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死とは何か・・さて死んだのは誰なのか  池田晶子 [<九子の読書ドラマ映画音楽日記>]

こんなに残酷な本がかつてこの世の中にあっただろうか?

彼女は聡明で美しい哲学者であった。
慶応大学文学部哲学科を卒業され、学者らしくないわかりやすい哲学の本を書く文筆家として大変人気があった。

彼女はふだん死についてこんな事を語っていた。
「考えても死なんて言葉だと知るだけだ。」

その彼女が腎臓癌というあまり人がならない癌になって、闘病の末、この世を去った。
まだまだ見目麗しい47歳だった。

まわりはみんな、悪気は無くとも考えてしまう。
「彼女は死に臨んで、本当に持論のように死を客観的に受け止めることが出来たのだろうか。運命を受け入れて、従容として死出の旅路におもむく事が出来たのだろうか。」

人生の終焉に訪れた、衆人監視の中の公開処刑を思わせるこの残酷な試練に、いったい池田晶子さんはどんなふうに立ち向かったのであろう?


池田晶子さんには勇気をもらった。
彼女は一人で過ごす時間の豊かさを教えて下さった。

おかげで、友達少ない人間九子のしょうもない妄想やら白昼夢やらも、あたかも深遠な意味が有るような錯覚を覚えて(^^;;、なんだか九子の人生にもそれなりの価値を見出す事が出来そうな気がした。

以前引用した部分は除いて、別の部分を抜き出してみる。

p40
とまあ、そんなふうに、孤独をネガティブなものだと感じることが、私にはありません。というより正確には、一般に人が言う「孤独」というその概念を怪しく思うのです。

だって、ここでハッと気がついてみませんか。存在しているのは「自分」なのですよ。「自分」だけなのですよ。「自分」というのは、言うまでもなく、この自分、他の誰かではないこの自分、自分でしかないこの自分のことです。

他の誰かではない、自分でしかないこの自分が、その意味で、孤独であるのは当たり前のことではないですか。自分と言うものが孤独であるのは、ネガティブ以前の、端的な事実ではないですか。

こんな当たり前なことに、どうして人はグズグズいっているものか、私は以前から疑問に思っていました。誰か、自分ではないような人が、はたして存在するのでしょうか。<略>

生きているのが自分なら、死ぬのだって自分です。自分の死を他人が死ぬことは不可能だ。人生は孤独なものである。何が問題なのでしょうか。


p41
世界について、宇宙について、考えているのは、経験しているのは、自分である。自分でしかない、自分しかいない。ゆえに、世界とは、宇宙とは、自分である。宇宙は自分として存在する。

自分の孤独を認識するとは、すなわち自分を宇宙と知ることだ。孤独とは宇宙そのもの、そして宇宙とは、広大にして繊細にして永遠であるところの何ものだ。
人が、孤独であることに見出す豊かさとは、煎じつめれば、本来的にこういうことであるわけなのです。<略>

「自分」というものの畏るべき不思議さ、それを自分と思い込んでいたものから、ひとつひとつ解放されてゆくことができるなら、自分とはそのまま宇宙大の孤独だったと、人は必ず気がつくでしょう。

その時開ける光景を味わうことこそ、そうですね、人としてこの世に存在したことの醍醐味と言えるでしょうか。


「自分とはそのまま宇宙大の孤独である。」
なんだか禅の老子の講和を聞いているようだ。( ^-^)

死とは何か さて死んだのは誰なのか

死とは何か さて死んだのは誰なのか

  • 作者: 池田 晶子
  • 出版社/メーカー: 毎日新聞社
  • 発売日: 2009/04/04
  • メディア: 単行本

大恩ある池田晶子さんが命を振り絞って書いたこの本の最初に「死ぬとはどういうことなのか」と言う問いが出てくる。

私たちは必ず、誰かの死に立ち会っている。少なくともいつかは立ち会うはずだ。

「そして私たちが死だと思っているものは、実は死体であり、本当の死ではない。」と彼女は言う。

死体は目に見えるが、無であるところの「死」は目に見えない。だからわからない。

無はどこに存在するのだろうか。「死」というものは存在するのだろうか。

その人はどの時点で死んだのか。何が死なのか。わからないまま脳死判定など行っても、混乱が生じるばかりだ。

さらに読み進めてみると、彼女は「死」とは何かの結論を出している。


130P 
生とは、死に対するところのものである。死があるから生なのであり、生があるから死もあるのである。

ところが、物質ではない死は、無として存在しないものなのであった。
死が存在しないとすると、当然、生もまた存在しないはずである。
しかし、現に我々は「生きている」。これは、どういうことなのか。

