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桜と別れ [<坐禅、仏教、お寺の話>]

もうすぐ桜が咲く。

長野の善光寺の東隣にある城山(じょうやま)公園には、もう馴染みの花見小屋が去年と寸分違わぬ場所を占め、古びたちょうちんをいくつも並べて、誰よりも花の咲くのを心待ちにしている。

桜の歌には名曲が多い。タイトルに「サクラ」が含まれるものだけでも、コブクロの「桜」、河口恭吾の「桜」、森山直太朗の「さくら」、ケツメイシの「さくら」、いきものがかりの「桜」、福山雅治の「桜坂」などなど。

サクラはつかないけれど、Orange Rangeの「花」も、九子は大好きだ。

こんなにいっぱい名曲があるのだから、これ以上はもう出ないだろうと思っていると、またポツリポツリと毎年のように新しい桜ソングが出る。

季節が卒業入学の春だからだろうか、それともはかない桜の命を、短い恋の思い出に重ね合わせるからだろうか。

たぶん日本人のDNAに深く刻まれているだろう桜好きは、桜が「美しい別れ」の記憶と隣り合わせにあるからのように思う。

一斉に散るからよくわかんなくなっちゃうけど、桜は5枚の花びらが1まい1まい別々に散るんだよね。つるんでなんか居ないんだ!
もしかしたら群れたがりやの日本人には、そんな姿も好ましかったのかもね。(^^;;


最初に書いたコブクロの「桜」は、歌詞を読んでから九子の中の一番のお気に入りになった。

追いかけるだけの悲しみは 強く清らかな悲しみは いつまでも変わることのない 
無くさないで君の中で咲く・・love

最後の 咲く・・love が「サク・ラ」にかかってる。

今、切ない片思いをしてる人は、この歌で報われるんじゃないかな?( ^-^)

言われてみると、なるほど!
追いかけるだけの悲しみほど、強く清らかな悲しみはないよね。
誰にも言わずに、ひっそりと心に秘めた恋。
その人がとても美しく見える。

言っとくけど間違ってもストーカーみたいになったりしないように・・!(^^;;


Orange Range に至っては、あの若さでよくここまで哲学的、宗教的な詞が書けたものだと感心してしまう。

あれをラップにしないで、そう、「千の風になって」みたいに秋川さんがソプラノでゆっくり歌ったりしたら、また別の年代層にも受け入れられそうな・・・。(^^;;


ちなみに外国の別れの歌を何曲か探して見たけれど、歌詞を読む限り、日本人のように花の散り方や、春の芽吹きに人生を重ねるという感覚は見受けられないようだ。
やはり日本人独特の感性なんだろうか?

あくまでも九子の趣味で、比較のために、Backstreet Boysのこの歌を聴いてみて! 九子の中でBackstreet boysは洋楽のExile。(^^;;


和訳

 ね?太陽とかはたまに出てくるけど、あくまでも背景に過ぎず、自分になぞらえてはいないでしょ?
どこまでもYou とIだけの世界なんだね。

九子はちょっと安心したんだけど、洋楽の世界でも男は弱っちくなってるのねえ。(^^;;(少しスクロールすると出てきます。)

別れの歌がなぜ美しいのか?

九子が思うに、恋人との別れは、誰の心の中にも、常に一つの情景として、いわば美しい一枚の絵として、留まり続けているからだと思う。

もしもその恋人と、思いが遂げられて結ばれたとしよう。
その瞬間に、二人の行為は壁に飾るべき「一枚の絵」ではなくて、生活と言う名の、混沌として流動するただの日常に変わってしまう。

決して動くことの無い、いわば裏切ることの無い「一枚の絵」として、恋人の心の中に生き続けた方がいいのか、それとも恋人の心を独占して恋の勝利者になるのがいいのか、まあ、普通には後者だとは思うけど、考えどころだよねえ。( ^-^)


別れの歌を探していて、びっくりすることがあった。
少なくともタイトルに「別れ」という文字がつく歌は、二、三十年前の「演歌」というジャンルがほとんどで、現代の曲の中では数えるほどしか探せなかった。

考えてみると今の曲のタイトルはカタカナや英語ばかりだからねえ。
それもそうだけれど、「別れ」という言葉が持つ否定的な印象を若者たちは毛嫌いするのだろうか?


九子が若かりし頃の名曲「別れの朝」を、さっきyoutubeから引っ張り出して聴いた。

高橋真梨子のボーカルはさすがに迫力がある。
歌詞は なかにし礼で、繰り返しが多いのでほとんど一番の歌詞しかないような短いものだ。

 

あの頃は繰り返し聴いていたが、今聴いたら「あれ?」と思うことがあった。

別れの朝二人は、冷めた紅茶を飲み干し、さよならの口づけを笑いながら交わして、駅につづく小径を何も言わず歩くのだ。

さよならは言わないで、涙をさそうから。この指にもふれないで、心が乱れるから。

そして汽車は出て行き、あなたはちぎれるように私に手を振り、私はあなたのその目をじっと見ていた・・というのが歌詞のあらかただ。

女は男に手を触れられるだけで心が乱れ、男は女に汽車の窓からちぎれるように手を振り続ける。
こんなにお互い、未練たらたらなのに、なんで別れるの?

あっ、そうか!もしかしたらこの歌は、別れとは言いつつも、彼が短期出張かなんかで出かける時の歌?(^^;;

別れに伴うはずの悲壮感っていうの?ちょっと希薄な気がする。
お互いにまだ気持ちに余裕があるよね。

別れって言うのは、もっとひりひりするものじゃないのかな?
まあ、そんなに多くの別れを経験した訳じゃない九子に言えたセリフじゃないんだけれど・・。(^^;;

 

日本人が割合淡白で、別れに関してもきれいな身の引き方を身上にしているように思えるのは、やっぱり桜の散り際を美しいと感じる美意識だからなのかもしれない。

咲いても美しい、散っても美しいと感じるのは、桜がそういう稀有な花であるからという事ばかりではなく、「負けるが勝ち」とか、判官贔屓(はんがんびいき)とか言われた、弱者に対する日本人の優しい気持ちと無関係ではないのかもしれない。

そしてその根底にあるものは、「散る桜、残る桜も、散る桜」という教訓。
読み返してみると、九子もいい事書いてたね。(^^;;
2006年10月と言えば、父が亡くなって半年。それから2ヶ月ほどで母も逝ってしまう悲しい年だった。

すばらしいコメントを下さったawayさんMuranさんに改めて感謝申しあげます。m(_)m


諸行無常の世の中に生きる私たちに、生きるための、そして死に臨んでの先祖たちからの智恵を、美しくはかない姿で、静かに、そして雄弁に語ってくれる桜。

そしてそのメッセージを、軽薄と言われがちなラップ歌手の若者たちであってすら、心のど真ん中に的確に受け留める事のできる私たち日本人。

みんな、自信を持とうよ。私たちは誰にも負けない素晴らしい、美しい資質をもっている!
毎年毎年桜と一緒に、何かを捨て去ってはまた新しく生まれ変わる強さもある。

何が正しいのかを、よく見極めよう。
正しいもの、美しいものを追い求めよう。
人と同じだからと安心することをもうやめよう。

自分の頭で考えよう。
誰かへの気遣いは少々お休みにして、自分が何をしたいのかを一番先に考えてみよう。

勇気を持って「変だよね。」って口にしよう。
その時を逃したら、もう永久に口にする機会はないかもしれないのだから。

勇気ある一言を口にする人が正しいと思ったら、積極的に応援しよう。
その人の意見が、大勢の圧力につぶされてしまう前に。


そしてこういうことがやっぱり私には無理!と思ったら、坐禅をしましょうね。
九子だって昔は何も出来なかった。でも少しは強くなれました。( ^-^)

 


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安心立命 [<坐禅、仏教、お寺の話>]

年賀状には温かい家庭のささやかな日常が綴られるものだとばかり思っていると、時としてとんでもない非日常が書かれていてのけぞる事がある。

Kさんからの年賀状はその最たるものだった。

7~8年前まで、わが家のすぐ前でピアノ教室を開いていたKさん。
東京から引っ越されてすぐ、その行動力と明るさでまたたくうちに生徒さんを増やし、わが家の娘二人と
出来すぎ母も、いつのまにか彼女の生徒の末席に加わっていた。( ^-^)

出来すぎ母は小さい頃にピアノを習ったがすべて音感に頼っていたので、楽譜は特にシャープやフラットが増えて来るともう読むのがめんどうになる。
それでも年を取って暇が出来るとまた昔のようにピアノを弾いてみたいと思ったようだ。

その血を受け継いだ九子も同様に譜面を見ずになんとなあく弾いていて、母に言わせると「おっぽけばっかり弾いて!」と言う事になる。(そんな九子はピアノとは早々におさらばした。(^^;;)

おっぽけというのは、でたらめとか間違いとか言う意味の、これは稲荷山弁なのかな?
(今気がついたけど、もしかしたら語源は「大呆け」かも・・。)

Kさんはピアノ初心者でも「どうしてもこの曲が弾きたい。」というリクエストがあれば、その曲がなんとか弾けるようになるまで指導してくれた。

出来すぎ母も、「別れの曲」や「トロイメライ」を一丁前に弾く事が出来るようになった。

まあそんな訳で、Kさん御一家が大家さんの都合で三年ほどでここからそう遠くない別の場所に移って行かれるまで、Kさんは九子の数少ない友人の一人であり、わが家3人のピアノの先生であった訳だ。


九子がのけぞったのは、後から気付くと二年ぶりに届いたKさんからの年賀状の「脳死肝移植」という一言だった。

えっ?「脳死肝移植?信州大学病院で?」
Kさんはいつも元気いっぱいの人で、肝臓が悪いなんて一言も言っていなかったのに・・・。


早速電話して聞いた話はこうだった。

彼女は一番下のお子さんを生んだ時、C型肝炎に感染してしまっていた。
その後ずっと、ほとんど症状が出ないで済んでいたのだが、5年ほど前から症状が出始めて、肝硬変、肝癌へと進んでしまい、癌は肝臓全体に広がり、生体肝移植では間に合わず、肝臓全体の移植しか打つ手が無くなっていた。それが2010年の秋頃。

「来年のお正月は迎えられないかもしれない。」という余命宣告を受けながら、彼女は持ち前の勝気さで泣いても仕方がないと開き直って、前向きに、ひたすら前向きに、看護師さんに「何がそんなにおかしいの?」といぶかしがられるほど笑いながら毎日を送っていたそうだ。

「子供たちだって一番下がもう二十歳。ここまで生きてやればもう母親の責任も果たしたでしょ。」
彼女の強さはこういう割きり方だ。とても九子と同じ一人っ子とは思えない。

そういう前向きな気持ちが、確かに彼女に幸運をもたらした。
余命ぎりぎりの2010年の12月、肝臓の型が彼女とぴったりのドナーが現れたのだ。

そして7人の主侍医による23時間にも及ぶ手術が始まり、何度も生死の境をさまよいながらも、彼女いわく、「ベートーベンの生誕日に生まれ変われた。」のだそうだ。音楽にぞうけいの深い方は御存じだろうが、12月16日の事だそうだ。

幸い拒絶反応も起こらず、一ヶ月後にはもう退院して、長野から松本まで小型の酸素ボンベをひきづりながら受診を続けたそうだ。

そんなKさんのことは県下初の脳死肝移植ということでもちろん名前を伏せて地元紙やテレビでも取りあげられたそうで、見る人が見れば彼女だと言う事がすぐにわかる記事だったと言うが、九子は全然知らなかった!

