今時の教師像 [<学校の話、子供たちの話>]
M子の中学の担任の先生とのお別れの会が、先日あった。
ご承知のようにM子は今年高校二年生である。
実は信大附属中学校では、もうこれでクラスを持たずに教頭先生になるエリート先生方に向けての教育プログ ラムみたいのがあるらしくて、そういう先生方は卒業生と一緒に卒業せずに一年多く4年間学校に留まるらしい。
M子の担任だったY先生もそういう理由で学校に残られた。
そのY先生が一年遅れで長野を去られるのである。
M子は小学校の時からかなり担任の先生に恵まれた。
中でもY先生は親たちの人気も高く、一年遅れのお別れ会にも関わらず、ほとんどの生徒と親の8割 ほどが参加した。
Y先生の人気の秘密は、その人柄にあったと思う。
学年主任という重責にありながら、担任するA組のテストの成績は常に低迷してはいたのだが(^^;;、だからと言って上から押さえつけて無理に勉強させようとはせず、生徒たちの自主性を重んじて、最 後まで生徒を信じてくれたのである。
その結果、高校受験では一人の浪人も出さないと言う快挙を成し遂げ、A組の子供たちは極めてみん な自由で伸びやかで、信大附属中学の大舞台である全国の先生方をお呼びしての「初等教育研究会」いわゆる「初研」と呼ばれる研究授業の際にも、「A組の生徒で研究授業をしたい。」という先生方からの申し込みがたくさん来るほどであったと言う。
Y先生は数学の先生である。
にも関わらず、先生の最初の一言はこうだった。
「僕は実は、数学が苦手で大嫌いだったんです。今でもこんな僕が数学の教師をしていて良いのだろうかと思う事があります。」
考えてみると不思議な発言だった。
先生と言うのはいつでも自信に満ちていて、何を聞いても全てを知っている、そういう人種ではなかったか。
まあそこまでは行かなくても、少なくとも生徒の目線よりは高いところに居て、生徒が困った時に何かを指し示してくれる人であったはずである。
ところがY先生は違った。
生徒と同じ目線で、時には生徒よりも低い立ち位置で、生徒に考えさせる、任せる、時には頼る(^^; 先生だったのだ。
もちろん要所要所は引き締める。
その結果A組は、(特にしっかり者の女子が(^^;;クラスをリードして)自由でまとまりのある良いク ラスであるという評判をほしいままにした。
そのA組に、信大教育学部だか工学部だかの数学の教授先生の息子が居た。
普通なら、先生は何かとやり難かろうと思う。(^^;;
ところがY先生は、その教授先生と一緒に独自の研究を発表される。
それが中点連結定理の研究なんだそうである。
中点連結定理というのを習ったのは中学の時だったか・・。
三角形のそれぞれの中点を結んで出来る線は底辺に平行になる・・というのがその内容だったと思うが、何を今更中点連結定理か・・・と思ったら、先生の研究と言うのは、それならば台形の中点ではどうか・・とか、ブーメラン形の中点ではどうか・・とか考えて行くもので、何よりその研究はA組 の生徒たちが居ないと出来なかったのだそうだ。
「普通のクラスだと、頭の良い子が一言言うと、それで結論が出ちゃうんですが、このクラスはそう じゃないんです。数学がまるっきり出来ない子がむしろ面白い考えを出してくれて、教授だってその疑問に答えられないんですから・・。」
へえっ、そんならその数学の出来ない子っていうのは、実はものすごい頭いい子なんじゃない?
皆様もそう考えられただろうか・・・。九子もそう考えた。
ところがどっこい、彼が行ったのははそれなりの高校だった。
世の中というものは矛盾だらけである。(^^;;
・・と、前置きをこんなに長くして九子が言いたかったことは、不得手な数学の中点連結定理の話なんかじゃもちろん無くて、今時の好ましい教師像についてである。( ^-^)
子供たちの感性は鋭いと言われる。嘘がつけないと言われる。
あふれるばかりの情報の洪水の中に住む現代の子供たちには、とりわけその傾向が強いように思う。
「人生に必要な事はすべて、テレビの知識で覚える。」と豪語するM子に至っては、その感性たるや ・・・・・・・。(^^;;(^^;;。
彼女はご多聞にもれず、好き嫌いがきわめてはっきりしている。
好きな先生の言う事は聞くが、嫌いな先生だと鼻もひっかけない。
つくづく今まで良い先生に恵まれて良かったよ。(^^;;
一番嫌なのは、おやじギャグ を言う先生だそうだ。
おやじギャグを言うというのは、生徒の受けを狙うということだ。
おやじギャグを言う先生に限って、いつも高飛車に叱ったりすると言う。
そんなことで生徒におもねようとするんじゃなくて、もっとしっかり心を受け止めて欲しいという思いのような気がする。
嫌われるのは、「ぶれ」だ。
高飛車な先生は、いつでも高飛車なままの方がまだマシであるらしい。
ふだんの態度とおやじギャグとの「ぶれ」。
実はこの日記を書き始めようと思ったきっかけがawayさんの書かれた「揺れ」、ここで言う「ぶれ」に関する記事だったのだが、同じ「ぶれ」でも人に対する態度の「ぶれ」はどこの世界でも嫌われる ようだ。
生徒の前と父兄の前で、ことさら態度がぶれる先生は最低と言う事らしい。
見えてくるのは、相手によって言う事ややる事を変えるのでは無くて、いつも首尾一貫していること。そしてそれに嘘がなくて、先生の本心が垣間見られると言う事。
つまり、生徒と本音でぶつかってくれる先生が好きという事であると思う。
Y先生は生徒に等身大の生の自分をさらけ出してくれた。自分たちと同じ目線で考えてくれた。
だから生徒たちも、本音で語れた。
自分をさらけ出すのだから、Y先生に嘘は無かった。
先生はその上、生徒をすべて平等に愛して下さった。
いくら嘘が無くても、生徒の中に好き嫌いとかえこひいきがあったりしたら、嘘がない分じかに伝わってしまう。
出来る子も出来ない子も、やかましい子もおとなしい子も、皆そのままで丸ごと先生に受け止めても らえたという記憶が、これからの人生の中で彼らの大きな財産になるはずだ。
だからY先生は、生徒たちばかりか母親達にも人気があった。
うちの子は先生に愛されなかったと思う親がもし一人でも居たら、その親は決してその先生を受け入れない。
Y先生のようなタイプの先生は、珍しいんだろうか。
確かに子供たちの担任の先生の中で、自分は教科に向いていない、先生に向いていないとあれほどはっきりおっしゃった先生は珍しかったような気はするが、九子が向き合った5×5人位の(^^;;さまざまな先生方を見る限りにおいて、昔多かったような上から頭ごなしに押さえつけるタイプの先生の評 判は得てして芳しくない。
そして、少なくとも信大付属小中学校においては、そういう先生方は例外的だったと思う。
基本的にはみんな熱心な素晴らしい先生だったけれども、しかし中には子供たちや親との相性が悪かった、歯車が合わなかった・・というケースが稀に見受けられた・・という事だったのではないか。
今の先生方は本当に大変だ。
昔と同じようにただ威張っているばかりではダメ。
たくさん知識を持っている事よりもむしろ、自分の知識が万能ではない事を潔く認めて、生徒に自主的に考えさせる。
先生が授業をリードするのではなくて、生徒が真ん中にいて、先生は添え物なのだ。
だから当然答えは一つにはまとまらない。
「教科書どおり」に事は進まない。
そういう中で指導要領というものにのっとった授業をする。
その上何かあると親はすぐにうるさく介入して来る。
うつ病にもなろうというものだ。
今の子供たちは皆、飾りを嫌う。(余りにも物の溢れた社会に生きているせいか・・。)
本能とも言える鋭さで、嘘を嗅ぎ分ける。(溢れかえった物の中で選別する目を養っているせいか・・。)
遠慮会釈のない物言いで、本音を語る。