 つまり、「生」または「死」とは、それ自体が言葉だということだ。
我々は、言葉で、現象を定義しているにすぎないということだ。

動いている物のことを、とりあえず「生きている」と呼び、動いていない物のことを、とりあえず「死んでいる」と呼んでいる。
事実はそういうことなのだ。

これが冒頭の言葉「考えても死なんて言葉だと知るだけだ。」に繋がっていく。


139pにはもっと過激な言葉が並んでいる。

なぜ人が死を恐れるのかがわかりません。だって、死は観念のなかにしかないんですよ。

死体は存在しても「私の死」は存在しない。正確には、「考えられない」ということですが。
詭弁でも何でもなく、論理的に考えれば必ずそういう結論が出る。
「理屈はそうだが、しかし」と普通の人は思っちゃうわけでしょ。そこが哲学的な体質とそうじゃない人の違いです。

私にとって死は存在しない。ないものを恐れて一生を過ごすのは不健全です。


彼女はこう言い切ってしまった事を、病気になってから一度も後悔しなかったのだろうか。
その答えは、この本を最後まで読んだ方々だけにわかる。


彼女の病床記みたいなものが公開されている訳ではないが、少なくとも彼女の最後の講演原稿が伝える彼女の死の瀬戸際の生き方は、大変凛として美しいものだった。

彼女は亡くなるほぼ一ヶ月前に医療関係者向けの講演を予定していが、呼吸苦が深刻となってキャンセルせざるを得なくなる。そのせめてものお詫びとして出席予定者全員に、苦しい息で自宅で書かれた遺稿となる講演原稿が配られた。

それは「死とは何か・・・現象と論理のはざまで」というタイトルで、「死」という言葉が、なんのてらいも無く、何十回も使われていた。

まるでコロッセオを埋め尽くした満員の観衆を嘲笑うかのように、美しい女奴隷はライオンならぬ死という怪物に勇猛果敢に立ち向かった。


池田晶子さんは誠実の人だったという。仕事のキャンセルはこの時のただ一回。一度引き受けた仕事には全力を傾け、締め切りは必ず守ったと言う。


今回の九子日記は引用に次ぐ引用で大変申し訳ないが、池田晶子さんの言葉は、是非とも彼女の言葉でお伝えしないと意味が無い。
池田晶子によって考えに考え尽くされた言葉であるから、人々の心を打つ楔(くさび)となるのだ。

この一冊の中で、九子が一番心打たれた言葉。彼女に言ってもらって心の底から感謝している彼女の言葉たちをどうしてもあなたにお伝えしたい。
それは他でもない「言葉」についてである。

彼女でなければここまでの事は言えまい。そしてこれを読めば、彼女が発病以来、一貫して自分の信念、自分の言葉を曲げずに死に雄雄しく立ち向かってきたと言う事実がわかって頂けると思う。

言うならばこれは、彼女の矜持である。

それでは、池田晶子さん渾身の「言葉の力」より。

p220
「初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。」
「すべてのものはこれによってできた。」
これらは、聖書の言葉である。<略>

「神」だなんて、現代のわたしたちには、どうもうまく考えられない。<略>

絶対にわからないもののことを「神」という名で呼ぶのは、その意味では間違っていない。事実、その言葉の意味が存在するからこそ、その物やその事が存在するのだから、言葉とは万物を創造する神様に似たものと言ってもいい。
言葉の力とは、まさしく、創造する力なのだ。

昔の人は、このことを、事実としてよく認識していた。だからこそ、言葉を敬い、言葉を畏れた。「言霊」という表現に、それは端的に現れている。言葉で言うとそれは存在する、と彼らは考えたのだ。言葉には、ものごとを創造する力があるからだ。

小さい頃、母親のひざの上で絵本を読んでもらったとき、実際にはいないはずの人物や動物が、語られる言葉の中に、まるで目にみえるかのようにありありと出現したのと同じだ。
言葉の力というのは、魔法のようなものだ。

ところが、現代人は、この畏るべき言葉の魔法を、ほとんど忘れてしまっている。<略>

けれども、ここで先の聖書の言葉も思い出して、もう一度考えてほしい。そもそも、ある物をある名で言うと決めたのは、誰だったろうか。それは決して人間ではなかったのだ。
ましてや、今回こっきりで生まれてきただけのこの自分であるわけがない。

水を「水」と言うことに決めたのは、水を「水」と言う事で在らしめた「神様」だ。言葉としての神様だ。それなら、神さまであるところのその言葉を、それによって作られたところの人間が、どうして道具として使うなんてことができるだろうか。