そして彼女はこんな不思議な話もしてくれた。
彼女の肝臓は北の方から空輸されて来た男性の肝臓なのだそうだ。臓器はユニセックスなんだね。( ^-^)
そして移植手術中、彼女は不思議な夢を見ていたそうだ。
男性がどんな風に死んだのか、そして彼のお葬式の様子、それらが手に取るように見えたのだと言う。

そして麻酔からさめた時、彼女は彼女のものになった肝臓にこう語りかけたそうだ。
「よろしくね。縁あって私の身体の一部になってくれた肝臓さん、これからはずっと二人で頑張りましょうね。」


「もう一年経ったから、すっかり元どおり元気になったわよ。薬(免疫抑制剤)は死ぬまで飲むけどね。
 お金はすっごくかかったけど、命もらったんだもの。信州大学(医学部)優秀よ。考えてみたら肝臓移植最初にやったの信大病院だったもんね。先生方みんなアメリカへ留学して研鑚積んでるの。東京の友達に、長野に居たから助かったって言われたもの。そんな普通じゃ会えもしない優秀な先生方がみんな私の主侍医になってくれて、今じゃ気楽に話せるんだもん。それだけだってすごい体験よ。」

「私のピアノのお弟子さんさあ、みんな優秀で信州大学医学部へ3人も入ったのよ。」
一流のピアニストになるような人は頭脳明晰じゃないと絶対に成れないというのが彼女の持論だった。
言われてみると確かにそうだ。10本の指を別々に動かすという離れ業は、とてもじゃないが九子みたいなとろい人間には出来るはずがない。

「入院してるとさあ、夜中に泣き声が聞こえてくるの。泣き声で眠れないって人も居る。睡眠薬もらう人も居る。だけどもうしょうがないじゃない。泣いてたって何も始まらない。そんなら明るく笑っていようって思った訳。」

これらの言葉から垣間見られる勝ち気で前向きで陽気な彼女の性格が、彼女の術後の免疫力を高めるのに大いに効を奏した事は言うまでも無い。

癌患者でも、前向きに生きる人の方が予後がいいってよく言われる。
だけど九子にKさんと同じ事が出来るかと言われたら自信が無い。

もちろん九子は必死に坐禅をするだろう。それによってだいぶ不安は小さくなるに違いない。だけど果たしてKさんみたいに達観できるだろうか。「子供も一番下が20歳になったんだから、もういいじゃない!」
そんな風に思えるだろうか?

九子は活禅寺で「安心立命」という言葉を習った。仏を信じて(坐禅をして)安心しきって、自分の使命をまっとうするという意味だ。

若い頃はなかなかわからなかった「自分の使命」だが、この頃なんとなく見えてきた。たぶん大きく外れてはいないと思う。
若い頃は別の事を自分の使命と思い込んだ時期があったが、それはやっぱり間違いだった。それが自然にわかってきた。
自分の使命はそんなに自分とかけ離れた難しいことの中には無いようだ。
そういうことがわかってくると、年を取るってまんざら悪い事ではないと思えてくる。

仏教では一期一会だの、会うは別れのはじめだの、今日と言う日が二度と来ないことを戒めることわざが多い。

Kさんみたいに人生を2回も味わうような体験はそうそう出来ないと思う。普通の人はたった一度の人生だ。

九子なんかはその人生もそろそろ先が見えてきて、とにかく死んでいく時に悔いだけは残したくないと思うようになった。

自分の使命はわかった。ならばその使命のために何をなすべきか。
今年はそんな事を考えながら過ごせたらいいなあと思っている。


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信じるということ [<坐禅、仏教、お寺の話>]

そのおじさんは、静岡県から笠原十兵衛薬局へやって来たと言った。車で4時間もかけて・・。
静岡県は長野県のすぐ隣なのだが、道路が整備されていないため郵便でもなんでも着くのに時間がかかる。

ところでこのおじさんという言葉、使う人の年齢によって対象の年齢層に幅が在ることに近頃九子は気がついた。

たとえば二十歳の女の子が使えば30歳以上くらいの男性をさす。
かく言う九子が使えば、どう考えてもおじいさんと呼ばれるような人。
ちなみに九子の言うおじいさんは、棺桶に半分足突っ込んでるような人だ。(^^;;

とにかくそのおじさんは、もう何度も雲切目薬を買いに来て下さっているらしい。(人の顔を覚えられない九子は、 あら、まっ!と思っている。(^^;;)

おじさんは関西弁とおぼしき言葉をしゃべった。
「関西の方ですか?」と九子は聞いた。

おじさんは静岡県から来たけれど、生まれは名古屋なのだと言う。
なるほど!静岡に移って何年経つのか知らないけれど、言われてみればおじさんの言葉は八丁味噌みたいに名古屋そのものだった。

おじさんは年に二、三度は必ず長野に来るのだと言う。その度に雲切目薬を買って下さるのだと言う。

「いやあ、女房がね、こっちにおるんですわ。」と言って、おじさんは善光寺の方向を指さす。
「ああ、近くにお住まいなんですね。」と九子。

「いんや。こんなに小さい壷ん中はいっちょっとです。」

善光寺の裏山、長野市内を見渡すところには納骨堂があり、春は桜が、秋は紅葉が死者たちの霊を慰める。

誰に話すともなく、おじさんは続ける。

「いやあ、わしゃあ大ばかもんなんですわ。あんないい女房を殺しちまって。わしが殺したんですわ、ひもで首しめて・・。」

「えっ?まさか・・。」

「いや、近所の人はみんな言っちょる。おまえは日本一の大ばか者じゃて。あんないい奥さんに苦労かけて、結局殺しちまったって・・・。」

おじさんは、自分が奥さんに苦労をかけて悲しませて、真綿で首をしめるように奥さんを苦しめて殺してしまったと言いたかったのだと思う。奥さんが亡くなったのは5年前だそうだ。

どういうご縁でか知らないがおじさんは善光寺の納骨堂に奥さんの骨を納めて、きっと命日と春秋のお彼岸にはきちんきちんと車を飛ばして4時間かけて長野にやって来るのだ。

なんだか九子は胸が熱くなった。
「おじさん、おじさんの思いはきっと奥さんに伝わってますとも。そうやってまじめにご供養されてるんだもの。」
口に出しては言えなかったが、おじさんにそう伝えてあげたかった。

すっかり気分が良くなった九子は雲切目薬8個ごとにプレゼントするおまけの百草丸を7個目でおじさんにあげた。(ケチッ!!(^^;;)

おじさんがそれでも嬉しそうな顔で帰って行ってしばらくしてから、九子はハッとした。

おじさんの話をすっかり他人事みたいに聞いていた九子だったが、九子だって何回生まれ変わっても恩返し出来ないほど世話になった出来すぎ母にひどいことをした。おじさんは奥さんをきちんと供養しているけれど、九子なんかお墓や善光寺のすぐそばに住んでいながら御無沙汰ばかりしている。おじさんの方が九子よりよっぽどましかもしれない。

出来すぎ母が亡くなった時、九子はどうしようもなく落ち込んでいた。
母が亡くなって悲しいのはもちろんだけれど、親孝行どころか母の死を早めるようなことをした自分がどう考えても赦せなかった。

辛くて辛くて仕方が無くて、何をしたかというと活禅寺で母の法要をしてもらった。活禅寺はお葬式をしないお寺なのだけれど、その代わりに菩提寺がどこであっても頼みさえすれば活禅寺独特の法要をしてくれる。

菩提寺での七七忌の法要の日の朝、活禅寺で朝6時から1時間の法要を頼んだ。
その法要で、九子の心はとても楽になった。

なぜ楽になったのか?それは母がその時、あの世と言われるところで幸せに暮らしていると確信できたからだ。微笑んでいる母の姿が見えたからだ。
残念ながら菩提寺の和尚さんのお経を聞いても、九子に母の姿は見えてこなかった。

それを錯覚と言われようが、迷信といわれようが、大事なのはもう二度と会えない大切な人が今どうしているのか、目に耳に心に訴えてくるものがあると言うこと。

正しかろうが間違いだろうが、確信を持ってそうだと語れるのであれば、それがその人にとっての真実なのだと思う。
だって結局誰もあの世のことなどわからないのだから・・。


九子のウツがひどかった頃の話だ。
ご存知の通り、うつ病には波がある。日替わりで気分が変わる。今日が楽でも明日はひどく落ち込むかもしれないし、誰も予測が立てられない。
一日のうちでも午前中が悪くて、午後4時頃になると楽になるとかいうリズムもある。

そんな中、友人に薦められた一冊の本が九子の気持ちを確実に明るくしてくれた。涙が出るほど嬉しかった!
これで明日には確実に元気になれると思った。(実際はいったん発症したうつ病はそんなことで治るほど甘いものではないのだが・・。)
それが飯田史彦著「生きがいの創造」だった。

生きがいの創造―“生まれ変わりの科学”が人生を変える

生きがいの創造―“生まれ変わりの科学”が人生を変える

  • 作者: 飯田 史彦
  • 出版社/メーカー: PHP研究所
  • 発売日: 1996/06
  • メディア: ハードカバー


それは過去世の記憶を持った子供たちの話から始まった。
そういう子供は結構たくさんいるらしくて、ただ3歳頃を境に過去の記憶は急速に失われていってしまうそうだ。

キリスト教には輪廻転生という考え方が無いので、「生まれ変わり」という考え方はキューブラー・ロス博士 あたりが提唱しなければ出てこなかったはずだ。つまりそういう子供たちが居る事が「生まれ変わり」の何よりの証拠ということだ。

飯田氏によると、人間はもともと「あの世」にあるべき存在で、この世の姿は仮の姿であるそうだ。

今の世の中であなたの周りに居る配偶者や子供や両親や兄弟姉妹や友人や、先輩や同僚や大嫌いなヤツや、そういう人々はみんな必ず次の世の中でも自分の近くに生まれ変わって、お互いに影響を受けながら与えながら生き続けるのだという。

