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善光寺と御開帳 [<坐禅、仏教、お寺の話>]


本日九子は第十八代笠原十兵衛薬局店主と致しまして、いつもの坐禅と活禅寺のお話ではなく(^^;;、善光寺と御開帳のお話をさせて頂きたく存じます。m(_ _)m



七年に一度の善光寺御開帳が4月5日より5月31日まで開催されます。



御開帳というのは、秘仏とされる善光寺御本尊様の身代わりと言われる前立御本尊(まえだちごほんぞん)様のお姿を特別に拝見できる機会で、七年に一度とは申しますが、数え年で七年ですから実際は六年に一度、丑(うし)年と未(ひつじ)年の春に行われます。



前回のご開帳の直前に雲切目薬が日刊ゲンダイの「妙薬探訪」というコラムに載って、まったく売れなかった(^^;;雲切目薬が突然脚光を浴びました。



わざわざ東京からお見えになったお客様が「ご開帳はどうでもいいから雲切目薬だけを買いに来た。」とおっしゃってそのまま帰られた事もありましたが(^^;;、どうか是非ご開帳の機会に善光寺の前立御本尊様をご覧になって極楽浄土へのご縁を結んで頂きたいと存じます。



善光寺御開帳公式ガイドブックの画像今手元に「善光寺御開帳公式ガイドブック」があるのですが、今回九子は清水の舞台から飛び降りる覚悟で、雲切目薬の全面広告を出してもらいました。160ページほどの本のちょうど真ん中より少し前辺り。見開きの向かいはあの栗菓子の老舗、小布施の桜井甘精堂さんです。

長野県はもとより大都市の書店でも一部1000円(税込み)で手に入ります。



灯台元暗しと良く言われますが、善光寺のお膝元に住みながらこの本を読むまで知らなかったことのなんと多かった事でしょう!



たとえば善光寺御本尊=一光三尊像は長い間秘仏とされ誰の目にも触れていないというのは有名な話なのですが、それではいつ頃秘仏になったのかというのを実は我が家で誰も知りませんでした。



一応(^^;;善光寺信徒総代だった亡くなった父なども「江戸時代頃じゃあないか?そんなこと知るもんか。だってだあれも見たことないんだからな。」などと言っておりましたが、この本によると642年に善光寺が本田善光(ほんだよしみつ)によって長野県飯田市辺りから現在の長野市に遷座されて間もない654年と言いますから、現在の地に建立されてわずか12年で秘仏となられたことになります。



そう考えると、誰も見たことの無い御本尊様が後についておいでになるとは言え、1400年近くもお身代わりとして頑張ってこられた前立御本尊さまのご利益はなかなかのものがあるのではないでしょうか。



ところで善光寺の建立者本田善光は、娘(如是姫(にょぜひめ))の大病を治すため大金をお釈迦様に寄付して、以降熱心な仏教徒となったインドの月蓋長者(がっかいちょうじゃ)の生まれ変わりだそうです。



「善光寺縁起」によると娘の全快を喜んだ月蓋長者は阿弥陀仏の建立を願い出て、お釈迦様の仰るとおりに黄金を集めると、お釈迦様のお祈りと共に西方から阿弥陀様が現れて、黄金は湯のように沸き立ち、観世音菩薩と勢至菩薩を伴った一光三尊像の姿になりました。この仏様が後に天竺、百済を経て、善光寺如来となるのです。



本田善光は長野県飯田市辺りに住んでいましたが、ある時都に上り、帰る途中難波のお堀の辺りを歩いていて「よしみつ、よしみつ」という声に呼び止められました。なんとそれはお堀に投げ捨てられていた金ピカの仏様でした。



仏様は蘇我氏と物部氏の争いに巻き込まれてお堀に捨てられたのでした。



その仏様の思し召しどおり、善光はまず故郷の飯田に、そして「水内郡芋井あたりへ」というお言葉に従い長野の現在の場所へと仏様をお連れし、お堂を建ててお祀りしたのです。



善光寺は何度も大火に遭って焼失していますが、当時から善光寺の火事は不吉の兆しと言われていて、文治3年(1187年)の火事の折は源頼朝が再建しています。



その後善光寺の御本尊様は戦国時代にさまざまなところに移り住んでおられます。ここでも御本尊様とは、絶対秘仏の御本尊様であるとは考えにくく、前立御本尊であったと思われます。



まず最初の引越しは、川中島の戦いでたびたび戦場になった信濃の国に善光寺如来を置いておくと戦火に焼かれる心配があると考えた武田信玄公が、善光寺の大本願お上人(代々皇室に縁のある高貴な尼僧)はじめ多くの僧侶達や仏具までをも大々的に甲斐の国に移しました。



そう。甲斐と言えば山本勘助がNHK大河ドラマで取り上げられましたが、勘助が武田軍に仕官したのと同じ年、1543年に元祖雲切目薬が出来ています。お陰様で「目の悪かった勘助が使った可能性があり」との事で、ディアゴスティーニ社の山本勘助の本に雲切目薬の写真を載せて貰う事が出来ました。( ^-^)



すみません。話が脱線致しました。(^^;;



武田信玄が亡くなった後武田は織田信長に破れ、善光寺如来様は信長と共に岐阜に引っ越されます。その後徳川家康公が一時浜松に移しますが、すぐ甲府に戻されました。



その後豊臣秀吉が天下統一を果たした後、1596年に京都で大きな地震が起き京都の大仏殿が崩壊したので、秀吉は京都方広寺の本尊として善光寺如来を甲府から京都に迎えました。しかしこの頃から秀吉の体調が悪くなり、「善光寺如来のたたり」と噂されたので、秀吉は慌てて善光寺如来を長野に戻しました。秀吉の死の前日の事だそうです。



これが四十年にも及ぶ善光寺如来のお引越しの旅の顛末です。



善光寺如来を祭った各寺院は、今でも善光寺の名を冠し、今年は特に六善光寺同時御開帳が開かれます。



特に善光寺を建立した本田善光の郷里である長野県飯田市の元善光寺と、武田信玄が立てた甲斐善光寺は有名で、長野の善光寺にしかお参りしないのは片参りと言われ、元善光寺と両方お参りして始めて善光寺参りが完成すると考えられているそうです。



かく言う九子も生まれて以来○十年、片参りしかしていない訳です。(^^;;



御開帳中、善光寺本堂の真ん前に立てられる回向柱(えこうばしら)からは前立本尊の御手に繋がる「善の綱」が結ばれ、回向柱を触っただけで極楽浄土が約束されるとは申しますが、せっかくおいでになったのですから是非、内陣で御開帳中しかお目にかかれない前立本尊様を拝み、戒壇巡り(かいだんめぐり)をされて漆黒の闇の中で極楽浄土の錠前に触れて頂きたいと存じます。





元祖雲切目薬は川中島の合戦の頃に作られて「善光寺雲切目薬」という名前で昭和57年まで売られていました。

その名の通り善光寺のおみやげとして善男善女が珍しがって買っていきました。最盛期は「善光寺霊薬雲切目薬参拝講」という講まで出来て善光寺へ何百人もの人々が押し寄せたと言う事です。



非力な十八代店主にはそんなお話は夢の又夢でありますが、特別なご開帳の時期に善光寺においでになったお客様には是非、雲切目薬の笠原十兵衛薬局にも足をお伸ばし頂きたいと存じます。



店の東側には古い店も残っていて、わずかですが当時の面影を窺い知る事が出来ますよ。( ^-^)


善光寺と御開帳その2はこちら




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九子流、坐禅(座禅)の仕方  その2 [<坐禅、仏教、お寺の話>]


その1より続く。



どうしたら目をつむらずに坐禅(座禅)が組めるか。

それは九子にとって究極の課題である。



何しろ生まれてこの方、お友達少ない人間で、ずっと自分一人の世界の中で遊んできた。

暇があれば始終考え事・・(というほどの事でもない(^^;;)と言うか、あらぬ妄想ばかりしていた。



とにかく集中力がないのである。



悪い事に、考え事というのはいつでもどこでも出来てしまうのだ。

特に回りがしんと静まりかえって、雑音が聞こえない絶好の環境の中では・・・。



それが三昧(ざんまい)だの、無念無想の世界などと言われてもねえ。(^^;;



