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「言の葉」について [<九子の万華鏡>]

九子のうちの庭には「タラヨウ」という木がある。ちょっと珍しい名前の木で、植物にもてんで興味の無い九子がその名前を覚えているのが不思議な感じがするのだけれど (^^;;、 その木の名前を教えてくれたのは九子のおじいちゃん、16代の十兵衛さんだった。


16代はとても手が器用だった。達筆だったので、毛筆でさらさらと美しい文字も書けたし、いろいろな物を上手に手作りしていた。

着物の裾をひょいと端折(はしょ)っては、庭の生垣やら、朽ちかけた井戸のふたなんかを新しくコンクリートで作ったりしていたおじいちゃんの姿が幼心にも目に焼きついている。

「九子や、この木はねえ、タラヨウと言ってな、昔はこの葉っぱの裏に字を書いて、手紙の代わりに使っていたんだよ。」

今では我が家の庭の主みたいになっているその木は、きたさんがうちに働きに来た頃はまだまだちっぽけな細い、若い木だったそうだ。

たぶん雪が融ける3月頃に芽が出て、5月になると黄緑色の花が咲き、庭一面に黄色い粉雪が降ったみたいに小さな花が散りこぼれ、そのあとに、花の生まれ代わりみたいな緑色の小さな実がびっしりとつく。

その実が夏までかかって大きくなり、秋になると固く密に連なった朱色の房になって、枝が折れそうなくらいに重たくなる。それが冬になるとますます赤くなり、九子は高価な万年青(おもと)を買う代わりに、お正月飾りに使ったりしていた。(^^;;

それがここんとこ異変が続いた。秋になっても里山に食べるものが見当たらなくなったせいか、鳩が大量にやってきては、それこそ実を根こそぎ食べてしまう。

赤い実をたらふく食べた鳩は、おびただしい量の赤いふんをする。容赦なく根こそぎ食べられたタラヨウは、次の年は実を結ぶことは無い。その次の年になって ようやくまた実を付け始める。

こんな食べ方してバカだなあ、鳩は。少しずつでも残しておけば次の年にも実がなるかもしれないのにと思うのは人間さまの勝手。鳥はもっぱら柿の木のてっぺんに人間さまがわざわざ残してやった柿の実までも、ただただ食い尽くすだけ......。


タラヨウの葉っぱは、表側は濃い緑色で光沢のある、ツバキやヒイラギの葉っぱみたいな感じ。裏側は黄緑色で、表側に比べて肉厚で、組織が柔らかく、なるほど、ここに固いもので文字を書くと、えぐられた部分が変色して、いつまでも文字として残る。
大きさも、長さは指先から掌いっぱいほど、幅は人差し指から小指までほどあるから、ちょっとした手紙文を書くには、まことにうってつけである。

