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レッテルを貼るということ [<九子の万華鏡>]

あなたは太宰治は好きですか?
割合好き嫌いが分かれる作家さんだと思うが、最近で言えば芥川賞を受賞したピース又吉こと又吉直樹が一番感銘を受けた作家として名を上げている。

このあいだテレビに石原良純が出てきて、父親石原慎太郎を語った。
その中で慎太郎本人の出演ビデオもあって、自分は太宰治が大嫌いだと公言して憚らなかった。

更に話の中で三島由紀夫が太宰を語っていた言葉だとして紹介されたのが、「あんな悩みは、ラジオ体操ひとつすれば治ってしまう話じゃないか。」と言ったそうで、思わず笑ってしまった。

確かに太宰治がもがいている世界は、とっくの昔にそういうのを卒業してしまった人たちからすれば、時として滑稽にも見えるのだろう。
一応九子も悩んでいた時期は通り過ぎたので、ラジオ体操というのは言い得て妙に思えてずいぶん笑った。

だけど、悩みのど真ん中にいる人たちから見ると、それはかなり切実な問題なのだ。

尾崎豊の「アイラブユー」の本人が出演するビデオを見ると、尾崎がいかに自分の姿ばかりを見つめているのかがよくわかる。
もがき苦しみながらも、自分に酔いしれているような表情が見て取れる。

歌も詞も、ビデオにおいても、彼の表現力は本当に凄いと思う。
ただし彼がいつも見ているのは鏡に映る、あるいはカメラのレンズに映る自分自身の姿なのだというのは明白だ。

九子がこう言い切れるのは、かつて自分が同じ世界に住んでいたからだ。
劣等感があって自分が大嫌いな人間に、とても周りの人々を見つめる余裕など無い。
ジェットコースターのように上がり下がりする自分の気持を眺めているだけで精一杯なのだ。

彼らはきっと気がついている。自分が見ている世界が、自分という範疇を一歩も越えられていない事を・・・。
自分が回りの人々を自分の事のように思い遣れないことも大きな劣等感のひとつになり、彼らは余計内向きになる。

ボーダーライン、境界例と言われる人々。九子も何度もブログで取り上げたことがあるが、愛の薄い幼少期を育ち、親の愛情を充分に信じられずに育つ事の多い気の毒な人々だ。

太宰治も、尾崎豊も、ダイアナ妃も、特に幼少期の親との絆の薄さからいつも愛情に飢えており、自分が見捨てられることを極端に怖れていた。

彼らに共通するのは、気分の不安定さだ。
さっきまで信用し信頼していた上司を、友人を、家族を、次の瞬間には誹謗中傷し攻撃する。
自傷行為も、自殺癖も、そうせざるを得ないところまで気分が落ち込んでしまうのだろう。
彼らは充分本気なのだろうけれど、自分一人だけの時はしないで、周囲の注目を集めようとするように必ず人前で決行するのを見ていると、甘ったれてるのかなと勘ぐってしまう。

九子もボーダーラインの人々と同じように、ある時期まで人一倍劣等感が強く、自分が世界一の不幸のかたまりだと思って生きてきた。
だから彼らの気持ちが、自分の事のようにわかる部分がある。

まわりからは「一人っ子で両親に何でもやってもらい、何の苦労も無く、優しいお婿さんをもらってあんなに幸せな人は居ない!」と言われ続けていたのにも関わらずだ。 そういう意味で九子には、ボーダーラインの彼ら以上に、人々に理解してもらえない要素があった。
 
「何でも出来る母親が愛情一杯に手をかけ過ぎてくれたせいで何もまともに出来ない人間に育ってしまった劣等感が九子の不幸せの原因」などと言ってみても、一笑に付されるだけだ。

となりの八百屋のおじさんは、九子が明るく変わったのは優しいお婿さんをもらったからだと今でも信じている。
まあ、それも間違いではないが、結局は九子が坐禅に出会って、自分の気分を明るく幸せに変える事が出来たからなのだ。

それはさて置き、九子の時代は「レッテルを貼る」という言葉があった。今の時代はもしかしたら「タグを貼る」とか「ラベルを貼る」とか言うのだろうか・・。
そういう事って本当に怖いと思う。

