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犬の話 [<九子の万華鏡>]

どう見ても、つまんない犬である。

外にばかり繋がれているせいか、白い毛並みが薄汚れていて、頭の上に三角巾をかぶったように灰色が広がっている。
どう贔屓目に見ても純血種にはとても見えず、そして人間で言えば中肉中背、これと言った特徴も無い。

九子だって朝の番組やyoutubeに出てくるよく毛繕いされた由緒正しげな犬や猫が、なんとも愛嬌の有るしぐさをするところなんか見ると、思わず手を休めてついつい見入ってしまうし、ブログに可愛いい写真が載っていると思わず目を細める。

でもその犬は、残念ながら何人をも惹きつけて止まない外観の魅力というものに最初から恵まれていなかった。

はじめて九子を見た時と、その翌日は、彼(たぶん)もさすがに吠えた。
そうでなくっちゃ、とても番犬は勤まらない。

しかし番犬と言うには、彼には正直、荷がかち過ぎると思う。

表札の名前から100%日本人であるはずの彼のご主人様の日本人らしさの生き写しなのか、温厚を通り越しておどおどびくびく、気弱そうな瞳が何度も何度も宙を泳ぐ。


彼は、毎日の九子の散歩道の階段に、いつも鎖につながれて居る。
今日は居ないのかなあと思えば、すぐ隣にある窮屈そうな犬小屋にちょこんと手足を横たえている。
たまに、そのどちらにも姿が見えないことがある。
そんな時、散歩にでも連れて行ってもらえたのかもしれないと、彼のささやかな幸せを思う。

善光寺につづく城山(じょうやま)には、本来の道路のほかに何本か、垂直に近いほど急な階段が作られている。
昔の人が生活の「効率化」のために作ったと思われる。
今はもっぱら近くにあるカトリックの女子高生たちが近道に使っている。

昔の日本人の「効率化」とは、時間をかせぐ事が一番の意義で、仕事量が多くなることはまったく意に介していないことが階段を歩いてみるとよくわかる。
だからして、九子の足腰のエクササイズには最適なのだ。( ^-^)

夏の一番暑いとき、彼は性懲りも無く地べた(と言っても階段の上だが)に腹ばいになっていた。
必ず後ろ足二本を上の段に折りそろえ、前足は下の段に行儀よく伸ばすのだ。
ちょっとスフィンクスの坐り方を思わせて、その時だけはわずかばかり、彼に威厳が漂う。


日よけ傘をさした九子が珍しく彼に声をかける。
「いつまでも暑いわねえ。そんなとこに坐ってて、暑くないの?」

彼は舌を大きく伸び縮みさせながらしばし九子の顔を覗き込み、再びおどおどとまんまるい目を虚空に漂わす。

犬好きの人であれば、ここで彼の首輪を両手で挟んで彼が目を細めるほどに首の辺りを撫でてやったり、少なくとも社交辞令に彼の頭を軽く叩くくらいのことはしてやるところだろうけれど、そこは九子である。なかなか手が出ない。(^^;;


薬大時代の実験とか、家庭科の裁縫とか、料理とか、九子はすべて自らが手を出すのは最小限にとどめて、人様がやってくれるのをただただ見ているだけというのを長年続けて来た。

長い習慣というものはそう易々とは変えられない。


犬と一緒にするのもどうかと思うけれど、5人も子供を生んでおきながら、世話好きの両親に子守を預けっぱなしであったものだから、今でもひょいっと誰かの赤ちゃんを渡されたりすると、心の中でどうしたものかとおろおろする。(^^;;


だから実は、どちらかと言えば小心で、目を合わせると怖気づいて目を逸らすような犬の方が九子にとっては安心なのだ。そんな犬であれば、向こうから寄ってなど来ないであろうから。

もちろん、九子だってそんなに薄情ではない。犬の方からこの腕に飛び込んでくるような状況になれば、戸惑いながらも彼をひっしと抱き寄せて、熱い抱擁くらいは交わしてやろうと思う。

そう。だから彼は、実に九子にぴったりの犬だったのだ。
積極的に打って出て、九子をどぎまぎさせる術も知らず、怠惰に、静かに、自分の場所に留まり、一生その場所で同じ景色を見暮らして、そういう生に満足して、やがてひっそりと死んでいく。


九子は彼の中に、自分の姿を見ていたのかもしれない。

 

「失楽園」で有名な医者で作家の渡辺淳一さんが、最初に解剖の実習をやった時、人体の構造はすべて解剖学書に書いてあるとおりそのままだったのが大変印象的だったと言われた。

「すべての人間が同じなんだ。それなのに、個々の人は、天と地ほどに違う」と思い、人間とはなんとつかみどころがないのだろうと驚き、同時に不安や感動が沸いてきて、それが小説家としての原点になったと言っておられた。


犬や猫はさまざまな外観をしていて、飼い主にはよくわかる固有の性格の違いはあるとは思うが、彼らの腹の中というのは、人間ほどは複雑ではないと思う。

人間どもが彼らを愛して止まないのは、自分たちには無いその心根の単純さにあるのかもしれない。


赤ん坊の時は皆その誕生を喜び、字画がどうの響きがどうのと凝りに凝った名前をつけてもらい、やれお七夜だ、やれお宮参りだと皆同じように晴れがましく祝ってもらうのに、10年、20年、30年、40年、50年と経つうちに、人間は本当に千差万別である。
なんでこんなに違うのかと驚く人をたくさん見ることが出来る。

そういう人を見る度に、人生というのは日々の積み重ねだと思い知らされる。

毎日充実した一日一日を暮らしてきた人は、どこか包容力があって自信に溢れ、人を逸らさない。

一日の大半を酒とタバコとカラオケ屋で過ごす人は、彼の話にも、声にも、彼の表現するありとあらゆるものの中に、いかんともしがたい人生の頽廃(たいはい)が隠しようも無く現れているのに、彼本人はそれに全く気づく事がない。
生活の荒みは、感性を鈍麻させる。彼にだって華々しい時期はあったはずなのに・・。


子供とご主人のためだけに長い人生を尽くし抜いて来て、いざ考えてみたら自分の人生は何だったのかと気づく人もいるし、気づかないで一生を終わる人もいる。
どちらが幸せなのかは正直わからない。
それでも、誰かに尽くして一生懸命に生きてきたという日々の積み重ねだけは揺らがない。

こうしてみると、九子のまわりではダメ人間は男性の方に多くて、女性の方が身を持ち崩す人が少ないような気がする。あなたのまわりではどうだろう?

