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平原綾香 in 松本 [<九子の読書ドラマ映画音楽日記>]

6月末のポルノグラフィティ以来、8月の平井堅、そして今回の平原綾香と、九子さんって人は随分なライブ好きなんだ!と誤解なさる方もいらっしゃるだろうが、去年のサイモン&ガーファンクル以来たまたまご縁があったというだけで、何年いや十数年もライブやらコンサートやらには無縁の日々を重ねてきた九子なのである。
 
そもそも最初でつまづいた。九子が大学生の頃、我が家はもっと裕福で(^^;;、一人娘で可愛がられて育った九子は両親とともにハワイへの初海外旅行に出かけた。そのホテルで、なんと!サミー・デービスJr.のクリスマスディナーショーがあったのだ。

当時は1ドルがまだ360円?・・てことはなくても二百円代だった頃なんじゃないかな?それでもショーは1万円ほどと充分安かった記憶がある。到着したその日だったので疲れていた事もあり、少々迷ったが「まあ、いいよね。」と見逃してしまった。
 
たしかサミーはサントリーのトリスウイスキーのコマーシャルなんかにも出ていたと思う。外国人嫌いの出来すぎ母もテレビを見ながらしきりに悔いていた。「ああ、この人!あの時無理しても見とくんだったね。」

その後長野へ戻ってからしばらくして、友人がせっかく松任谷由美、当時は荒井由美のチケットをくれたのに、ドジな九子はすっかり忘れていて行かなかった事もあった。
 
サイモン&ガーファンクルの前に見たビックネームは、恥ずかしながらさかのぼる事10年も前の郷ひろみ。(^^;;

それっぽっちの九子のライブ歴に今回平原綾香が加わったのは、M氏の影響だった。


M氏は一応長野高校の吹奏楽班出身だ。
そのくせ若い頃はクラッシックなどほとんど聴かず、いつも演歌ばかり聞いていたのは謎だった。(^^;;

傳田真央ちゃんが小さい頃から家族ぐるみでM氏の歯科医院に通ってくれていて、M氏はデビュー当時から彼女を応援していた。
ご両親も音楽家という音楽一家に育った彼女の声も、何オクターヴ出るのか知らないがクラッシックの訓練を積んだ美しい声だ。
 
そして次に来たのが平原綾香だ。まあ、この流れは理解できる。( ^-^)

かくしてM氏と九子は松本に繰り出した。

会場はまつもと市民芸術館。外観も立派だったが、中へ入るとヨーロッパのオペラ座を思わせる造りになっていて更に重厚だ。
前の人の頭で後ろの人が見えないことのないように、座席をわざわざずらして配置してある。なんでもサイトウキネンのオペラは毎年ここで上演されるらしい。
 
平原綾香がここを選んだ理由が頷けた。

平原綾香は圧巻だった! 大ヒット曲Jupiter以降、彼女に注目した事が無かった九子は正直驚いた。

「平井堅聴いた後だもん。歌唱力じゃあ誰聴いてもびっくりしないわよ。」そう思ってた自分を恥じた。
 
平井権の歌は凄くうまい。それは認める。平井堅もそうだし他の大多数の歌手は、声で歌う。声で聴かせる。そんなこと当たり前だと思っていた。
 
彼女を見てると彼女は声で歌うばかりではなく、身体全部をそのまま楽器にしてしまう。たとえば「ブラームスの子守り歌」」では彼女の声はハープになった。「カルメン」では、聞こえるはずの無いギターやカスタネットの音が彼女の声に重なる。
ヴォイスパーカッションも、口笛も、彼女がすると立派な楽器だ。もはや人間が作り出す「声」ではない。
その上、2時間にも及ぶコンサートでステージを降りたのは着替えのためのわずか2分くらいだった。2時間もの間、声を、しかも低い音から高い音までぎりぎりまで出し続けて平気なのだ、彼女は!
声帯に負担のかからない声の出し方を熟知しているのだろう。声量をあげても無理の無い歌い方が出来ているのだろう。やっぱり音大で声楽の基礎を積んでる人は違うと思った。

平原綾香は耳も抜群にいい。絶対音感もあるんじゃないかな?そういう耳で聞くからだろうが、英語の発音の見事さには聞き惚れる。

「新世界」のような英語と日本語が入り混じった曲でも、日本語から英語へ、英語から日本語へなんの違和感も無く移って行くのが凄いと思う。
 
と、もっぱら彼女の音楽性ばかりに気をとられていた時、so-netブログで知り合ったmu-ranさんこと指揮者の村中大祐さんに「彼女の詞がいいですよ。」と教えて頂いた。

