死にたがる子 [<九子の読書ドラマ映画音楽日記>]
死にたがる子 (新潮文庫 ふ 10-1)の画像
これが30年も前の本だということをついつい忘れてしまう。
女優の藤真利子さんが作者の娘さんであると、先日始めて知った。
死にたがる子という表現がぴったりなほど、自殺する青少年が後を絶たない。
共通するのは理由の判り難さだ。
要因とされるものはいくつかあるのだろうが、それが自殺にまで結びつくというのが周りの大人たちには理解できない事が多い。
勇一少年は、主人公の新聞記者川辺が新しく買った一軒家のすぐ近所に住んでいた。川辺が引っ越してきたその日に事件は起こった。勇一の首吊り死体を発見した高校生の姉が、悲鳴をあげて助けを求めにきたのだ。
姉のまき子は初対面の時から印象の強い子だった。箒をもって玄関の掃除をしていたまき子を見ていると、いかにも両親の教育が行き届いているらしい感じがして川瀬は好ましく思っていた。
それから彼の新聞記者の意地をかけた原因追求が始まるのだが・・・。
それらしい理由はいろいろあった。ただ、どれ一つを取っても、死ぬまで思い詰める理由としては弱い。
ここにもう一人、本人の内面での苦悩は並々ならぬものがあったに違いないが、いまひとつ親や友人には理解しがたい自殺を遂げた男の子が居る。
大阪豊中高1男子自殺事件。申し訳ないが、おびただしい自殺記事の中に埋もれてどんな事件だったのかの記憶もおぼろげだが、その子の母親が手記を書かれているので、どうか読んで欲しい。
祐太朗君は愛情深い両親と弟の4人暮らしであった。友人もたくさんいる。普通に考えたらとても良い環境に恵まれた子供さんだった。それが突然、深夜の学校の放送室で首を吊って死んでしまう。
学校への不満はあったらしい。しかし彼には何より、お葬式の日に(校則を破って?)葬式に駆けつけ、「絶対帰ってこいよ。」と呼び続けるクラスの仲間たちが大勢居た。
母親は数日前に少し違和感を感じていたらしい。友人に死にたいほど悩んでいる子があり、その子を彼はずっと励まし続ける役回りだった。「あんたは死んじゃいかんよ。」という母親の言葉に「わかってる。」と頷いていた彼だったのに・・。
祐太朗君の場合、ご両親の戸惑いは痛いほどわかる。
どこを取ってもごく普通のお子さんに見える。
友人も多く、打ち込んでいる鉄道の趣味もあり、家庭も円満だ。
こういう子が自殺するなんて、こんな子に自殺されたら、親は一体どうしたらよいのだろう。
死にたがる子の死ぬ理由を求め続けていた川辺に、やっとそれらしい答えが訪れる。
それは勇一少年と良く話をしていた風呂屋の隠居さんの一言だった。
勇一には生きる力がはじめから不足していたというのだ。
あれが欲しい、これが欲しいという子供らしい強い欲望がなくて、印象も希薄な子。
まるで突然変異で生まれた白い毛並みの猫の子が黒い毛並の兄弟の中で疎んぜられて母親からおっぱいも与えられず次第に弱っていくように、自然淘汰されるように死んでいく。
これは30年以上前の小説だから、もしかしたら現代にそのまま当てはめるのは違っているかもしれないが、そういう原因も幾つかある理由の一つにはなるかもしれない。
勇一と祐太朗君。どちらも長男と言う事も気にかかる。
もちろん例外はあろうけれど、長男長女は親も初めての子育てで、過度に気を遣ったり必要以上に叱ったりして神経の細い子になりがちだと良く言われる。
生きる力という事から言えば、不足しがちなのが長男長女かもしれない。
思春期はさまざまな悩みにうちのめされる時期でもある。過ぎてしまえば、なぜあんな些細なことに悩んだのかと懐かしく思い出す大人が大半だと思うが、そこをうまく通り抜けないと、特に生きる力の弱い子供は自殺の誘惑に負けてしまうのか。
先日「文芸春秋」の中にこんな一文をみつけた。書かれたのは皇后美智子さまだ。
少し長いが引用させて頂く。