女の方が真面目だから、女の方が辛抱強いから、女の方が用心深いから、女の方がケチだから・・・。女の方が安定を好むから・・・。
いろんな理由はつけられようが、結局は女性の方が変わることに対して臆病なのかもしれない。


人間は変わる。自分の望むようにいくらでも変わることが出来る。
そして自分の望まぬ方へ、いかようにでも流されていく。


だから無意識のうちに、終生変わらぬものを、犬たちの忠実さを、猫たちの気まぐれを、毎日眺めてはそのありようにほっとするのかもしれない。

 

涼しくなりかけた頃のある夕方、何を思ったか九子は彼に近寄って片手を差し伸べてみた。
彼は本能的にすり寄って、九子の人指し指のにおいを嗅いで、おざなりに舐めた。
そして、フンとでも言うように顔を背けた。

次の日、彼は九子を見て久しぶりに吠えた。何度も吠えた。
初めて出会った日のように吠えた。

そして九子ははじめてまじまじと彼を見た。
「あら、いやだ! 柴犬かもよ・・(^^;;。」

白いと思ってた彼の胴体は、薄い黄土色と灰色の毛で色分けされていた。
純血種じゃないにせよ、柴犬がだいぶ混じっている可能性は大だ。

どこを見て白い犬と思ったんだろう。
毎日会っている犬でさえこの通りだ。
九子はいったい、この世の中の何をどう見て暮らしているのだろう。

 

九子に犬好きか猫好きかと問う人は、九子を知らない。

実際問題として犬は3度飼い、猫は飼ったことがない。
世話をしていたのはもっぱら出来すぎ母で、今よりももっと自分の世界の中だけに住んでいた当時の九子は、彼らにとってもありふれた景色の一部にすぎなかったのではないかと思う。


この文中のすべての「犬」の字を「猫」に置き換えたら、たちまちこの話は「猫」の話になってしまう。そんなもんだ。

九子にとっては犬も猫も、所詮その程度の付き合いなのだ。

そして犬猫のほうにとってみても、九子の存在など、寄ってくるハエ一匹ほどの値打ちすら感じていないということを、九子はよくよく知っている。(^^;;


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伊閣蝶

読み進めるうちに心の中が温かくなるような文章でした。
それでもじっくり読むうちに、人の行き方の根底のようなものが垣間見え、感心しているところです。
ダメ人間には男の方が多い、というのは、恐らく普遍的な真理ではないかと思います。
女の人は、大地に根を張ってたくましく生きる樹のような存在であり、男は所詮浮き草のようなものなのかもしれません。
せめて退廃的な人生を送ることのないように、自分自身を見つめ直していこうと改めて思いました。
ワンちゃんにも感謝ですね。
by 伊閣蝶 (2012-09-24 18:31) 

九子

伊閣蝶さん、こんばんわ。
いつも温かいコメントを頂戴し、心より感謝申し上げます。

そうですか。やっぱりダメ男の方がダメ女より多いですか。

>女の人は、大地に根を張ってたくましく生きる樹のような存在であり

自分に当てはめるとどんなもんかな?と思いますが(^^;;、私の周りにダメ女というのは見当たらないんですよね、やっぱり。

伊閣蝶さんは絶対に退廃的になどなるはずはありませんから、今のままで全然大丈夫です。( ^-^)

ワンちゃんのいる生活、やっぱりいいですね!
by 九子 (2012-09-24 21:09) 

扶侶夢

私には“幼な児のような感性”が感じられます。なんだかとっても壊れやすそうな、それでいて意外としたたかな、でもやっぱりか細い感性を感じます。
何かよい作品を生み出す素地がありそうですね。
by 扶侶夢 (2012-09-27 22:15) 

九子

扶侶夢さん、こんにちわ。( ^-^)

”幼な児”・・をそろそろ世話しなければならない年ですが・・。(^^;;

でもおっしゃっていただいたこと、とっても嬉しかったです。
3日くらい、ご飯を食べなくてもいいくらいに・・。( ^-^)

ただ、これ以上は何も生み出せないと思います。
ブログが作品で、それしか書けませんから。( ^-^)

温かいお言葉、ありがとうございました。
by 九子 (2012-09-28 14:54) 

youzi

こんばんは♪ いつもありがとうございます。
今は犬好きですが、何を隠そう、小さい時は
犬猫が大嫌いでした。って言うか、とても怖い存在でした。
小さい時はまだ、家の周りには野犬と言われる犬がいたんです。
外でそんな野犬と呼ばれていた犬に出くわすと、
走るのは遅かった私が、全速力で走って家まで帰った事を
思い出します。
とても走るのが遅かったのに、何故か追いつかれて、
噛みつかれた事がなかったのは今思うと、とても不思議な事。
もしかして、思いもしないスピードで走っていたんですかね(笑)
今は犬好きとなりましたが、実は嫌いな犬種があったりする私。
by youzi (2012-10-04 20:41) 

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