われわれは目撃したところです。
まず常識というものを破壊したいですね。常識というものを破壊しさって、すべてをニュートラルな状態で見たとき、自分にとっての真実が見えてくるのではないかと、いつも心がけております。
それでもなかなかうまくいかないものですけどね。だから私は苦しみながら、生きていく羽目になるのだと思います。
いわゆる"汚れ役"を避けて通りたいというのは、女性の本能というより、人間の本能でしょうね。だから社会の最下層で生きる究極の"汚れ役"たる木枯し紋次郎も、行く先々でいわれのない差別を受け続けているのでしょう。
私だって、自分が見て不快に感じるものは避けて通りたいですよ。でも人生はそういう不快なもののほうが圧倒的に多いものじゃないですか。それから目をそらしたり逃げたりする生きかたもあるでしょうが、私は逃げたくない。人間という存在を、またその心を、善悪の判断なく、見つめ続けていたい。その違いだと思います。
私は人間というものの力を、信じております。信じたいです。性善説も性悪説も超えたところに、人間の本当の力はあると思っております。命の力は、人知を超えたところにある。それに迫ることは、畏れ多いことでもあるし、不可能かもしれない。それでも私はそれに向かって、旅を続けなければならない。私はそんな生き方しかできないのです。
生まれ育ちの違いはあると思います。何百年も続く旧家の一人娘の九子さんと、被差別部落の血を引く貧乏役人の一人息子の私とでは、環境的にもDNA的にも視点が違ってくるのだと思います。
10人いれば10通りの見方が成り立つと思います。そのすべての視点を、私は尊重したいと思います。だから九子さんをはじめ、いろいろな視点、考え方と触れ合うことで、自らの真実を探すよすがとしていきたいと思います。その中で私の考えは常に揺れ動いていくことでしょう。でもそんな不安定で矛盾だらけの姿こそが、人間の本当の姿であり、命の本当の力の源泉となると信じております。
だから一生修行ですね。
by 轟 拳一狼 (2008-03-10 09:32)
[う~ん、難しい!]
拳一狼さんがおっしゃることは自分なりに判る気がしています。
もちろん、そっくりそのままわかると言うことではなくて、あくまで自分の理解力の範囲内で・・。
拳一狼さんが求めたい生き方は、確かに楽な生き方ではないような気がします。正直、どうしてそこまで突き詰めたいのかなあと思ってしまう部分もありますが、確かにあなたがおっしゃるように、私たちはすべて背負っているものが違うので、自分が持っているものに応じた考え方をするのかもしれません。
だからこそ、他人の考え方を尊重したいとおっしゃる拳一狼さんに私も同感です。
>だから一生修行ですね。
本当ですね。私は病気を口実に、半分一抜けたしちゃってますが・・。(^^;;
by 九子 (2008-03-10 21:32)
品格とは身の程を知ることではないか。
この言葉、深い言葉だと感じ入りました。
でも自分自身になりきることによってのみ
身の程もわかり、身の丈もわかろうというもの。
自分になりきるということが
現代日本においては
龍馬の時代よりも
さらに難しく見えるのは
何故なのでしょうね。。。
座禅の師、茶道の師に
深い息をすること
ゆっくり息をすることを教わりましたが
こうしてコンピュータに向かいながら思うのは
わたしたち日本人の息は
情報に追われてもしかすると
浅くなっているのではないかなということです。
座禅のような文化が何故生まれたのか。
西洋人とお茶室に一緒にいたり
あるいは舞台を眺めて思うことは
日本人より西洋人の息のほうが
深いということ。そして長いですね。
息の浅さは社会のしめつけに関連があると
禅の宗匠はおっしゃいます。
私も同感です。
社会の中で個人がゆったり息をする場がないこと。
ここに日本の根源的な問題があるような気がしています。
でもだからこそ
禅の文化が伝えられたのかもしれません。
宝ですね。
by mu-ran (2010-09-01 20:54)
mu-ranさん、こんばんわ。
いつもお優しいコメントを下さって有難うございます。m(_ _)m
>わたしたち日本人の息は
情報に追われてもしかすると
浅くなっているのではないかなということです。
mu-ranさんもそう思われますか?
私もそんな感じがします。
豊かになったはずの世の中で、信じられないような事件が毎日報道されますが、これは確かに呼吸が浅い人々の行動のような気がします。
呼吸が深かったらもっと自分の気持ちに余裕がでますからこんなに思い詰めた行動には走るはずが無いと思います。
>日本人より西洋人の息のほうが
深いということ。そして長いですね。
ああ、そうなんですね。やっぱり。
ヨーロッパの人が気持ちが豊かなのはやっぱり国が成熟しているからなのかなと思っていたのですが、呼吸の長さも違うんですね。
>社会の中で個人がゆったり息をする場がないこと。
ここに日本の根源的な問題があるような気がしています。
なるほど!・・と言いながら・・(^^;;
社会の中で個人がゆったり息をする場とおっしゃるのは、例えば声楽を習って声を出すとか、いい音楽を聞く、いい絵を見るとか、そうしたゆったりした時間を持つとか言う意味でしょうか。
とにかくバタバタしてますよね、今の日本人は。
と言うか、おっしゃるように日本人はもともとバタバタしているから禅が伝わってそこそこ栄えたのでしょうか?
by 九子 (2010-09-01 22:32)