そして、大人と対等に物を言う。(権威のある大人が少なくなったからだろうか・・。)
そういう時代には、そういう時代にふさわしい教師のあり方というのがあるのかもしれないと思う。
Y先生は同じ教員で、しかも大変な養護学級の先生をずっとしてらっしゃる奥さんに頭が上がらないらしい。(^^;
今の時代の教師のお手本のようなY先生だけれど、個人的にはなんだかお気の毒な気がしなくもない 。(^^;
たまにはゆったりと背伸をして、大きく深呼吸でもして頂きたいと思う。( ^-^)
九子家の年賀状2006 [<学校の話、子供たちの話>]
皆様にとってお幸せな年でありますように。
今年は、我が家最後の高校受験生M子の受験の年ですが、敢えて冒険を望まない彼女は、兄や姉と同じ長野N大高の推薦入学を希望しています。
「お勉強が出来る」という形容詞には長い間縁のなかったM子ですが、中2の春から通いだした英数塾の先生と奇跡的に波長が合って、おかげさまで特進クラスの推薦でも大丈夫というところまでこぎつけましたが、勉強嫌いの本人はあっさり断りました。
特進クラスに居ながら「卓球命」で、成績は底辺をさまよっている姉N子の存在が、自分の受験に悪影響を及ぼすのではないかという計算も働いたのかもしれません。
昔から数学の成績の割には、こういう計算には鋭いものをもっていた娘でした。
かくして我が家の5人の子供達の高校受験が終わろうとしています。
長野の名門N高校に誰も行けなかった事に一抹の寂しさを覚えながら、親は少しだけ肩の荷がおりたような気持ちになっています。(以上実際の年賀状の内容)
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「サマランチ氏の通訳氏」で書いたM学習塾を、悪態つきながら飛び出したM子(^^;の顔を見ながら、九子は実は途方に暮れていた。
M学習塾のK先生の言葉が、実際、的を射ていたからである。
K先生は言った。
「私の経験上、テレビや音楽を見ながら聞きながら勉強をする子ども、鉛筆箱の中に要りもしないボールペンやサインペンを何十本も入れておく子、そういう子供は必ずと言っていいほど集中力がなく、勉強をやっても決して伸びません。」
まんまM子の事だよ。(^^;
あ~あ、これからいったいどこの塾へ行けばいいのかなあ。
M子の友人のTちゃんのお母さんから電話がかかってきたのは、まさにその翌日のことであった。
「困っちゃったのよ。うちのM子、どこの塾へ行かせればいいのかしら・・・。」
「そうしたらTが行ってるとこへ来ない?附属の子がほとんどで、建物は汚くてボロ屋みたいだけど良い先生なのよ。」
場所を聞いてびっくりした。
それは九子が塾を探し回った時「確か昔ここに塾があったんだけど・・。」という九子の言葉をあざ笑うかのように、郵便受けとおぼしき箱は茶色く錆び付き、駐車場と思われる家の窪みには青いビニールが貼られ、「どう見てもここの塾はどこかへ移ったんだよね。」と思わせるには十分な廃墟(失礼!(^^;)だった所だからだ。
なんでも看板に名前が出ていた「K英数塾」のK先生はかなり前に亡くなられ、助手だったN先生が後を継いでいられるとか・・・。N先生はもちろん通いだから、教室は古いままに使われているらしい。
おかげで月謝も破格の安さで、こちらとしては願ったり叶ったりであった。
早速M子と一緒に見学に行った。
当時は3日に一度更新していた「九子日記」を書くための愛用の白黒画面のノートパソコンも携えて・・・。
N先生は40代はじめ位の穏やかな先生だった。
丁度小学生が使うような机と椅子が10ばかり並び、九子もそのひとつに陣取った。
授業というのはあんまりなくて、各自が与えられた課題を黙々とやっていて、先生が机を回って質問に答えるというやり方。
だから黒板には種々雑多の答えが重ねられていく。
こういう授業が一日3時間しゅくしゅくと続くと言う訳だ。
まあ効率考えたら悪くないよね。だけど先生の力量も試されるスタイルだ。
う~ん。果たしてあのわがままM子のお気に召すのか・・・・。
「お母さん、お母さん、お疲れのようですねえ。」という声ではっと目を醒ます九子。
パソコン開いたはいいが、案の定眠りこけていた。(^^;
あの集中力が足りない娘がこんなに長時間大丈夫なのかなあという心配をよそに、M子はどうやらここの雰囲気が気に入ったらしかった。
そう。彼女は気分屋である。瞬時に相手の好き嫌いを分析して、嫌となったらそれを覆すのは至難の技なのだ。
彼女と彼女のクラスはこれまで信大附属小中を通じて、比較的包容力のあるおおらかな先生方に担任して頂いた。
そういうクラスは、威圧的に上から抑え込むタイプの先生とはどうもそりが合わないようで、小6の時はいろいろあった。
それが附属中学へ入って、これまたおっとりとしたY先生が担任され、伝統的に一番出来る子達が集まると言われ担任は必ず学年主任となるA組にあって、とりあえず担任の担当教科だけは平均点より上なのだが、それ以外は学年の下のほうをさまよっている現状であっても、あんまりうるさい事をおっしゃらず忍の一字を続けていらっしゃるY先生(^^;を、子供達は正当に評価している。
その証拠に、A組は大変仲の良いクラスである。( ^-^)
英数塾のN先生は、幸運なことにM子にとってうってつけの好ましい先生であった。
その後2年間、あのM子がほとんど休むこともなくきっかり塾に通い続け、成績もそれなりに伸ばして行った。
思えば今でもテレビを見ながら勉強し、色とりどりのボールペンを何十本も筆箱に詰めこんでいるM子である。
M学習塾のK先生の言葉はもちろんM子には伝えてないが、「はあ~っ?そういう子でも伸ばしてくれるのが教師ってもんだろうがっ!」というM子の威勢の良い言葉が聞こえて来そうな気がする。
そしてそんな時、親ばか九子は、「そんなに高性能のCPU積んでる訳ではないんだけど(^^;、わが娘なかなか鋭いこと言うじゃない!」と一人ほくそ笑むのであった。
こうして見ると生徒と先生は出会いである。
M子にとってはたまたま相性の悪かった先生方も、他の誰かにとっては人生の恩師ってこともあるだろう。
M子は高校になってもK英数塾に通いたいと言っている。そんなことが可能なのかどうかわからないが、あの九子も手こずるわがままM子をその気にさせたN先生って、どえらい怪物なのかもしれない。(^^;
長野外国語センター・・・・その2 [<学校の話、子供たちの話>]
どちらかと言うと、昔ながらの無骨な発音であった。
Israel(イスラエル) と Israeli (イスラエルの、イスラエル国民)の発音の違いをくどいほどはっきりと区別されたが、イズリアル、イズレイリーと、カタカナで書いた方が似つかわしいくらいの明快さだった。( ^-^)
coalition government(連合政権)などと言う時のcoalition(連合)の発音も、コーリションではなくコアリションと、特に「ア」にアクセントをつけた発音でないと何度でも言い直させられたし、opposition party(野党)のoppositionはあくまでアパジションであり、オポジションは忌み嫌われた。
当時は「そこまでしなくても・・・。」と思ったものだが、先生の授業をもう受けられない今になると、しっかりと主張のあった先生の英語がしみじみと懐かしい。
討論会での杉本先生は、一参加者として振舞われた。
ここでの先生は、ニックネームの「バク」で通された。
討論が煮詰まると「バク」が必ず手を上げて軌道修正するのである。
先生の一言がはさまると、ちんやりしていた議論がなぜかまた勢いづくのだ。
今でも忘れられない事がある。
アジアで天変地異や列車事故が相次ぎ、「人の命が虫けら同然に無くなっていく」・・・というのを英語でどう言うか?