彼らは'soul mate'つまりは「魂の友人たち」と言われて、何度生まれ変わってもお互いに離れることはない。

そもそも私たちはこの世に宿題を解くために生まれてきたのだそうだ。
それぞれが前世で解き残したさまざまな宿題を抱えて、生まれる場所や親を自分で選んで生まれて来ると飯田氏は言う。

だから亡くなったと思っているあなたの大切な人は、今現在本来の居場所である「あの世」であなたを静かに待っている。そしてsoul mateたちが次々と自分の宿題を終わらせてまた「あの世」に帰ってくるのをじっと見守っている。

幼くして亡くなる人々も、それは自分の宿題をきちんと終えて亡くなって行くのだという。ちょっとこのあたりは信じるのに辛いものがありそうだが・・。

全員が揃ったところでこの次はいつ、どんな場所で生まれて、それぞれがどんな役割を演じようかと皆が相談するのだという。だからあなたの妻は前世ではあなたの父親だったかもしれないし、大嫌いなあの人も、実はそういう役割の、あなたの大切なsoul mateなのかもしれないのだ。

こういう風に考えられれば、少なくとも大切な人を亡くして悲しんでいる人はずいぶん気持ちが楽になると思う。

当時九子はうつ病の最中だったけれど、読んで涙が止まらなかった。久しぶりの嬉しい涙だった。
自分がうつ病という病気であると言う自覚はまだ無くて、医者に行ったり薬を飲む事も思いもつかず、頻繁に来る落ち込みの中で辛い毎日を送っていた。

だけど変だなあ。考えてみれば当時九子の両親はまだ二人とも年より若いと言われてピンピンしていた頃で、飯田先生の「生まれ変わり」の思想のどこが、憂鬱な九子の心を楽にしてくれたのだろうか?

たぶんそれは著書全体に流れる明るさというか、とにかく死のような忌まわしいものや嫌いな人とかいう否定的な事の中にもちゃんと意味があって、それは次の世に肯定的につながっていくという極めて楽観的な考え方が、八方ふさがりの心に灯をともしてくれたのかもしれない。

とにかく飯田史彦氏で特筆すべきことは、彼は宗教家でも宗教学者でもなくて、大学研究室に勤める科学者であり、宗教活動は一切していないということだ。


ところが以前大川隆法の「幸福の科学」本を頂いて、読んだ途端にびっくりしたことがあった。そこに書いてあったことが、飯田史彦先生の言ってたことと良く似ていたからだ。
「幸福の科学」本は一時古本屋に結構高く引きとってもらえたので、もらったそばから売ってしまって(^^;;なんというタイトルの本だったのか明言できないのが残念なのだが・・・。


要するに大切なのは「信」なのだ!!

「生きがいの創造」は著者が何度も書き直して現在は最新版が出ているそうだが、多くの賞賛のコメントとともに、少数だが否定的なコメントも散見される。

大雑把に言うと、肯定的コメントはこの本を信じた人からのものであり、否定的なコメントはこの本を信じられなかった人からのものだ。もちろんこの本を信じられるか信じられないかは、その人の環境や生い立ちやその他もろもろの影響が加わる。

考えてみると日常生活の中で「信」が問われる事は毎日のようにある。いや、毎日何度となくある。

上司を、先輩を、先生を、友人を、交渉先を、親を、兄弟を、子供を、そして一番大切な「自信」に通ずる自分をどこまで信じられるかという問題。

何かを選択する際には、必ず何かを信じて選択していると思う。つまり判断する時には、必ず「信」がついてまわる。

活禅寺の無形大師は「信は万法の母」という言葉で信じる事の大切さを説かれた。
「信じるものは救われる」とか「イワシの頭も信心」とか言われるけれど、とにかく信じなければ宗教は成り立たない。

九子なんかはいつもいつも仏様に守られているという自覚があって、そのくせこの頃あんまりお寺に行かないのを申し訳なく思っているのだけれど、それでも子供の帰りが遅かったり、M氏からなかなか電話がなかったりするとその度に不安になったものだった。

考えてみると不安だったり、びくびくしたり、おどおどしたり、そういう時は必ず「信」がぐらついている。
九子の場合どんな時でも仏様を「信じきる」ことが出来れば、心配事がおきるはずが無い。

何の宗教にも属していないあなたでも、あなたに心配かけてるその人への「信」が怪しくなるから心配になるのではないだろうか? その人を「信じきる」ことが出来ないから「あの人なら絶対大丈夫!」ではなくて、「何かあったらどうしよう?」と考えるのじゃないかな?

あのおじさんだって善光寺の納骨堂へ行けば奥さんの供養になるし、奥さんに会えると信じてるから4時間の道をわざわざみえるんだと思う。

「信」というのはきわめて個人的なものだ。正しい信も、正しくない信も無いのだと思う。
自分が信じるか、信じないかというその一点にかかっている。比較も評価も値しない。

日本が自信を失っていると言われて久しいけれど、日本人の一人一人がもう少し自信を持てるようになるときっとこの国も変わっていくと思う。

自信とは、自分自身を信じること!どんな状況でも自分を最後まで信じきれること!他人がなんと言おうとも、自分が自分をすごい!自分なら出来る!と思うこと。

難しいなあと思う人は、是非坐禅を始めてみてくださいね。

坐禅をすると、自分が本来生まれもっている力の大きさを確認することが出来ます。仏様と同じだけの力を持った自分を感じることが出来るのです!

大いなる力に庇護してもらうだけならどんな宗教でも同じことだと思うけれど、坐禅だけがあなたが気づかないでいるあなたの中の偉大な力に気づかせてくれます。

なあんも出来ない九子でも、少しは自信がつきましたよ!( ^-^)


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親鸞に学ぶ生と死 [<坐禅、仏教、お寺の話>]

文芸春秋一冊を読み通した事はほとんど無いが、ちょっとした隙間時間に拾い読みするには格好の雑誌だといつも思う。

特に九子のような怠惰な主婦がお昼寝前の数分間に、あちこちに散乱している(^^;;文芸春秋の中から無造作に一冊を選び、数行読み始めてみたらお昼寝を忘れるくらい面白い記事だった!なんて事があると、その日一日が、さも充実していたかのごとき錯覚に陥ったりする。(^^;;

今回のは文芸春秋2011年7月号だった。( ^-^)

野村萬斎がこの頃久しぶりにテレビの車のCMに出ている。
NHKの朝ドラ『あぐり』で吉行淳之介氏のお父上エイスケ役を演じていた頃から、もう15年ほど経つらしい。
いい年月を重ねて味のある役者さんになったんだろうなあと思う。

その彼が今回の対談の片割れだったとしても、お相手が本願寺文化財団の大谷暢順(ちょうじゅん)氏というので最初は食指が動かなかった。

大谷暢順って人がどんな人か九子はよく知らないよ。でも、たぶん十数年前に本願寺に お家騒動があって連日新聞を賑わせた、確かその時の大谷さんに連なる人だよね、きっと。一応仏教徒のはしくれの九子として、仏教宗派のお家騒動ってのは頂けないでしょう。

ところがちょっと読んでみると、この大谷さんの原作、監督の舞台「六道輪廻」で、野村万作、萬斎親子が演出出演したのが二人の御縁の始まりだそうだ。

へえ~っ、舞台監督も勤める大谷暢順っていったい何者?九子はがぜん興味を持った。

調べてみると大谷暢順氏は親鸞聖人より続く血筋大谷家の次男で、東京大学印度哲学科を出た後、パリのソルボンヌ大学を卒業、第七大学の大学院で博士号を取ったインテリだった事がわかった。


狂言には「悪人」が出てこないのだそうだ。小悪党はたくさん出てきても、悪人に終始する人は出てこない。どんなに敵対しても最後には和し、どれほど愚かな人間にも何らかの光が差し込む物語になっているのが狂言なんだそうだ。

善はどこまでいっても善で、悪はどこまで行っても悪とするキリスト教的な善悪二元論とは一線を画している。

 

「悪は輪廻していつか善となるという思想は、和合していく世界観、いわば神仏習合の日本ならではの「和の精神」と言えるかもしれません。」
と、大谷氏。

なるほどね。狂言って、日本文化そのものなんだね。

また親鸞の教えの中に他力と自力というのがあるが、今この他力という考え方が大切だと萬斎さんは言う。

現代は「個」「我」が強い時代であるが、これはまさに自力本位の時代である。

ところが西洋でも中世以前、個人主義や自我が芽生える以前には、まさに神や自然というもっと大きな存在の中に自分は生かされているという世界観が一方にあった。
それこそがまさに「他力」の自然観である。

「人間の力ではどうしようもない事が在る。」と思い続けていく人間の存在の仕方があったのに、それを、つまり「他力」を忘れてしまって、私は、人間は何をしてもいいんだ、万能なのだという驕り高ぶった気持ちが今回の大震災を引き起こしたと、萬斎さんは語る。

それに対し大谷氏も
「人間があまりに強大な力によって何かに圧力を加えると、必ず自然からしっぺ返しがくる。」と応じている。

そう言えば対談の途中に大谷氏がこんな事を言っている。
「長く続く文化を発展させていくためには、日本の外の反応を謙虚に受けとめて、摂取していく精神が必要です。それで私は親鸞聖人の和讃や連如上人の御文を、フランス語に訳し、現地で出版されました。」

充分に時間をかけて丹念に仕上げたはずだったが、「(フランス語にするには)文の中で何が主語で何が動詞であるか、またそれが欠落している場合は、本来どういう主語が必要であるか考えなければなりません。そうなると私は元々この文の意味を充分理解していなかったのではなかろうかと、急に自信がぐらついてしまったりしました。反語的な言い方かもしれませんが、翻訳の仕事によってこそ、本当に仏法を学ぶことができるという気持ちになりました。」

この件(くだり)を読んで、九子は急に大谷氏を身近に感じた。

実は九子もほんの一時ではあったが、間違って(^^;;活禅寺の無形大師の御提唱を英訳する仕事に加わらせて頂けた事があった。その時に、大谷氏と似たような思いを抱いたものだった。

もちろん大谷氏は東大出の、しかもフランスの大学で学んだフランス語の大家であり、しかもい親鸞聖人のDNAを継ぐ、天皇家と並び賞されるほどの家柄の方だ。
九子の体験などとは比べるまでも無かったことは言うまでも無い。(^^;;

その大谷氏みたいな人でも自分の先祖に当たる親鸞聖人の言葉を翻訳をされた時、自分が今まで仏教を充分理解していなかったような気持ちになられたというのは、なんて謙虚な言葉だろうかと思った。


「日本語とフランス語が文法的に全く違うというのは、つまりは日本人とフランス人の思惟方法が違うということなのだと今更ながら感じています。日本の伝統を世界に伝えるためには、結局日本の思惟方法を世界に理解させなければならないと思います。これは大変大きな難しい問題です。」


