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津波てんでん [<九子の万華鏡>]

今の世の中でも幕末の世でも、情報を持ってる人間が一番強い。
前にも書いたが、坂本龍馬が世の人々に崇められたのは、ひとつには彼の健脚が日本中を走り回って集めたさまざまな情報のせいだろうと思う。

少し前にアメリカの高官が、日本政府が情報収集機関を持っていないのが最大の弱点だと指摘したというニュースがあって、ちょっとびっくりした。でもびっくりするのは九子があまりにも物を知らないせいであって(^^;;、いやしくも日本という曲がりなりにも世界の大国が、他国からもたらされる情報を教えてもらって一喜一憂しているようではあまりにも警戒心が無さ過ぎる。

九子は異文化で生活する人のブログを読むのが好きだ。

たぶん一生の大部分を長野市の善光寺の周囲半径5キロほどのごくごく狭い領域での暮らしに甘んじてやがて死んでいくであろう九子だって、外国のことが気にならない訳ではない。
「文通」という言葉が死語になる前から下手な英語で手紙のやりとりをしていたドイツやオーストラリアの友人達には、死ぬ前に一度はお目にかかりたいものだと思っている。

インターネットが普及して、海外の情報が誰でも簡単に得られる時代がやってきた。
だけどそれは、天体望遠鏡でイトカワを見てるのと同じことだ。
本当に欲しいのは、「はやぶさ」が取ってきたイトカワの砂粒であり、満身創痍になって飛び続けた「はやぶさ」の飛行経験なのだ。

異文化の中で生活している人々がもたらす情報は、イトカワの砂だ。
その国に単に一旅行者として行っただけでは決してわからないさまざまな情報をもたらしてくれるのが、異文化の中で暮らしている彼らの知識であり体験である。

だからそういう人々のブログはまさにアメリカの幼稚園で子供達が行っているゲーム感覚のshow and tellというプログラムと同じだ。
自分の好きなもの、皆に話したいものを学校へ持ってきてクラス全員にそれについてお話をする。

その国ならではの興味深い食物とか出来事の話題が文章や写真とともに掲載されるブログを読んで、九子のように外国で暮らす必要性もエネルギーも無い人間は、海外生活の疑似体験をして好奇心が満たされる。
そして、自分が日本人として当たり前と思っていた事象が、かの国ではまったく当たり前でなかった事に驚かされたりする。

日経メディカルオンラインという医療関係者向きのネットぺージに、今面白いブログが掲載されている。
ここに出てくる医師の大内啓氏は(奇しくも前回の放射能被曝された患者さんと同姓だが)12歳まで大阪で育ち、父親の仕事の関係でその後ずっとアメリカで暮らしている。
彼はアメリカで医大に入り、医学部3年目の時に、自分の生まれた日本を異文化として体験するという得がたい経験をした。
ちなみに彼によれば、自分の考え方その他はアメリカの影響をより濃く受けているという。

彼は最初患者家族として来日した。
ゴルフが大好きで自分で運転してゴルフ場へ行くほど健康そのものだった79歳の祖母が、ある日夫の大好物の揚げ物を揚げていて両足に軽い火傷を負った。すぐに救急車で病院へ搬送され、4日後には広範性の肺塞栓症(massive pulmonary embolism:massive PE)で亡くなった。彼がアメリカから駆けつけた時にはすでに播種性血管内凝固症候群(disseminated intravascular coagulation:DIC)に陥っており、強心薬を止めると数分で心臓は脈を打たなくなったという。

なぜ深部静脈血栓症(deep vein thrombosis:DVT)の予防策を考えてもらえなかったのか?と彼は問う。

長ったらしい病名が並んでいるけれど、要は入院加療により運動が制限される中で、エコノミークラス症候群みたいに静脈で血流が滞って出来た血栓が肺に飛んで広範囲の肺の血管を詰まらせてしまい死に至ったということだ。また火傷という原因症状そのものが血栓症のリスクを高めるとも言われている。

血流を良くするストッキングや装置をつける事で、現在は割合簡単に予防する事が可能らしい。

彼はこう続ける。

「自らの臨床経験からも、『DVT/PEは判断が難しく、事故は起こり得るものだ』と認識しています。ただ、祖母の死が防ぎようのない『運命』であったとしても、カルテの記録の中で少しでも医師がDVTを考慮してくれていたことが分かれば、遺族として心は少し軽くなったと思います。これがアメリカで起こった出来事であれば、患者の家族によっては、巨額な賠償金を請求する訴訟に発展したでしょう。」