無形大師も良く言われたが、自由に動くはずの手足を組み、自由にしゃべれるはずの口を閉じ、おのが全てを仏様に捧げる、すなわち自分自身の一切を供養するのが坐禅(座禅)の姿である。

供養の中で最大の供養が坐禅(座禅)であるのだ。



自分の自由になる最後の砦が思考と言う訳だが、それすらも仏様に捧げきってしまわなければ供養の意味が無い。



良く無念無想と言われるが、それは何も考えないと言う事ではない。

坐禅(座禅)中、考えは頭の中に浮かぶけれど、それを追わない、連想をしないと言う事が大事なのだ。

何も考えないよりは楽そうだが、それでも、特に九子のような人間には難題だ。



とにかく数息観(すそくかん)に徹して、呼吸を数えることに集中しさえすればよい。

そうすれば余計な事は考えなくて済む訳だ。



ところが案の定、気がつくといつも九子はあらぬ事を考えている。

そしてそんな時は必ず、目が固く閉じられてしまっているのだ。



そんなら目をいつも半眼にして、閉じない様に気をつけていればとりあえず集中しやすいのではないか。



20年以上も参禅している集大成として皆様にこんなやり方はどうだろうかとお披露目してみようと思っているのが次のやり方だ。



断っておくがお披露目したからと言って、九子が常にそれを実践出来ているかどうかはまた別問題である。(^^;;



要するに大事なのは呼吸の仕方の工夫なのだ。



無形大師は呼吸の仕方についてそんなに細かいところまで注意はされなかったと思うが、いろいろな坐禅(座禅)の本を読むと様々な方法が出ている。



たとえば「軟酥の方(なんそのほう)」と言うのが一番有名だと思うが、頭の上に柔らかい「酥(そ)」というクリームみたいなものが置かれている事を想像する。呼吸をする時にそれが溶けて身体中をめぐるような連想をするというものだ。



実践してみた結果、最初の何呼吸かは良いが・・・・。続かないのだ。(^^;;



九子のような注意力散漫な人間には、一息一息に目を開けている工夫がないと半眼を続けて行く事など夢のまた夢である。





秘訣はひょんなところに転がっていた。



無形大師の御提唱の中に、活禅寺の入門者がもらう「坐禅の仕方」という小冊子のどこにも書かれていない一項が加えられていたのに気がついた。



それが「歯と歯を噛みあわせない。」だった。



今にして思うと、どうして無形大師はこんなに重要な事を御提唱の中だけに留めておかれたのだろう。



歯を噛みあわせないということは、力を抜けということだ。

力が抜けた結果何が起こるかと言うと、呼吸が楽になる。



良く坐禅(座禅)を始めて間も無い人が「途中で息がつまるような気がして、しっかりと長い呼吸が出来ない。」と言うのを聞いた事があるが、これも今なら「歯と歯がかみあって力がはいっているんじゃ ありませんか?」と聞き直せる。



歯を噛みあわせないというのは、歯だけにとどまらず、身体中の不必要な力を抜けということなのだ。



まぶたも、法界定印(ほっかいじょういん)を支える腕も、歯も、力を抜いた結果、上まぶたと下まぶたの間に、身体と腕の間に、上の歯と下の歯の間に遊びというか、隙間が出来る。



その隙間を、ゆっくりと吐いた空気が抜けていく。



とにかく、身体の隙間を空気が抜けていくというイメージが出来あがって以来、九子の目は開けられる事が多くなった。



目と目が閉じられていると、呼気が抜けないのだ。



K和尚様に教わった「首根っこをつかまれて吊られている感じ」と一緒になって、九子が今イメージしているのは、昔良くおみやげにあった骸骨のキーホルダーである。



襟首あたりで吊られて、力みひとつ無い。

自在に操られて、どんな姿になろうと、肉に邪魔されず隙間から自由に空気が出入りする。

もとより目は骸(むくろ)なのだ。



大きくゆっくりと息を吸ってひと~~~~~~~~~~~つと数えながら出来る限り長く息を吐く。

出来る限り長くと書いたが、次の呼吸が苦しくて出来ないほど不自然に長くてはいけない。



長く息を吐くと、次の息は意識しなくとも自然に肺に入ってくる。



息を吐く時は、下腹部を意識しながら吐く。

これもK和尚様から教えて頂いた事だ。



下腹部をめがけて・・と言うと力みが生ずるから、あくまでも下腹部の良く言われる臍下丹田(せいかたんでん)を意識しながら吐く。



この呼吸を続けていると、いつのまにか下腹が温かくなってくる。

そして、無形大師が「つきたての餅のように」と表現された禅定(ぜんじょう)の姿が現れてくる。



一息ごとに自分の身体が清らかに清らかになって、最後にはからっぽになってしまう。

からっぽなのだけれど、心は何とも言えない幸福感でみなぎるばかりだ。



その結果なのか、坐っている身体はだるま様のようにまんまるになったような気持ちがする。

「つきたての餅」も自然にまんまるになるから、まんまるというのは禅定のキーワードなのかもしれない。





その日もいつものように坐禅(座禅)ぎりぎりにのこのこ活禅寺に出かけて行った九子は、初めて参禅したとおぼしき若い女性の前に陣取った。



活禅寺の和尚さん方は謙虚な人が多いのか、初心者の前に進んで坐るという事をあまりなさらない。



だけど九子は知っている。

初心者にとって、和尚様の前で坐る事がどんなに良い勉強になるかと言う事を・・。



だから、謙虚さのひとかけらも持ちあわせていない(^^;;九子は、よせばいいのに、たまに初めて坐る人の前で坐る。



九子の場合それでも長くやっているので、印を組んで座禅の姿勢が出来あがった頃には、そこそこ良い呼吸が出来る体勢が出来あがっているのである。

禅定の半分くらいの体勢にはなっているのだ。



ただし、問題はそこからなのだ。

とにかく集中力に難ありの人なので、数息観が出来る出来ない以前の問題として、考え事に夢中になってしまうあまり、ここが活禅寺で、久しぶりに参禅に来ているという事実すらひょっとすると忘れてしまったりする。(^^;;



いや、いかんいかん。今日は初めて坐禅(座禅)しているかもしれない人の前で座っているのだ。彼女の役に立つような坐禅(座禅)を心がけないと・・・。

(この時点ですでに「無心」を忘れている九子。(^^;;)



この心構えはとりあえず効を奏し、数息観も進み、いい雰囲気になってきた。 禅定もすぐそこ!っと思った途端、



「はあっくしょん。」前の女性が大きなくしゃみを・・。



思わずびくっとしてのけぞる九子!



あっ、びくっとしたの、見られたかな?見られたよね。

ああ、かっこ悪いなあ。

そうだ!やめて帰っちゃおうか。 そうしよう。(^^;;



さも最初から用事があったと言わんばかりに、本堂を後にする九子。 まあ、いいか。彼女の反面教師くらいにはなっただろうから・・。(^^;;



皆様、九子の戯言なんかに付き合ってる暇があったら、近くの禅寺でみっちりと本当の坐禅(座禅)を教えて頂きましょうね。( ^-^)



九子流、坐禅(座禅)の仕方 [<坐禅、仏教、お寺の話>]


◎この記事は、気が付いたところで少しずつ加筆する予定ですので、坐禅(座禅)がしてみたくなったらたまに開いてみて下さいね。( ^-^)



あなたは坐禅(座禅)をするために、お寺に行った事がありますか?



