秋葉原大量殺傷事件 [<九子の万華鏡>]
秋葉原でまたもや通り魔による凶悪な無差別大量殺傷事件が起こった。
加藤智大容疑者は、あの神戸の酒鬼薔薇聖斗と同じ年なのだという。
若者による凶悪事件が報じられるたびに、親たちは皆、「なぜ?」を問う。
たとえ簡単に求められる解ではないことを重々知りつつも、なぜだろう、我が子は大丈夫だろうかと問い続けずには居られない。
加藤容疑者も、生まれた時はきっと皆に祝福されたに違いない。
同じように母の乳房を吸い、父の膝の上で甘えていたはずの赤ん坊が、二十数年の後、有能な人材として嘱望される者と、殺人鬼に成り果てる者とに分かれる。
誰もが我が子を殺人鬼にしようとして育てた親など居ないはずだ。
ならばなぜ、どこでどう間違ってしまったのか。
「日本のここがおかしい」の独言子さんが、加藤容疑者の場合いろいろ原因はあるだろうが、根本は母親が子供に良い成績を取ることを強要した事だろうとおっしゃっている。九子もまさにその通りではないかと思う。
聞くところによれば、加藤容疑者の母親は子供の作文や絵までも代わりに書いてやっていたそうである。
でも正直な話、「勉強しなさい!」と口やかましく言う事も、時には宿題を代わってやる事だって、そんなに珍しい話ではない気がする。
その娘は一人っ子で優等生だった。学校が終ると大好きな父母が待つ家に跳んで帰った。友達を作る術も知らず、友達が居ない事にも無頓着だった。「だって私はお勉強が出来るんだから・・。」
娘は、ただただ家が大好きだった。
父も母も娘を溺愛した。「あんたはお勉強さえやってればいいから・・。」と言われて育った娘は、小学校高学年になっても、コートを着るのにかかしのように突っ立って、母親がボタンをかけてくれるのをじっと待っていた。
そんな娘に家庭科の縫い物なんか出来る訳が無い。
パジャマもスカートも、みんな母が作ってくれたのをこっそり提出した。
高校まではどうやらその勢いで優等生を通す事が出来た。
そこまでがその娘の華やかなりし時代の最後だった。
大学に入り、一人暮らしを始めた途端、状況は一変した。
帰っても「おかえり。」と迎えてくれる母が居ない初めての生活。
大学では目の前の試験管やらフラスコやらに怖気づいた。
コートを着ることまで親掛りだった娘に、実験など一人で出来る訳が無い。
難しい事はすべて母に任せて逃げてきた罰が当たったと思った。
友達との会話、実習、今まで得意だったはずの勉強。どれを取っても自分が劣っている事だらけだった。
そして何より劣っていたのは、社会の中で生きていく知恵や技術の習得だった。
優等生として生きてきた人間のはじめての、そして大いなる挫折。
大学では、テストで良い点数を取る技術がなんとか通用する。
でもそれが過ぎて社会へ出たら、自分は社会の劣等生として一生生きていかなければならない。そしてその年月は、今まで生きて来た何倍も長いのだ。
他人がみな羨ましかったし、怖かった。
母を呪った。父を呪った。
「こんな育て方をしたあんたたちのせいだ!」
不安と劣等感と猜疑心の暗い暗いトンネルの中で、自分の人生を呪った日々。この日々が一生続くのであれば、生きていてなんの意味があるのだろう。
幸いにして娘に他害願望はなかったが、軽いながらもあった自殺願望を閉じ込めてくれたのは、いつも母が言ってくれた「大丈夫、大丈夫。ママがなんとかしてやるから・・。」という言葉だったかもしれない。
その言葉どおり、娘は生まれた家でずっと両親と暮らした。両親の敷いたレールの上を寸分違わずに走った。
「おまえは嫁にやるように育てた娘ではない。」と父親がいつか言ったことがあったが、もしもその家を離れたら、娘は生きていけなかったかもしれない。
レールを敷かれて育った人間は、そのレールの上から逸脱しないのが幸せなのだろうか。
娘が加藤容疑者にならずにすんだのは、母親が最後まで娘に手を差し伸べ続けてくれた事。決して娘を見捨てなかったこと。家族の愛情に囲まれていた事。
そして何より、坐禅という宝物に出会えたこと。
そう。娘は九子であった。
加藤容疑者の境遇に、九子はかつての自分の姿を見ていた。
母親が勉強を強いるのが問題と言っても、もちろん子供の未来に目を向けて、毎日忙しい中を努力して適切な学習を与えていらっしゃる聡明なお母様方が素晴らしいのは言うまでも無い。