ほらほら!おいでなさった!
九子がいつも言ってること、大谷暢順氏が代弁してくれちゃってるよ!(^^;;
ますます読むのに熱が入るよねえ。( ^-^)

家を継ぐって凄い事だ。
野村萬斎さんにせよ大谷暢順氏にせよ、もちろん選び抜かれたDNAを持ち合わせていたからだろうが、優秀な大学を出て(萬斎さんは東京芸大卒だそうだ。)、知恵のありったけを使って何十年何百年続く伝統を国内ばかりではなく海外にも広げようとしている。

東大出たばかりが偉い人じゃないことは天下り官僚たちの生き方をみるとよくわかるけれど、東大出るだけの知識と知恵がある人は、やっぱり凄いよねえ。

DNAって言えば萬斎さんがこんな事を言っている。

「代々の芸のDNAは「個人」をどこかに捨てないと身体の中に入ってこないと思っています。落語家さんもよくおっしゃいますけれども、まず内弟子修行をするとか、師匠と生活を共にしてはじめて芸のDNAが共有される素地が出来るんだと思います。もちろん血縁があれば当然一緒に暮らすわけですから、DNAは血とともに入ってきやすいでしょうが、たとえ他人の弟子であっても、寝食を共にすれば芸のDNAの浸透力は高くなるはずです。」

それに対し大谷氏がこう応じる。


「やはりそうですか。室町の時代には、本願寺のお寺に弟子たち何十人かが連如上人と一緒に住んで、直々に教えを受けました。仏教ではこうしたDNAの継承を「血脈相承」といいます。血脈と言っても必ずしも親から子へを言っているのではありません。むしろ師匠と弟子、一対一の関係を指しています。
弟子は個を捨て無我になって師の教えを仰ぎ、伝統を受け継いでいくのです。」

こういう師のことは「善知識」と呼ばれ、親鸞聖人の和讃には

善知識に会うことも 教うることもまた難し
よく聞くことも難ければ信ずることもなお難し

とあり、守るべき芸なり教えの神髄を受け継いでいく事は大変なことだと説いている。

芸も教えも、身を捨てて無我にならなければ身に付かないっていうところが凄いよね。

対談の最後をしめくくった二人の言葉を記してみよう。

野村萬斎

僕のような狂言師ができることは、生きることの素晴らしさを教えてあげたり、「生きていれば笑うということがあるんだ」ということを伝えることだと思っています。生きる気力がなくなったり、精神的なダメージがあるときにも、狂言は人間を肯定してくれる。「まあ、大変なこともあるけど、小さないいこともたくさんあるだろう」と。つらい状況にあっても、どうか生きることに一生懸命になってほしいと思っています。

大谷暢順

この世という「しゃば」は、人が耐えていかなければならない苦しみの世界。しかし、すべては移ろいゆく「無常」であるがゆえに、決して悪いことばかりではありません。どうか希望を持って生きてほしい。
この世にはどうしても「死」がある。だからこそ「生」があるのだということを、おぼえておいてほしいと思います。


九子は今度、萬斎さんの狂言を見に行くよ。善光寺の近くに「北野文芸座」という小さな劇場があって、たまに落語や地味な歌手のコンサートや、時には狂言もかかる。

九子だって少しは自国の文化を勉強しなくちゃね。
だから皆さんも、狂言や仏教、是非興味をもって下さいね。( ^-^)


人ごとじゃないぞ、九子!
おまえもいつも怠けてばっかりいないで、もっと修行して仏教徒らしくしろよ!!
(無形大師の声)(^^;;(^^;;


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オネエの話 [<坐禅、仏教、お寺の話>]

この頃オネエと呼ばれる人たちがもてはやされている。

ひと昔前にオカマと呼ばれた人たちと何が違うかと言えば、オネエの方がより女性の心をわかっていて、男性を好きになるのもさりながら、自分自身を美しく飾ることにも熱心に思える。
今時の言葉で言えば、より女性目線というわけか。

女性目線のオネエたちは、女性と同じくらい、いや女性以上に美しいものたちが大好きで、たいていは美容や化粧、ファッション、ヘアー、ネイルなどのスペシャリストとして活躍している。
假屋崎省吾さんのように華道の世界で大変な腕前を見せている人もいる。

そうかと思えば最近は女装家なる人たちもテレビで見ない日はないくらいなのだけれど、彼らもやっぱりゲイなのかな?

カミングアウトという言葉はもともと自分が同性愛者であることを告白することを意味するらしいが、このカミングアウトのタイミングも結構重要らしい。

これを言ってしまっていいのかどうか知らないが、昔日曜日午前中の音楽番組でオーケストラの指揮者をしていて人気だった青島広志先生は、ある時オネエさんに囲まれて「先生はアタシたちと同じ匂いがする。」と言われて、「いや、その話はまた別の時に・・・」とかなんとか口を濁した。

もしもあの時、青島氏がその言葉をしっかりと受けとめて肯定していたならば、きっと今頃先生のテレビの出番はずっと増していたのではないかと思う。

現代の日本社会というのは不思議な社会だ。
隠さないでさらけ出そうとする人間に対しては割かし寛容で、隠そうとする人間にはどこか冷たい。

その後本当にオネエかどうかは知らないが、教育評論家の尾木直樹先生が女言葉を使い、ブローチを嬉しそうに付けるなどで「オギママ」と呼ばれて人気者になっている。

オネエと呼ばれる人々がどんどんテレビに出てきて彼らの存在を世間に知らしめ、認められれば、隠れた何万人のそういう人々が自分を正しく評価して自分の生き方を肯定出来るようになる。それは確かに価値のあることだと思う。


九子の経験から言ってもたとえば鬱病に対する社会の認識は少なくとも15年前とはまったく違い、今なら楽々と誰もがウツとか鬱病という言葉を口に出来るようになった。

後何年かすれば、世の中に埋もれた普通のゲイの人々も自由にカミングアウトして楽に生きられるようになるのかもしれない。

一口にゲイと言っても、オネエのような存在はその中の一握り。普通のゲイの人たちはごくごく普通の男性の格好をしていて外からはそれとはまったくわからないと言うことをこの本で知った。

ボクの彼氏はどこにいる?

ボクの彼氏はどこにいる?

  • 作者: 石川 大我
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2002/07
  • メディア: 単行本

著者の石川大我くんはそうすることが何より大事だからと本名で素顔をさらしているが、仲のよい明るい家庭で育ったどこにでもいる好青年で、ただただ同性が好きな以外はまったく普通の青年だ。

ただ「男が男を好き」という価値感を受け入れられない社会の中で、ひたすらそれを隠して生きることに疲れてしまったのが彼らだ。
彼いわく、周りの人間に自分の考えている事をひた隠しにするために24時間戦い続けてきたのだと言う。

彼にとって何より幸運だったのは、パソコンのホームページを通じて知りあった彼と同じ思いと悩みを持つ仲間たちの存在だった。自分は一人ではないという思いは、いつでも人間を心強くする。


そんなゲイと呼ばれる人たちの中で一番の変わり種だと思うのが、紳助の番組に出てくる水無昭善師だ。
頭のいい人と見えて、いろいろな悩みに彼独特の鋭い切り口で解決方を与えるのが人気だ。

ある時彼が「修行が辛くないなんて言う人は、本当の修行をしてない人なのよ。」と言うのを聞いた。
ずいぶん自分がやった修行に自信があるんだなあと思い、彼について調べてみた。
ウイキペディアには思いがけないことが書いてあった。
彼は阿闍梨(あじゃり)なのだ。

比叡山一の荒行である千日回峰行。つまり、千日だから丸3年だ。千日間一日も欠かさずに山の峰を回りつづけると思いきや、満願までに7年を要し、最後に断食断水の荒行が待っている壮絶な修行だ。この荒行を耐えぬいた者のみが阿闍梨という位を得る。たぶんこの位を持つ人は日本でも数えるほどだと思う。

九子はたまたま20年も前にテレビでこの千日回峰行を2度もやってのけて。阿闍梨になった酒井雄哉師を追いかけたドキュメンタリーを見たことがあった。生半可な修行ではないと心底驚いた。

この事実を知ってみれば、彼の言葉の重みがわかる。

☆その後比叡山(天台宗)の阿闍梨と高野山(真言宗)の阿闍梨は、ずいぶん格が違う事がわかりました。m(_ _)m

そもそも男性が好きなはずの彼が男ばかりの僧侶の世界で修行するということは、御釈迦様が絶世の美女の誘惑に耐えたというのに匹敵する難行苦行なのではないのだろうか?

テレビ画面の僧侶の格好の彼からは、美しいものが好きなオネエの面影はあまり感じられない。
話し方と、わずかにほの紅い唇がそれをもの語るばかりだ。


これから先は九子のまったくの想像だけれど、水無師は普通のオネエの人々のように見かけの美しいものを追い求めるよりも、仏教の荒行を通して、人間の精神の美しさを求めたかったのではないか。
オネエと言われる人々の中には、確かに普通の人間以上に「美しいものを追い求めたい」という情熱が渦巻いているように思える。


九子が坐禅に出会って、今まで大嫌いだった自分が自然に好きになって楽に生きられるようになるずっと前、一人っ子の九子の関心は「自分がわがままだと他人に思われないように行動する。」というただこの一点にあった。

他人が怖くて仕方がなかったから、他人に悪く思われないように行動すると言うことが九子の何よりの関心事だった。価値判断だったと言ってもいいと思う。

言わば自分の考えなど何にもなくて、他人におもねて行動していたわけだ。

坐禅を知ったら知らないうちに、なんだか自分に自信が湧いた。他人が自分をどう思うかなんて、大したことじゃなくなった。

生まれて初めて自分の行動を自分で考え始めた。
誰かに悪く思われたくないから・・ではなく、自分はこう考えるから、こうしようと。


大本山活禅寺の無形大師はこんなことを言われた。
「仏教の教えは簡単なことだ。悪いことはするな!良いことをせよ!幼稚園の子供でもわかる。」

ところがこれが難題だった。

たとえば前回「子どもたちの放火後を救え!」で書いた慶大卒の織畑君が、お父様の言われる通りそのまま富士通に残ってエリートコースを進むのがいいのか、エリートコースを棒に振って薄給のNPOで子供たちのために働くのがいいのか、それぞれの考え方があるのだから、どちらが善いのか悪いのかではなかなか判断がつかないと思う。


九子はこの頃、良い悪いだけではないもう一つの価値判断を覚えたところだ。
それはSo-netでブログを始めて、芸術を愛し、日本を飛び出してヨーロッパで活躍されている指揮者のMu-ranさんその他の方々の美しいブログを読ませていただいた影響が大きいと思う。