声が出なくなられた時、カウンセラーや精神科医にかかる事を勧められても「そういうことを受けるためには、こちらの心の中の全てを明らかにしなければならないから、自分の立場ではそれは出来ない。」とお断りになったと言う芯の強さをお持ちの皇后陛下なら、このお話一つで凡人の何百倍ものお苦しみや悲しみを乗り越えることがお出来になるのだろうが・・・。
美智子皇后さまのような強さを持たない生きる力の足りない子供に、たったひとつ一応仏教徒として言ってやりたいことがある。
死んだら今の苦しみが何もかも終わりになって楽になると思うのは間違いだよ。
君が死んだ後も君の魂は永遠に生きて、終わりの無い旅を続けて行く。
君の一生よりもずっとずっとず~っと、気の遠くなるほど長い時間の旅だ。
君が自分の肉体を滅ぼすという過ちを犯した以上、君の魂は幸せにはなれない。
家族や友人を悲しみのどん底に突き落とした罪は、長い長い時間をかけて償わなければならない。
だから、絶対に死んではいけない。今どんなに辛くても、生きている事の方が、ずっとずっと幸せだ。
今の辛さにはいつか終わりが来る。絶対に来る。でも、魂の辛さには終わりが無い。
少しの辛さを辛抱してこの先ずっと幸せに生きるか、楽になりたいと自らを葬って、永遠に苦しみ続けるか。
死んだら楽になるなんていう夢物語を君は決して信じてはいけない!
そして、決して死んではいけない!
もしかしたらこれは、自殺でご家族を亡くされた御遺族にとっては大変悲しい話に違いない。
生きている時はさぞや苦しんだご家族が、今はあの世で幸せに暮らしていると皆さん信じていらっしゃるのだろうから・・。
多分仏教の各宗派の教えは、多かれ少なかれこれに近いものが多いと思う。
ただし、死者の魂を慰める術は本当にいろいろある。だから遺された者たちが自殺者の魂の痛みを和らげてあげる事は可能なのだ。あなたの家の菩提寺の和尚様に伺えば、いろいろアドバイスをして頂けると思う。
幸か不幸か、恵まれた社会に生まれた子供たちがいともたやすく命を絶つ。
まるで死ぬ事によってしか己の存在を証明出来ないとでも言うように・・・。
昔の日本人は、自分の身体を「父母からもらったこの身体」と考えた。
キリスト教徒は、たぶん「神様が造り賜うたこの身体」と考えるのだろう。
そして仏教は、「我は即ち仏である」と説く。
かつて自分の身体は、自分のものであって、自分だけのものではなかった訳だ。
そして、今。
自分の身体は自分ひとりだけのものだから、自分の好き勝手にしても良いと考える傲慢さが、青少年の自殺に影を落としてはいないだろうか。
自殺
[死後の世界]
死にたがる子は,この世から逃げることだけ考えていてあの世がどんなものか思いもしないことでしょう.肉体を捨ててあの世へ行ったら魂が苦しみ続ける,なるほど,そうなのですね.あの世へ行ってしまう前にそのことに気づかせてやりたいものです.
by 三ねんせい (2008-08-02 22:54)
[三ねんせいさん!( ^-^)]
たぶんそうだと思います。(^^;;
私のようなえせ仏教徒が言う事ですから、本当はお寺で確かめて頂くと有難いのですが・・。(^^;;
ただ、魂の実在とか魂の永遠とかを信じる事が仏教徒の第一義というのは間違いないと思いますし、私自身信じています。
活禅寺は本当に自由なお寺ですから「私は魂の実在を信じていない。人は死ねばゴミになる!」とおっしゃっていらした和尚様もいらっしゃいました。そしてその和尚様を私はとても尊敬していました。
奥様の後を追うように亡くなられた和尚さんの魂は、きっとひときわ高いところで自由に飛び回っていらっしゃると私は確信しています。
こういうキツイ事を言ってでも、特に若い子供たちの自殺は食い止めなければならないと思います。
by 九子 (2008-08-03 21:16)