元凶は、子供に生きる力をつけさせる努力をしないで、自分の虚栄心を満足させるために勉強だけを無理強いすることなのだ。
地元有数の進学校を出て、ストレートで東大に入学し、一流省庁だか一流企業だかへ入った優秀な息子が、なんと結婚式でお漏らしをしてしまったという話を聞いた。理由は「ママがトイレに行けって言ってくれなかったから・・。」という、これは笑えない実話である。
こういう息子に育ててしまった以上、母親は最後まで世話をやき続けなければならない。
人間は、特に九子のような狭量な人間は、自分自身がまず幸せでないと、周りのもろもろに関心が向かない。
はじめての坐禅を終えて活禅寺(←ここ)から帰ってくる道すがら、やけに周りの緑が美しく見えて、道端を歩いている蟻んこにまで「お早う!」と声をかけたくなったのを思い出す。
ついさっきまで、自分の悩みにばかり窮々としていて、周りに気を留める余裕などなかったのに・・。
加藤智大容疑者の卑劣な犯罪は決して赦されるべきはずのものではないが、彼が彼の現状に全く満足できず、毎日毎日劣等感や不安や、持って行き場の無い怒りに苛まれ、それらが蓄積して人生に失望し、自暴自棄になっていたのであれば、その積もり積もったエネルギーの大きさは想像に難くない。
もしかしたら九子のように、どこかで彼が坐禅に巡り合っていたならば、この事件はきっと防げたはずだったのに・・と心の底から残念に思う。
坐禅と言うと気持ちを落ち着かせるためにするもの・・と、まず理解されているようだ。
確かにそれも事実だが、それが全てではない。
二十数年間つかず離れず坐禅を続けてきた九子は、
「坐禅は自分が不幸せで不幸せでたまらないと思っている人間が、同じ環境に居ながら、自分が幸せで幸せでたまらなくなる魔法である。」と声を大にして言いたい。
正しい坐禅の呼吸が肺にきれいな酸素を大量に取り込み、その結果脳の血流量が増えて脳細胞が活性化する。
脳は活動的になり、頭は良く回り、自己肯定的になり、意欲的になる。
その結果誰もが等しく「自分は今幸せだ。」と感じることが出来るようになる。
つまり誰でもがどんな環境にあろうとも、即座に「化学的かつ物理的に」幸せになれるのだ。
びわこさんがおっしゃっているように、彼の怒りがなぜ自殺と言う形を取らず見ず知らずの他人に向かったのかも謎だ。もしかしたら母親が、高校で劣等生になった自分に代わって掌を返すように弟に関心を向け始めたからか?最愛の母に裏切られたからか?
それなら母親に刃を向ければよかった。その方が、事件を聞いて泣き崩れてしまった母親にとって、どんなにか気持ちが楽であったことだろう。
加藤容疑者が自分を「不細工」と表現していることも象徴的だ。
彼の顔は決して不細工ではない。それを勝手に不細工と思い込んで、不幸の種を自分で増やしている。
幸せと感じるのも自分、不幸と感じるのも自分。現実はひとつであるのに、受け取り方は実にさまざまだ。
とにかく、人間は幸せになると誰かを攻撃しようなんてつまらない事は思わなくなる。
不幸である限り、相手構わず、(自分をもその対象に含めて)攻撃的になるものだと思う。
そういう意味で言えば、加藤容疑者の家は不幸な家だった。
母親が息子の教育に異常に熱心だったのも、彼女自身が酒乱の夫に暴力を受けて幸せではなかったからだったという報道がある。
不幸はこうして次々と伝播する。
時には虐待を受けて育った子供が知らず知らずのうちに我が子を虐待してしまったり、次々と世代を超えて受け継がれる事だってある。
幸福も、実は伝播するものだと思う。
幸福な連想は笑いを誘い、周りの人にも幸せな気持ちを与える。
そして幸福な家庭で育った子供は、難なく幸福な家庭を築く事が出来るだろう。
オタクと言われ奇異の目を向けられ続けた秋葉原に集まる若者たちの中で、多くが今回怪我人の手当てや重傷者の蘇生術に貢献したと、現場に居合わせた医師の方が感謝しておられた。
これは悲惨な事件の中で唯一の明るい話題だろう。
そういう多くの健気な若者たちの中、重篤な怪我を負った人々を見てニヤニヤ笑ったり、もっとひどいのは加藤容疑者を神とまで崇める若者もいるようだ。
そこまで現代の若者は病んでいるのか?
