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デュオ [<九子の読書ドラマ映画音楽日記>]


デュオと言って二人組みのボーカルグループを思い浮かべる人が、今時どのくらい居るんだろうか。



デュオduoはデュエットduetに同じ。今で言えばケミストリーやポルノグラフィティー、コブクロ、ドリカム、それからロックのB’zなんかも広い意味ではそうなんだろう。



ポルノグラフィティやドリカムはもともとは二人ではなかった。それがそれぞれの事情により、作詞作曲して歌も歌う一人と、声の良いあるいは楽器がうまいもう一人が残ったという恰好だと思う。



九子が最初にデュオを認識したのは、なんと言ってもサイモン&ガーファンクルだった。こちらもご多聞に漏れず、作詞作曲のポール・サイモンの歌をアート・ガーファンクルの美声が盛り上げるというスタイルだった。



二人というのは結局、グループコーラスの究極の形だ。

要らないもの・・と言うと大変失礼な話だけれど、いろいろなものをこそげ取った必要最低限が二人なのだろう。





ポルノグラフィティがサウタージをひっさげてデビューした時、その変てこなバンドの名前とともに、サザンオールスターズのデビューを髣髴とさせる早口の歌詞が印象的だった。

ちょっと聞いたのでは何と言っているのかよくわからないその歌詞が大変技巧的なものだと分かった時、九子は友達の何人かに歌詞を写したメールをばらまき、顰蹙(ひんしゅく)を買った。

考えてみるとあの時は軽躁状態だったのかもしれない。(^^;;





歌を作ると言うのは、凄い才能であると思う。



絵を描く人、彫刻を造る人、書を書く人、デザインをする人、小説を書く人。

芸術家には実にさまざまな分野があるけれど、歌を作ると言うのは別格だと思う。



何より作った歌がマスメディアに取り上げられて、多くの人々のもとに届く事。その歌を、人々が生活の中でCDやらケータイやらに取り込んで、または口ずさみ、カラオケで歌うなどして共有する事。そして、その歌が流れていた時の記憶がその人の人生の思い出と連なって極めて鮮明であること。



ここまでの影響力は、たぶん他の芸術には有り得ないかもしれない。



そう考えると中島みゆきさんやユーミンや宇多田ヒカル、その他の自作自演のミュージシャンは本当になんという卓越した才能の持ち主なんだろうかと改めて思う。



作詞作曲をする人間がそこまでの歌唱力を持ち合わせなかった場合に、歌の上手なもう一人と組むというスタイルが生まれてくるのは当然かもしれない。



ケミストリーの場合は自然発生的に出来たデュオではなく、最初から歌の上手な二人を結びつけた訳だから事情は少々異なるが、その他は大体こんな風だろう。



作詞と作曲を二人がそれぞれに担う場合もあるだろうし、歌のうまい一人を曲の中でどの位の割合ソロにして使うかとかいろいろな役割分担は違うにせよ、作詞、作曲、歌というどうしてもはずせない部分を担う二人が最終的に残る訳だ。



作詞と作曲と歌の中で、どの要素が一番大事なのか。

もっと言えば、歌を作る人間と、それを歌う人間と、どちらが偉いのか。



単純に考えると、もちろん作詞作曲をした人の方が偉そうだ。



デュオの場合、要するにギャラはどんな配分で分けられるのかよくわからないが、作者には作った歌に対する印税が入ってくるから、テレビの出演料なんかは半分半分でいいのだろう。



今人気のコブクロを例に取ると、小渕さんの作詞は何げない日常の中から凡人が見落としていたセリフや行為を上手に拾ってきてドラマに仕立てているし、そこに美しい旋律がついて独特の世界が出来上がるのだけれど、もしも黒田さんの伸びやかな声が途中から入ってこなかったとしたら少し退屈なものになっていたかもしれないと思う時、やっぱり美しい声の魅力は絶対に欠かせないと思う。



我が青春のサイモン&ガーファンクルは、マキコさんによるとたった7年間ほどしか活動しなかったのだそうだが、九子の中ではその存在は本当に大きい。



ただ、今にして思うと、7年間で解散してしまった理由の一端がわかるような歌詞がある。



"Homeward bound"「早く家に帰りたい」と題された曲の中の一節だ。



もともと「早く帰りたい」というのは、良くこんな歌詞をしゃーしゃーと歌えるよと思うくらい聴衆を軽んじた歌なのだ。

「こんな田舎町で歌なんか歌ってないで早く君が待っている家に帰りたいもんだ。」という歌なのだから・・。



まあその辺りは、聴衆はファンとして一歩譲るのだろう。



聞き捨てならないのは"a poet and one man band"という歌詞だ。





「詩人」は、わかる。ポール・サイモン自身のことだ。でもアート・ガーファンクルは何なのだ?卑しくもsingerのはずなのに、ただの一人の男なのか?



one manという言葉に、別の芸術家とか言う意味があるのかどうかは知らない。だけど、少なくとも自分をa poetと呼ぶならば、デュオの相方は a singer と呼ぶべきなんじゃないだろうか。 当時は全く気にも留めなかった一言が、何十年も経ってから聞きなおしてみるとひどくひっかかる。