人の命が粗末に扱われている・・・だから・・・・、
Life is treated・・・・・・・、
「粗末に」ってなんて言うの?(^^;
杉本先生が明快に一言!
”Life is cheap in Asia.”
えっ?cheap? 安い?
なるほど!cheapかあ。
そういうのをもっとたくさん覚えていたら、あ~たの英語力ももうちょっとまともだったのに・・・。(^^;
とにかく自分の知っている単語だけを駆使して、どこまで話せるか。
聞きとる力の訓練とともに、この英語討論会の役割は計り知れなかった。
その日のことを、九子はまだ鮮明に覚えている。
九子の討論会デビューの日のことである。
議題はたぶん衆院選挙の直後かなんかで、選挙の話題だったと思う。
選挙の話なら任せてよ!
一応九子も、小粒ながら政治家の娘である。(^^;
九子は弾みをつけて手を挙げた。
指名されて立ち上がった途端、足はがくがく、心臓ばくばく。
声が震えるのをなんとか隠して、九子は友達だったアメリカ人が言った言葉を繰り返した。
”Japanese vote not by policy but by friendship.”
(日本人は、主義主張にではなく、友情に投票する。)
今から思うと、byじゃあなくて、onが正しかったも・・。(^^;
あと二言三言付け加えた気がするが、要するに友達の受け売りであった。(^^;
それでも閉会後、見ず知らずの一人の女性が寄って来て「あなたの発言良かったわ。」と言って下さった。もう、宙に舞い上がらんばかりに嬉しかったのを覚えている。
バク先生のバクはたぶん、夢を食べるバクである。
ロマンティストの杉本先生は、たぶん生涯独身で、そんなすばらしい肩書きにも関わらず、御自分の事は一切語らず、オリンピック終了後数年で、長野外国語センターを去られた。
一度だけバク先生にお手紙を出した事があった。
「うつ病がある事がわかって、クラスを続けられなくなりました・・・。」と。
先生から電話が届いた。
「事情はわかりました。お大事に。それから、僕は事情がどうのこうのではなく、頂いたお手紙はすべて処分しておりますので、ご理解下さい。」
先生の孤高の人柄がしのばれた。
実は九子は、センターに通っていた時期の半分以上うつ状態に苦しんでいた。
九子のうつ状態が最悪だった時、つまり2年半の間に4回のうつ状態を経験した時、ウツとウツの合間を縫うように、まさに絶妙のタイミングで長野冬季オリンピックがやって来た。
あと2週間早くても、あと1ヶ月遅くても、九子はウツの真っ最中だったことだろう。
T先生に巡り合って、たった3ヶ月の寛解期をはさんで、5ヶ月続くうつ状態を4回も繰り返していた再悪の状態から逃れる事が出来たのは、オリンピック終了からまだ1年以上も先の話だった。
病気がわかっていたとしたらセンターに通えた訳がないのであるが、まだ自分の病気を自覚する前だったので、回らない頭で必死に宿題を試み、人に会う辛さを乗り越えてなんとか授業に出た。
それでもどうしても苦しい日には、何だかんだと理由をつけて欠席した。
だからせっかくの杉本先生の授業を、数ヶ月ほどしかまともな状態で聞いていないのだ。
まともな時なら・・と誇れるような英語力ではないのは充分承知の上だが、せめて存分に先生の英語をシャワーのように浴び続けていたかった。
そして杉本先生には、自分があの時ベストの状態で授業を受けていなかった事を、欠席したくて欠席した訳ではなかった事を、どうしてもわかって頂きたかった。
手紙には、そんな文面が並んでいたはずだ。
当時の塚田長野市長の通訳だったMieさんを筆頭に、たくさんの生徒たちがセンターから巣立って、今なお現役でばりばり活躍中だ。
彼らは一様にこう口にする。
「私、大学の英文科じゃあ何も習わなかったのと同じ。センターで育ててもらったのよ。」
長野オリンピックで活躍したNILV(Nagano International Linguistic Volunteers )という通訳ボランティアの組織がある。この組織の設立運営は、杉本先生無しには考えられなかったと思う。
杉本先生のいない長野外国語センターなどなんの意味もない。
今ネット検索して出てくる長野外国語センターのホームページには、杉本先生の事はこれっぽっちも触れられていない。
その上、先生の授業方式をまったく受け継いでいない訳だから、素性はどうあれ、そんじょそこらにあるただの英会話学校だと同じだ。
杉本先生はごま塩髪を長く伸ばし、まるで女の子のおかっぱ頭を横分けにしたような髪型に、黒いチューリップハットをかぶり、挨拶される時には、まるで英国紳士がシルクハットを持ち上げるようにその帽子を頭上高くかかげられて「やあっ!」とおっしゃった。
ドイツ語も堪能と伺っていたせいか、先生の「やあっ!」はBachと書いてバッハと読むドイツ語のchの発音が最後についている気がした。
メガネの奥の先生の細い目が、そんな時にはいつも笑っていた。
昔はかなり厳しくて、泣きだす生徒が続出したという杉本先生だが、九子が入った頃は、もう先生70歳近くでいらっしゃったんだろうか?甘くなったというもっぱらの評判だった。
先生は今、一体どこで何をされていらっしゃるんだろう?
この日記を書くにあたり、オリンピックボランティア仲間のMKさんに連絡がついて、先生がまだ長野市周辺にお住まいでいらっしゃるらしいことがわかった。
良かった。まだ先生と同じ空気を吸っていられる。( ^-^)
群れる事を好まず、一人凛として生きてこられた先生が、山をこよなく愛される事はごく自然ななりゆきのように思う。
先生はまだ、時々山歩きをなさるのだろうか?
類稀(たぐいまれ)な脳細胞が紡ぎ出す言葉を、信州の山々は、今でも折りにふれ聞く事が出来るのだろうか?