坐禅(座禅)の良さはなんとなくわかるのだけれどお寺に行くのは面倒と思っていらっしゃる方で、一度もお寺に行っていらっしゃらない方には、実はこれをあんまり読んで欲しくない。



一度はお寺に行ってみたけれどそう何回も行けないし、だんだん座り方も忘れてしまったなあと言う方に読んで頂きたいと思っています。



これはあくまでも九子流なので、あなたがお寺で教えて頂いたやり方がベストです。





坐禅(座禅)で一番大事な事、それは呼吸だ。

これは九子の言葉ではなく、活禅寺の無形大師も、その他の高僧も等しく言っておられるから紛れも無い事実だと思う。



あなたが行かれたお寺でも、いきなり坐禅(座禅)というのではなくてたぶん坐禅(座禅)の前にいろいろな儀式があったと思う。それらはすべて、それ自体の意義の他に、坐禅(座禅)の呼吸を正しくするための大事な準備という意味合いもあるのだと思う。





活禅寺での朝の日課は、水行、読経、坐禅という順番だった。



水行は冷水を男性は頭から、女性は肩から何杯もかぶり、文字どおり身体を目覚めさせる。

続く読経では、背筋をしっかりとのばして大きな声を出してひたすら経を読む。



読経が終わる頃には胸の辺りがなんともすがすがしい気持ちになって、それが次の坐禅(座禅)において良い呼吸が出来る基になる。



水行も読経も、坐禅(座禅)をする前のいわばウオームアップですが、家ではなかなか出来ませんよね。

かく言う九子も、夜だけたまに活禅寺に通うようになってから水行など何年もやってません。(^^;;

だから是非お寺におでかけ下さいね。





さていよいよ坐り方だが、まず服装はゆったりとしたもので。

ジーンズはきつくて足が組めないからダメ。ジャージなどが良い。

坐禅はいつでも出来るとは言うものの、本当は空腹時や満腹時、疲れている時などは集中力が途切れるので避けた方がよい。



それぞれの寺の作法にのっとって円座と呼ばれる丸いクッションのようなものの上に腰をおろすのだが、この円座の高さは高い方が良い。

なぜならある程度高さがあったほうが腰骨をまっすぐに立てやすいから・・。



座り込むとだんだん薄くなるので、中に真綿をたくさん詰めて再び高くするのが和尚さん流。



たまたま薄い円座しか見当たらない時はどうする?



円座の端の方に浅く腰を下ろす。すると体重で円座の後ろの方が持ちあがる。

これで腰骨はまっすぐに立ち易くなるはず・・。





坐禅(座禅)をする時は身体をぴしっとまっすぐにさせるといいうのは常識だけれど、身体のすべてに力が入っていたらとても長い時間は座れない。



絶対にまっすぐに立てていなければならないのは、背骨、特に腰骨。お尻を突き出す感じで腰椎をぐっと入れ、常にこの力を抜かない。

あとはどちらかというとゆったりとさせていた方が良い。



合掌はどこの寺に行っても大事な基本姿勢だと思うが、活禅寺の合掌は親指を鼻の頭くらいの高さにして、ひじを手のひらと直角に、手を合わせた時に左右のひじが180度の直線になるようにするのが正式だ。

しっかりやると、結構きつい。



合掌が、自然に苦も無く出来るようになれば、あなたも本物なのである。



坐禅(座禅)の体制を整える要所要所でこの合掌の形が入る。

身体と一緒に、気持ちも整うのがこの合掌だ。



円座に腰をおろしたら、足を組む。

両方の足をももの上に上げる事が難しければ片方だけでも良いが、なんとなくバランスが悪くて座り難い感じはある。もちろん慣れてしまえば問題ないとは思う。



足はなるべく足の指がももの付け根に触れるほどしっかりと上げるようにしたい。これもうまく座るコツのひとつかもしれない。



最初にするのが揺振と呼ばれるいわば準備運動。

身体を前後左右にしっかりと伸ばす。



大事な事はゆっくりゆっくりと伸びる限界まで身体をしっかりと伸ばすこと。

前後左右と言うと急いで聞こえるが、前屈三回後屈三回、左に三回右に三回・・みたいな感じで、それぞれを気持ちが良いと思うところまでゆっくりと静かに伸ばす。


★三回と書きましたが大事なのは身体がしっかりと伸びることで、時間をかけてしっかりとしてください。それともう一つ、揺身をすることで前後左右に偏りの無い身体の真ん中の位置=重心が決まるので、とても重要です。

揺身がすんだら、一度合掌。

合掌しながら、まっすぐに背筋が伸びているかの最終確認をする。


最後にもう一度お尻を突き出すようにして、腰のすわりを決める。



合掌した手を、自然に組んだ足の上におろす。

そして法界定印(ほっかいじょういん)と呼ばれる印を組むのだが、無形大師は確か、卵がひとつすっぽり入るくらいの大きさと表現されたと思う。



この印がいつまでたっても崩れないというのが、実はとても大事な坐禅(座禅)の極意なのだ。



最初は正しい卵型だったはずの印が、最後になると親指がすっかり下に落ちていたり、卵型が三角になっていたりというのが、まあ気合の入ってない、普通の九子の姿なのである。(^^;;



九子は皆さん御存じの通り、いつまでたっても初心者の困った仏教徒なのだが、ある時本気になって坐禅(座禅)の仕方を極めようとしたことがある。



うつ病が頻繁に起きるようになって、坐禅(座禅)がうまく組めなくなった時だ。



その時に九子の相談に乗って下さったのがK和尚様だった。



K和尚様御自身も、会社でうまく行かず人生に自暴自棄になっていたのを当時の無形老師と坐禅(座禅)に救われたのだそうだ。



K和尚は言った。「坐禅がうまく組めない時は、必ず姿勢が間違っているんだよ。姿勢さえ正しければ、こんなこと言っていいかどうかわからないけれど、数息観(すそくかん)なんか出来なくたって、ちゃんと良い呼吸が出来るよ。」



誰もが寝静まった夜の河原で、絶対に崩れない姿勢を極めるために一人黙々と何時間も坐禅を続けられたと言うK和尚の言葉は九子の宝物だ。



そのK和尚が、崩れにくい印の組み方として伝授して下さったのが次のやり方だ。



まず右手を指を全部伸ばして足の上に置く。その上に同じように指を伸ばして左手を重ねる。

ちょうど右手の中指の付け根に左手の中指の先が重なるくらいになるのがよい。



そのまま親指の頭を自然に合わせると、下が平らなきれいな卵型の印が組める。



このやり方を知ってから、なるほど印は崩れ難くなった。

気をつけるところが下の四本の指を常にまっすぐに伸ばしている事だけになったので、はるかに楽になったのだ。



それと、印を組む時の左右の腕は、身体にくっつけないのが良い。

ひじが拳こぶし一つくらい身体から離れるくらいが良いらしい。



法界定印はアンテナだと言う。

仏様の力を、宇宙のエネルギーを正しく受け取るために、印の形はいつでも正しくなけれならない。





足が組めて印が整えばほとんど姿勢は出来あがったも同然だが、K和尚は更にあごを引く事と、後頭部で天井を突き上げるような気持ちで座る様に言われた。

実はこの二つは一連の動作で、あごを引くようにすると自然に後頭部が持ちあがって高くなる。



ことさらにあごを引こうと力む事の無いように、和尚は「襟首のところで釣られているような感じで」と表現された。





そして目は半眼、あけるでもなく閉じるでもない状態にして視線を1メートルほど前に落とす。(★この位置に視線を落とす事によって自然に半眼になると言われます。)

この時顔は動かしてはいけない。



口は軽く閉じるが歯はかみ合わせず(大事!)、舌の先は上の歯の付け根辺りに軽くあてる。



たぶんこれで一応、坐禅(座禅)をする形は整ったはずだ。



さあ、次は呼吸だ。



本式の呼吸に入る前に、喚気一息(かんきいっそく)というのがある。



胸いっぱいに吸い込んだら息を止めてゆっくりひとつ、ふたつと数える。そしてゆっくりと息を吐き出す。

これを5回から6回繰り返す。



息を吸い込む時も、息を吐き出す時も、宇宙を吸い込み、宇宙を吐き出しているつもりで・・と教えられた。



さあ、これで準備は整った。



いよいよ坐禅(坐禅)の本式の呼吸に入る。数息観(すそくかん)だ。



K和尚も言われた数息観というのは坐禅(座禅)の呼吸の基本と言われる呼吸法で、ゆっくりと息を吸い、心の中でひと~つと数えながら息を静かに吐く。そしてまたゆっくりと息を吸ってふた~つと数える。



ひと~までで息を吸い、つ~と言いながら息を吐くという人もいる。

とにかくこれを十まで続けて、再び一に戻るのを繰り返すのだ。



数息観は初心者のための呼吸法だそうだが、実はこれが出来る人はかなりの達人なのだ。



九子のようにすぐに目をつぶってあらぬ事ばかり考えてしまう人間にはとてもじゃないが続かない。(^^;;



そう。目をつぶってしまうのが雑念というか妄想が起こる根元だ。



ずっと半眼でいられたら、つまり目が開いてさえいれば、妄想が湧いてくる頻度はぐっと減る。



九子だって23年間だてに坐禅(座禅)をしてきた訳ではない。

(へえ~っ。(^^;;)