そのもう一つの価値判断とは、善いか悪いかではなくて、美しいか美しくないかと言う事だ。
芸術家たちの価値基準と言うべきだろうか。

さきほどの難題に思える織畑君の就職の件も、どちらがより美しい生き方かと考えたら、答えは簡単に出ると思う。


オネエという人たちは、美しいものたちをこよなく愛する人たちのようだ。そしてその生き方はあくまで女性目線だ。

江戸時代の武士たちには男の美学があって、大変に生き様が美しかったと九子も思う。
だけれども、やれ体面だ、やれ恥だとか言ってすぐに責任を取って切腹する、つまり命を粗末にするような生き方は、現代にはちょっと受け入れられない。

それでこそオネエさんたちの出番じゃないかな?
今まで悩み苦しんで生きてきた少数派のオネエさんたちが、独特の価値観を発揮してこれからも美しいものを求めて正々堂々と生きていってくれる中に、案外日本が幸せになる原動力が隠れているような気がするんだけれど・・。( ^-^)


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坐禅は修行じゃありません! [<坐禅、仏教、お寺の話>]

夜の9時半近く。普段なら家族くらいしか電話をかけてこない時間に鳴った一本の電話は、首都圏に住み都心で働いている友人からだった。
用件もそこそこに彼女の口から堰を切ったように飛び出したのは、彼女を取り巻く都会の誰もが感じているらしい底知れない不安感だった。

「地震があって一週間くらいは、本当にみんな変になりそうだった。何時間も並んで電車を待って、やっと会社につくと余震があってグラグラ揺れて、仕事なんかそこそこ帰路についても電車は動かない。何時間も待って、何時間も歩いてやっとうちにたどり着けば、家は停電で真っ暗!コンビニにもスーパーにも物がない。この国、このままで大丈夫なのかなあって本気で心配になっちゃった。まあ少しづつ落ち着いては来たけどね。」


ビルに囲まれた都会の暮らし。快適には違いないが、イザと言う時に逃げ場がない。
こんな事を言っては被災地の方々に本当に申し訳ないのだが、東京が直撃されずにまだ助かった。

田舎なら、家がつぶれそうなら外に逃げ出せる。土地にも空間にも余裕があるからだ。
都市づくりのイロハもわからない九子だが、とりあえず何かあった時に避難する余裕、避難できる空間というのを真っ先に確保するのが災害に負けない都市づくりの第一歩という事くらいはわかる。

八十数年前関東大震災が起こった時、復興に奔走したのは高橋是清だの後藤新平だのという歴史の教科書に写真が載るようなビッグネームで、テレビの情報によれば震災の次の日には予算60億円という当時の国家予算の2倍にあたる復興計画が出来上がっていたと言うから驚きだ。

ずっと思ってた事だけれど、文明が発達するにつれて人間は小粒になっていく。
自分の事考えたって、とてもじゃないけれど母にも父にも体力気力ともに太刀打ち出来ない。
その父母たちだって、親には勝てないと思って生きていたと思う。

文明の利器などなくてすべて人間が肉体でこなしていた頃は、根性も体力も知力もが全ての人間に求められていた。
それらが無いと生きていけなかった。

そして当時の機械というより道具と言うものは、いざとなれば人間の手足で代用可能だった。
昔の人々がどんな時でも現代の私達より余裕があるように思えるのはそのためだろうか。

その後文明と言うものが発達して、機械が代わってやってくれるようになった。
極端な話、ボタンを押す体力さえあれば人間は生きていけるようになった。

手も足も頭も機械に頼って退化した。
その挙句、自分の身体のどれひとつとっても代用出来ない物ばかりの中で毎日生きていたことに気づく。

小粒になってしまった私達に、今出来ることは何か。日本人らしい無理の無いやり方で何が求められているのか。
それはやっぱり、一致団結して、一人一人の力を集結することだと思う。

「みんなで頑張る」のではなくて、「一人一人が頑張る」ことが大事だと思う。

頭や手足を総動員して今出来ることをする。
それを率先してやっていらっしゃるのが被災地の方々だ。
本当に頭が下がる。

スチール棚を倒して瓦礫の中の木片をたくさん入れてその上にこれも廃物の平らな金属枠をのっけて即席のコンロを作る。
それで汁物を作り、久しぶりの温かいおかずが出来たと皆が喜んでいた。そういう知恵はいったいどこから出て来るのだろう。

リーダーになるのは普段威張っている会社の社長さんじゃなくて、建設会社の現場監督みたいな人だ。
普段手足を動かしている人はこういう時も強いのだ。


大本山活禅寺では坐禅もさることながら、作務(さむ)の重要性が強調される。作務とは、「作務衣(さむえ)」の作務で、言ってみれば肉体労働のことだ。

これが大の苦手でなかなか出来ない九子の修行が誰より遅れていることひとつとってもその重要性がわかると思う。(^^;;

手足と言うものは動かせば動かすほど効率よく動くものだという事を九子は働き者の母から学んだ。
働き者の母に任せて何もしないで生きてきた九子の手足は、あと10年先だってうまく動いているかどうか怪しい。


手足を動かす事は頭も動かす事。そして動かせば動かすほど、いざと言う時、たとえば危険が迫った時に反射的に動いて身を守る事が出来るのだと思う。

これは坐禅の意義にも通じる。
無形大師は「坐禅は目的を持って坐ってはならない。」とおっしゃりながら、話の端々で「坐禅をすれば時と所に応じた最良の判断が出来るようになる。何が起きようとも慌てずに最善の行動が出来るようになる。」とおっしゃった。


坐禅についての誤解の第一は、坐禅が辛い修行だと思われている事ではないだろうか?
それがいざ、禅寺の敷居を高くしているのではないだろうか。

曲がりなりにも九子でも出来るんだよ。修行のはずないじゃん!(^^;;

もちろん道を究める和尚さま方のは修行なのだが、九子の人生を変えてくれた坐禅はそんな立派なもんじゃない。
いや、坐禅そのものに分け隔てはないのだが、九子がやるとどうもいい加減になってしまう。(^^;;

坐禅が修行じゃないなら一体何か?
九子が考えるに、これはやっぱり練習だと思う。エクササイズといった方が通りが良いか?

バレエダンサーや音楽家が練習を一日休むと勘が鈍ってしまうのと同じ事で、少し休むとせっかく覚えた呼吸のコツがわからなくなってしまうので、なるべく毎日坐るのがいいのだ。

作務が身体を動かす事によって非常時にも機敏に反応する手足を養う事であるなら、坐禅はその独特のきれいな酸素をいっぱい脳内に運んで脳細胞をいつも明晰に保つ呼吸法を、どんな危急の時であっても保持していられるために毎日コツコツ続ける呼吸法の練習なのだと思う。

たとえば背筋をまっすぐにすると気持ちがしゃんとする、伸びをすると気持ちがいい、そういう事は単純動作だからいつ誰がやってもそれなりにうまく出来るが、坐禅はもう少し複雑で、要領みたいなものがいろいろあるから、最善の姿勢や最良の呼吸がしっかり身に付くまでに時間がかかる。でも一度それが身に付けば、不測の事態だろうと慌てずにその場その場で落ち着いた最善の行動が出来るようになるのだ。

その上じわじわと湧き上がってくる不安感だって解消される。要するに肝が据わるからだ。

長年坐禅を極めた和尚さんだと坐り始めてから5分もしないうちに禅定(ぜんじょう)と言ってどっしりと安定した呼吸に行き着くそうだが、九子なんかみたいに何ヶ月もお休みしているとなかなかそうは行かない。(^^;;

姿勢が大事なのは、たとえば「半眼」と言われる薄目をあけるその目の角度ひとつで、呼吸の仕方がうまく行ったり行かなかったりしてしまうからだ。

「姿勢さえしっかり整えば数息観(呼吸を数えること。基本中の基本と言われる。)など出来なくたってりっぱな坐禅が組めるよ。」とおっしゃった和尚様もいらっしゃるほどだ。

田舎にはまだ土地にも余裕があると最初の方で書いたが、必要な事は避難する空間と精神的余裕だ。
いくら空間が確保されていても、心の余裕を無くして右往左往しているうちに逃げ場を失う事はよくあることだ。

いざ!と言う時はいつ何時来るか知れない。
坐禅で落ち着いた判断力を養い、作務で良く動く身体を作っておけば、どんな時代も生き抜ける強い強い一人一人の日本人が出来上がると思う。


・・・という事を、日頃怠けて坐禅をサボっている九子自身に一番言ってやりたかった。(^^;;(^^;;


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DNAの謎 [<坐禅、仏教、お寺の話>]

前回教育の難しさ、特に親が子供に夢をかけて教え込む事の難しさを書いたけれど、今回は親の才能を受け継ぐ遺伝子の話をしようと思う。と言っても、くれぐれも学術的な話は期待なさらないように・・・。(^^;;

この頃尾崎豊の忘れ形見が父親ソックリの声で巷を賑わしている。「I love you・・・」と歌う声はまさに尾崎豊そのもので、ぞくっとするほどだ。

でも考えてみると、声が似ていると言うのは声帯の作りが親譲りという事で、顔つきが似ているとか体格が似ているという事と一緒で、親子だったら似ていたっておかしくないだろうとは察しがつく。

スポーツ選手の場合も、体格や筋肉の着き方が似通っていれば、親がスポーツ選手なら子供がその競技の競技者として、素質的には最初からかなりいい物を持っているのではないだろうかという想像はつく。

今回九子がお話したいのはそういう体格的体型的な親子の類似点ではなくて、もう少し才能?・・が関与する場合だ。

以前もお話したと思うが九子の旧友のご主人は森亮太さんという才能ある彫刻家だった。今秋亡くなられた向井良吉さんという彫刻界の大御所も、森亮太の才能を大変高く買っていらしたそうだ。

その彼が川越の自宅から赤城山の新しく出来たアトリエへと家族4人を引き連れてドライブ中に交通事故にあい、命を賭して家族を守り、道半ばにして夭逝された。もう15年も前の話だ。

事故当時10歳と7歳くらいだったはずの彼の忘れ形見のお子達もすっかり成長されて、ご長男は建築家として、ご長女は産業デザイナーとしてそれぞれドイツとアメリカで修行中だ。

小さい頃にはお父さんの作品に囲まれた家に住み、芸術の香り高い環境で育ったに違いない彼らだが、友人はその後女手一人で幼い子供達を養わねばならなかったはずで、亮太さんが居た時ほど芸術的に良い環境と言う訳ではなかったように思うのだが、彼らの中には脈々として父親の芸術家の才能が息づいている。

ご長男は、とにかく大きいビルディングが作りたいそうだ。建築家と言っても一級建築士の免許を取って個人の家を作るというレベルには収まりきれない。安藤忠雄や黒川紀章を目指したいらしい。

ご長女はカップやグラスのデザインをなさるそうだが、彼女の頭の中では最初から平面に書かれた物でも立体に浮き上がって見えていて、立体視の中でそのままデザインが浮かぶのだそうだ。

考えてみると彫刻家だった森亮太氏の子供達はこうして二人とも迷わず芸術の道へ進み、二人とも二次元の絵画ではなく三次元の立体を形作ることを無意識のうちに選んでいる。

これは一体何がそうさせるのだろうか?

