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みんなって誰? [<九子の万華鏡>]

 ロンドン五輪もついに終わった。
申し訳ないけれど、日本がこんなにたくさんのメダルを取るなんて予想だにしなかった。

連日のようにメダリストたちがテレビ画面に大写しにされて、メダルを取れた喜びを語る。

男子競泳メドレー400mの銀メダルチームの「(北島)康介さんをメダル無しで日本へ帰す訳にはいかない。」という言葉は泣かせた。これぞ日本人らしい義理人情の世界だと思った。

だけど今年のメダリストたちの言葉には、以前にも増して「みんなの力でメダルが取れました。」というのが多かった気がする。

一人、二人ならいい。でもこう度重なると、天邪鬼な九子はついついこんなことを言いたくなる。
「えっ?みんなって一体誰のこと?少なくとも九子は、あなたのメダル獲得にまったく関与していませんが・・。」


そもそも九子の「みんな」嫌いは年季が入っている。

あれは小学校2年生頃の劇の時間。
その年は確か、ニワトリとヒヨコたちの劇をするので、ステージの上で練習していた。

九子はふだん自分から意見を言う方ではなかった。

ところがその九子が「わたしがニワトリをやりたい。」と手を上げたのだから、先生はびっくりされたと思う。

九子は「みんないっしょ」のヒヨコ役をするのがどうしても嫌だった。理由なんか何も無い。
ただただ「みんないっしょ」という言葉も、それを想像することも嫌だった。
嫌だったというより、恥ずかしかった。
どうしてだろう。その時の恥ずかしさに理由を付けなさいと言われても、今でも理由など見つからない。

まあ言ってみれば、生理的嫌悪感というものだったのだろうか。

だんご状態、だんごになって、とか、いっしょくたという言葉もM氏は良く口にするが、九子にとってはそれらもなぜか恥ずかしい。理由など無いけれど、恥ずかしくてたまらない。

九子が一人っ子だったからだろうか。友達と遊ぶ経験が余りにも少なかったからだろうか。

 

子供たちが善光寺保育園に通うようになって、園の入り口のアーチのところに「みんななかよく」という標語が飾られていた。

最初の頃こそ違和感無く眺めていたけれど、毎日、それも一日に何度も嫌でも見ているうちに、なんだか気持ちがしらけて来た。

「みんななかよく、なんてあり得ないのにね。」


三男Yに発達の遅れがあって一年でも早く集団行動の場に入れた方が良いと勧められて保育園に入れることになった時、次男Sは通っていた幼稚園をやめて保育園に途中入園した。

新入りの彼は、初日から腕白揃いの子供たちの先制パンチを浴びた。
ひるまずにパンチで応戦した彼は、仲間と認められてその日から友達が出来た。


男の子の世界なんて、そんなもんなんじゃないの?

九子の気持ちを誰かが察してくれたものか、いつの間にか標語は取り外されていた。


思えば松井秀喜選手がニューヨークヤンキーズに移籍した当初、勝ち試合のコメントを求められて
「チームのみんなが頑張ってくれたから勝てました。」というような趣旨のコメントをして、当時はそういう言い方がアメリカ人には新鮮だったのだろう、控え目な紳士だと言う風に受け止められたという報道があった。

それに対して九子自身もその時はなんだか日本人松井秀喜を見ているようで誇らしく思ったのだけれど、もちろん怪我などの不運もあって松井選手は戦力外通告を受けてしまい、一方そんな事はあんまり言わなかったイチロー選手がまだ表舞台で華々しく活躍しているところを見ると、そういう日本人的な「みんな」への気遣いなんてものは、少なくともアメリカでは無用の長物なのかもしれないと思えてくる。


「みんな」や「皆」には個人が無い。九子の忌み嫌うだんご状態だ。
それなのにそういう状態を好む日本人はかなり多いようだ。

一番九子が驚いたのは、入れ歯安定剤のコマーシャルで「皆といっしょに笑顔で食べられる」と言っていたことだ。

食するという極めて個人的なことにまで、皆が介在するのだろうか?
そして食事の時に皆が介在することは、彼女にとって幸福なことなのだ。

 

さっきの「みんなの力でメダルが取れた。」と言ったメダリストたちに聞きたい。

あなたはメダルが取れたから幸運だった。
だけどもしもあなたが負けてメダルを手に出来なかったとしよう。
あなたの言う「みんな」は掌を返したように豹変してあなたの負けを攻撃するに違いないのだけれど、それでもあなたは同じ事を言えますか? と。


少なくとも英語のeverybody everyone にはevery「各々」の集合体としての全体という意味があると思う。集団の中で「個」がつぶされていない状態だ。
「個」が見え隠れしている以上、ある程度集団の暴走は押さえられるのではなかろうか。

そういう「個」が生かされている言葉を日本語で捜すとなると、昔、昔、大石内蔵之介が忠臣蔵の討ち入りで多用した「おのおのがた」という言葉、あるいは「各自」「各人」?これらも多数に対して使うよねえ。