どうすれば目をつむらずにすむかと言う事を研究した結果、ついに良い方法にたどり着いた。



なんだか疲れたので、それはまた次回へ・・。すみません。m(_ _)m


その2につづく。




品格の話・・・続き [<坐禅、仏教、お寺の話>]


お約束をしておきながらすっかり遅くなりましたが「品格の話」の続きです。m(_ _)m



思えば品格と言う言葉、小さい頃から九子の身近に転がっていた。

小さい頃、父からも祖父母からも良く言われたのが「お品な悪いなあ。お品な良くしなさい。」だった。

要するに「品が悪い。品良くしなさい。」という事だけれど、今思うと単にお行儀が悪いからお行儀よくしなさいよと言う躾の言葉だったように思う。



M氏も同じ事を言われた覚えがあるそうだ。長野辺りの方言なんだろうか。



父が亡くなって我が家にこの言葉を使う人間が居なくなってしまった今、なんだか無性に懐かしい。

単純に「お」がついてるからという訳でもあるまいが、結構雑(ざつ)と言われるこの辺りの言葉のなかでは雅(みやび)な香りがする気がして好きだ。




九子が大本山活禅寺(←ここ)で坐禅(座禅)を始めてから、実は23年が経つ。

う~ん、無駄に年を重ねたものだ。(^^;;


同期に入門した人々は、皆墨染めの衣を身につけ「居士」やら「大姉」などの位を得て、修行を積んだ証である「和尚」への道をつき進んでいる。



それにひきかえ・・・。(^^;;(^^;;



九子が熱心にお寺に通っていた昭和60年代は、無形大師(当時は無形老師)もまだ90才手前でかくしゃくとしておられ、毎朝のように皆の前に出て来られて提唱と呼ばれる御説法をして下さった。



御提唱はいつでも、人間と言うものはいかに偉大な力を持つものであるか、そして人間が強い願いを持って努力すれば、そしてその願いが正しいものであれば、すべての願いは叶うものであるという力強い言葉で結ばれるのが常だった。



「おどおどびくびくして生きて、何の生きる価値があるか!坐禅(座禅)の呼吸によって堂々とした人生を行き抜こう!」と言う言葉は、まさに当時人の顔色ばかりをうかがっておどおどびくびく生きていた九子には天啓の如く響いた。



響いただけではない。無形老師のおっしゃる通り、わからないながらも坐禅(座禅)の深い呼吸を続けていくうち、いつのまにか不安もあせりも妬みもすべてが消え去って、何とも言えない幸せな気持ちになる事が出来たのだ。



坐禅(座禅)について話し出すといくら中身の伴わない九子であっても(^^;;ある程度の長さになってしまうので興味の有る方はこちらをゆっくり見て頂く事として、今日の主題の品格に話を戻そうと思う。



そんな訳で無形老師の提唱はいつでも、「人間と言うものは偉大なものなのだ。仏様と同じ無限の力を持っている。人間に出来ないものなど無い。出来ないのは、やらないからだ!」と言う、こう言ってはなんだが超ポジティブシンキングpositive thinking(^^;;なものだった。



あれほど悩まされた長年の劣等感やら不安感やらがわずか数十分の坐禅(座禅)によってあっさりと消えて、幸福感が身体中にみなぎるのを目の当たりにした九子は、自分にもそんな力が宿っているのだと信じ込んだ。

(それがそもそもの間違いだった・・・・・・・・。

  うんっ?いやいや(^^;; )



坐禅(座禅)を始めてからの約10年間は、九子が人生の中で最初で最後頑張ったと言える10年間だった。

朝5時に起きて片道20分ばかりだが坂の多い道を徒歩で活禅寺を目指す。

水行(つまり水をかぶる)、読経(お経を読む)、坐禅(座禅)というメニューをこなし、7時過ぎに家に戻る。

これをほぼ毎日続けた。



こんな九子を偉い!と言って下さるだろうか。

本当にエラかったのはその間五人の子供達の面倒を見る出来過ぎ母であった。(^^;;



活禅寺に通い始めて最初の4、5年間は、一度もウツに悩まされなかった。これは16、7才の頃から毎年少なくても三ヶ月以上続くウツに悩まされていた九子にとって画期的な事だった。



「私は坐禅(座禅)でノイローゼに勝った!」

自分でも自分の状態を皆が言うところのノイローゼ=神経症だと信じていたし、当時うつ病などという病名を知っている人を探すのも難しい時代だった。



とにかく三日坊主で有名な九子がこれだけ長い間坐禅(座禅)を続けられたのは、ただただ結果が伴ったからという一言に尽きる。



坐禅(座禅)をした日としなかった日では、一日の充実感がまるで違うのだ。

その上あれほど苦しんだ不安も劣等感も嘘のように消えていた。

 



☆九子が坐禅を始めてから最初の5年間ほど、ウツ状態が来なかったのは紛れも無い事実です。

ただしその後わかる事になるのですが、坐禅はうつ病には効きません。くれぐれもお間違いなく。

うつ病と診断されていない方で不安や劣等感でお悩みの方、うつ病の方でもうつ状態が治まって普通の生活を送られている方は是非お試し下さい。






えっ?品格の話?あっ、もうすぐもうすぐ。(^^;;



とにかく、無形老師の御提唱のテープを聞きながら、あるいは今となれば何と贅沢な老師の肉声による生の御提唱を聞きながら坐禅(座禅)を組むという至極の一時を毎朝送っていた九子であった。



老師の数ある御提唱の中で、あれっ?と思うものがあった。



実はその御提唱を一字一句間違いなくお伝えするためにお寺の機関誌をあちこち探していたのだが、何しろ膨大な御提唱の数なので見つけられない。



とにかく確かに無形老師は「自分の分際」とか、「分をわきまえて」とか、「分相応」とか、「身の程を知る」とかいう意味の言葉を何度も何度も使われた。



ずっとずっと声高に「人間の力は偉大なものだから絶対に出来ない事は無い!」「仏の赤子として人間は皆平等。」と言い続けられた無形老師の言葉として、なんだか矛盾していない?「分相応」っていう制限があるの?人によって出来る事には限界があるの?



九子はなんだか釈然としない思いを抱えながらお寺を後にした。

その後機関誌を読み進めるうちに、無形老師は結構いろいろな御提唱の中でこういう意味の事を言われていた事がわかった。





長い間くすぶり続けた疑問は、つい最近氷解した。

それは昭和54年の10月の無形老師の言葉である。






学問があろうが、なかろうが、住む家も、その日の食物もない人であろうが、位、人臣を極めた大統領、大臣と呼ばれる人であろうが、そんなことは、ただ役者が、舞台へ立った時の姿に過ぎんものであって、みんな人間である。その一役、一役の姿である。(中略)人間という一元に帰る時みんな平等である。




(略)


役、役によって、その人の使命によって、使命に生きるのであって、位に上下も無ければ、人間に上下も無いのである。 ただその自分に生かされた役割を、堂々と生き抜く。不満を持ったり、或は軽蔑をしたりする間違いを起こしてはならない。


その為には、自分という者の尊さをはっきりと知っておかなければそうした不満が起こり、そうした人の前に出た時に、偉いと呼ばれる人の前に出た時に、手が震えたり何か息が弾んできたりして、非常に歪(いびつ)な人生が起こるのである。





話し言葉なので少々わかり難いところもあるが、この一文を読んであの時老師がおっしゃった「身の程を知る」という意味がわかったような気がした。


そして思った。品格とは、身の程を知る事ではないだろうか。



本来仏様の赤子として平等に生まれたはずの私たちは、社会と言う枠組みの中での役割を演じている。そして確かに、その役割には楽なものも苦しいものも、うらやましがられるものも疎まれるものも、豊かなものも貧しいものもあるだろう。



自分に与えられた役割がどんな物であれ、それを堂々として演じ抜く。

自分の役割に不満を持ったり、他人の役割をうらやんだり、逆に軽蔑したりしてはならない。

今、与えられた役割の中で、最善を尽くす。



人間と言う尊い存在に生まれた幸せに感謝し、自分の命も他人の命も同じくかけがえの無い命として尊重し、お互いの「役割」ではなく、「人としての存り方」を基準にして礼節を保つ。