そういう病んだ若者たちを、一体どこまで遡ったら普通の人間に育て直すことが出来るのか。
自分の生い立ちを考えるならば、坐禅さえあれば、今からでも彼らをある程度立ち直らせる事は可能なのではないかと思ってしまう。
彼らの不幸は、自分を幸せと思えないことから始まっている。
加藤容疑者は自分だけが世の中で一番不幸だと思っていたかもしれないが、彼よりも厳しい環境で笑って幸せに生きている人々だってたくさんいるはずだ。
とりあえず今がそこそこ幸せだと心底感じられるのであれば、人間は他人や自分を傷つけようなどとは決して思わないはずなのだ。
人間はまず、自分が幸せでなければ、他人を幸せにする事など出来ない。
今の現状を変える事はなかなか困難だろうが、たった数十分正しい姿勢で正しい呼吸で坐る事によって、今の環境に「幸せ」を感じる事が出来れば、誰もがもっと生き易くなるはずだ。
こんなにも素晴らしい伝統ある坐禅を日本人がすっかり忘れてしまっている事が、九子には歯痒くてたまらない。
☆もしも坐禅や九子の生い立ちに興味がおありなら、 こちらをご覧下さい。十子というのも九子のことです。(^^;;
秋葉原 通り魔 坐禅
[愛情不足は間違いなさそうだけど]
九子さーん文中リンクありがとうございます!
宿題一切を親がやってくれてた娘さんの話、
非常に興味深く読ませていただきました。
もー九子さんたら
こんなことまでバラしちゃって正直者~>▼<b
でもね、
九子さんは
もし座禅に出会わなくても
無差別殺人はしなかっただろうと
私は感じております。
上手く説明のできない直感ですが。
私もそう。
私は宿題もコートを着るのも自分でやってましたが
それで身に付いた自主性など
他の生徒達に比べればどうやら微々たるもので。
九子さんと違う所は
自分の力量だけで勝負してたから
誤魔化し様がなくて
優等生から劣等生に転げ落ちるのが早かった
ということだけでーす。
がんばったつもりだけど、
出来ないことは未だに出来ないまんま。
でも
私も無差別殺人はやらかさない。
人を殺す可能性はあるけど
(もしかしたら普通の人より強いかもだけど)
無差別にはきっとやらない。
なんだろう、何が違うんだろう。
親の愛を受け止めていた、という点なのかな
と
九子さんの記事を読んでていて思いました。
親の愛情の有無ではなく。
本人が「愛されている」と実感できたかどうか、ということ。
受け止める能力に生まれつき欠陥があるとしたら
親がどれほど愛情を注いでも徒労に終わりかねません。
今回の場合
親にも問題があったはあったけど
それ以上にやはり本人に問題がある
と
私は思っております。
受け止める器を持つ子供なら、
例え親から愛を与えられなかったとしても
隣人や先生や友達や恋人や他の人から注がれた時に
逃さず受け止めるのではないか、と。
受け止める器のない人は
例えせっかく座禅に出会ったとしても
難癖つけて結局成就しないんじゃないかしらん。
試しにやらせてみたいけど。
殺人犯として拘留されたらもう機会がないか。残念。
人様の記事のコメントで長くなっちゃってごめんなさい~
この手の話は尽きないのですがこの辺で失礼します…。
by びわこ (2008-06-21 01:08)
[びわこさん!( ^-^)]
おお、早速長文のコメントをどうもありがとう。m(_ _)m
びわこさんも、思い当たることはあるのよね。加藤容疑者が自分とものすごくかけ離れていないという感じはあるのよね。
それはやっぱりそうなんだと思います。
だけど何故、あそこまで!と言うのが謎ですよねえ。
>親の愛情の有無ではなく。
本人が「愛されている」と実感できたかどうか、ということ。
なるほど!