人間が言葉を話しているのではない。言葉が人間によって話しているのだ。生涯に一度でも、この逆転した視野から、自分と宇宙をながめてみるといい。人生とは言葉そのものなのだと、人は必ず気がつくはずなのだ。

言葉を信じていない人は、自分の事をも信じていない。しかし、自分を信じていない人生を生きるのは、とても苦しくて大変だ。言葉ではああいったけれども、本当はそう思っていない。そんなふうにしか生きられない人生は不幸だ。

言葉と自分が一致していない人生は不幸だ。だから、本当に自分はどこにいるのかを、人はあちこちに捜し求めることになる。しかし、本当の自分とは、本当の言葉を語る自分でしかない。本当の言葉においてこそ、人は自分と一致する。
言葉は道具なんかではない。言葉は自分そのものなのだ。

だからこそ、言葉は大事にしなければならないのだ。自分の語る一言一句が、自分の人格を、自分の人生を、確実に創っているのだと、自覚しながら語ることだ。
そのようにして、生きることだ。

言葉には、万物を創造する力がある。言葉は魔法の杖なのだ。人は、魔法の杖を使って、どんな人生を創ることもできる。それは、その杖を持つ人の、この自分自身の、心の構えひとつなのだ。

実はこの「言葉の力」のすぐ前に「言葉はいのちである。」という章がある。
九子は実際、ここまでの思いを言葉に対して持っていなかった。
言葉が力だとは意識していたが、いのちとまでは思わなかった。

どういうことかというと、この章はある死刑囚と池田晶子さんの対話である。
池田さんが書いた「ソクラテスの言葉」で、死刑囚が回心したというのだ。


我々の生死は、じつは、言葉においてのみある。言葉以前に生死は無く、言葉以後に私はない。言葉と存在とのこの悩ましい共犯関係は、逆に、我々を、生死の呪縛から解き放つ。

ソクラテスの語りを書いたプラトンの言葉を読んで書いた私の言葉を彼は読んだ。私の言葉はドストエフスキーから学んだ埴谷雄高に学んでおり、同じくドストエフスキーから学んだ彼は埴谷雄高を読んでいま書こうとしている。書かれた言葉が、誰かに届く。

脈々と続き、繰り返し巡るこれら考える人々の言葉、
「誰が」生きているのだろうか。
「誰が」死んだことがあるだろうか。

巡る言葉に宿られる我々の魂が、不滅かどうかを私は知らない。しかし、言葉の力を信じる限り、「人間の身に可能な限りの」、最大の自由をえているのだと、私もまた、信じている。
言葉は、いのちである。
彼に、幸あれ。

そして池田晶子さんが大好きだというプラトンが書いた『パイドロス』から、師ソクラテスの言葉を・・・。

<ひとがふさわしい魂を相手に得て、ディアレクティケーの技術を用いながら、その魂の中に言葉を知識とともにまいて植えつけるときのことだ。

その言葉というのは、自分自身のみならず、これを植えつけたひとをもたすけるだけの力をもった言葉であり、また実を結ばぬまま枯れてしまうこともなく、一つの種子を含んでいて、その種子からは、また新たなる言葉が新たなる心に生れ、かくてつねにそのいのちを不滅のままに保つことができるのだ。

そして、このような言葉を身につけている人は、人間の身に可能なかぎりの最大の幸福を、この言葉の力によってかちうるのである> (岩波文庫・藤沢令夫訳)

言葉というのは凄いものだなあと改めて思う。
ただ、ここに書かれているように「ひとがふさわしい魂を相手に得て」というのが必須条件なのだということを忘れてはいけないと思う。

どうしても分かり合えない相手、話せば話すほど落胆してしまう相手、心を込めて語っても理解してもらえない相手、そういう人がきっと誰でも一人や二人思いあたるんじゃないかしら?