本来平等なはずの人間社会の中で、与えられた役割によって見かけ上の上下関係が出来る。

社会の中でそれをくつがえす事はなかなか難しい。

(もしかしたらお釈迦様は、インドのカースト制の最下層不可触賤民(アンタッチャブル)に向かってこれを説いていらっしゃったのかもしれない。)



だから現状のままで最善を尽くす。

人をうらやまず、自分を卑しめず、淡々として、堂々として、するべき事をきっちりとして、満足して、感謝して一日を過ごす。

そして相手が誰であっても、人として、人間に生まれついた幸運な者同士としての礼を尽くす。



それを毎日続けていくと、その人の生き方がきらりと輝く。

身分が高かろうが低かろうが、金持ちだろうが貧乏だろうが、強かろうが弱かろうが、人間として輝いている人はあなたの回りに必ず居る。

それがその人の品格というものではないだろうか。





偉大な力を持って生まれてきた人間の端くれであっても、みんながみんな強い意志を持って不可能な事を可能に出来る訳ではない。

肉体が弱い人も居る。意志が弱い人も居る。両方が弱い九子みたいな困った奴も居る。(^^;;



仏様はそんな事も先刻ちゃんと御存じで、「分相応」と言う言葉を使っては、弱いなら弱いなりの、強いなら強いなりの努力というのをちゃんと評価して下さるのではないか。



怠け者のぐうたら人間九子みたいなもんでも、いったん弟子になった以上、困った顔をなさりながらも目をつぶってじっと待っていて下さる。受け入れて下さる。赦していて下さる。



その仏さまのお慈悲にすがって、すっかりあぐらをかいているのがこの九子なのである。(^^;;





ジュエリーのネットショッピング中毒に陥った身で、品格の話など書くな!と叱られそうだが、なんと厚顔無知な九子は、次回、怖れ多くも坐禅(座禅)の座り方について書いてみようかと思っている。



坐禅(座禅)に興味をお持ちの方、ぜひ読んでね。そしてくれぐれも、鵜呑みにしないでね。(^^;;


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残る桜も・・・ [<坐禅、仏教、お寺の話>]

少し前のことになるが、awayさんが親鸞上人の「善人なをもて往生を遂ぐ。いわんや悪人をや。」と言う有名な言葉をわかりやすく解説されていた。

それを読んで九子は、溜飲が下がる思いがした。



日頃仏教徒と言えるほどの修行はほとんど積んでいない九子であるし(^^;;、自分の人生に坐禅という宝物を与えてくれた大本山活禅寺には、感謝こそすれ不満に思う何物もないはずであるのだが、ただひとつ、不満というか、釈然としないことがあるとすれば、なんとなくくすぶり続けていた九子の疑問に、誰も的確な答えをくれた人がいない事だった。



もちろん、ただでさえ狭い(^^;;九子の人間関係の中での事であるし、そんなに誰にでも聞いてみていた訳ではないのだから、たぶん単に、そう言う人に巡り合わなかっただけだったかもしれないし、もっと言えば、みんな同じ事を言い続けていたのに、九子の理解力が及ばなかっただけなのかもしれない。



今から思えばたぶん、きっと後者の方なんだろう。



前置きが長くなってしまったが、九子のくすぶり続けた疑問というのはこう言うことだった。



たまたまお寺で、立て続けに亡くなった方が多かった頃の事である。



長年修行を積まれた活禅寺の和尚さんが亡くなる。



何度も言うが、活禅寺の和尚というのは、修行の進み具合の程度を表す「位」であるから、一生懸命に修行しないと貰えない「勲章」である。



彼はしかも、大きな会社の社長さんでもあった人だ。

道半ばにして、癌に倒れられた。



そうかと思えば、お寺の典座(てんぞ)という食事一切のお世話をされていらした和尚さんが、まだお若いのに急死された。



その上なんだかしらないが、和尚という位になった途端に、まるでその代償のように家族が不幸に見舞われるという事をあちこちで見聞きした。



それを聞いて九子は、「私は絶対に和尚なんかにならないぞ!」と固く誓ったものである。

(そんなとこで誓わなくとも、どう逆立ちしたって和尚になどなれるはずがないのであるが・・・。(^^;;)



特別そういう人たちでなくても、誰かが不慮の事故や不死の病で突然亡くなられた時に、私達は「ええっ?どうしてあの人が・・?」という気持ちにさせられる。



「無常」という仏教用語を、九子自身も含めて、みんなわかったような気持ちになって思い浮かべる瞬間でもある。



人はなぜ、自分の思いとは裏腹に死ななければならないのか。



修行を積み、社会に貢献していた人が、良き家庭人であり善人と言われた人が、悪人と言われる人々を差し置いてなぜ先に死ななければならないのか。



活禅寺の和尚さんに聞いてみると、たいていこういう答えが返ってくる。

「それは、その人が持って生まれた業縁のためである。」



誰もが何千回何万回生まれ変わり死に変わりしているうちに、悪業縁と呼ばれる業(ごう)、つまり、垢(あか)みたいなものを身に背負う。

これは仏教独特の考え方であって、それ自体には九子自身も疑問はない。



そして次に言われるのが「三時業」という訳だ。

過去に積みあがった悪業の結果があらわれるのは、現在の事もあれば、次の世とか、そのまた次の世の事もあると言う。



この法則はまことに平等で、この世の誰もがこの掟から逃れられないそうである。

つまりこの掟が、因果律である。



平等?うん?

九子のように修行の足りない者は、この平等が理解できない。



この世でやったことの結果がこの世で現れるならわかるよ。



だけど、自分が知らない過去の罪の結果がこの世で現れるってのも嫌な話だし、自分がやった良い事の御褒美が、あるかどうかもわかんない次の世やそのまた次の世じゃあ仕方ないじゃん!

この世の結果は、この世に現れてほしいよねえ。

それでもって平等って言われても、ちょっとなあ。



その上、「それは、その人が持って生まれた業縁のためである。」なんて言葉、大切な家族を亡くされて悲しみに打ちひしがれている方に投げかける言葉としては身もふたもない。

そんな事を言われて心慰められる人なんか、一人もいないと思う。



九子はそんな訳で、善人の誰かが早死にするたびに、自分も、そして残された家族の方々も納得出来る慰めの言葉をずっと探し続けていた。



その答えが思いがけず、awayさんの日記から飛び込んできた。

それが親鸞上人の次の言葉である。



*********************************************************************



人間が心にまかせて善でも悪でもできるならば、往生のために千人殺せと

私が言ったら、おまえ(弟子の唯円)は直ちに千人殺すことができるはず

である。

しかし、おまえが一人すら殺すことができないのは、おまえの中に、殺す

べき因縁が備わっていないからである。自分の心が良くて殺さないのでは

ない。また殺すまいと思っても、百人も千人も殺すことさえあるであろう。



*********************************************************************

「殺すべき因縁」という言葉を、「死ぬべき因縁」と置き換えれば、一目瞭然である。



「お前が死なないのは、お前の中に死ぬべき因縁が備わっていないからである。自分の心が良くて死なないのではない。」





それは、九子が陥っていた誤解、どうしても受け入れ難かった「人が死んだり苦しんだりするのはその人自身の『過去の悪業縁の結果』」という考え方を、瞬時に氷解させた。



過去の悪業縁で死ぬわけではないのだ。いくら悪業縁が積み重なっていたとしても、死ぬべき因縁が備わっていなければ死なないのである。



過去の悪業縁の積みあがり方は、その人と九子とで、さほど違いがないのである。

そこへ持ってきて「死ぬべき因縁」があったかなかったかというわずかの差で、彼は亡くなり、九子は生きているに過ぎないのだ。



過去の悪業縁の結果・・という言葉に九子が抱いた違和感は、すなわち、亡くなった彼は悪業縁がたくさんあったから亡くなって、生きている私達はそんなに悪業縁がないから死なずにすんでるのよというニュアンスにあった。



そういう風に受け取ったのは、他ならぬ九子であった。



活禅寺の和尚さんがたにとってみれば「死ぬべき因縁」など至極当たり前の話であって、今更説明する必要などなかったのかもしれない。



亡くなった彼も、生きている私達も、そんなに差はないのよ、と言ってあげられる事。

それがせめてもの仏教徒としての慰めの言葉になるような気がしている。

(そう言われて、果たして慰めになるかどうかはともかく・・・。(^^;;)