アメリカの医師にとって医療訴訟は生涯一度は経験しなくてはいけないものであり、悪い結果が患者に訪れた場合に多額の賠償金を支払っているのは、必ずしも間違った医療を提供した医師ではなく、ほぼ共通している敗因は、「不注意」またはneglectなのだそうだ。
neglectとは言わずもがなの治療放棄だ。そういう病気が潜んでいる可能性に気づかなかったというのももちろんこれに含まれる。

医師が細部まで注意を払いいろいろな可能性を考えたという証拠が文面で残っていれば、提訴された上に裁判に負けるということはほとんどないらしい。

彼の目はするどく日本の医療の諸問題をえぐる。

まず彼が一番驚いたのはお正月に患者が家へ帰ることだった。
「アメリカの病院では一人で院内を自由に歩きまわれる患者などまず居ない。お正月だから家に帰るというくらい軽症なら入院しなくてよいのでは?」と思ったそうだ。

アメリカの医療費がバカ高いことを考えれば、お産すら二日ほどで退院だそうだから、そういう考えは確かに理にかなう。
でもそうやって指摘されるまでは、手術をすれば最低でも二週間ほどの入院というのは当たり前のこととして我々の頭の中に植え付けられてしまっていて不思議ともなんとも思わなかった。

さきほどのDVT予防も一例だが、日本ではどの病院でも行うべき医療のスタンダードというものがアメリカよりも少ないという。
また、日本ではカルテの記載が大まかなのも、カルテに患者との会話に至るまで詳細を記載するアメリカとの大きな違いらしい。
これは、前述の医療訴訟対策にもなる訳だが、そもそも日本では患者が訴訟を起こすハードルが高いと彼は感じている。

そもそも、私の家族が祖母の死を「寿命だったんだね」と話していたように、患者側の医療に対する姿勢や病院での人の死に対する受け止め方が、ずいぶんと平和的だなと感じました。


この指摘は衝撃的だった。

確かに私たちは、100人が100人死んでしまうような状況で助かった人の事も、誰も死なない状況で一人だけ死んでしまった人の事も「寿命」と表現し、「人間は病気では死なない。寿命で死ぬ。」という言葉も正しいと信じ込んできた。

この場合の寿命というのは、人間の知恵では推し計れない力による結果という意味であり、大いなる力がそうさせたと肯定的に死を受け入れる気持ちだと思う。

それをアメリカで育った彼は「平和的」な見方だと受け止めた。死生観が違うとさえ言った。

こういうところに戦闘を好まぬ日本人の性格が垣間見られるのかもしれないとも思ったし、そういう見方が仏教的なんだと最初は思った。
だけどもしかしたらそれではいけないのかもしれないと思わされるものもあった。

アメリカ人はどんな機会であっても自分が理不尽だと思ったら訴訟を起こす。
もしかしたら弁護士の数が余りにも多いから、訴訟を起こす事を勧める弁護士が居るからなのかもしれない。
とにかく彼らは正義を求めて戦うのだ。すべてを寿命と物分り良く捉えずに、人災の部分はあくまで人災として最良の手段を取りそこなった医師を糾弾するのだ。

こういう比較も、大内氏がアメリカと日本の両方の状況を体験して、両者の違いに驚いてこうして書いてくれたお陰で成り立つものだ。
(次回はいよいよ「いのちに”格差”があるアメリカ医療」という興味あるタイトルだ。)

homogenized=均一化が大好きな日本に、外国から新しい風が吹いてくる。
ノーベル賞の受賞者たちの「若者よ、海外に出よ。」という進言は、日本の既成概念に凝り固まった頭の中を伸びやかにして、外国でいろいろなものの見方を吸収して、自分の頭で一体何が正しいのか考えてみなさいという事だと思う。


この頃ヨーロッパを中心にご活躍中の指揮者のmu-ranさんのブログMu-ran Planetが気になる。もちろん彼が見ていらっしゃる世界はとてつもなく広くて深いし、凡人の九子にはおっしゃることの何分の一しか理解できないのだろうけれど、それでもこういう御時世には特に感じるものがある。 