どちらにしてもあんまり一般的な言葉ではない。

「みんな」という言葉を使うなら、「チームのみんな」とか、「同僚の皆さん」とか、少なくとも
本当に協力してくれて、これからも負けようが勝とうが結果に関わらず温かく見守ってくれる集団を特定して、彼らに敬意を払って言及すべきだと思う。


「みんな」を脱却するというのは、3.11以来いろいろな人に言われているようだ。

藤田令伊(れい)さんというアートライターは「3・11を経験した私たちには、主体的に「考える」ことが問われている。」と言う。

そしてフェルメールの作かどうかいまだ議論が別れている「ヴァージナルの前に座る若い女」を、あなたならどう見るか考えて欲しいと問う。

 

いづれにせよ、私たちはそろそろ誰かが「名作だ」と言うから名画だと思って見るような見方からは卒業したほうがよい。もう一つ言い添えておくと、絵に対する評価は必ずしも真作・非真作と合致する必要はない。非真作でも高く評価して悪いわけではない。

 

真作とされる理由は、絵の具が17世紀のものでキャンパスの織り目や顔料がフェルメールのものに似ていること。

贋作を唱える根拠は、フェルメールにしては描き方が「らしくない」ことや絵の具は17世紀のほかの絵からこそげ取ったりしていくらでも加工できるから・・・というもの。 

さあ、この絵はフェルメールであるか否か?そしてその理由は?

img_390321_6035019_0.jpg


「みんな」の影に隠れて、私たちが長い間忘れ切ってしまったのはどうやら「考える」ことだった
ようだ。そりゃあそうだ。「みんな」に付いて行けば、考える必要なんかない。

「考える」ことは、なるべく早く始める方がいい。
人生もおしまいの方に近づいてからだと、身についた習慣や考え方の癖みたいなものをそう易々と変えることは出来ないからだ。

「考える」ことの次に待っているのは、「決断」だ。
九子は妄想の天才(^^;;だから、「考える」のはそこそこ自信があるが、「決断」は苦手だ。
「どちらか一つに決める」というのは、日本人は結構苦手なんじゃないかな?

「決断」には痛みを伴う。良い部分でも捨てなければならないからだ。
だけどそれをしなければ、「選択」が出来ない。「意思表示」が出来ない。

「意思表示」が出来なければ、日本という国を守れない。

 

「考える」ことは一人立ちの基本だ。「みんな」から脱却する第一段階だ。
津波てんでんは、何も津波の来る海沿いの地域のことわざではなくて、これからを生きる日本人一人一人が心すべき格言だと思う。


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コメント 4

moz

ヴァージナルの前に座る若い女はキャンバスが裁断のあとまで、他のフェルメールの作品とつながりがあるものだと言う事が決め手になったようです。フェルメール、一般的には37作あるといわれていますが、その中にも3つ4つ、人によってはフェルメールではないという作品もあるそう。
寡作の人だったけれど、反対にまだフェルメールの作品がイタリアなどのどこかに眠っているかもしれません。それは、とてもたのしみ。
ちょっと脱線ですが、大好きなフェルメールだったので、そうですね、じぶんの意見、皆がそういうからではなくて、持つことは大切なんだと思います。そうすれば、変なこと、例えばいじめとかなくなるのでは。
ヴァージナルの前に座る若い女、じぶんはフェルメールの絵だと思います。傑作もそうでない絵もありますし、でも、見ていると、ぼくだよって語っているように思えましたので(笑)
by moz (2012-08-14 08:07) 

九子

mozさん、こんばんわ。
さすが、mozさん!無類のフェルメール好きですね。( ^-^)

mozさんのフェルメール解説、とても面白く拝聴致しました。
東京へ行けばまだ見られますよね。行きたいと思うのですが、この暑さの中を何時間も並ぶというのがネックで・・・。(^^;;

生涯で37作しかないのに、それがこんなに有名というのも本当に凄いですよね。

>でも、見ていると、ぼくだよって語っているように思えましたので(笑)

これ、大正解ですね!これ以上の正解は無いと思います。

私もなんだかそんな気がします。彼女の顔の表情は、フェルメールの描く女性そのものですよね。

生涯に37作しか描かなかった画家の絵が人真似されるほど有名だったものかどうか?

フェルメール、どこまでも奥が深いですね。( ^-^)


by 九子 (2012-08-14 19:47) 

Extar15

九子さんこんばんは。「みんな」ですか・・・誰か特定の個人に感謝をすることは多々ありますが“複数形”を対象にしたことは僕はないです。感謝は一人一人に対してするもの。それが「みんな」になってしまうと非常に抽象的であいまいなものになりますし、それは感謝でもなんでもなくなると思うのです。
by Extar15 (2012-09-05 19:29) 

九子

Extar15さん、こんばんわ。

確かにその通りですね。「みんな」って言った選手たちはきっと特定の個人を念頭においていたのだとは思うのですが、口から出た言葉が「みんな」だったので、なんだか気になってしまいました。

感謝は一人一人に・・。おっしゃるとおりです。
by 九子 (2012-09-05 20:47) 

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