高村薬局 [<薬のこと、ダメ薬剤師のこと、家のこと>]
出来すぎ母の実家「高村薬局」は、長野県千曲市稲荷山(ちくまし いなりやま)に今もある。(ちなみに雲切目薬がここでも手に入ります。( ^-^))
九子はいつも家にばかり居たがる子供だったが、母に連れられて何度か訪ねた稲荷山の家の事は子供心に良く覚えている。
小さい頃の記憶しかないけれど、黒光りした高い梁が屋根の高さ位にあって、土間のすぐ脇に障子も襖も無い居間があって、居間を見下ろすように作られた大きな神棚があった。
障子も襖も無かったのは天井が高すぎるからで、どんなサイズのを持ってきたってどうやったって届かない!居間では皆が着膨れてコタツを囲んでいた記憶がある。
あの構造じゃあいくら暖房しても暖かい空気はすぐに逃げていくから、冬は寒かっただろうなあ。
薬局の真ん中には童謡に出てきそうな大きな振り子の時計があり、二階に続く階段は、側面が箪笥になっている大きな漆塗りのもの。それと当時でも珍しかった手でハンドルを回すタイプの黒電話が、まるで宝物のようにガラス張りの「電話室」の中に格納されていた。
そして庭を臨めば、重い扉に覆われた古い蔵があって、出来すぎ母は鵜の目鷹の目で中のお宝を狙っていたっけ。(^^;;
稲荷山は昔、生糸産業でたいそう栄えたところだと聞く。
母も兄弟7人の6番目だけれど、薬大にまで出してもらい、何不自由無い生活をさせてもらっていた。
もちろんそれは高村薬局を継いでもらおうという思惑だったはずなのだが、母が笠原家に嫁いでしまったため、母にかけたお金は丸ごと無駄になってしまった訳だ。(^^;;
その代わり、母が来てくれた我が家のほうは、棚からぼた餅状態である。( ^-^)
実は母の兄姉はみんな母親の縁が薄くて、母の実母だった人も、優しかった後妻さんも、若くして癌で亡くなっている。
二人とも東京の癌研病院で当時最高の治療を受けさせてもらっていたそうだから、物凄いお金がかかったのだろうと思うが、それが出来るだけの財力もあった訳だ。
その誰よりも愛妻家だった「稲荷山のおじいちゃん」が今日の主人公だ。
おじいちゃんはいつも光沢のある着物に黒い足袋を履いていた。今考えると上等な絹の着物だったんだろう。冬でも中にらくだのシャツを着て、綿入れ半纏(はんてん)くらいで過ごしていたのだろうと思う。
うちの16代十兵衛さんもそうだけど、明治の人は本当に我慢強くて逞しかった。そんな環境で80歳を越える年まで生き延びた。
稲荷山のおじいちゃんは千葉大の薬学部を出ている。
現代に至っても千葉大の薬学部を卒業すると言うのは、薬剤師にとっては東大を出るくらいに凄い事なのだ。ましてや明治時代にだ。
だけど九子は小さくてそんなことわからないから、ガリガリに痩せて体中の血管が蛇みたいに浮き出た腰の曲がったおじいちゃんを見るたびに、ちょっと鉤鼻の魔法使いのおじいさんをいつも連想していた。
おじいちゃんの瞳の色は変わっていた。
あんまりいろんな物に気づくということの少なかった九子が気づいたくらいだからよっぽどだ。
どこか緑がかったというか、ブルーがかったというか、日本人の標準よりも淡い色をしていて不思議だった。
出来すぎ母にもそれはちゃんと受け継がれていて、モテ期の長かった母の武器のひとつになっていたようだ。(^^;;
(残念ながら九子には伝わらなかった。)
魔法使いのおじいさんと違うのは、稲荷山のおじいちゃんはいつもしわだらけの顔をくちゃくちゃにしてニコニコと笑っている優しいおじいちゃんだったことだ。
いつも満面の笑みで、怒った顔など見たことが無かった。
それでも魔法使いのおじいさんというのは、ある意味当たっていた。
出来すぎ母の話だと、おじいちゃんは戦争中のなんにも無いときに、薬局に常備されている試験管やビーカーやアルコールランプなんかで、飴やカルメ焼き、キャラメルやチョコレートまで、作っては子供たちに振舞うのを楽しみにしていたらしい。
(坐薬を作るのに使うカカオ脂は、チョコレートの原料でもある!)