考えられるのは、森亮太氏のDNAにあった立体の識別能力が子供達に遺伝子を介して伝わり、それを使って実際に美術の時間などに表現してみたところ、先生や友人に誉められてそうする事が好きになった。更に続けていくうちに磨きがかかって才能と言われるレベルにまで達した。
まあ、そんな風に考えるのが一番わかりやすい。(あくまでも九子の想像で、お子達に尋ねた訳ではありません。(^^;;)

昔から「好きこそ物の上手なれ」ということわざがある。
人間、嫌な事を続けるのは抵抗があるが、好きな事を続けていくのはまったく苦にならない。

九子だって嫌いな薬の勉強はさっぱり身に付かないが(^^;;、物を読んだり書いたりするのはどれだけ続けてもあんまり飽きない。

好きなものを生涯やり続けられるというのはやっぱり幸せな事に違いない。そしてそうやって続けていくうちに、自分なりの才能みたいなものが見出せたら一番いいんじゃないのかな。


文藝春秋と言う雑誌を近くの本屋さんから毎月父母が取っていて、父母が居なくなった今でも何となく断りきれずに定期的に届いているのだけれど、この本は本当にいろいろな読み方が出来る良書だと思う。

九子なんかはほとんどさらっとしか目を通さないのだが、じっくり読むといろいろな書き手が手を変え品を変えいろいろな事を書いていて、誰が読んでも読みでのある本になっている。

つい最近、龍馬伝で岩崎弥太郎を熱演した香川照之が書いていた手記が面白かった。

香川照之の母親は女優の浜木綿子(はまゆうこ)である事は有名だが、父親は猿之助歌舞伎の市川猿之助であるというのは知らなかった。
香川が東大卒というのはかなり有名な話なので、てっきり二番目のご主人のお医者さんの息子だとばかり思っていた。

香川照之は生まれてから18年間ほとんどずっと引きこもりだったのだと言う。
有名人の親を持つと子供は苦労するのかもしれない。

東大に入って、はじめて自分の居場所が見つかったという香川。
それでも就職の時期が来てもこれと言って何になりたいと言う当てはなかったそうだ。

とりあえず親が俳優だから、演劇でもやってみるか!

彼いわく、俳優と言うのは「僕は俳優です」と名乗りさえすれば、誰だってなれる。
まあ、言われてみれば確かにそうだ。(^^;;

そんな気楽な気持ちで芸能界に入り、ほどなく一人の役者に出会った。
それがあの名優と称される松田優作氏だった。

松田優作が役者のなんたるかをすべて教えてくれたと香川は言う。

まず役者は自分が楽しくなければならない。そして観客を楽しませるためには、どんな汚れ役でも厭わずやらなければならない。

なるほど!だから香川が演じた岩崎弥太郎は、あんなに泥まみれで汚かったのか!(^^;;

生まれてから18年間も引きこもっていたから一人で過ごすのが好きで、大勢のスタッフや共演者と時間を過ごす俳優と言う職業は性に合わないと香川は言う。

でも松田優作に出会って、人間は一人で部屋に引きこもるためだけに生まれてきたのではない。たとえ自分にとっては辛くても、俳優として現場で多くの人に出会い、時間を共有して作品を作り上げていく行為が、おそらく人生の意義でもあると強く思うようになったと香川照之は熱く語る。

そういえば松田優作の忘れ形見の松田龍平も、松田翔太も、俳優として引っ張りだこだ。父親が亡くなったのは長男の龍平が6歳の頃だそうだが、二人とも優作よりも優しい顔立ちで、でも凄みのある目は父親譲りだ。

彼らの場合もやはり両親ともに役者だった訳で、役者になる舞台は整っていたわけだ。
考えてみると親の名前という看板があるので、プロダクション側からすれば売り出しやすいという長所もあるのだろう。


特に香川照之の来し方を見る時、要所要所で幸運とも思えるさまざまな転機があることに気づく。
まずは18年間もほとんど引きこもり状態の生活の中で、叱られる事が何より嫌いで、勉強さえしていればいいだろうと優等生のようにふるまいながらも、心の中では「世界が終わってしまえばいい」と考えていたと言う。東大に入学して引きこもりは脱したが、夢も何も無く「ただ生きている」生活は相変わらずだったそうだ。

22歳で仕方なく就職を考えた時、やりたいものなど何も無く、せめて他人に怒られないよう何か「まっとう」な道に進むのが無難だろうと考えていた時に、母親が役者だったからか、ふっと俳優と言う選択肢が出てきたのだそうだ。
この「俳優と言う選択肢がふっと出てきた」、というのが凄い!
それこそが彼の将来を決定した。

そして松田優作との運命的な出会い。
よく「運も才能のうち」と言われるが、こういう幸運を呼び込むのも確かに才能に違いない。

引きこもりと呼ばれる人々の中には、長い生活の間に鬱屈した物凄い量の負のエネルギーが溜まっている事が多い。そういう中でさまざまな凶悪事件が起きている事も周知の事実だ。

九子の人生を考えた時も、もしも坐禅に出会わなかったら、坐禅が自分自身を大好きにしてくれなかったら、今頃九子はこの世に生きていただろうかと切実に思う事がある。引きこもりとは少し違ったが、社会の劣等生の自分が大嫌いで、常に周りの人々が羨ましく、他人の顔色を伺いながら右往左往して生きていた。

自分の事が好きになれない人間は、絶対に家族や他人や社会全体を好きになることは出来ないと思う。
まずこういう人間に育てた親を恨む。普通に生きてる他人を羨む。そして自分自身を憎む。
だから社会に対して壁を作る。自分を無意識に守ろうとする。そして引きこもる。

考えてみるとその状態から抜け出すことが出来るというのも物凄いエネルギーだ。よほどの幸運だ。

香川照之の場合は、松田優作という役者に出会えたのが幸運だった。
それにしてももともと並外れたエネルギーを持った人だったのだろう、役者などという仕事が出来るというのは!

九子みたいなエネルギー皆無のぐうたら人間には、坐禅がよく合った!本当に楽ちんだった!(^^;;


いかに由緒正しいDNAがあったとしても、たとえば香川照之がもしも生涯引きこもりで終わってしまったり、森亮太氏の子供達が父母に反抗してまったく違う道を目指したりしてしまえば、親譲りの優秀なDNAは生涯彼らの中に埋もれて全く外に出ずに終わってしまった訳で、そういう意味では彼らの才能を引き出す役目をした松田優作や、わが旧友の功績は大きいと思う。


仏教では良くも悪くも「縁」という言葉が使われる。
「袖すりあうも他生の縁」と言われるような生まれ代わり死に代わりを繰返した壮大な前世の歴史の中で、どこかで接点があった人があなたの前にいつか現れて、あなたの人生に大きな影響を与える。

それを思う時、「悪いことはするな。良いことをせよ。」という誠に単純な大本山活禅寺の無形大師の教えは、因果律という全ての結果には原因があるという仏教の大法則と照らし合わせて考えてみた時、とてつもなく大きな意味を持つ事がわかる。

DNAというわかったようなわからないような物だけれど、あなたのDNAの中に組み込まれていると言われる祖先や過去世の記憶のずっとずっと先を辿ると、もしかしたらあなたの現在がが見えてくるのかもしれないし、同様に現在のあなたの言動があなたの子孫の未来に関わってくるのかもしれない。

「悪いことはするな。良いことをせよ。」を短期間守る事は容易い。
幸せである時はともかく、不幸の中であっても、良い事をし続ける事は本当に難しい。


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年賀状2010続き [<坐禅、仏教、お寺の話>]


年賀状2010よりつづく



大本山活禅寺のホームページはそのずっと前からMugenさんが作っていた。Mugenさんの話をすると長くなるので一和尚さまと言う事にしておこう。( ^-^)



大本山活禅寺のホームページをご覧になればわかるが、Mugenさんは宗教を表に強く出さないホームページを作っていらっしゃる。美しいクラシックギターの音色が流れて(たぶんMugenさんご自身の演奏だと思うが)、仏教のことはさらっと書いてあるだけ。掲示板も同様だった。



そこへある日、九子は書きこみを入れた。甘やかされて育った頭でっかちの社会の劣等生が、他人がこわくてびくびくおどおど暮らしていたダメ人間が、いかに坐禅で幸せになったか、その見本が九子だからあなたも是非坐禅を試して見て!

まあ、そう言う体験談がそれまでまったく書かれていなかったお寺の掲示板への反発もあって、長い長い書きこみをした訳だ。



どんなに嬉しい反応が返って来るだろうかと思ってわくわくしながら次の日見てみたら、九子の書き込みはものの見事に消されていた。



今になればよくわかる。九子の書き込みがMugenさんが意図した「宗教色を表に出さない」という方針に合っていなかったからだ。



当時まだネチケットのことなんかも良くわからずにいた九子は、Mugenさんに嫌われたと思ったり、こんなに重要な情報を掲示板に載せてくれようとしないMugenさんを恨んだりしていた。



今から思えば九子が薬局のホームページを作ろうと思い立った理由は、まさにそこにあったのだ。



「雲切目薬」も、「善光寺(雲切)百草丸」も、全くと言っていいほど売れていなかった当時(^^;;、薬局のホームページを作る意味は実はあまり無かったと思う。もちろん雲切のくの字も認識されていない頃に「雲切目薬(くもきりめぐすり)」というキーワードを入れて見に来てくれる人など皆無に等しかったはずだから・・。



それでも九子はどうしてもホームページが作りたかった。九子が書きたかったのは「雲切目薬」のことでも「百草丸」のことでもなくて、坐禅のことだったのだ。



Mugenさんにあっさり消されてしまった自分の体験談を、自分のHPの上なら大威張りで書ける。

自分と同じように甘やかされて育って生きる力の弱い人間でも、坐禅をすることによって自分のことが大好きになり、胸を張って幸せに生きられるようになるんだよというメッセージをどうしても大勢の人々に伝えたかった。



この日記を書き始めてみて、あの時Mugenさんが九子の書きこみを消さなかったら今頃どうしていただろうかと九子は初めて考えた。



たぶん九子は活禅寺の掲示板に坐禅の良さをだらだらと書き続け、薬局のHPを作ろうなどとは考えなかったかもしれない。Mugenさんがすっぱりと消し去ってくれた事が今につながったのだ。



本当にそうだなあ。その時には悲しんだりがっかりしたりした事が、後になってみると生きて来る。

あの時失敗してよかった、うまくいかなくて正解だったとあとになってから感謝した事が活禅寺に入門してから数限りなくあった。



当時書いた大量の坐禅体験談は、今でも薬局のHPの一番下に「心のページ」としてリンクされている。

少し前まではもっと目立つようなリンクになっていたが、さすがに雲切目薬をお求めのお客様には胡散臭いかなあと思ってリンクを目立たなくした。(^^;;



九子の体験談は以来、ほとんど人の目に触れることなく、たまに九子がブログからリンクするだけで、今でも薬局のホームページの片隅に残されているという訳だ。

(ちなみに笠原十子ちゃんの体験というのも九子自身のことである。( ^-^))





その次の転機と思われるのがブログ、つまり今書いている「九子のダメ母の証(あかし)日記」だった。

九子は2003年の10月に始めている。今お借りしている「マイぷれす」さんというブログサイトが立ち上がって半年後位のことだ。



当時はなんと!3日に一度も更新していた!