皆さん方はたぶん、昔読んだ本を何年ぶりかで読み返すと、また違った受け止め方ができると言う経験を積んでいらっしゃるだろうが、仏教に入門しても同様の経験を味わうことがある。



awayさんにどうしても解き明かせなかった謎の答えをもらった九子であるが、実は活禅寺の無形大師が事あるたびに良くおっしゃっていた言葉の中に、大きなヒントが隠されていた事に、今、気が付いた。



「散る桜、残る桜も散る桜」



いくつもの説法の中で使われていたこの歌を、大師は無常の非情な掟によって死んでいった人々に対する鎮魂歌として捧げ、そして生きる私達には、散る桜を自分の事として捉えられて始めて、無常の世界を生きる資格が出来るのだと説かれたのかもしれない・・・と今の九子の理解力では精一杯にこう解釈することにする。



そして、awayさんの言葉に教えられて、歌の意図する深い意味が何年も経ってやっとわかり始めて来たという事実そのものもまた、「縁」のなせる業であると説く仏教の懐の広さみたいなものを、わからないながらも九子は好ましく思う。
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ユング心理学と禅 [<坐禅、仏教、お寺の話>]

ユング心理学には、東洋思想、特に禅の思想が色濃く反映されているというのは周知の事実である。



石に枕の漱流日記(ユング心理学から見た日記)を書いていらっしゃる南方城太郎さんの、「鶴の脛も切るべからず」につりこまれてメインのHPまで読ませて頂いて、彼が大変優れた臨床心理士(カウンセラー)さん、学者さんだなあという事がわかった。



禅と言っても、まだ入り口でちょろちょろしてる状態の九子がそんな城太郎さんのところにトラックバックするのもおこがましいのだけれど、九子が尊敬する大本山活禅寺の創始者、徹禅無形大師の言葉に通ずる所を感じたので、それについてちょっと書かせて頂こうと思う。



言うまでも無いが、これは九子の浅い経験で語る言葉に過ぎない。

もしもより深いところを極めたい方がいらっしゃれば、お近くの禅寺に出向いて欲しい。





それは九子が活禅寺に行き始めの20年前頃、80才を過ぎてもまだカクシャクとしていらした無形大師は、毎朝ほとんど欠かさないくらい「御提唱」という説法をされた。



当時自分に自信が無くてびくびくおどおど生きていた九子は、ただ坐るというそれだけで、自分がどうしても持つことの出来なかった自信が自然にみなぎり、明るく幸せな気分になれて、長年苦しみ続けた独特の生き難さが解消していくことに嬉々としていた。



「私は一生坐禅を続けよう。」

飽きっぽくて何事も長続きしなかった九子がただひとつ、その良さゆえに続けているのが坐禅である。



あっ、ここで本当の事を言えば、一生毎日続けるはずだった坐禅は、持病のうつ病により、はたまた「忙しい」という極めてあいまいな理由により、数日、いや数週間、いや数ヶ月間(^^;されない事もしばしばである。



長い空白があっても、いや、長い空白があるからこそ、その間に積もりたまった悩みであるとか、いらいらであるとか、ありとあらゆる人生に関する否定的な気持ちが、姿勢と呼吸を整えて数十分間坐る間にものの見事に氷解し、前向きで楽天的な自分が生まれる事に、始めてうまく坐れた時に感じたのと同じ驚きと感謝を覚える。



ならばなぜ欠かさず毎日坐禅をしないのか?



そう出来ないのが九子という人間なのである。(^^;





そうやって20年前、坐禅によって新しく生まれ変わった九子の耳に心地よく響いてきたのが、その日の無形大師の御提唱だった。





九子は「とかげも一生、なめくじも一生」と言う風に覚えていたが、提唱集では「とかげも一生、かたつむりも一生」となっている。



とにかく言わんとすることは、とかげは一生をちょろちょろすばしこく動き回って生きる。

反対になめくじやかたつむりは、のろのろのろのろ動いたこともわからない位ゆっくりと生きる。



とかげもかたつむりも、それぞれの生に与えられた安心の道があって、彼らなりの生き方で一生を満足して過ごす。



にもかかわらず、万物の霊長たる人間だけが、とかげのまねをしたり、かたつむりのまねをしたり、ああでもない、こうでもないと右顧左眄(うこさべん)し、我が智恵に敗け、智恵あるが故に苦しみ、悲しみに明け暮れて過ごすとはなんという愚かで滑稽なことだろうか・・・・・。



そんな内容だったと思う。



九子は自分がかたつむりやなめくじで、決してとかげにはなれないと思っている。

でも当時確かに、とかげになることを夢見ていた。



つまり城太郎さん流に言えば、長すぎる脛を切って少しでも俊敏に動き回る事を望んでいたのである。



とかげとは、言ってみれば出来すぎ母である。

母のように、なんでも手早に器用にやってのけて、しかも疲れを知らないエネルギーの塊みたいな人間に成りたかった。



なめくじがとかげになる事は、本来無理なのである。

トカゲのように早く走るなめくじがいたら、それはもはやなめくじではない。化け物なのである。



それがわからなくて、必死に無理を通そうとしていた。



自分に自信がないので、会う人話す人すべてがうらやましくてたまらない。



「九子ちゃんは人の悪口を言わないね。」と良く言われたが、実際は我が身と比べて人の長所ばかりが目に付いて、短所など見つけている余裕がなかったというのが実情だった。



そして誰と話をしても「あの人は凄いなあ。それに引き換え自分はダメだなあ。」というバカの一つ覚えの結論にいつも到達するのだ。



今にして思えば、そういうのを「認知のゆがみ」というのだろうが、もしも当時そういうのを矯正してくれる「認知療法」みたいなプログラムがあったとしても、上手く行かなかった気がする。



とにかく意志薄弱人間なので、意志の力でこういう風に考えて自分の偏った考え方を矯正してみようなどと言うことはほとほと苦手であったのだ。



坐禅の良さは、まったく意志やら性格やら体力やら能力やらと無関係に、正しい姿勢、正しい呼吸が出来さえすれば、誰でも等しく不安や焦りが消え去って、前向きで幸福な毎日が送れることにある。



正しい坐禅をする事により、無限の力が生まれて偉大な生き方が出来るのだと無形大師はいつもおっしゃった。



もちろんしっかり修行を積めばの話である。(^^;



その一方で、自分の器とか自分の分とか在り方という事も時々言われた。



「自分の分をよくわきまえて・・」と言うのは、つまり、なめくじはなめくじなりの、とかげはとかげなりの在り方があるのでそれを守ってという事のように思う。



何だか「人間には無限の能力がある」という言葉と相反するような気もするが、たぶんそれも禅独特の言い方なのかもしれない。



とにかく悟った大師の頭の中では、みじんの矛盾も無いのだと思う。





自分の本来の在り方を一生懸命生きる事、自分の自分らしさを尊重して、他人の他人らしさも尊重出来る人間になる事。



自分の自分らしさを愛するというそのスタートでつまずいていた九子は、坐禅によって救われた。



ユング心理学と禅の行きつく所は極めて近いように思う。

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修行の話 [<坐禅、仏教、お寺の話>]

久しぶりにG和尚様が薬局へ処方箋を持って見えた。

「G和尚さま、いつもお若いですネエ・・・。」という話から今日の日記は始まる。



大本山活禅寺の「和尚」というのは、職業を表すものではない。

では何を表すか?