確かにいくら愛情注いでもざるに水状態じゃあ意味ないわけですよね。
愛されているという実感かあ。深いなあ。
もちろん本人の問題だけれど、それもやっぱり育っていく過程において自然に身についていくべきものですよね。
最初から無いって場合、つまり人格障害みたいな・・。そういう場合もあるから難しいよね。
いずれにしても陰惨な事件です。
メル友だった女の子のコメントがあったけど、あれ聞いてれば本当に普通の人だったみたいなのに・・。
積もり積もった負の感情って本当に恐ろしい。
人間を悪魔に変えちゃうんだものねえ。
坐禅。確かに坐れるようになるまでは若干時間がかかるだろうから難しい部分はあったかもしれないけれど、出来るものなら巡り合って欲しかったです。
by 九子 (2008-06-21 18:34)
[何かが崩れた時に…]
3月に起きた茨城の連続殺傷事件と
岡山の駅での突き落とし事件と
今回の事件も含め…
事件を起こした当事者たちが置かれていた環境というのは
どこか似たところがありますよね。
そして我が家では
3月に事件がおきたときその容疑者の生活が
自分と似ていると息子が言ったことがあって
そのことを以前ブログの記事にしました
<a href="http://sun.ap.teacup.com/yopopo/627.html">http://sun.ap.teacup.com/yopopo/627.html</a>
どこかで何かが崩れて
それが修正できずに凶行に走ったとしか
いいようがないのですが…
何も救いの手が差し伸べられなかったことが
本当に残念で悲しいですね。
ものごとの感じ方は人それぞれなので
びわこさんのおっしゃっている通り
本人の器の問題もあるとなると
他人の働き掛けではどうにもならないかもしれないし…
なにか自分を守る手段というものを
子ども自身が自分で身につけるしか
方法はないのでしょう。
願わくば、九子さんのおっしゃるように
禅のような救いの道をだれもが見つけてほしいですね。
by よぽぽ (2008-06-22 16:46)
[よぽぽさん!( ^-^)]
ター坊君、そんなこと言ってたの?
真面目な良いお子さんですね。
もちろんター坊君なら、よぽぽさんちなら、絶対に心配ありませんけどね。。( ^-^)
> 事件を起こした当事者たちが置かれていた環境というのは
どこか似たところがありますよね。
特に土浦の事件の犯人と加藤容疑者の家庭環境は似ているようですね。もしかしたらどちらかというと高学歴、高収入のお父さんが家庭を省みていなかったという問題かもしれないし、もちろんあまり愛情深い家庭ではなかったのでしょうね。
>何も救いの手が差し伸べられなかったことが
本当に残念で悲しいですね。
そうなんですよ。いくらでも普通にありそうな環境だし、普通にいそうな人だから、なんでそこまで追い詰められちゃったのかっていうのがすごく悔しいですよね。
>なにか自分を守る手段というものを
子ども自身が自分で身につけるしか
方法はないのでしょう。
とにかく人を傷つけるのだけは止めて欲しいですよね。やられちゃうのはこれはもう不可抗力でどうしようもありませんが・・。
> 願わくば、九子さんのおっしゃるように
禅のような救いの道をだれもが見つけてほしいですね。
おおよぽぽさん、そう言って下さって有難うございます。m(_ _)m
でも本当に、誰か人を殺してしまう前に、禅寺へ行くように仕向けて欲しいです。
もっともお寺で刃物をふり回されたら困るけど・・。(^^;;
by 九子 (2008-06-22 21:56)