「言の葉」という言葉が使われている二つの曲がある。柴崎こうの「月のしずく」と平原綾香 の「シチリアーナ」だ。
              

「月のしずく」  柴崎幸

作詞:Satomi
作曲:松本良喜


言(こと)ノ葉(は)は 月(つき)のしずくの恋(しら)文(べ)
哀(かな)しみは 泡沫(うたかた)の夢幻(むげん)
匂(にじ)艶(いろ)は 愛(あい)をささやく吐(と)息(いき)
戦(いくさ) 災(わざわ)う声(こえ)は 蝉(せみ)時(し)雨(ぐれ)の風(かぜ)
時間(じかん)の果(は)てで 冷(さ)めゆく愛(あい)の温(ぬ)度(くもり)
過(す)ぎし儚(はかな)き 思(おも)い出(で)を照(て)らしてゆく
「逢(あ)いたい…」と思(おも)う気(き)持(も)ちは
そっと 今(いま)、願(ねが)いになる
哀(かな)しみを月(つき)のしずくが 今日(きょう)もまた濡(ぬ)らしてゆく
下(か)弦(げん)の(つき)月(つき)が 浮(う)かぶ
鏡(かがみ)のような水(み)面(なも)
世(よ)に咲(さ)き誇(ほこ)った 萬(まん)葉(よう)の花(はな)は移(うつ)りにけりな
哀(かな)しみで人(ひと)の心(こころ)を 染(そ)めゆく
「恋(こ)しい…」と詠(よ)む言(こと)ノ葉(は)は
そっと 今(いま)、天(あま)つ彼(か)方(なた)
哀(かな)しみを月(つき)のしずくが 今日(きょう)もまた濡(ぬ)らしてゆく
「逢(あ)いたい…」と思(おも)う気(き)持(も)ちは
そっと 今(いま)、願(ねが)いになる
哀(かな)しみを月(つき)のしずくが 今日(きょう)もまた濡(ぬ)らしてゆく
下(か)弦(げん)の月(つき)が 謡(うた)う
永(えい)遠(えん)に続(つづ)く愛(あい)を…

 「シチリアーナ」     平原綾香
作詞:平原綾香
作曲:O. Respighi

静かな今日の終わり
最後に触れたぬくもり
自分だけが変わりゆく
いつもと同じ月夜

震えた裸の空恋しき色染めてゆけ
月の欠片降るとき
まるい世界が終わる

誰がための自分ですか
風は何も答えない
枯れ果てた言の葉が
ただ彷徨うだけ

舞い上がれ 舞い散れ
遠い場所へ飛べるなら
ぬぐい去れ 遥かへ
忘れられないあの頃へ
歌い舞い踊れ
未来などいらない
ただあなたがほしかった


この世界の続きは
たったひとつですれ違う
争う事をやめない
ものではないはず

私の髪を乱す
すべてに触れた風よ
もう二度と会えないのに
願うのはなぜ

舞い上がれ 舞い散れ
遠い場所へ飛べるなら
ぬぐい去れ 遥かへ
忘れられないあの頃へ
歌い舞い踊れ
未来などいらない
ただあなたがほしい

未来などいらない
ただあなたがほしかった

舞い上がれ 舞い散れ
この風は決して消えない

 

二つの曲ではもう一つ、「月」も共通している。

タイトルでもある「月のしずく」は、哀しみを癒してくれるしっとりとした薬液のようなもの・・として歌われる。こういう歌われ方が割りに一般的な「月のしずく」のイメージかもしれない。

一方平原綾香は、「月の欠片(かけら)降るとき まるい世界が終わる」と歌う。凄い!と九子は思う。たぶん九子なら、月の欠片の降り方だとか、色だとか、降ってくる月の欠片にしか思いが及ばない。ところが平原綾香は、月の欠片が降ったなら、まるい世界が終わってしまうと、視野がまるで大局的なのだ。

「言の葉」の定義とはいささか異なるのかもしれないけれど、九子は「言の葉」とは、書きつけられた言葉であると思う。あまたの言葉の中から、その人が選んで書き留めた特別な言葉であると思う。

「月のしずく」を作詞したsatomiさんと言う人は おしゃれな遊び心のある女性だと思う。
恋文を「しらべ」と、匂艶を「にじいろ」と読ませるあたり、タダ者ではない才能の持ち主だと思う。

ただ言の葉と言う言葉の使い方においては、やはり平原綾香に軍配を上げたい。彼女の詞の中でのみ、言の葉は木の葉と同じく、舞い散り、枯れ果てるものだからである。
言葉を言の葉にする、つまり特別の意味を持つものとして何かに書き留めてどこかにしまっておくならば、言葉は流れていかずにそこに留まる。ただし、或る一定時間のあいだには、留まりきれずに「朽ちていく」。