修行の到達段階を表すのである。



和尚の下に居士(こじ)大姉(だいし)という、言わば相撲の十両みたいな位があり、また同じ和尚でも和尚 権正和尚、正和尚、権大和尚、大和尚と位が上がっていく。



つまり、和尚の位を持つ人は、それだけの修行を積んでいる人ということであり、むろんいくらお金を積もうとも得られる地位ではない。



徹禅無形大師は以前、時の中曽根康弘総理大臣の 坐禅 の師匠として有名だった。

毎月一度総理とお話をされるために官邸に赴いて、お寺を留守になさった。



実はその頃、無形大師でないと出来ない秘法中の秘法を、中曽根氏の息子の弘文氏に授けたという話は有名である。



実はその秘法が、和尚位を授けられるために絶対に不可欠の修行だった訳なのだが・・・・・・。





G和尚様が言った。

活禅寺の和尚さんたち、みんな年より10や20若く見えるでしょう。あれはね、修行の賜物なんだ。みんな睡眠時間を削って修行してるんだもの。



和尚になるとね、自分のためのお祈りは一切無し。自分のことはみんな仏様にお預けと言う訳で、人から頼まれた事を、人のためだけにお祈りするんだよ。



たとえば般若心経(はんにゃしんぎょう)を一万巻、つまり一万回お唱えするとかね。そういうのを、睡眠時間を4、5時間にして仏にご供養する訳だ。



そうやって一万巻お唱えし続けてるとね、だんだんわかって来るんだよ。ああ、まだまだだなとか、やっとこれで仏様に伝わったとかね・・・。



睡眠欲っていうのは一番最後まであるよね。食欲も性欲も年寄りになるとそんなに無くなってくるけど、睡眠欲というのは最後まで無くならない。その一番無くならない睡眠欲を断って、仏様に身も心も差し上げる。だから一番尊いお行なんだよ。」



G和尚様は例え話がうまい。



「たとえば木だってそう。剪定して若い枝をバサバサ切り落としてやって始めて立派な木になる。それと同じで、修行して要らないものを削ぎ落として行くと、人間一番立派に育つんだ。」



なるほど。だから和尚様方がみんな若いんだ。( ^-^)



そしてこうも言われた。



「和尚もいろいろいるけどさ、和尚になったっていうだけで安心しちゃって何にもやらない人も半分くらいはいる。



やってる半分の中だって、自分は(修行を)やってる、やってると言う人に限って、たいした事ないんだよ。本当にやってる人は、そんな事言わない。



大きな川と同じだよ。深いところは静かに流れるでしょ。深いところに到達してる人は、『オレはやってる。』なんて自慢しないんだ。」



「断食だってそうなんだよ。一週間断食するには、前2週間後3週間くらいの準備期間が必要なの。その間に食事を徐々に減らしていく。そして直前にはお腹がすっかり空っぽになっていないとダメ。



胃に残ったものが針みたいになって、胃を傷つけて穴あけちゃう事もあるからね。水で流し込んですっかりきれいにする。



何しろ洞窟の中で入り口を岩でふさいで(断食)する事もあるからさあ。もちろん食べない、水も飲まない状態で、不眠不休でお行をする訳。



水飲みたくなるとね、日本刀を身体に突き立ててその欲望を断つわけ。

そうして死んでいった人も、過去には何人かいたらしいけどね。」



えっ!そんなに厳しい世界なの!



きょとんとしている九子に向かって、G和尚様はこう言った。



「九子さん、知らなかったでしょう。こんな話、なかなか聞けないもんね。」





ああ、そう言えば恥ずかしい記憶がよみがえる。



九子もかつて、毎日のように早起きして活禅寺に通っていた時代があった。

一週間に5、6日位は通っていたと思う。



そんな時、誰かが「100日参禅」というものをやっていると聞いた。

言うまでも無く100日間願をかけて休まずお寺に参禅するのである。

「そんなら、私でも出来そう!やってみよう!」



九子は誰にも言わずに始めた。

二十日目くらいにそれとなく事務所の受け付けにいらっしゃる和尚さんに「実は私も・・。」なんて話しをした。



なんと、「○○さんが100日参禅をしている!」という話は、逐一無形大師のところへ報告される事になっているらしかった。



そんな事とはつゆ知らぬ九子は、もちろん途中で頓挫した。

そんなおおげさな覚悟なんて、始めっから無かったもん。(^^;



まあ最初から、修行に対する意識のレベルが低かった訳よね。



そんな九子は問題外としても・・・。(^^;



うん。確かに活禅寺は他のお寺と違う。

一番違うのは、女性よりも男性の方がはるかに多い事だ。



長野市には真○苑などという新興宗教の大きな建物もあるが、日曜日のお昼頃ぞろぞろ集会を終えて出てくる人々はほとんど女性ばかりである。



その点活禅寺は、男のお寺だなあと思う。



もちろん仏様は何人(なにびと)も拒まれないから、女性だって九子みたいなのでも気楽に行ける。

入り口は広いわけだ。( ^-^)



だけど奥はとてつもなく深くて、奥の奥まで行きつく人はほんの一握りと言う訳だ。



尼和尚(女性の和尚)様で凄い人もたくさんいらっしゃる。



九子が言う凄いというのは、その人の持つエネルギーの強さだ。

お経の唱え方ひとつ取っても、ピーンと張り詰めた鋭い刃のような勢いを感じる和尚さんがたくさんいらっしゃる。



だけど尼和尚の数は比較的少ない。



そういう修行の厳しさを聞くと、体力的に劣る女性には少々不利なのかも・・・という感じはする。(これはあくまでも九子の主観ですけどね。)



「ねっ。修行は奥が深いでしょう。九子さんもさあ、そんな入り口あたりでうろうろしてないで、奥の方も覗いてごらん。扉はたくさんあるからさあ。」とG和尚。



九子の頭の中には、入り口でうろうろしているどころか、入り口付近に大きなベッドを置いて、人の行く手を阻んでまで、今日も高いびきで寝ている自分の姿が浮かんでいた。(^^;

因果律 [<坐禅、仏教、お寺の話>]

どうしても忘れられない顔がある。

見るたびに切なくて、柄にも無く自然に涙がこみあげて来て困る人がいる。



その人が久しぶりに、またテレビに顔を出した。

佐世保の小六殺人事件で殺された御手洗怜美(みたらいさとみ)ちゃんのお父さんの恭二さんである。



怜美さんの小学校で卒業式があり、怜美ちゃんの代わりに卒業証書を受け取るために出席されたのだという。



大柄な人だが、なんだかやつれて見えた。

彼は一体誰のために、式に出席したのだろう。



もちろん娘のため。

怜美ちゃんの墓前に、卒業証書を手向けるため・・・・・。



それなら校長が後でひっそりと御手洗さんのうちに出向いて、届けてあげれば良かったんじゃないの?



わざわざ娘が殺された学校へお父さんを呼びつけて、卒業証書を受け取る級友たちを見せつけて、ああ、娘はこうやって卒業証書を受け取ることはないんだなあという厳しい現実を、なぜ思い知らせる必要があったのか?



校長としたって、良かれと思ってした事には違いない。

でもこれだけの事件となってしまった以上、マスコミに再び晒される御手洗さんの気持を、もう少し思い遣ってもよかったのではないか?





御手洗恭二さんは、本当に律儀な人だ。



ご自分が毎日新聞社の支局長であるという責任感だけで、娘が殺されたその日に、憔悴してはおられたが、しゃんとされて記者会見を開かれた。



病気で奥様を数年前に亡くされたばかりだと、その後、知った。

おにいちゃん二人と怜美ちゃんの3人兄妹を、以来恭二さんが男手ひとつで育てて来た。



その日の朝も、恭二さんが洗濯機を回している脇をすり抜けて怜美ちゃんが学校へ行った。それが玲美ちゃんの最後の姿だったそうだ。



彼の手記は、なおさら胸を打つ。

無論そうだ。彼はプロのもの書きなのだから・・・。



誰かがコメントしていた。

彼の手記は上手すぎて、却って切ない。



自分の娘が同級生の女の子に殺害されたなんていうとんでもない事件の渦中で、こういう慣れた文章が自然に書けてしまう、そういうマスコミ人の習性が悲しい・・・・・・と。



マスコミ人の習性と言うならば、彼の立場として、学校側から卒業証書授与式出席の要請があれば断る訳にはいかない。



彼の胸のうちには、「自分はマスコミ人として、辛い立場の被害者にずっとマイクを向けてきた側の人間だ。 自分が被害者の立場になったからと言って、拒む訳にいかない。」という思いがいつもあったはずだからだ。



それにしても、最愛の妻を病気で亡くしてから間もないうちに、今度は一人娘をこんなむごい形で殺されるなんて・・・・。

こんな不幸に立て続けてあうほどの、彼は何をしたというのか?