九子は最初自分のドジ話を集めて3日に一度更新し、たぶん1年くらいで種が尽きるだろうからそれでおしまいにするつもりだったのだ。



何度も言うが九子は根っからの文系人間で、薬剤師は性に合わないことこの上ない。薬局が暇だったのをいいことに(^^;;、手紙やらメールやらは書くのが好きなので毎日のように書いてはいたけれど、さりとてまとまった文章となると子供達の文集を頼まれた時くらいしか書いた事が無かった。



それがなぜブログを?というのがこれもよくわからないのだけれど、一つは締め切りが一週間違いで二人の子供達のクラスから文集の依頼が来て、絶対に書けそうにないと思ったのが割合簡単に書けてしまったこと、「あれっ?書けば書けるんだ。」という自信がついたと言うのかな?



もう一つは、ブログを書き初めてからしばらくたった時、あるネット友達(なのかどうかもわからない人)に威張って見せたら散々どうでもいいことを酷評され、すっかり闘争心をたぎらせたせいか。(^^;;



そして最後に、今までに二冊買った「10年日記」が最初の頃こそ書かれていたが、そのうちものの見事に夢破れて雪のように白いページだらけになっていくのを眺めながら(^^;;、これに代わる「書きたい日に書きたい事を好きなだけ書く日記」が欲しくなったというのが一番の理由かもしれない。



何しろダメ母ダメ薬剤師の日記である。さすがの九子も薬局のHPからリンクさせる勇気は無かった。何しろ薬局の信用問題になってしまう。(^^;;



そこでこっそりとブログの方からのみ薬局のHPへリンクを張った。薬局からはおおっぴらにリンクはせず、ある特定のページからだけリンクしているという形を取った。今思えばそれが良かったのだ。



そのうちブログは市民権を得てますますブログを書く人々の数は増え、長いことやってる九子日記のアクセス数もわずかながらも着実に増えてきた。


その頃である。最初のうちは100件どころか100回クリックしても検索候補に上がってこなかった 「家伝薬雲切目薬/雲切百草丸の笠原十兵衛薬局」のホームページが、割合簡単な、例えば「白内障」とか言うキーワードで100件以内にぽつぽつ出てくるようになったのは!!


これを発見した時は本当にびっくりしたし、嬉しかった。しかしそれが、「九子のダメ母の証(あかし)日記」のアクセス数と関係があるなんということに当時は全く気づかなかった。



それは薬局のHPがたまに30件目位に出てくるようになった頃だった。

「アクセス数アップの方法」みたいなサイトに、常套手段としてブログを書くというのが大変有効であると書いてあるのを見つけたのだ。

検索エンジンはそのHPにリンクされている数の多いサイトを上に表示するので、ブログを書いてホームページにリンクすること、毎日確実にアクセスしてくれる読者が増えるようにブログの更新をマメにする事などが検索エンジンに見つかりやすくなり、アクセスアップにつながる秘訣と書いてあった。



九子は、単に自分の書きたい気持ちに任せて好き勝手に文章を書いて来ただけだ。

最初は自分の坐禅体験を是非とも多くの人に読んでもらいたかった。次は、自分が自分の記録代わりに楽しんで書いている物を読んで下さる方がいるというのであれば、書ける範囲でずっと書いていきたいと思っただけ。

それがアクセスアップにつながるとか、商売につながるとか一度だって考えた事はなかった。

(まあこういうカラクリがわかってからは、検索エンジンにひっかかりやすい様に小細工もしたが・・。(^^;;)





もちろん九子の力だけでここまで来た訳ではない。

一番は医療関係の著書で名高い山崎光夫先生が偶然薬局においでになり、雲切目薬の事を雑誌に紹介してくださった事。そしてそれが契機になって平成十五年の善光寺御開帳の直前に日刊ゲンダイに記事が出たこと。そういうもろもろの幸運が重なってこそである。



それでも書くと言う事でお金を稼げる時代になったのだとしたら、それはまさに九子にとって幸運という以外の何物でもない。



薬剤師の自覚など全く無い九子は(^^;;、数学の得意な九子のハトコをずっと羨んでいた。彼女は公文の先生をしていて、噂では会社重役のご主人を上回るお金を稼ぎ出していた。



たまに文章がうまいなんて誉められても文学者や小説家になれるわけじゃなし、鐚(びた)一文稼げないんだから何にもならないよね。九子はずっとそう思って指をくわえて数学科出身のハトコを眺めていた。



世の中はだんだん変わっていくものだ。そして幸運な事に九子が生きてる間に世の中は書く事で稼げる時代になったしい。



誤解の無いように言っておきますが、だからと言って雲切目薬が飛ぶように売れているという訳では決してありません。(^^;;



このあいだアクセスアップの相談窓口で「なに!アクセス数の上位に表示されてるのに関わらず、お客様が来て下さらないですと?!そういうのは、手の打ち様がありませんなあ。」と素気無く言われた。(^^;;





まあ例によってくだらない話をぐたぐたと並べてきたが、最後に活禅寺の無形大師の言葉をひとつ紹介させて頂こう。



それは「好き放題に生きよ。」という言葉である。

好き放題、つまりやりたい放題ということになるんだろうか。



もちろん禅の老師の言葉であるから、世の中で言うやりたい放題とはちと違う。



でも九子が無形大師の御提唱を直に伺った時の印象では、「法律に反する事や人の迷惑になることで無い限り、好きなことだけを好きなだけやって生きて行きなさい。」というおっしゃり方だった。

仏の教えを遵守した上でのやりたい放題という訳か。



九子の場合も確かに好き放題に書いてきたのが積もり積もって、今になってよい結果を生んでいる。



坐禅をすると、人が何を言おうがあんまり気にならなくなる。

自分の指針は他人の言動ではなくて仏様の道だから、仏の道に反する事でなければ、自分の信じる道を自分の思う通り突き進んで行く勇気が出る。



「自分がこれをやりたいと思ったら、世間の思惑だの人の噂などお構い無しに、思う通りに最後まで貫き通しなさい。お前さんのやりたいことが仏の道に外れていない限り、守ってあげるから。」

仏様としたら、きっとこういうスタンスなんだろうな。( ^-^)





九子はこの頃お寺にも行かない、坐禅もさぼっているどうしようもない仏弟子であるが(^^;;、一応活禅寺の事をブログに書いたりしてることなんかが認められてか、仏様には守って頂いている幸せ者である。





「仏さまあ~、雲切目薬のことですが~、あと5年間、二人の娘の私立薬学部の学費を捻出するためにもなんとかもう少し売れるようにならないものでしょうか~。5年だけなら九子もそれなりに頑張ってやってみま~す。でもその後は、そんなに忙しすぎて大事なお昼寝の時間がなくなるのは困るので~、またぼちぼちに戻してくださ~い!」



(^^;;(^^;;





★「好き放題に生きる」 本当の意味はもっと深いところにあるのだと思います。

  九子にはこの程度の理解しか出来ませんが、真剣に生きてるあなたならどう理解されますか?


年賀状2010 [<坐禅、仏教、お寺の話>]


お正月のおめでたい最中、しょっぱいビンボー神のお話を長いこと載せており大変失礼致しました。m(_ _)m

薬局も新年第一日を開店時間1時間遅れでシャッターを開け、大雪の名残の大屋根からの雪が時折どさんどさんと落ちてくる中、さすがの九子もお屠蘇気分もすっかり醒めて、二日酔いの朝に「雲切百草丸」を飲んだ後のようにすっきりとした気持ちで( ^-^)、仕事始めを迎えております。



恒例の我が家の年賀状に引き続き、思いついたことをいくつかお話させて頂こうと存じます。

まずは年賀状から。





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謹賀新年



子供達もそれぞれの道を歩き出した旧年でしたが、社会の厳しさに晒されて茨の道を実感しているようです。もちろん一年早く就職できた幸運を日々噛み締めています。

経済状況の厳しさは安いが取り得だった歯科医院にも押し寄せ、患者さんを待ちぼうけの毎日。手持ち無沙汰でついついつまみ食いの挙句、増えるのはただ体重ばかり。

雲切目薬だけはお陰様で善光寺御開帳時のテレビ放映を初め、最新号の文藝春秋special(別冊11月27日号)でも取り上げられ、日の目を見つつあります。今年も皆様にとって良い年でありますように。



※「九子のダメ母の証(あかし)日記」がお陰様で20万アクセスを超えました。



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そもそも九子がパソコンらしきものをいじり始めたのは結構早かった。

父の市議会議員選挙の名簿作成に役に立つんじゃないかというので、あたらし物好きの父が大枚40万円ほどを投じてIBMのaptivaという機種を買った。



その直前にはブラザーが出していた当時最新式の4万円ほどのワープロも買っていて、その後次々買ったコンパックのノートだのシャープのノートだのは、使い勝手がいいのが次々出てきてほとんど使わないまま壊れてしまい、お金をどぶに捨てたようなものだった。今考えてみると、当時我が家はまだまだ裕福だった。(^^;;



それでも当時コンピューターはそうやって大手家電店の店頭でそこそこの値段で買えるようになったばかりの頃だった。それより少し前からコンピュータをやっていた人はそれこそ一台何百万円という黒い画面の高いヤツでタグから専門的に勉強していたはずだ。



父が買った時(父にお金を出してもらって九子が買った時(^^;;)、OSはwindows3.1だった。それからしばらくして九子がそれをwindows95にアップグレードした。



考えてみるとAptivaはまさに夢のような機械だった。

百科事典のCDソフトが付いていた。確か英語だったと思う。

windows3.1はファイルマネジャーだのプログラムマネジャーだのがあって、フォルダがただ並んでいるような感じの画面ですぐにフリーズした。



一番使ったのが(というか、ほとんど使わない中で唯一使われたのが(^^;;)インストール済みの作曲ソフトで、自分でも面白がってひとつくらい童謡っぽいのを作曲してみたが、もっぱら活躍したのはデモンストレーションで入っていた軽快な機械音のするやつ。