ポールサイモンは誇り高い詩人だった。自分を作曲家と呼ぶことは無かった。作詞家でもなく、いつも詩人と呼んだ。



その誇り高さが、いつしかアート・ガーファンクルを傷つけ、苦しめていったのかもしれない。



二人組を続けていく事はなかなか難しい事に違いない。

大抵の場合どちらかがどちらかの才能に惚れ込み、社会に出て普通に働くという選択肢を捨て去って、一蓮托生の険しい道を選び取ったに違いない。

自分から惚れ込んだのならまだましだけれど、頼み込まれて普通の生活を捨てた場合はなおさら抜き差しならない。



歌を作る才能は確かに素晴らしい。並みの才能ではない。

だけれども、そうした才能を持つ全ての者が輝かしい場で活躍できる訳ではない。



ヒットメーカーたちの陰には、その何倍もの埋もれていった才能たちが隠れているだろう事を思う時、彼らのなし得なかった夢の分まで、そしてもしも歌手にならなかったら歩んでいたかもしれない普通の道の普通の平凡な幸せの分まで、彼らは恵まれた才能と恵まれた地位を生かしながら歌を歌い続けていくべきだと思う。



今活躍中のデュオたちの歌を愛する者の一人として、末永く彼らに歌を歌っていって欲しい。

そのために、言うまでも無い事だけれど、song-writer もsingerも、それぞれの分をわきまえて欲しいと切に願う。



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轟 拳一狼

[アーティストってのは・・・]
サイモンとガーファンクルは、私も好きです。妻も好きなので、誕生日にCDをプレゼントしたことがあります。そのときカーペンターズのベスト・アルバムも一緒に贈りました。こちらも彼女のお気に入りだったもので。

カーペンターズもデュオですね。もともとはもっと大所帯だったのが、最終的に兄妹二人が残ってメジャー・デビューして、ブレイクして、こっちはサイモンとガーファンクルと違って最後まで一緒でしたね。
もっとも最後はカレンの死という悲惨な終わり方をしてしまいましたが。

どの分野が上か下かというのは基本的にないと思っているので、歌が芸術において別格とは思いませんが、芸能というのはお客さんがあってこそ成り立つのであって、確かに商業的にはかなり大きな規模であるということでは、歌は大きな力を持っているといえるでしょう。
まあそれもマスコミによってかなり作り上げられた部分も大きいので、一概には言えないと思いますが。

この話をしだすとまたまた長くなってしまいそうですので、元のデュオの話に戻ります。
実の兄妹であったカーペンターズは、それこそ別格として、やはりプロのアーティストとしてこの業界に足を踏み入れ、それなりにヒットを飛ばすほどの人間は、かなり自己主張の強い、わがままな人ばかりだと思います。一見仲がよいように見えて、実は裏では激しいバトルが繰り広げられていたりするものだと思います。それを無理して一緒に仕事をやり続けていくというのは、ファンはそれを望むでしょうけど、彼らを一人一人の表現者としてみたとき、あまりにも酷ではないかと思います。
先ほども申し上げましたように、この業界はお客さんあってのものです。だからファンの期待というのは無視できないとは思いますが、それ以上に、彼らは一人の人間であって、ファンのおもちゃでは決してないということだと思います。

でも結局はマスコミや世間に消費されていくおもちゃなんでしょうね、彼らは。そこに彼らの人間としての悲しみを見たいです。
ポール・サイモンは、そのことに早くから気がついていたのではないでしょうか。あくまで推測ですけど。

もう一度サイモンとガーファンクルを聴きなおしてみようかと思います。特に"Homeward bound"を詳しく聴いてみたいと思います。
by 轟 拳一狼 (2008-06-14 10:01) 

九子

[拳一狼さん!( ^-^)]
あらら?まだお若い拳一狼さんや奥様もサイモン&ガーファンクル世代でいらしたとは・・。

>ヒットを飛ばすほどの人間は、かなり自己主張の強い、わがままな人ばかりだと思います。一見仲がよいように見えて、実は裏では激しいバトルが繰り広げられていたりするものだと思います。それを無理して一緒に仕事をやり続けていくというのは、ファンはそれを望むでしょうけど、彼らを一人一人の表現者としてみたとき、あまりにも酷ではないかと思います。

拳一狼さんの考え方って、本当にいつも面白いですよね。
なるほど!といつも思います。

確かに仲が良くない場合の方が多いのかもしれません。
自分の芸術性にこだわりのある、つまりは自己主張が強ければ強いほど、うまくいう場合の方が少ないのかもしれませんね。

ただ、コブクロなんかは、学生時代から二人で一緒にやって来たわけだから、結構仲良しなんじゃないかなあとは思っちゃうのですが・・。

>でも結局はマスコミや世間に消費されていくおもちゃなんでしょうね、彼らは。そこに彼らの人間としての悲しみを見たいです。


ジレンマなんでしょうね。本当に歌いたい歌じゃなくて、売れる歌を作らなくちゃいけないという・・。

考えてみればHomeward boundなんかは、ファンにこびない彼の本当に歌いたい歌だったのかもしれませんね。
by 九子 (2008-06-15 18:57) 

映画「御巣鷹山」の

[映画「御巣鷹山」の渡辺文樹監督が国策不当逮捕]
123便 映画「御巣鷹山」の渡辺文樹監督が国策不当逮捕 自宅が公安の家宅捜索。いまだ宮城県警石巻警察署にぶち込まれたままだ。
しかも国選弁護人が未だ選定されていない。

二本松まで飛んで行き、関係者からお話を伺った。要旨としては以下の内容であった。典型的な国策逮捕である。

・金銭のことなので民事となるはず。刑事事件はおかしい。
・なんか警察がきて「逮捕する」ということで連れて行かれてしまった。
・5月14日から石巻警察署に入ってしまっている。国選弁護人の選定すらされていない。
・自宅に公安警察の家宅捜索が入った。そもそもつかまること自体がおかしいのに。
・上映つぶしの動きだと思う。
by 映画「御巣鷹山」の (2008-06-17 01:31) 

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