そういう相手は、残念ながら、あなたにとってふさわしい魂の持ち手ではないのだと思う。


ソクラテスだって、要するに、相手を選んだのだ。

凡庸な、しかも老い行く(^^;;九子に、ふさわしい魂の持ち手ではないかもしれない人たちに語る時間はもはやそんなに無いかもしれない。

「大丈夫、信じなさい。言葉は必ず応えてくれる。」

一瞬でも良い。言葉が、いのちを持つような一時を共有出来る魂と、焦がれるように巡り会いたい。

☆この本には小さなサプライズがあります。九子はずっと気が付かずに寝ながら読んでいて、ある時、眠い目をこすりながら数行読んでカクンと寝てしまい、朝気づいたらベッドから転げ落ちた本のカバーがはずれていて・・・。

あなたも探してみてくださいね。( ^-^)


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RuddyCat-Lalah

私は夏目漱石の虞美人草で影響を受けました。

悲劇を目の前にして襟を正せるか



by RuddyCat-Lalah (2013-03-27 00:05) 

九子

RuddyCat-Lalahさん、こんばんわ。
虞美人草、名前だけは知っておりましたが読んだ事が無いので、さっそく読ませて頂こうと思います。電子ブックで無料だったのでダウンロードしてみましたが、600ページの長編なんですね。でも、頑張ります!(^^;;

宿題がたくさんたまっておりますので、しばしの御猶予を頂いて、読ませて頂きましたらブログに載せるか、無理ならご報告に上がりたいと思います。
では改めて、メールの件、よろしくお願いします。


by 九子 (2013-03-27 22:03) 

mu-ran

素晴らしい文体に感じ入った次第です。
by mu-ran (2013-03-30 22:23) 

九子

mu-ranさん、こんにちわ。( ^-^)
はい。池田晶子さんの本は読めば読むほど凄いなあと思わされます。
特にこの本は彼女がいかにして生きたかの証として、これからも私の一生の宝物になると思います。
この本のことを書いた日記にmu-ranさんから書き込み頂いたこと、とても嬉しく思います。
有難うございました。
by 九子 (2013-03-31 14:32) 

mu-ran

素晴らしい文体とは九子さんの文体のことですが。。。

by mu-ran (2013-03-31 23:13) 

九子

あらっ!( ^-^)(^^;;
by 九子 (2013-04-01 12:45) 

アルテミス

はじめまして。「池田晶子」さんで検索していて辿り着きました。彼女の著書との出会いは私史上最大の革命でした。池田さん言うところの「私の本を読んで発狂しちゃった人がいる」に当てはまるかと思われます(笑) 存在の謎は果てしなく…礎となった言葉はいつまでも魂に語りかけていてくれます。
サプライズとはアレですね。哲学の巫女&初代ダンディー君の…。ふふふ。
by アルテミス (2014-01-28 18:50) 

九子

アルテミスさん、はじめまして!
小さなブログサイトへようこそ・・。( ^-^)

そうでしたか。きっと池田晶子さんのとびきりのファンでいらっしゃるのでしょう。

彼女に言ってもらうと、なんとなくぼんやりしていたものが形になるんですよね。
あれだけわかり易く書くためには、彼女の頭の中で物凄く上手に咀嚼していかなきゃなりませんよね。

本当に凄い人だったと思います。そして、つくづく残念です。

サプライズとは、そうそう。あれのことです。( ^-^)

アルテミスさん、最後に一つお願いです。ブログのトップページ(右端上のボタンで)を御覧頂き、左側をスクロールすると、メールアドレスが見えてきます。

良かったら是非こちらまでメール頂けませんでしょうか?

コメント、本当に有難うございました。( ^-^)
by 九子 (2014-01-28 21:44) 

アルテミス

九子さん、こんばんは。お返事ありがとうございます。
彼女のおかげでソクラテスの息づかいを肌で感じるようになりました。悪妻クサンチッペも大好きになりました(笑)
メールアドレスの件ですが、残念ながら携帯ですと送信できないみたいです。申し訳ございません。m(__)m
by アルテミス (2014-01-30 20:42) 

九子

アルテミスさん、こんばんわ。( ^-^)
あら・そうでしたか?
ケータイからでも大丈夫と思ってましたが・・。

それならいっそのこと、左欄リンクにある薬局の表紙ページに電話番号がありますので、電話を頂けませんか?

どうしてもお話したいことがありますので・・。

お待ちしてます。( ^-^)
by 九子 (2014-01-31 23:39) 

ありがとうございます。

不躾なコメント失礼致します。この度池田晶子さんのことを改めて知りたくなり、こちらに出会えました。大変清らに流れる川のような、失礼ながら素直なご解説がすーっと心に沁み入り、感謝申し上げます。
by ありがとうございます。 (2014-05-17 11:49) 

九子

ありがとうございます。さん、こんにちわ。
もしかしたら件名と間違えて書かれて、お名前ではなかったかもしれませんね。
どちらにしてもコメント、本当に嬉しく読ませて頂きました。

こうやって書いてくださる方が現れるとその度にブログ読み直してみるのですが、本当に池田晶子さんがおっしゃることは正しいし、そう言い切れる彼女の強さに感銘します。

彼女のおかげで、「言葉」というものが凡人が考えている以上に大きな大きな意味があるということをわからせてもらいました。発するたびに考えたいと思います。(難しいですが・・。(^^;;)

何かお役に立ちましたら幸いです。

これははじめてコメント下さった皆さんにお願いしているのですが、もしよろしければ左欄上の方にあるアドレスにメールを頂けませんか?