ただのお砂糖が飴やキャラメルになるのを見れば、それはもう魔法以外の何物でもないと子供たちは目を輝かせたことだろう。
母は稲荷山で、男の子たちと一緒になって野山を駆け回って育った。
大人になって母みたいになんでも出来る人間になるためには、小さい頃に野山を這いずりまわってエネルギーと生きる知恵みたいなものを蓄えておく必要があるんだなと九子はいつも思っていた。
男勝りのおてんばで、乙女(おとめ)という母の本名とは似ても似つかない子供だったようだ。
だから母は嫁いでからすぐに「恭子」という名前に改名した。
本当のところ乙女には「お留め」つまり六人目ともなるともうこのくらいで子供は要りませんからこれで最後にして下さいという願いがこもった名前だった事に、誇り高き母は屈辱を感じていたのかもしれない。
それほど優秀な父親を持っていても娘である母にはその遺伝子が伝わらなかったためか、遊ぶのに忙しかったのか、とにかく母は千葉大ではなく東京女子薬専をめざすことになる。(^^;;
母は見事合格を果たすのだが、跡取りのY叔父さんの話によると、「おやじさんは松代(まつしろ)の恩田重信さんとこへ高そうな掛け軸を何本か持って行ってはいろいろ頼んでたぞ。あれが効いたんじゃないのかな?」という事になる。(^^;;
ちなみに恩田重信さんというのは、明治薬科大学の前身である東京女子薬専の創始者である。
( ^-^)
現在はY叔父さんが薬剤師の叔母さんと結婚して、高村薬局を守っている。
九子は長いこと、高村の親戚とは疎遠だった。
東京近郊に出てしまっている母の姉や兄たちの子供たち、つまり九子の従兄弟に当たる人々のことなど、顔も知らない人がたくさん居た。
ところがある時、そういう中のお一人と是非とも連絡を取らなくてはいけない事態が生じたのだ。
あれはもう2年前になろうか。
息子が、大好きなバンドのライブが何年かぶりに長野であるというので、どうしても行きたがっているのを知った。
当時彼とは少々ぎくしゃくしていて、ちょっと点数を稼ぎたいという思いもあって、会ったことも、話したことも無いその親戚の住所を散々尋ね回って、雲切目薬をお送りして(^^;;お願いをしてみたのだ。
「息子とはあまり話さないんでねえ・・。」と言いながら、その方はわざわざ息子さんに連絡を取って下さり、長野でのチケットを、うちの息子は特別枠で手にすることが出来た。
息子は小躍りして喜んだ。本当に有難かった!
その方こそ、「息子を大学まで出したのに、ロックバンドなんかやっていて困ってるんだよ。乙女ちゃん、なんとかならないかねえ?」と事あるごとに母にぼやいていたという彼だった。
高村、いや篁(たかむら)と言ったらおわかりだろうか。
そう、九子がお願いしたのは、聖飢魔Ⅱのルーク篁さんのお父様。母とお父様が従弟になるので、九子はルークさんのはとこに当たることになる。もちろんあちらはまったく知らない。(^^;;
このあいだルーク篁氏の ウィキペディアを見ていたら、こんな記述があった。
Sgt.ルーク篁Ⅲ世とかつて名乗っていたルーク氏が初めてメディア露出をしたデモタカビデオジャムにおいて一世は薬屋、二世は電気屋と説明を行った。[要出典]。
この一世の薬屋こそがまさしく、九子の母の実家である長野県千曲市稲荷山にある「高村薬局」に間違いないんである。( ^-^)
(ちなみに[要出典]とあるところ、連絡した方がいいのかしら?)
おかげさまで、息子とはその後よりを戻すことが出来た。この時の点数が大きかったと思っている。(^^;;
彼はアマチュアロックバンドのボーカルをやって居るので、ルーク篁氏のギターテクニックには一目も二目も置いている。そして、憧れている。
そういう若者がいかに多いかというのを、聖飢魔Ⅱのチケットがとんでもなく取り難いという事実が証明している。
だから、きっと今ではお父上は、ルーク篁氏の現在も将来にも安心し切っていらっしゃると思う。
でも当時のお父上の切ない気持ち、九子も今になってよくわかる気がする。
なんといっても日本の国では、大学を出てまともな会社に入るというのが自分のためでもあるし、何よりの親孝行と考える。
大学は出たけれど、ロックバンドをやると決めた。
大学を出て就職したのに、会社を辞めてあても無く海外に行きたい。
こういいうことを息子に言われるとドキッとするのは、日本人の親なら同じじゃないのかな?