M氏も言っていたのだが、Jupiterこそ別の人の作詞だったが平原綾香は今ほとんどの詞を自分で書くのだそうだ。 どうしても声の魅力にかき消されがちな詞の美しさはどればかりだろうと、最近のアルバムを中心にかたっぱしから詞を読んでみた。

何回も「音楽」という言葉が出て来て驚いた。
「音楽」という言葉は少なくとも九子の中では歌の中で使われる言葉ではなかった。
 たとえばマイウエイだって「私には愛する歌があるから・・」であり、「音楽があるから・・」ではなかった。(古くてすみません。(^^;;)

歌なら2文字だが音楽という4文字を歌にするのはラップ以外では無理があると思っていた。それを平原綾香は「死ぬまで音楽と共に生きるためにどうか私に力を」と歌った。(Ave Maria)
とても新鮮な感じがした。

彼女の詞の特徴は、その優しさよりも明るさ、力強さ、そして究極のプラス思考というか前向きなひたむきさというのだろうか、こういう時代に皆を勇気づけてくれる得がたい魅力があることだ。

歌詞を見ながら九子ははっとした。そして次の瞬間に確信した。
平原綾香は、あの若さで見性(けんしょう)しているのではないか。つまり悟りの境地に達しているのではないか!

悟りと言うのは言うまでも無く、坐禅をしている最中だけに現れるものではない。日頃から訓練は必要だろうが、たとえば庭の落ち葉を箒で掃いていて小石が転がった刹那に悟った高僧も居るという。

平原綾香は声のトレーニングを欠かさない。声楽と言うのは、要するに腹式呼吸の訓練だ。
声楽を学んだ音楽の先生には太っ腹で明るい人が多いが、それはたぶん腹式呼吸が禅の呼吸に大変似ているせいではあるまいか。

実は九子も経験がある。子供達が小さい頃母親コーラスみたいな事をやった事があって、大きな声を出して一時間ほどが過ぎると大変幸せな明るい気持ちになれたのだ。その時思った。ああ、坐禅と同じだなあと・・。

平原綾香は毎日声の訓練をしている。つまり坐禅で言うところの「宇宙を吸って宇宙を吐く」大きな大きな呼吸を毎日何時間も続けている訳だ。それを20年も続けているとしたら、きっと凄いことだと思う。
それならば、彼女の詞の大らかさ、優しさ、それで居て明るい力強さの説明がつく。

九子もこの頃ひところサボっていた坐禅をまた始めている。 実はある時期から、九子は昔ほど毎日の感情の揺れ、つまり気分の良い日と気分の悪い日の落差に悩まなくなった。それがあったからこそ、九子は必死で坐禅をやって居たともいえる。


それはリーマスという薬を飲みだしてからだ。炭酸リチウム。リチウム電池の親戚だ。この薬は毎年のように来るウツを楽にしてくれる有り難い薬だが、これを飲みだすようになってから今までよりも毎日の気分が安定してきた。

つまりリーマスさえ飲んでいれば坐禅をしなくてもそこそこ前ほど落ち込んだ気分にはならないようになってきたという訳だ。 そこで怠け者の九子は今までほど熱心に坐禅をしなくなってしまったと言う訳なのだが(^^;;、でも今でもたまに坐禅を組むとやっぱり違うなあと教えられることばかりだ。


リーマスや抗ウツ剤では精神を高みに引っ張りあげる力が無い。そこそこの気分に留めるだけだ。

★せっかくの坐禅ですが、うつ病の時は何時間坐っても坐禅はうまく出来ません。 

うつ病の時にはしっかり薬を飲む事と、ゆっくり休養する事が一番大事です。

どうかお間違えのないように・・・・・・。 m(_ _)m

たとえば最近の具体例でお話してみようか。 例の尖閣諸島問題で逮捕された漁船の船長を日本側があまりにも簡単に釈放してしまった問題。
しかもその時に尖閣諸島の領有権は日本側にあると言う声明のひとつもなく、中国に屈した日本政府のだらしなさ。

多くの人々も怒っていらっしゃっるだろうが、九子も坐禅をする前は腹が立って腹が立ってたまらなかった。その上考え事大好き人間の九子だからして(^^;;、坐禅にもなかなか集中出来なかった。

しかし20分か30分も坐った頃、いつもの感覚がついにやってきた。俗に言う丹田という下腹部辺りがじんわり温かく感じられ、細胞と言う細胞が清浄になり、脳が活発に動くように感じられ、気持ちが穏やかになって自信がみなぎる。今までの悩みがちっぽけに思え、心の底から自然に幸せを感じられる状態になったのだ。