杉本先生が今何を考え、どんな一日を過ごされているのか、聞けるものなら物言わぬ山にでも聞いてみたいと心底思う。
英語
長野外国語センター・・その1 [<学校の話、子供たちの話>]
英字新聞というのは、実は皆さんが思っていらっしゃるほど難しいものではない。すべては「慣れ」の問題なのである。
冬季オリンピックを真近に控えて、長野市中は外国語熱に浮かれていた。
かく言う九子も、一応好きで細々続けていた英語学習のブラッシュアップbrushupを図ろうと、高値の花だった「長野外国語センター」のクラスに通い始めた。
長野外国語センターは、東京大学物理学科、同大学院卒業後、ロンドン大学、ハーバード大学に留学、ハーバード大主任研究員を経て、元神奈川大学教授、元青山大学講師という華麗な肩書きをもつ杉本正慶先生が、山好きが昂じて長野市内に1980年頃創立された語学学校で、当時英語のほかフランス語やスペイン語中国語クラスもあった。
英語クラスの売りは何と言っても、テキストに「The Japan Times」を使い、生徒は誰でも月1回無料で開催されていた「英語討論会」に優先的に出席出来ることだった。
週2クラスの授業料はたしか月12、000円ほどで、当時とすればバカ高いものではなかったが、英字新聞の購読料が8000円ほどしたから、両方で二万円にもなる。
子供達が小さかった頃は、「自分の身につくのだから・・・」と平気で使っていた金額だったが、そろそろ子供の塾の授業料に頭が痛い頃となり、減りつづけていた預金通帳を横目に見ながら(^^;、「1年間だけだから・・」と言い訳しながら申し込みをした覚えがある。
クラスでは、皆英語のニックネームを付けられる。
ちなみに九子の名前はQuayだった。再初九子の「K」としたら、先生がより英語っぽく直された。
前の週の新聞の中で、自分が一番興味深く思った記事を選んで3分位に要約し、それについて何か問題提起をする。
他の出席者が、投げかけられた問いについて自分の意見を述べる。
もちろん新聞をあらかじめ頭に入れておかないと、即座に話について行けない。
時折「バク」というニックネームの杉本先生が、御自身の意見をはさまれる。
九子みたいに非力な生徒ばかりの場合には、先生のこの舵取りがないとクラスが進んでいかないのである。(^^;
すべての生徒が自分の記事を発表し終わる頃には、90分があらかた経っている。
残りの10分ほどで、FENだかCNNだかのテープを聞き、どこまで聞き取れたかの確認をする。
九子はこの聞き取りが苦手で、いつも大変苦労した。
Mikiさんなどは、どんなおかしなアクセントの英語でも、即座に聞きとって、しかも、正確に書き取る。
「努力が及ばない才能がある!」
九子はいつもそう思ってうらやましがって彼女を眺めたものだが、まあ、考えてみれば九子の「努力」である。おのずと限界があったのは目に見えていた。(^^;
九子にとっては理想的に映ったセンターの授業だったが、実はこんな不平をもらす人もいた。
大体は、センター以外で 英語を習った事がない人たちに多かった。
「私達って英字新聞しか習ってないでしょ。だから、日常会話弱いのよ。どうやって話したらいいのかわからないの。こんなことで、オリンピックのボランティア出来るのか心配になるわ。」
そう言ったのは九子がその討論会での英語力に、一目も二目もおいていた人だった。
同じ心配は九子にもあった。
九子がなんとか聞き取れるのは、ニュースだけである。
難しい言葉がたくさんあって聞き取り難いように思うが、実はさにあらず。
アナウンサーの発音は常に明快で、正確な英語ばかり使われるので一番聞き取りやすいはずなのだ。
聞き取れると言っても所詮九子の場合、たたみかけるように続けて言われるともうお手上げなのだが・・・。
頭の回転がついていかないのだ。(^^;
映画だのテレビドラマだのはその点、九子なんかでは全然太刀打ち出来ない。
俗語やイディオム、それにブランド名なんかの情報不足なんだと思う。
それにひきかえアメリカに数年住んだかつての友人は、映画の英語が一番楽しめると言った。
「語学はすべて慣れのなせる業」というのが、わかって頂けるのではないか。
この討論会は部外者にも開放されていたので、実は九子も以前から何度か出席したことがあった。
部外者には、当日参加した時点で配られる資料(本日の討論の目次、背景、使用されると思われる難解語の説明など)がすべてだったが、センターの生徒には授業中にあらかた説明がされて、いつでも発言出来るような準備がされていると聞いた。
moderatorと呼ばれる司会者は、必ずセンターの生徒が順繰りにする。
こう言ったらなんだが、最初のうちはそんなに英語が上手と思えなかった人達が、1年2年のちにはちゃんとこの大役を務めるのである。
「バク先生がみんな教えてくれるから出来るのよ・・・。」と、彼女達は謙遜して言ったが、これぞ長野外国語センターの本領発揮である。
討論会には外国人が常時十人ほど参加して、もちろん英語が母国語の人がほとんどだから、活発な討論を展開する。
テーマは、その時々の世界や日本の大きなニュースが取り上げられた。
日本のニュースは、背景がわかりやすいので討論もまだやりやすいが、時には日本の新聞にはほとんど出ないようなアフリカの国々の話題とか、とにかく日本語の知識として頭に入っていない問題も躊躇無く取り上げられた。
そういう中で、日本人も負けずに論陣を張るのである。
うっとりするような流暢な英語の人も要れば、とつとつとしゃべる人もいた。
それでも彼らの主張は、外国人にしっかりと受け止められて、笑いが起こったり、うなずかれたり、反撃に出られたりする。
「一度で良いから、九子も発言してみたい!」
それは長い間、九子の夢であった。
・・・・つづく・・・・・・
英語
静かなるドン [<学校の話、子供たちの話>]
6年3組には、TK先生に代わって先生が二人付くことになった。
二人とも、元中学校の先生で、しかも副任のS先生は、悪名高かった某中学校を仕切っていた体育の先生だった。
校長先生にしてみれば、いじめっ子の○君専用に先生一人を付けることによって、クラスをまとめようとする精一杯の思いだったに違いないのだが、残念ながら校長先生の思惑通りには事は進まなかった。
彼らのクラスは、考えてみると附属小の中で、一番附属小らしいクラスだったのだ。
KM先生や、TK先生や、なんでも子供達に任せて自由にさせて下さる先生に恵まれて、自分達で考えたやり方でずっとやって来た3組に、突然強い先生が二人もやって来て、上から無理やり押さえつけようとした。
6年生ともなれば、みんな大きくなって力もあるし、もともと強かった自己主張もますます強くなる。(^^;
上から抑えつけようとする力には、当然反発が出る。
いつの間にか3組は「問題のあるクラス」と呼ばれ、M子は中学へ行った今でも「3組さん?大変だったんでしょ。」とある事無い事尾ひれがついて、同情されるようだ。
しかし、「決して3組は問題のあるクラスでは無かった!」と、M子は言い張る。
その証拠に、子供達同士はすごく仲が良いのだ。
初めて附属小へ来て、子供達の様子もわからず、受け持った子供達の強い反発にあった先生方もずいぶん戸惑われたと思う。
その後もたびたび母親たちの話し合いがもたれ、クラス代表の二人のお母様達は大変な思いをされたに違いない。
6年生の個人懇談で、その二人の先生方に深々と頭を下げられた九子は面食らった。
M子はいつの頃からか、「しっかりしている」と先生に評されることが多かった。
まあそれもわからないではない。
こういう母親に育てられればね。(^^;
「わがまま娘で困っています。」とTK先生にご相談しようとしたところ、「いやあ、いつもM子さんには助けられているんです。授業中意見が出ない時、M子さんの意見で新たな発展があるんです。本当に感謝しています。」と言われて仰天したこともある。
口は昔から達者だったので、気が利いて聞こえる事をたまにぽつんと言うのが、先生には新鮮に聞こえたらしい。(^^;
そう言えばこんなこともあった。小4の時だろうか?