ボーダーラインという、不良少年という、前科者というレッテルを貼られた人々。

九子が振り込め詐欺にひっかかりかけた時も、何より怖かったのは「11時の裁判が始まるまでにお金を振り込まないと息子が前科者になってしまう。」という恐怖だった。海に囲まれた逃げ場の無いこの国で、それは絶望的な宣告なのだ。

汚名、英語ではstigmaというのだろうか。一度そういう名前が付いてしまうと、人々はいつまでもその名前を葬り去ることは出来無い。
「あの人は前科者だ。」というのは、その後の一生どんなに立派な事をしようとも、死ぬまで付いて回るのだ。

前科者というのははっきりと認定された事実であるから仕方が無い部分もあろうが、ボーダーラインはどうだろう?
精神科の見立てというのは、ご承知の通り科学的な血液検査やCTスキャンなどで結果が出るわけではなく、あくまでも医者の力量で診断されるものだ。

その上典型的な症例の他にも紛らわしい例が多々あるはずで、それらを一括りにして「ボーダーライン」という病名というか障害名が付いた途端に、彼らの一生は
「ボーダーライン即ち、太宰治やダイアナ妃や尾崎豊といった人々に代表される頻繁に騒ぎを起こす困った人たち」という風に括られ、彼ら一人一人の個性や、変わろうとする努力などとはまったく無関係に、イメージだけが一人歩きしていく。
そして一旦浸透した悪いイメージは人々のなかで容易に変わることが無い。

レッテルを貼られた人々の人生はどんなにか苦難に満ちていることだろう。

レッテルというはっきりとした形を取らなくても、人はいつでも、誰かを決めつけ、その人の事をわずか1%も知らないのにざっくりとした固定概念で見てしまう。

そしてそれを、別の誰かにもったいぶって話したりする。
たいていそういうのが広がる1番の理由は、九子も大好きな噂話だ。(^^;;

そうしたらこの前、ガンで倒れられた三笠宮寛仁親王の弟宮、生涯独身を貫かれた桂宮さまの話が出た。
彼もまた悲劇の親王だった。若い頃に脳出血で倒れられ車椅子の生活を余儀なくされた。

それより何よりお気の毒だったのは、学習院大学に通っていられた時、「お前たちは俺たちの税金で暮らしている。」という心無い言葉を殿下に浴びせかけた学生がいて、いたく傷つかれ、自分のように苦しむ人間をもう誰も見たくないと思われて、生涯独身を通されたという。

言葉の持つトゲの威力がわかる。一人の皇族の人生を変えてしまった一言だ。

言葉のトゲならばその人の心に潜んで、その人が言わない限り周知の事実にはならないはずだが、貼られたレッテルは表に出て、皆に知れ渡る事となる。

そもそもレッテルやらラベルやらタグっていうのは、何かを分類するためにある。
だからいつでも誰もが見やすい所に貼られる事になる。

レッテルやタグの魔法に打ち勝つのは、もしかしたら日本人の私たちには難しいのかもしれない。だって私たちは言われたことを基本的に鵜呑みにする人の良い民族だからだ。

そんな信じやすい民族が、いや、だからこそ、レッテルを外す事、ないしはレッテルに誤りがあると考える事に関しては著しく懐疑的だ。

最初に入って来た情報を信じ込み、その情報を信じ続けるのが私達日本人なんだろうか。

話題になった従軍慰安婦問題の最終決着の時、不可逆的と言う言葉が出てきてびっくりした。
あれは劣等生の九子でもわかる化学用語で、九子たちはたしか非可逆的と言っていた。
反応が進んで決して元の状態に戻らないことを言う。
水が氷になるのは可逆的だけれど、鉄が錆びるのは非可逆的だ。

レッテルの内容は実は可逆的なのに、非可逆的と堅く信じて疑わない私たち。
レッテルの内容はともかく、まず柔らかくしておかなければいけないのは、私たちの固いあ・た・ま !

そして噂話もつつしみなさいね、九子さん!(^^;;












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