そうなってみると不思議なもので、こんちくしょうーと思ってた(^^;;温家宝首相が気の毒で哀れな人間に思えてきた。そうなると怒りは自然と静まる。
「ばかだねえ。道理に反する事をすれば後で手痛いしっぺがえしを食らうよ。中国は無宗教かなんか知らんが、神様や仏様はちゃんと見ていらっしゃるのだから。人間の小知恵で浅ましい事やろうと思ったって、どこかで破綻する。結局正しい者が勝つんだから。」という憐憫の情が湧いてきたりなんかもするのだ。

修証義(しゅしょうぎ)というお経に「徳あるは誉むべし、徳無きは哀れむべし」という一説がある。徳無きは哀れむべし・・・・哀れむのは慈悲の心を持った仏様がなさることだ。 
 

もしも意志の力でこういう考え方の変化を成し遂げられる人がいるとすれば、それはかなりのツワモノだと思う。意志薄弱な九子なんぞは、こういう考え方がいい、そういう考え方をしたいと思ったって、なかなかそうはならないのだ。
だが坐禅をすればどんな人でも自然に、努力要らずで器の大きい考え方になれるってとこが凄い。

中国に関してはこんなにものわかり良くなっちゃ逆にまずいだろうとも思うが(^^;;、少なくとも脅しに屈しない筋の通った外交は出来るようになるはずだ。

そもそも坐禅というのは、自分の中にある仏様を自覚するためにする。
禅定に入った時、つまり坐禅の呼吸がもたらす最高の精神状態は、人間の中に仏が入った状態なのだ。

いや、仏が入ったと言うと少し違う。仏と人間が別々のものという感じだからだ。すべての人間の中にもともと宿っている仏としての性質が坐禅によって磨かれて現れてきたというのが本当のところだと思う。

平原綾香の歌詞はきっと、彼女が声楽の訓練を続けるうちに自然に積み上げてきた最高の呼吸法によって、彼女の中の仏性(仏の性質)が光り輝いて書かせたもののような気がする。
つまり人間平原綾香の作ではなく、仏になった平原綾香が作ったものなのだ。
だから人に希望を与えるのだ。だから人を癒すのだ。

九子あたりの禅定は、せいぜい半日か一日で無くなってしまう。だから九子は必死に毎日活禅寺に坐禅に通っていた。でも言い換えれば朝坐禅をすれば夜までほぼ一日中、自分が仏さまのような気持ちで過ごせるとも言える訳だ。

悟った人の場合、その心持ちは一生涯続くのだそうだ。


平原綾香はアンコールの後、何度でも何度でもお辞儀をして観客の拍手に応えた。
観客に背を向けてステージを上り始めたからああこれで終わりかなと思ったら、楽器のひとつひとつ、椅子のひとつひとつにも感謝の祈りを捧げていた。
その後また戻ってきて何度も何度も客席に向かって深々と頭を下げた。
一体いつまで続くんだろうと思ったくらいだ。
ああ、良くしつけられたお嬢さんだなあと思った。ああ、日本人だなあとも思った。
 
そこに見えたのは残念ながら仏さまではなかった。

平原綾香は、紛れも無い音楽の女神ミューズだった。( ^-^)

 

 

★ブログ「ママ、時々うつ。坐禅でしあわせ」 頑張って更新中です。是非お読みくださあ~い。(^-^)


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mu-ran

この記事、大切に読ませて頂きました。

そして自分の中にも変化が起こりました。

平原さんの歌詞は、そのどれもが

僕のこころに響いてくるのですが

シンプルなんですが癒される、

浄化がテーマだな、と感じていました。

でも大事なことを見落としていましたね。

そうです。音楽にいのちをささげる気持ちでした。

白鵬関にも同じものを感じました。。。


by mu-ran (2010-09-27 20:18) 

九子

mu-ranさん、こんばんわ。
コメント有難うございます。

>そうです。音楽にいのちをささげる気持ちでした。

私もmu-ranさんのこの言葉を聞いてう~んと唸りました。
音楽をただ受身に聞いているだけの人間には出てこない発想ですよね。

mu-ranさんも平原綾香さんもそういうお気持ちで指揮をなさり、歌われている。だから人々を魅了する音楽になるのですね。

白鵬のパレード?の言葉が良かったとテレビで誰かが言っていました。
確か日本人のように「優勝できたのは自分だけの力ではない。」という事を言っていたそうです。日本人より日本人らしい人なのかもしれません。
by 九子 (2010-09-27 22:52) 

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