我が家の兄弟はみな少なくとも小4位まではスイミング教室に通わせた。何せ5人もいるのだ。
泳げるようになっといてもらわないと、おぼれたとき親は全部を助けきれない。(^^;
それをM子だけは小2くらいで止めてしまった。
とにかくわがまま娘なので、「嫌だ!」と言ったら最後、てこでも動かない。
そうやって、ピアノも公文も英語も止めた。(^^;
だから小4でクロールを習ったとき、最初M子は泳げなかった訳だ。
それを猛訓練の結果か、先生のおだてが上手だったためか(^^;、どうやらこうやら泳げるようになった。
そうしてわずか数日前に50メートルをやっと泳げるようになったばかりのM子が、事もあろうにクロールリレーの選手になってしまったのだ!
「ど、ど、どうしてそんな事になったの?」哀れな母親九子は、すがるような目で娘に尋ねた。
「あっ、それさあ。最初みんなたくさん手上げてたんだよね。だからM子も手上げて、そのうちだんだん少なくなって・・・・・・・。いつのまにかM子一人になってた。」(^^;
6年生になって、実は少々心配なことがあった。
その頃頻繁にグループ変えが行われていたようで、一ヶ月毎くらいにグループが代わっていたのだが、どう言う訳かM子のグループには、いじめっ子と噂されてた○君一味の数人がいつも加わっているのだ。
「えっ?また○君といっしょ?もう3回目だよねえ。
いくらなんでも、先生配慮が無さ過ぎだよ。いじめられたらどうすんのよ!!」
九子は本気で心配した。
それが、先生方のお辞儀とよもや関係があるとは、この時想像も出来なかった。
M先生がこう切り出した。
「いやあ、お恥ずかしい話ですが、クラスの男子の中にはどうしても私どもの手に余る子達が数名おりまして・・・。 私達が何を言ってもいっこうに言うことを聞いてくれないのですが、彼らが唯一言うことを聞くのが、実はM子さんなんですよ。だからM子さんにはいつも彼らをまとめて頂くために同じグループに居て頂いて・・・・。いやあ、助かります。」(またしても深いお辞儀)
「・・・・・・・・・・・・・・・(^^;(^^;(^^;」
静かなるドン。
九子の頃はこの名を聞くと、ロシア文学の傑作(ショーロホフ)を思い浮かべたものであるが、(例によって読んだことはない。(^^;)、現代は同名のマンガ本や映画の方が有名とか・・・。
「静かなる首領」と書くと余計わかりやすいのだろうが、まさか娘がそれであったとはねえ・・・。(^^;
M子の中学の担任の Y先生もまた、ひょうひょうとした雰囲気の素敵な先生だ。
附属の伝統を重んじ、クラスの自主性を何より大事に考えてくださる。
組の連中を仕切る・・・・・じゃなくて(^^;、クラスのみんなをまとめるのに一役かっているのが、元附属小3組の女子、具体的に言えばM子とY子ちゃんらしい。
Y子ちゃんなどは更に大物で、先生まで仕切っているらしい。(^^;
昔、選挙のスローガンで「女性が幸せな社会が、明るい社会です。」みたいなのがあって、妙に納得した。
女性が虐げられている国々はどこをとっても先進国とは言い難いし、女性が元気な社会(日本も含めて)は、おおむね健全な社会である。
人間、お勉強など出来なくてもどこかに取りえはあるものなのである。
そして、こういう彼女達が育つ今の日本は、とりあえずは幸せな社会なのではあるまいか。( ^-^)
信大附属長野小学校、かつての3組 [<学校の話、子供たちの話>]
ステージの上に並ぶ3人の先生の中でひときわ目立つ笑顔と、もうすでに子供達の中に入っていろいろ世話を焼いていらっしゃる御様子。
直感は正しかった。
きまぐれなM子もすぐ先生が好きになり、子供達を大きな気持で包んで下さる先生とお母様方の評判も良かった。
前にも書いたかもしれないが、附属小学校ではそのクラスなりのテーマというのがあって、継続してそれについて研究していく。
KM先生がテーマに選ばれたのは「和紙」だった。
ご存知のように長野県の北部、雪深い飯山地方は、「内山和紙」という和紙の産地である。
3組の子供達はバスで飯山に出向き、こうぞとかみつまたとか和紙の原料になる植物を生産者の方から分けて頂いて来た。
まず、それを大きな鍋でゆでるのだという。
柔らかくなるまでゆでたら皮を剥き、漂白剤で白くしてから何千回だか何万回だか叩いて細かい細かい繊維にし、漉いて和紙にする。
一口に何万回というが、途方も無い回数だ。こういうところで根気を育てるのが、附属小教育の特徴かもしれない。
今でも覚えているのだが、KM先生は和紙を漉く授業をする時、自前で漉き機みたいなものを買われてお母さん方の前でデモンストレーションをやって見せた。
その時、水が先生の手元からこぼれて、床に盛大に流れ落ちた。
慌てた先生は大声で「おかあさ~ん、おかあさ~ん、どうしよう!なんとかしてくださ~い。」と叫ぶので、気の効く数名のお母さんが急いで雑巾を持って駆けつけた以外は、クラス中笑いの渦になった。
その光景を見て九子はなんとなく嬉しくなった。
この先生なら、きっと子供と同じ目線で物事を考えて下さるに違いない。
先日久しぶりに小学校へ出向いて保健室の先生に伺ったことだが、附属小学校が他の小学校とどこが一番の違うのかと言えば・・・・。
例えば子供が水をこぼす。ほかの小学校なら「何やってんだ!早く片付けろ!」と先生に叱られて終わってしまう。
ところが附属小学校はそうではない。
「どうして君は水をこぼしたんだい?」と考えさせる。
他の小学校なら先生が「これをやりなさい。」と一方的に押しつけるところを、附属小だと子供が何をやりたいかを相談して決める。
こういうところが違うんだそうだ。
う~ん、なるほどなあ。
それでかつてM子から聞いた話を思い出した。
「確か3年生の時にさあ、今度はケナフから和紙を作ることになったんだけどさあ、ケナフ育てる時、 水やりほとんど先生が一人でやってたんだよ。」
「えっ?どうして?」
「ケナフ、種から育てましょうって先生が言った時さあ、みんな嫌がったんだよね。『先生、そんな面倒くさいことやめようぜ。』みたいな話になって・・・。それでもさ、種まきと収穫はみんなでやったんだよ。」
「・・・・・・・・・。(^^;」
あのクラスならありそうな話だった。
KM先生がおおらかに育ててくださった子供達は、自己主張が強い。
その上みんなお祭り好きだから、種まきやら収穫やらおいしいとこだけはやりたがる。( ^-^)
子供達が遊んでいるの後目(しりめ)に、黙々とケナフに水をやるKM先生。
たまには文句のひとつも言いたくなることもあっただろう。
それを寸での所で抑えていたのは、たぶん・・・。
「子供達は育てるのを嫌がったんだ。
だけどそれじゃあオレが困る。研究発表の論文が出来あがらない。