その言葉を誰かに言われた、あるいは自分が言い放った時の激情は、とりあえずそこに留まる。

でも長い時間が経つうちに、書かれた言葉の持つ意味そのものは変らなくても、こちらの心情の方がだんだんに変遷していく。

その言葉を始めて聞いた時から今までの、自分の心の移り変わり。   。
まるで鮮やかなタラヨウの葉が、だんだんに黄ばみ枯れ果てて行くように・・・。

この「朽ちていく」感じは文字通りの葉っぱの手紙ならば一番わかると思うけれど、紙に書いた手紙であっても長い年月が経つうちには同じことだろう。平原綾香の「シチリアーナ」では、このあたりの表現が巧みだと思う。

 

 

ことさら「言の葉」の形を求めずとも、言葉の力は激烈だ。

誰かの口から出た激情剥き(むき)出しの言葉は、漂(ただよ)って別の誰かの胸に突き刺さる。言葉は、その、別の誰か以外の人の記憶からはたちどころに消えてしまって、「朽ちる」どころか留まることさえない。

たった一人の胸の中で、言葉はいつまでも赤い血潮をたぎらせながら何十年も疼き続ける。その人の心の中で、別の意味でその言葉は「朽ちる」ことはない。九子にも実は覚えがある。

心に突き刺さる言葉が、言葉を発した人の意図したものである場合は割合に少ないのかもしれない。

何気なく言ったつもりが、たまたま相手の事情や心情、怒りやコンプレックスなどを逆なでしてしまったとか、何かに捉われていて相手の気持ちまで配慮する余裕が無かったとか・・。

だから、その言葉を言った人と言われて傷ついた人の受け取り方は天と地ほどにも違う。言った本人は言った事すら覚えていないが、受け取った方は松の廊下みたいに(古!(^^;;)一生忘れない。

いっそのこと、忘れようったって忘れられない問題の言葉を「言の葉」にして、タラヨウの葉っぱの裏にでも刻んでみようか。何度も見てると慣れて平気になるかもしれないし、案外それ自体はどうってことない言葉だってことがわかるかもしれない。ショック療法って意味もあるし・・。(^^;;

ところがこの頃九子はようやく気がついた。タラヨウの葉っぱは割合に足が早い。枝から離れて三日四日で、すぐに葉っぱが茶色くなってしまうのだ。

茶色くなって消えたら書き、消えたら書きしているたびに、慣れるどころか怒りはさらに増幅し、とんでもないことになりそうな気配だ!(^^;;


それより何より、自分が投げた言葉のナイフで傷つけてしまった大切なあの人の心をどうしよう。
出来る限りの手段は尽くしてもうまくいかなかった時には、ただただ祈って、待っているしかないのだろうか。
あの人が自分から、閉ざしていた心の扉を開けてくれる時が来るまで・・・。

 

 

 

 


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mu-ran

満月の夜。何処から見ても月は満ちて見えるのでしょうか。横浜は雨です。
by mu-ran (2013-05-25 23:31) 

九子

mu-ranさん、こんばんわ。
おやっ、しばらく見ないうちに大きくなられて・・。(写真の事です。(^^;;)
3歳くらいの可愛らしい彼の姿が、もう見られないのかしらと思うととても懐かしいです。
( ^-^)

考えてみると平安貴族が恋文を交わしあった時代には、せいぜい都と須磨明石くらいの距離だったでしょうから、きっとどこから見ても天候にかかわらず同じような満月が見えた事でしょう。

だから「あの人も同じ月を見ている」と思えて、月にいろいろな感情を託したのでしょう。いわゆる、深読み!(^^;;

平安時代の貴族のお姫様に生まれていたら、九子はもう少し生き易かったかもしれないと思うことがあります。(いろんな仕事しなくてすんで・・。(^^;;)

でも考えてみたら、今頃は当時の平均寿命を軽く越えちゃっていて、絶対にもう死んでるよねえ・・という結論に至りました。(^^;;

長野は今日の夕方、少しだけ雨が降りました。( ^-^)
by 九子 (2013-05-26 19:45) 

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