実は次男は就職仕立ての頃からマグマを抱えていた。半年に一度くらいの割合で、このマグマが吹き上がる。
「オレはこんな仕事をするために会社に入ったんじゃない!あ~、海外行きてえ。」
一部上場企業ではあったが一流企業という訳ではなかった次男の会社が、誰もが知る大企業の完全子会社となり、しかも営業ではなくて開発と言えば名刺を渡せばそれなりに驚かれ、だけどネジ一本や人の目に触れない回路の設計を地味に毎日続けていくだけの気構えは無く、三男なんかに比べればずっと優遇されているお給料を投げ打ってまで、先の見えない海外生活の夢に賭けようとする彼。
「いいよ。別に。君の人生だもの。やりたいようにやったらいいよ。」と心の底から言ってやりたい。
だけど君の準備不足と、マグマがいつもすぐに冷えてしまうように見えるのがどうにも心配なんだよね。
ねえ、魔法使いの稲荷山のおじいちゃん!
おじいちゃんの瞳のような不思議色した魔法の玉で、お願いだからあの子の未来を占ってよ。
あの子がより幸せそうにしている方に賭けてみるからさあ。( ^-^)
なんといっても、やりたいものはやりたいのですよね。
一度だけの人生、リスクもじぶんで背負うのなら、やりたいことをやればよいと思います。冷めたら、また暑くなればよいし ^^
すごいおうちなんですね。
親戚の方も色々な方がいらっしゃいますね。
by moz (2012-07-22 10:19)
mozさん、コメント有難うございます。
そうなんですよね。そういう気持ちを大事にしなきゃいけないんですよね。
ただ、彼がそこまで強い気持ちがあるなら、もっと前に行動を起こしてたんじゃないか・・とか、いろいろ考えてしまって。
まったくいつまでたっても親の心配は尽きませんね。
ルーク篁(たかむら)さんにはもちろんお会いしたこともありませんが、親戚の中にこういう自由な世界を闊歩されてる方がいるということを知るのは、子供たちにとってもいいことかもしれませんね。
かと言って、即、「会社辞めて海外あてもなく行っておいで!」という勇気もなかなかありませんが・・。(^^;;
by 九子 (2012-07-22 11:48)
おじいちゃんの話はジンときちゃいますね。
私の父は明治最後の年に生まれた人なので(私はかなり晩年の子どもです)明治生まれの人の気骨を見て育ったせいか、それは尊敬に値します。
九子さんの資質にもおおいに貢献してくれているようですね。
by 扶侶夢 (2012-07-22 19:07)
扶侶夢さん、こんばんわ。
お父様、明治生まれですか!
でもうちの父も大正8年ですから、そんなに差はありませんね。
明治と大正の差は大きく感じますが・・。
父は大正生まれだけあって、明治生まれの気骨などと言うものはあんまり持ち合わせて居なかった様な・・。(^^;;
私が成績が良かった頃は、いつも「母親似」と言われてました。
父方の方はぱっとしなかったですね。(^^;;
by 九子 (2012-07-22 22:14)
ここに辿り着いたのも何かのご縁かと思います。彼が地球デビューを果たされた時とその翌年、イベントで二度会って話したことがあります。その後は学業が忙しくなって、それどころではなくなりましたが。そんな私も今では育児の傍ら、調剤過誤に恐れながら働いてます。最近、投薬後レジ精算してる一瞬の間に患者さんに処方せん持って帰られて大変でした(-_-;)これからもちょくちょくのぞきに来ますね!
by ユキ (2012-09-24 22:31)
ユキさん、こんばんわ。
普段はこんなにコメント返すの早くないのですが・・。(^^;;
おお、彼と二度会われているのですか。もちろん私は会ったことありません。
ユキさんは私の尊敬する本物の薬剤師さんですね。( ^-^)
うちの娘たちにも2代続いたテイタラクな薬剤師を卒業して(^^;;、本物の薬剤師になって欲しいと願っています。
処方箋持ち帰る人、たまに居ますよね。大きい薬局さんなんら遠くから見えるから、それはそれは大変ですね。
こちらこそ、よろしく!
by 九子 (2012-09-24 23:02)
はじめまして
自分の祖父が稲荷山の高村姓であることからここにたどり着きました
自分は愛知県に住んでいて、祖父は父が幼少の頃に亡くなっており、父も祖父のことをあまり知らない状態です
いつか自分のルーツである稲荷山を訪れたいと思っています
by 木下 (2017-06-17 00:04)
はじめまして
先にコメントを残した方同様に、稲荷山の高村姓にて辿りつきました。
子供の頃(50年前)に父と叔父の3人で本家を訪れたことがありますが
なにぶんにも記憶がわずかしか残ってません。
機会があれば稲荷山へ訪れたいものです。
by 高村 (分家:東京) (2022-02-14 09:35)