ここはひとつ、オレが我慢してやるしかないな・・・・。」(^^;
烏骨鶏を飼った時もそうだ。
3羽いた烏骨鶏のうち1羽が病気になり、うちへつれて帰って寝ないで看病して下さったのはKM先生だった。
先生の努力も空しく、その1羽はすぐに死に、残った2羽も子供達がついうっかり小屋の鍵をかけ忘れたすきに、どこかへ逃げ出して帰ってこなかった。
卵がひとつ500円で売れる話も,あえなくおじゃんになった。(^^;
もしかしたらこの時の苦い経験があったから、2年続けて研究をぼつには出来ないと、先生文句も言わず、ケナフに水をやり続けたのかもしれない。
附属小学校は、生徒の根気ばかりでなく、先生の根性も育てる場所である。
(^^;
しかしKM先生のこういう努力は、決して無駄ではなかったのである。
子供達はちゃんと先生を見ていた。
「僕らの気持を大事にしてくれる『KMちゃん』は僕らの味方だ!」
そしてクラスは何事も無く3年生を終えた。
4年、5年を受け持たれたTK先生も、子供達の考え方を尊重してくださる素晴らしい先生だった。
生徒達もすぐに先生に慣れて、まとまった良いクラスになった。
ところが5年生の後半になって、あるいじめ事件をきっかけに、少々クラスにほころびが見え出した。
しかしTM先生は、あるときは優しく、あるときは厳しく、クラスを束ねていらした。
先生がおっしゃったことで忘れられない事がある。
「僕は、子供達にこんな事を学んで欲しかったんです。
ひとつは、人生、時には一生懸命頑張ってみるのも良いもんだということ。ふたつには、そうして頑張ってみても結果がうまく行くとは限らないということ。そして、たとえそうであっても、人生捨てたもんじゃないということ・・・・・・。」
う~ん、なんと含蓄のある言葉だろう。( ^-^)
そのTM先生が、6年生を前に他の学校へ移っていかれてしまったのだ。
子供達にとってそれは、何としても残念な出来事だった。
・・・・つづく・・・
横並び好きな日本人 [<学校の話、子供たちの話>]
男子は黒の詰め襟、要するに学生服・・・に革靴。
女子は紺のブレザー付きワンピースに同じく革靴。
そして校章は桜で、スクールカラーは桜の花のピンク色だそうだ。
全国各地に多くの附属高があり、確か坂口憲二も附属高出身者とか・・・。
(この情報はネットで確認できなかったので当てになりませんが・・。m(_ _)m )
・・・・と言えば、ははあ~んと思われる方も多かろう。( ^-^)
薬大の時の友人KTさんに言わせると、「ああ、腐ってもN大(高)ね。」
なんとなく言い得て妙みたいな・・・。(^^;
今年から長野N大高の男子学生服の色は黒から紺となり、N大というよりも○習院を意識しているの?という声もあるというが・・・。
中学校も2クラス出来て、いよいよ中高一環高としてN大以外の難関高も狙える学校に・・と長野N大高関係者は意気盛んだ。
と、例によって前置きが長くなったが、この際制服の事はどうでもよい。(^^;
問題は、冬の寒さが厳しい長野ならではの、自由であるはずの手袋のことである。
2年前まで次男Sは、なぜだか手袋ではなく軍手をはめて学校へ通った。
どんなに寒さが厳しい日にも、いくら温かそうな手袋を出してやっても、最終的にはめていくのは白い軍手だった。
「これが一番まともだ。」と言い残しながら・・・。
「どこがまともよ!」と、九子はSのセンスをいぶかしく思ったが、それが本当に一番まともと思うのならば、大学へ入ってからも白軍手で行けばいいと思うのに、そうではないのが奇妙だ。
先日ひどい雪の日にN子を校門近くまで送って行って、やっと訳がわかった。
長野N大高の男の子たちは、みな猫もしゃくしも白い軍手をはめていた。
え~っ?まじ~?
だってさあ、上から下まで制服で、髪の長さも校則できっちりと決められて、自由が許されるところなんて手袋くらいしかないじゃない!
そういうところでこそ、人と違うもの身に付けようっていう気はないのかなあ。
その上、せっかく買った制服のコートも、Sは卒業までに3回と袖を通していなかった。
これも同じ理由だった。みんな寒くてもコートは着ないのである。
「だから、俺も着ない。」
バッカじゃないの?(^^;
しかし長野N大高の場合女の子の方がまだましみたいで、N子のクラスでも、さすがに女子には白軍手の子はいないらしい。N子も柄物の手袋をはめて行く。
だが、寒いのにコート無しは一緒だ。コート着てる子はクラスで一人だと言う。
その子に九子から最大限の拍手をおくりたい。( ^-^)
(それが何よ!と言われそうだが・・・。(^^;)
ところで、制服のコートというのは、男女打ち合わせが違うだけで同じデザインである。
我が家の戸棚に、Sが3度しか使わなかったコートがある。N子も御多聞にもれず数回しか着ないであろう。
でも、左右の打ち合わせが違う。そしてコートは三万円もする。
まっ、いいか!いざとなったらSのを着せれば・・・。
可哀想にN子は、コートを着ないのではなく、コートが着られない事情があるのだ。(^^;
それはともかく、日本人がかくもみんなと一緒が居心地が良い民族になったのは、どんないきさつだろう?そして、いつ頃から日本人は、そういう習性を身に付けていくのだろう?
考えてみるとそれは、小学校から中学へ移るあたりに鍵がありそうだ。
「はい!」「はい!」「はい!」と、うるさいほどに手を挙げて先生の質問に答えようとする小学生の子供達と、急におとなしくなって「何か質問ありませんか?」と問われても、なんの反応も示さない中学生の子供達との決定的な差。
日本人の文化は「恥の文化」と言われるが、思春期に入って「恥ずかしい」と言う気持が芽生えて来ると、なんとなあく行動が限定されてきて、皆に恥ずかしくないように、つまり、皆と同じようにしていたがると考えてみたらどうだろうか?
「出る杭は打たれる」とは良く言われるセリフだが、これからは、「少しずつ、みんなで出よう、怖くない!」の時代が来ることを切に願う。
さて、日本人の横並び好きのそもそものいきさつの話しとなると、九子にはおおよそ見当もつかない。
どなたかご存知の方いらっしゃいますか?( ^-^)
ところでこの日記を読んで下さる方々から、九子はたまに思いがけないお誉めのお言葉を頂くことがある。曰く「九子さんの視点は面白い。」とか、中には「奥が深い。」とか言って下さる方もいて・・・。
その度に九子は赤面し、過分なお言葉に恥入りながら、でもとっても嬉しくて、頭の中にお花を咲かせて一人でニタニタ笑ったりする。(^^;
ただそういう時、ふっと思うのだ。
あたしって、考えてること、人と違うのかなあ?自分じゃあ極めて普通の人間だと思ってるんだけど、そうじゃあないのかなあ?