顔の見えない日本人、責任の取れない日本人、それは責任を取らない教育を行き届かしてしまったせいだとmu-ranさんは嘆いておられるが、そんな中で芸術家よ立ち上がれ、新しいアイデアで未来を切り開けと鼓舞しておられる。

「責任とは本来そのひとの生きざまを美しく変えるものだと思う。」というmu-ranさんのこの指摘は重い。


日本社会と言うのは昔から、働きアリみたいな集団だった。どの一人が何をやるというのではなくて、全体として秩序正しく一つの動きを成し遂げて来た。

明治時代みたいに偉人と言われた人々が闊歩して、つまり女王アリがしっかりしていた世の中では、女王アリの号令一過進むべき方向に進むことが出来た。少しくらい秩序を乱すヤツがいても、全体の流れの中で目立つ事は無かった。

ところが現代社会では、リーダーたるべき女王アリの姿が見えなくなってしまった。小粒になってどれが女王だか見分けがつかなくなり、働きアリは困ってしまった。

そんな時一番手っ取り早いのは、女王アリの姿を大きく見せることだ。小さい女王アリを3羽くらい集めてとりあえず大きく見せておくことだ。それが今の民主党政権のようにも思えてくる。

もうひとつの手段として、一つ一つの働きアリに知能をもたせてそれぞれ賢くしておくという手がある。こっちの方は時間はかかるが、いざと言う時自分で次の行動を考える知恵がつく。そうした場合秩序は多少乱れるかもしれないが、強いものは生き残ると言う種の保存の原理においては優れているはずだと思う。

大震災の際に諸外国を唸らせた日本人の秩序の良さは、もちろん日本人一人一人の誇るべき一般常識の高さを示したものには違いないが、ある意味では世間体だとか世の中の目とかいうものに縛られた結果なのかもしれないとも思う。

神前結婚とか仏前結婚に代わって最近言われるようになった人前結婚というのはなんだかものすごく違和感がある。
結婚と言う神聖な儀式を神仏に誓うならわかるが、人間の心などという常に移ろい易くあやふやな物なんかに誓って一体どうするんだ!

こういうあやふやな事を、昔から日本人は当たり前にやってきた。
世間の目を絶対の不文律にして来た時代が長かった。

もう一度言おう。世間の目とは即ち人間の心だ。そんなものが一体何の価値があるのか。そんなものに善悪の価値判断をおいてどうすると言うのだ?

自分が正しいと信じるものは何か、そのためにどう行動するのが最良なのか考える事が正しく判断する事だと思う。
その判断が間違っていたら、間違っていた事を正々堂々と認めて、次に何をすべきかを示すのが{{責任}}を取るという事ではないか。


もしかしたら結婚して家庭に入ってしまうと、女性達は世の中のしがらみと戦う生活から無縁になるのかもしれない。
夫のお給料で生活している限り、戦うべき組織も、責任を問うべき相手もあんまり見つからないのかもしれない。

かく言う九子だって、一応笠原十兵衛薬局店主とは言え(^^;;、長いこと父やM氏の影に隠れて守ってもらっている立場だから、本当の社会の厳しさはわかっていないに違いない。
これが女性一人でやってる薬局なんかだと、お役所がかなり厳しいことを言ってくるというのを聞いたことがある。

そんな中でも世の中どこかおかしいなと感じる事は日々の生活の中で多々ある。

まずはあなたの周りの極めて当たり前と思っていることに疑問を持ってみる。そしてそれを声に出してみる。
疑問をもつにはいろいろな情報に接する事が大切だ。
それがまず自分で考える第一歩となる。日本を変えていく小さな芽となる。

誰かの真似をして、誰かと同じように行動して安心していたのでは、きっとあなたは美しくはなれない。



「津波てんでん」とか「津波てんでんこ」という言葉を被災地の長老からよく聞いた。
津波が来たらてんでんばらばらに逃げろという意味だそうだ。
誰かと一緒にではなく、自分が判断して一番安全な方向へ一人で逃げろという事だそうだ。

自分が正しいと思う方向へ逃げて助かる事。自分が正しいと信じた方向へ逃げたが不幸にも命を落としたという事。
不謹慎を承知で敢えて言わせて頂けば、それが究極の、目に見える責任の取り方なんじゃないだろうか。

これからの日本は、世間の目なんかより自分自身の判断がより求められる時代であるという事を大震災は教えてくれたのかもしれない。


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