九子はこの曲を流しながら当時流行っていたダンベル体操をやっていたものだ。ああ、まだ曲が頭から離れない。(^^;;



そんなにも愛していたAptivaだったが、そして九子が今も手元にあったらどんなに良かったか(今ならどんなに高く売れたか!(^^;;)と思っているのだが、長男Rが当時長野に出来たてだった○ードオフへ二束三文で売り飛ばしてしまった。



九子はその時、ウツのまっ最中でNoが言えなかったのだ。



その後コンピュータが動かなくなるたびにサポートに電話して九子がwindows3.1をwindows95にした話をするとまず驚かれた。そしてそんなに古い時代からコンピュータを扱っているにも拘らず、九子がまったくの無知であるのに二度驚かれるのが常だった。(^^;;



仕方が無い。当時は九子のウツが一番頻繁に来ていた頃、つまり2年半の間に、5ヶ月続くウツが4度来たという最悪の頃で、いい時の方が短かったのだからコンピュータなどいじる元気も時間も全く無かったのだ。 選挙やらオリンピックやらはなぜかうまいことウツの間隙をついてやってきた。



選挙の名簿作りには専用の人を雇って逐次書き込んでもらったのだが、何しろ書き込む量が多すぎて追いつかず、結局あまり役に立たなかった。



つまり九子はコンピュータに触れたのは結構早かったが使いこなしていた訳では決してなく、ましてやインターネットを使い出したのは人並みか人より若干早いかな位の時だったのだ。



九子が笠原十兵衛薬局のホームページを作ろうと思い立ったのはたぶん長野オリンピックが終ってすぐの頃、1998年だったと思う。



忘れもしない長野オリンピックの選手村。どの国のチームの部屋にもインターネットが繋げられていて、選手達は自由にメールなどを使うことが出来た。選手村からメールを出すと特別のメール(今考えてみると何だったんだろう、署名などが特別なのか、それとも特別のひな型で出せたのだろうか、見方も知らなかった九子にわかろうはずがない。)が相手に届くというので、ボランティア仲間でもメールアドレスをすでに取得していた人達は喜んでメールをやっていた。



九子にとってはネットもメールもまだ未知の領域だったので、???と思いながらも、彼らの嬉しそうな顔を見るにつけ、置いてけぼりになったような寂しさだけが心に残った。



その後すぐにネット環境は整ったが、掲示板なんかの閉じられた空間にはあまり入り込まなかった。

理由は、実際の人付き合いと同じでそう言う事が面倒くさいと思う性分だったのと、「ロムル」だの「カキコ」だのという省略用語に反発を感じていたからだ。



「ロムる」の方はROM(Read Only Member)という意味がわかってからはさほど抵抗は無かったし、今ではグーグルで調べる事「ググる」には全くと言っていいほど反発を感じない。



ただ「カキコ」という言葉のほうは今でも好きになれずに使ったことが無い。「書き込む」と言えばすむのに、なぜ「む」を省略する必要があるのか、それになんだか語感がいやらしい。(^^;;



そんなこんなでネットにのめりこむ気もさらさらなかったのにホームページなど立ち上げようと考え付いたのは、大本山活禅寺の影響だった。



九子の前を行くのは、やっぱりいつでも仏様だ。( ^-^)



ということで、新年早々あんまり長いお話も興ざめでしょうから本日はここまで。( ^-^)



次回へ続く。


善光寺と御開帳その2 [<坐禅、仏教、お寺の話>]


善光寺で一番偉い尼和尚様が鷹司誓玉上人(たかつかさせいぎょくしょうにん)さまです。

無宗派、あるいはどの宗派でも受け入れると言われる善光寺ですが、天台宗の「大勧進(だいかんじん)」と浄土宗の「大本願(だいほんがん)」とに別れ、浄土宗大本願のトップを代々女性が勤められています。



鷹司というご苗字からもお判りの通り、天皇家にも通ずる高貴なご身分の方がお勤めになる事が多いのです。



善光寺は昔から女性や、差別された者や、あらゆる弱者や、異なる宗教さえ受け入れてきた寛容な寺として有名ですが、その象徴のような存在が内陣におわします本田善光(ほんだよしみつ)親子の像でしょう。



他の寺ならまさにご本尊様が安置されているはずの本堂の真ん中にその像はあります。

現在ならともかく、女性の社会的地位が認められていなかった時代に本田善光の妻である弥生の像が夫、息子と同格に安置されているのは、ちょっと考えると不思議な光景です。



実は曹洞宗の修証義(しゅしょうぎ)というお経の中には「仏の教えを伝える者はたとえ7歳の女の子であろうと偉大な師である。」という一文もあり、当時から女性や子供を平等に扱っていた事が窺えます。



浄土宗のトップがいつも女性である背景には仏教のそんな懐の深さもあるのかもしれません。



善光寺には宿坊という泊まれるお寺が40箇所ほどありますが、○○院とつく名の宿坊は「大勧進」に、○○坊と言う名の宿坊は「大本願」に属しています。



特に○○坊というお寺はすべて「若麻績(わかおみ)」さんという苗字で、ずっと昔に大陸から仏様と一緒においでになった方々のようですが、男の子が居ないと若麻績姓のお寺からしか養子をもらえないという厳しい決まりがあり、男の子を産むのが若いお嫁さんたちの念願のようです。



○○院の方はどこから養子をもらっても自由です。考えてみると「若麻績」さんは大陸から来た自分達の血筋をこうやって代々ずっと守っているのかもしれません。もちろん若麻績さんも今では私達と同じ普通の日本人ですよ。( ^-^)



信濃毎日新聞善光寺御開帳特集号に載った鷹司誓玉御上人の次の言葉にはっとしました。



「七年に一度づつ御開帳が行われるという事は惜しい欲しい憎らしい等の煩悩におぼれ、とかく怠けがちな私どもの心に反省や信仰増進を促す警索(けいさく)をあてられる機会ではないでしょうか。」



警索とは、坐禅中見回りの和尚さんが姿勢の悪い人の肩をびしっと叩かれるあの棒のことです。



仏教の言葉にはとかく難しくて訳の分からない言葉がたくさんあります。私にとって貪瞋痴(とんじんち)という言葉、これは貪る(むさぼる)心、怒りの心、無知、の三悪の事と教えられましたが、どうもはっきりとしませんでした。

「惜しい、欲しい、憎らしい」と言われるとすっと納得がいきました。このあたりがやさしい言葉を使われる尼和尚様の真骨頂でしょうか。



「我昔諸造諸悪業(がしゃくしょぞうしょあくごう) 皆由無始貪瞋痴(かいゆうむしとんじんち)従身口意之所生(じゅうしんくいししょしょう)一切我今皆懺悔(いっさいがこんかいさんげ)」これは仏教のたいていの宗派で真っ先に唱える懺悔文(ざんげもん)というお経です。

「私が作ったもろもろの悪業縁はすべて貪瞋痴によるもので、わが身や口や意志のなすままに行動した結果であり、ここに私は今までのそれらの一切を懺悔します。」という意味です。



活禅寺の無形大師も「懺悔は仏教で一番大切なもの。懺悔の無い宗教は宗教ではない。」と言っておられました。

あっ、また少し善光寺から脱線しましたか。(^^;;



脱線ついでに信濃毎日新聞善光寺御開帳特集号にも連動して載せて頂いた善光寺御開帳公式ガイドブック雲切目薬の広告をお披露目しておきますね。( ^-^)





さて長野市民、特に商工観光業の人々の間でいつも問題になるのが、善光寺から長野駅までの距離の長さです。

約2キロメートル。普通に歩いて30分の、しかも坂道。若い人にはともかく、お年寄りには結構な距離です。



その上、20年以上も前に善光寺の裏側に駐車場が出来てしまいました。当時市会議員だった父たちはかなり反対したのですが、善光寺でお土産屋を持っていた強力な市会議員さんがごり押しして通してしまいました。



そうなるとせっかくの参道を歩いて善光寺にお参りする人の数は激減してしまいました。それが長野市の中央商店街の空洞化にもつながる一大事だったのです。



ところが、これも最近知ったことなのですが(^^;;、長い長い坂道を登って善光寺参りをすることにはちゃんと意義があったのです。



その昔、法蔵菩薩さまが修行の第一番目に48願の御誓願をたてられ、それを成就なさって阿弥陀如来さまになられました。その中で一番大事な王誓願と呼ばれる誓願が第18番めの誓願でした。それは「阿弥陀如来の名を唱えた者は必ず救われる。」というものでした。



それになぞらえて善光寺から18丁離れたところに長野駅が作られたのです。一丁は109メートルですから、十八丁はほぼ2キロになります。



つまり長野駅を降りて善光寺までの参道を歩いて始めて、法蔵菩薩さまの修行の道をたどる事が出来る訳です。



今年の御開帳ではこの故事にならって、長野駅から善光寺まで48基の燈篭が建ちました。奇数燈には大勧進の小松玄澄貫主さまの、偶数燈には鷹司誓玉御上人さまの手による誓願がそれぞれ書かれているそうです。



どうぞこの機会に本来のやり方で長野駅で降り、バスも乗らずに歩いて燈篭に触れながら善光寺を目指されるのはいかがでしょうか?



足のお悪い方や時間がない方には、ぐるりん号という小さなバスが長野駅から善光寺まで動いています。



終点のひとつ手前「大門町南」というアナウンスが聞こえたら耳を澄まして下さいね。雲切目薬の宣伝広告が入っていますから・・・。( ^-^)



ついでにもう一つコマーシャルを。

今回雲切目薬は「蘇った善光寺七名物」というのが謳い文句です。



善光寺には昔七つの名物があってたぶんそのうち現存しているのは4つだと思いますが、十数年前に出版された善光寺七名物を解説した本には雲切目薬はもう無い事になっていました。

だから雲切目薬が新しい処方で蘇ったことを多くの方々に知って頂きたかったのです。



あの有名な八幡屋磯五郎さんの七味唐辛子も、もちろん七名物のひとつです。



九子はいつもお客さんでごった返しているいかにもお金のかかった八幡屋磯五郎さんの新店舗の前を通る時、なぜか意識しないのに胸をそらしがちにして歩いています。



「そりゃあ、売れる金額や、お客さんの数や、店のきれいさや、従業員さんの数じゃあオタクに勝てないわよ。(何しろ笠原十兵衛薬局は一応十八代店主の九子が一人でお昼寝しながらやってる店だもの。(^^;;)だけどね、古さと心意気じゃあ負けないわよ!!(何しろそれしかありません。(^^;;)」



いつの日か、八幡屋磯五郎さんに肩を並べる店になる!!

(どう転んだってそりゃあ無理!(^^;;)



いいんです。何しろ我が家の家訓は「細く長く」ですから・・。( ^-^)



善光寺御開帳その1はこちら


よかったらこちらも( ^-^)
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