あっ、たぶんあなたは、自分で思ってるほどそんなに普通ではありませんって。(だって、普通の主婦ほど仕事出来ないでしょ?(^^;)
でも、そうやって考え込むとこ見ると、そんなに普通の日本人とかけ離れてる訳でもなさそうですが・・・。
3Σ外と書いてサンシグマーガイと読む。
偏差値曲線の標準偏差から一番外れた、例外的な部分。
九子は昔から、勉強の本質的な部分はさっぱり覚えていないのに、覚えていてもなんの役にも立たない普遍的でない単語のみを、なんとなく記憶している癖があった。
そう。3Σ外。
標準の日本人のほとんどが含まれる3Σ域の外。
九子はいつも3Σ外の住人らしい。( ^-^)
☆(このサイトを見ると、現在は3Σではなくて3SDと言うらしいです。こうしてみると、九子はやっぱりふる~い人間みたいです。(^^;)
福袋の話 [<学校の話、子供たちの話>]
書きたくてうずうずしていたのだが、「書いちゃダメ!」と彼女に釘を刺されたからだ。(^^;
だが今回だけは、お正月の無礼講ということで書かせて頂く。許せ!N子。
思えば久しい間、九子は福袋に縁がなかった。子供がまだ小さくてお金がかからなかった頃には、若かった出来すぎ母と競うように衣料品の福袋を良く買った。
考えてみると、あの頃が九子の金運の頂点だった。( ^-^)
今では、福袋など宝くじと一緒で、九子にとっては贅沢品である。
金欠病の我が家にあって、九子以上にお金にシビアなのがN子である。
そのN子が元旦に早起きして福袋を買いに行った。
あの雪の中、1時間半も並んで、なんと太っ腹にも1万円の福袋を買ったのだ。
彼女がその店を選んだのは、例によって友達の影響である。友達は、大きな家電やら衣料品やらを去年そこの福袋で手に入れたらしいのだ。
遅い元旦の朝食を食べ、年賀状もM子がすっかり家中の分を分けてくれたもう昼近くの頃になって、やっとN子は大きな袋と大きな箱を重そうに手にして帰ってきた。
「わあ~、すごいじゃん、その箱!」と言いかけたが、良く見るとそれは電気製品の箱にはとても見えない。今の時期、長野の家にはどこにも一つや二つ転がっている5kg入りのりんごの箱だった。(^^;
「重かったぜ~。この格好で電車乗るの恥ずかしかったんだよ。福袋は手に食い込むし、りんごの箱は邪魔だし・・・。」
「電話くれれば迎えに行ってあげたのに・・・。」
「そうしたら、よっぽど良いもんが当たったと期待されちゃうから止めといた。」
この辺の感覚が、彼女の場合少々普通と違う。(^^;
「それでどうだったのよ、福袋。」
「えっ、まあね。可も無く不可も無しかな?」
その可も無く不可も無しという福袋には、りんごの他にもうひとつ食料品が入っていた。早速それを見つけ出して早々と頬張っているのが末娘M子である。(^^;
当たったのは鯛焼き5個。朝ご飯も食べずに並んだN子が3個、残りがM子の胃袋に入り、20分もしないうちに福袋の中から消え去った。
でもまあ、良い。彼女達の胃袋の中に、福が届いたのなら・・。(^^;
そういえばもう1点、テナントの中華料理屋で食べられる餃子1皿600円也の券と、同じく靴屋の割引券、2500円以上お買い上げ毎に500円割り引き券という券も5枚。
だけどこういうのって、使えそうで実は使えない。餃子1皿だけ食べて引き上げるというのも、なんか悪い気がして日本人には出来ない芸当だし、500円割引と言っても2000円は持ち出しだ。
まあそう言う訳で、袋の中身のほとんどを占めていたのは衣料品だった。
衣料品と言っても、コートやジャケットといういかにも値の張りそうなものは皆無で、セーターが2点と厚手のポロシャツが1点。
どう考えても彼女向きではないジミ~な配色のその3点、しめて定価で2万3千円也は、次々とおじいちゃん、おばあちゃんとM氏の手に・・・。(^^;
「その福袋、ママが買ってあげるからもう一度買いに行っておいでよ。」九子も普通の母親ごかして(^^;言ってはみるものの、彼女の決意は変わらない。
(と言うか、彼女の強情さを知ってたから、大枚一万円をあげるなどと心にも無い事を言ったのかも・・・。M子になら言わなかったね。(^^;)
「お金は要らない。福袋2度買うなんて意味が無い。それに、この福袋が当たりじゃなかったっていう訳じゃない。可も無く不可も無しだっただけ。」と案の定N子は譲らない。(^^;
結局彼女の手に残ったのは、18900円也の値札の付いた羊の敷物のみ。
それだって、ソファーなど無いN子&M子の部屋では、可哀想に羊君も三つ折りにされてこたつ布団の下で苦しそう。(^^;
お正月番組で、○ツヤの「銀座のOL福袋」1万円也の中身を見せていた。
春物の淡い綺麗な色のトレンチコートと、もう少し厚手のコート。ジャケットにもなりそうなシャツやセーターなど、どう考えても五万円~十万円は下らない商品が入っていた。
この話は、口が裂けても絶対にN子にゃあ言えない。(^^;
N子が取ってきたりんごは、それからしばらくの間、我が家の食卓を飾った。
よりどりみどりある中で、N子の「わたしのりんご」についての思い入れは強かった。
信州では、新鮮さが失せてぼさぼさした食感になったりんごのことをりんごが「ぼける」と言う。
ぼけ老人と同じ感覚かもしれないね。(^^;
今年もはじめのうちは暖冬との事で、常温で保存した場合「ぼける」りんごが多かったように思う。
普段通りに冬の気温が低ければ、りんごは3月半ばくらいまではシャキシャキと新鮮なままで食べられるはずなのである。
N子のりんごは、なるほどN子が強調する通り、パキッと歯が折れそうなほど堅いりんごだった。
N子みたいに、若い、青い味がした。( ^-^)
頑張って寒い中福袋を買いに行ったN子は、鯛やき三個をほおばるとしばらくしてから気持が悪いと訴えた。いくらお腹が空いてたとは言え、身体が冷えきってるところへ鯛やき三個はキツかろう。
思う間もなくトイレに駆けこむN子。
福も当たったかもしれないが、福じゃないものにも当たっちゃたのかな?(^^;
いまどきの成人式 [<学校の話、子供たちの話>]
毎日郵便物のチェックを怠らないM氏が、「これ、成人式の通知かなんかじゃないか?出欠通知でも入ってたらまずいから、開けた方がいいんじゃないか?」とうるさい。
そんな訳で開けちゃったけど、ごめんね。恨むなら、ママじゃなくて、パパを恨んでね。(^^;
中には確かにワラ半紙の通知が2枚。
どれどれ・・・。
読み始めた九子は、ほお~っと思った。
通知には、ひときわ大きく「恩師を囲むおしゃべり会」とある。
が、しかし、1月9日に長野市役所で開かれる会合のお知らせである。
つまり、成人式の代わりに、二十歳の同級会を市内合同でやりましょう・・・という事らしい。
中学校単位だから、来て下さるのは中学の恩師の先生だね。
やるもんだねえ、長野市も。
近年とかくいろいろ問題のある成人式。
高知の橋本大二郎知事が、演台から怒鳴りつけたとか、酒に酔ってステージに乱入したとか、逮捕者まで出てニュースになった成人式ばかりでなくても、近年の若者の忍耐力の低下を思わせる光景が、あちこちの会場で垣間見られているらしい。
さすが!教育県長野だ!
式典を廃止して、同級会とは、思いきったもんだわえねえ。
合同同級会実行委員長のMさんっていう人が、名門N高の元会長さんかなんかで、こういう思いきった企画を考えたに違いないわ。さっそくSに電話してみようっと!