是非是非!お待ちしています。
by 九子 (2014-05-17 16:58) 

ミズキ

素晴らしい
勉強になりました
by ミズキ (2014-06-04 02:33) 

九子

ミズキさん、こんにちわ。お返事遅れてすみません。

過分なお言葉、有難うございます。
読むほどに、池田晶子さんの言葉には真実の強さがありますね。
彼女がああいう亡くなり方をされたことは悲劇だったかもしれませんが、彼女の本はこうやって生きている訳だし、伝説の一つとして語り継がれていくのでしょう。

ミズキさんは女性か男性かわかりませんが、女性なら彼女の生まれ持った才能や美貌にあこがれてしまいます。

これははじめてコメント下さった皆さんにお願いしているのですが、もしよろしければ左欄上の方にあるアドレスにメールを頂けませんか?

是非是非!お待ちしています。
by 九子 (2014-06-05 11:19) 

togo

死とは
を図書館で借りて読んだところです。
孤独について書かれているところに感銘うけています。

孤独でいると自分と直面しなくてはならないので
なにかと テレビや本や パソコンに逃げますね

そういう意味では昔の人は孤独に強かったんだと思う

最近 みんな つながっている とかいう言い方が
はやっているけれど 弱くなっているんだと思います

本当の深いところでつながる 能力が

人間は深いところでは ころころ変わるわけではないので
話題についてけなくなるとかいって なんかをフォローばっかりしているのは

病的だと思います
by togo (2014-10-27 19:01) 

九子

togoさん、初めまして!ネットの海の中から決して大きくないこの日記を見つけて下さり、コメントまでしていただいたことにまずは御礼申し上げます。有難うございました。<(_ _)>

私の頭は本当にざるのようで、こうやって必死でブログに書き留めていたつもりでも、いつのまにか何を読んだのか、何を書いたのか忘れてしまいます。だからこうしてたまにコメントを頂戴すると、また新たな気持ちで池田晶子さんを読み直したような気になって、大変嬉しいです。( ^-^)

>孤独でいると自分と直面しなくてはならないので
なにかと テレビや本や パソコンに逃げますね

気を悪くしないで下さいね。私は一人っ子なので、小さい時からずっと一人で、孤独という状態があまりにも当たり前だったので、それがいいとか悪いとか言う以前にそれっきりしかない環境で、togoさんの言葉を聞いて、友達に囲まれて生きている人ってそうなのかな?と逆に思いました。

このあたりはたぶん昔の人も同じで、生まれた環境に左右される部分が多いのかもしれません。

確かにつながってるっていう言葉、この頃不必要に多くなりましたね。言葉も新鮮なうちはいいけれど、あまりにも多用されるとうんざりです。

私は根っこがあまのじゃくなので、尚更そう思うのかもしれません。

facebook やtwitterに嵌ると、いいね!とか何とかの数が気になって来るんでしょう?

ランキングとか、九子も気にならないわけではありませんが、所詮数字ですよね。
目が覚めた時にとんでもないことろに流されていないように、注意したいものですね。
( ^-^)


by 九子 (2014-10-27 22:09) 

manpei

池田晶子さんを検索して偶然たどり着きました。
この日記に引き込まれました。

死とは何か、自分とは誰なのか?
などについても学者なみに深く理解している
九子さんの感性と才能に感銘して
読ませていただきました。





by manpei (2015-04-08 00:20) 

九子

manpeiさん、過分なお言葉頂戴し、心より感謝申し上げます。
いえいえ、そんな、浅い理解をさもさもわかっているが如くに書いているだけで、実像はびっくりするようなダメ人間なのです。(^^;;

manpeiさん、ひとつお願いがあるのですが、表紙ページ
http://kumokirimegusuri.blog.so-net.ne.jp/

に戻って左側のメール&お知らせ欄の下のほうにメールアドレスがございます。こちらへメールを一通頂けませんでしょうか?こちらからのお知らせがございますので・・。

メールお待ちしております。<(_ _)>

九子の拙いブログを見つけ出して頂き、温かいコメントまで下さったこと、本当に有難うございました。
by 九子 (2015-04-08 11:50) 

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