実はSは、9月頃に住民票を大学のある場所から、長野に戻したばかりなのである。
「ねえ、S!君さあ、住民票戻したの、みんなに会える成人式に出たかったからって言ってたけど、合同同級会の事知ってたの?」
「えっ?何それ?」
「書いてあるわよ。『恩師を囲むおしゃべり会』って・・。」
Sはまったく知らなかった。単純に成人式に出れば、友達に会えるだろうと考えて住民票を移したのだという。
Sも驚いていた。「へえ~っ!すげえな!」
「ママもびっくりよ。長野も結構さばけた事するもんだよね。」
「だねえ~。」
「それでさあ、記念品がシステム手帳なんだって。」
「へえ~。それもいいよねえ。」
「それでさあ、式って全然無い訳?」とS。
「え~っと、どれどれ・・・。」
「まず受けつけが9時半でしょ。それで『恩師を囲む会』の開式が10時。」
「・・・・・・・・・・・・・・」
「どうしたの?」
九子はその式次第を読み上げながら、呆然とした。
「『恩師を囲む会』がたったの30分。それから、そのあと式典もあったよ。これもたった30分だけど・・・。」
(これってさあ、まるでわざわざ先生を呼んどいて、成人式の監視をしてもらうみたいなもんじゃないよ。
可哀想に、あの子達って、そこまで信用されてないわけ?
してみると委員長のMさんというのも、名門N高校元会長でもなんでもない市役所の狸オヤジだね。(^^;)
「まっ、短くたっていいじゃん!そのあとゆっくり二次会すればさあ・・。」と青年S。
まあね。君がなんも感じないなら、それ以上言うこともないんだけどさあ・・・・。
茫々(ぼうぼう)たる未来に、今帆を上げ行く純真なるわが息子よ。
世の中と言うものは、君が考えているほど単純ではない。
単純に見えるものには、裏がある。
もちろん単純に信じて良い場合もあるだろうが、残念ながらそう言うことの方が稀なのだ。
若い君に、物事の裏を読めと言うのは酷かもしれない。
そんなことに気が付くのは、もう若くない証拠なのかもしれないのだから・・・。
・・・・・・・・・・・・・・・・。
そうか!
今回の成人式は、そういうことまで教えるための企画だったのでは?
だとしたら、さすが!というべき我が長野市なのだけれど・・。
長野市を愛する余りの、深読みだったかしら・・・。(^^;
まあ本音はともかく、長野市がせっかく中学の時の先生まで呼んでくれてお膳立てしてくれた会なのだから、精一杯楽しんでおいでよね。( ^-^)
悲報 [<学校の話、子供たちの話>]
N子の信大附属中学の同級生だった男の子のお母さんが亡くなった。
もうとっくにお蔵入りになっているはずの中学の連絡網を使って、その電話はかかってきた。
「TK君のお母さんが亡くなられて、今日お通夜があります。詳しいことはまだなんにもわからないんです。」
「どうされたのかしら?お若いから癌かなにかかしらね・・。」
TK君のお母さん・・・・。
クラスのお母さんの顔がなかなか覚えられずに困っていた私にも、彼女の姿は鮮烈だった。
いつもクラス懇談会で、担任のN先生相手に手厳しい発言を繰り返していた彼女。
温厚なN先生の表情が一瞬こわばるのを目撃することもあったし、私ばかりではなく、きっとお母さん方全部から「ちょっと怖い人」という印象を持たれていたのがTKさんだった。
言うことも言うが、やるべきことはちゃんとやる人でもあった。
誰もが尻ごみする3年生でのPTAの役を引きうけて、ふれあい委員会の委員長として、煩雑な卒業謝恩会の準備に奔走し、マイクの前で最後の挨拶をしめくくったのが彼女であった。
実は私はその卒業謝恩会で、彼女の隣に座ったのだ。
申し訳無いが、最初彼女が隣と知って、逃げ出したい気持ちになった。
しかし彼女は、話してみるとなんら普通のお母さんと変わらない人であった。
TK君の上に男の子が二人。TK君も名門N高校へ進まれたが、多分一番上のおにいちゃんもN高校で、真中が長男Rと同じNY高だと言っておられたと思う。
教育ママなんだろうな・・・。その時私はそう思ってしまった。
「私、薬を取りにお宅に伺ったことあるのよ。お留守だったけど、おばあちゃんがいらして・・。
ほら、お宅から不用在庫のファックスが流れて、それを分けてもらいに行ったの。
私○○薬局で医療事務やってるの。」
びっくりしたが、たしかに覚えがあった。
長野市薬剤師会では、処方箋薬が変更になったりして不要になった薬を薬剤師会事務局に申し出ると、不要在庫のリスト集としてすべての薬局にファックスで流れる仕組みになっている。
市販の値段より数割安いので、1錠数千円もする抗がん剤なんかは特にすぐに売れてしまう。
売るほうの薬局としても、寝かしていて期限が来てタダになってしまうより、たとえ安くても買ってもらえるのなら有り難い。
○○薬局から、一度だけではあるが確かに注文が来た。
ああ、あの時の・・・。
「うちの弟は医者なのよ。わたしも一応医療に携わってるでしょ。だから息子も一人くらい医者になってくれないかなんて思うことあるけど、どうなることやら・・・。今仕事と、親の介護もあるし、今まで委員会の仕事なんかもあって、われながらよくやってたと思うわよ。」
今の自分に満ち足りている女性の、晴れがましい笑顔がそこにはあった。
あれからたった8ヶ月・・・。
二度目の電話には、さらにびっくりさせられた。
彼女の死因は交通事故死だったのだ。
前夜の事だと言う。
早速地元紙を開いた。
社会面に小さな記事があった。
車が対向車線にはみ出して、対向車と激突。運転していた女性が心臓破裂で死亡とあった。
記事を見る限り、彼女に分が悪い。
疲れていたんだろうか?ふっと眠気に襲われてしまったのだろうか?
こちらは亡くなっているのに、相手の車に対する保障は家族がしなければならないのだろう。
いや、もちろん保険がほとんどをカバーしてくれるではあろうが・・・。
妻を亡くした男が、申し訳なさそうに相手に頭を下げる場面を想像すると切ない思いがする。
ありがち・・・と言うと悪いが、TKさんのご主人はおとなしそうな人だった。
TKさんを中心に回っている家庭が容易に想像できた。
男の子三人はどんな子たちなんだろう?
こんな事でもなかったらきっと聞くことなどなかったであろう三男TK君の性格を、N子に聞いてみた。
「元気いいよ。いつもお母さんと喧嘩してるって言ってた。」
なんだかほっとした。
告別式は二日後だった。
学級代表だったお母さんは出席されるが、あとはご自身の判断で・・と言うことだった。
最後まで迷ったが、結局行けなかった。
人間というものは、最後の最後まで、誰かに向かってメッセージを投げ続けていたいもののようだ。そして出来ることであれば、自分が生きた証(あかし)をなんらかの形で残しておきたいと考えるのではないだろうか?
気風(きっぷ)の良かった彼女の最期は、たとえ望まない形ではあったにせよ、潔く鮮烈であった。
その死によって、彼女の生は、残された者たちに深い印象を与えた。
彼女の性格には、こういう華々しさはむしろ似つかわしい。
賢かった彼女は、もう今ごろ、自分の死すら乗り越えてしまっているような気がする。
「ばかなことやっちゃったけど、子供たちはもうすっかり大きくなったし、私は全然心配していない。
あとは主人や子供たちの、お手並拝見ね。」
こんなことでもなかったら、日記に書く事もなかったかもしれないTKさんの話である。