仏教 の二大原理は、言うまでも無く「無常観」と「因果律」である。

「この世の中のものは、刻一刻と変化して、変わらないものは何も無い。」というのが無常観で、こちらの方は誰にでも受け入れやすい。



もう一つの「因果律」の方が、私のような似非(えせ)仏教徒にはどうも納得がいかないのだ。



因果律と言うのは、すべての出来事は、そうなるべき原因があって、起こるべくして起こったというのである。



その原因というのは、自分が過去において造った罪の事らしいのだが、過去と言っても、自分が生まれてから今までの事ではない。



自分が生まれ変わり死に変わりを続けた前世の罪や、前世のそのまた前世の罪が、現在に影を落とすという事もあるのだ。





真面目な常識人である御手洗恭二さんがこの世において、そこまでの罪を犯したとは考え難い。

彼がこれほどまでの仕打ちを受けなければならない理由は、とりあえず幸せに暮らしている私たちと隔たっていると考える理由は、だったら一体どこにあると言うのか?



たぶん仏教の考え方で言ったら、前世か、そのまた前世での原因にまでさかのぼる。



そんなのフェア(fair)じゃない!

自分の知らない罪の為に、この世で苦しむなんてまっぴら!





ところが仏教徒になるためには、いの一番にこの「因果律」を信じなければならないと言われる。



たしかにフェアじゃないかもしれないが、今この世で苦しみを受けることにより、来世ではまた幸せになれるのだと言う。



「来世の幸せより、今の幸せの方が肝心だ。」と、きっと誰もが思うだろう。

あるかどうかもわからないあの世の幸せなんてどうでもいいから、今幸せになりたい。それはきわめて当然の望みだと思う。



しかし同時に、この世であんな酷い目にあった御手洗さんみたいな人には、せめて来世では、いの一番に幸せになって欲しいと願う気持にもなる。





不条理な事件が起こるたびに、重い重い荷を背負って生きる人々に出会う度に、私の心の中に、いまだ信じきれないでいる「因果律」が、何度も何度も浮かんでは消えて行く。





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詰めのあまさ [<坐禅、仏教、お寺の話>]

歴史上の人物で、一番詰めがあまいと九子が考える人物は、アメリカのパパブッシュことジョージブッシュ元大統領であろう。



イラク戦争であそこまで追いこんでおきながら、肝腎のフセイン大統領を追い詰めずに引き上げてしまった。

その結果、息子たる現ブッシュ大統領が二度目の不毛な戦争を起こすに至った。



・・・・とまあわかったような顔して書いたが、歴史嫌いの九子はその他の人物をよく知らないんだから、知ってる事しか書きようがない。(^^;

ひょっとすると皆様方の脳裏には、もっと別の詰めのあまい人物像が浮かんでいらっしゃるに違いない。



先日とても面白いCMを見た。

静岡県の放送局が作ったオレオレ詐欺防止キャンペーン用広告だった。



出てくるのはなんとも勇ましい大阪のおばちゃん3人組。



「大阪はオレオレ詐欺がめっちゃ少ないんやでえ~。だまされてお金送ったらあかんでえ~。静岡県の皆さんも気いつけや~。」

と、カメラの前にどでかい顔をさらして大阪弁でまくしたてるのである。

その迫力に、思わず吹き出してしまった。

長野県バージョンも是非作って欲しいと思う。( ^-^)



奇しくも同じ日に、1日で3800万円というオレオレ詐欺の被害の中で今までで最高額の被害にあった人がいると報道されていた。



それを聞いたM氏は、「あるから払えるんだよなあ。」とポツリ。

「ほんとよねえ。」と相槌をうつ九子。

二人の背中を吹きぬける、師走の風が冷たい・・・。(^^;



それはともかく、オレオレ詐欺というのは、日本人の美徳である、まじめさ、信じ込み易さを巧みに突いている点であくどい。



その上世界に冠たる貯蓄王国。

百万単位のお金なら、すぐ右から左に払える人も多いと思う。



そうして考えてみるとオレオレ詐欺がはびこる原因は、良心的な日本人に特有の詰めのあまさではないだろうか?



かつて九子が学生だった頃、(今もそうだろうか?)学校で生徒は先生の言うことを鵜呑みにして、疑問を抱くということは無かった。



初めてそれを知らされたのは、仲良くしていたアメリカ人に「日本人は、疑ってかかるという習慣が欠如している。」と言われた時である。



その時以来、九子もなるべく疑問を持つように努力してみたつもりだが、根がお嬢さん育ちゆえ(^^;、信じやすいことこの上無い。



そういえば先日ナイーブという単語について面白い話を聞いた。



ナイーブという日本語は、繊細なとか、傷つきやすいとか、どちらかというと日本では良い意味に使われるが、英語本来の意味では、「人の言うことをすぐに信じる、未熟な」という事で、言われた人に対する侮辱の言葉である・・・というところまでは、英語大好き人間の九子は知っていた。えっへん!



ところがナイーブには、その上を行く意味があるらしい。

どこかのラジオ番組で言っていた。

「人を傷つける攻撃的な人」みたいな意味もあり、言われた人は烈火のごとく怒るそうだ。



九子の持ってる古い辞書にそういった意味は無かったが、アメリカの俗語なのかもしれない。



そう。欧米では、だまされる人間が悪いのである。

いづれにせよ、日本人は、日本的ナイーブさから抜け出して、少々は攻撃的なナイーブさを身につけたほうが良いのかもしれない。





かつてナイーブが着物を着て歩いてるような九子ではあったが(^^;、しかしここへ来て、事情が変わった。

「営業のお電話ですが、店長さんいらっしゃいますか?」などという度重なる不審な電話には、さすがの仏の九子(?)も剣もほろろの対応をする。



とりあえず疑問をもってみるという態度は、学習によっていつしか身につく物らしく、最近の九子は、

「○○の代理店ですが、電話料金が格安になります。今すぐお申し込み下さい。」などと電話があった時、「いや、まてよ。本当に代理店なのかどうか怪しいぞ!」と、○○のホームページでカスタマーセンターに電話して確かめたりする知恵まで身につけた。





そんな訳で、もしかしたら笠原十兵衛薬局に電話したら、おっかな~いオネエサン(!)が出て感じ悪かったわア!という経験のおありの方、この場を借りて謝ります。(^^;



いづれにしても大阪のおばちゃんたちは、日々の会話から、突っ込み方を心得ている。つまり少なからずの攻撃性を身につけている。

そんな事が、大阪での詐欺被害の少なさに関係があるのではないか?とは、誰もが思いつくところであろう。





12月8日はご存知!臘八接心の最終日、満願の日に当たった。



今年も例によって二日ほどの中抜けはあったものの(^^;、九子も朝3時過ぎに起きて頑張ってお寺に通った。



今日は何があっても、お寺に行かなくちゃ。だってことわざにもあるじゃない。

終わりよければすべて良し。All is well that ends well.(暮石さんとこにもあったわね。)

英語になってる位だから、世界にも通用することわざなんだろう。



これをビートたけし風に言いなおすと、終わり悪けりゃ、すべてダメ!ってことになるんだなあ、これが。(^^;



そう!お察しの通り、九子は最終日、お寺に行けなかったのだ。



3時に目覚ましは鳴った。

一応起きた。何しろ九子でも起きるすごい音の目覚ましだ。(^^;



少し風邪っぽかった。

熱をはかったら、6度1分だった。



「昨日飲んだ期限切れの○ンタック600が効いてるんだね。薬で機械的に下げた体温がこれなんだから、無理しないどこお!」

そして、もう一眠り・・・・。

要するに熱が何度であっても、最初からお寺に行く気などなかったのである。(^^;



これが、すべてに通じる九子の詰めのあまさである。



例えば本来、大本山活禅寺(←ここ)の修行とは厳しいものなのである。



100日参禅という願かけをしてお寺に通う人がいる。



こう言うときは、何があろうと、風邪で高熱が出ようと、家族で不幸があろうと、基本的には毎朝、あるいは毎晩100日間はお寺に通わなければならない。



九子もかつて、それをしようとしたことがある。

まあ、言い訳させてもらえば、若かった九子は、100日参禅を始めますとお寺に届け、無形大師に届ける事の重大さをまったく理解していなかった。



何日目かで行かなくなり、自分がそんな事を言いだしたことすら忘れてしまった。(^^;

九子の詰めのあまさの原点がここにある。



しかし考えてみるとその時点でもう、賢い仏様は、九子の今日(こんにち)のこの姿を見透かされていらしたわけだ。



ってことは・・・・。

いまさら猫かぶって真剣に修行したって仕方ないよね。(^^;
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袖すりあうも・・・ [<坐禅、仏教、お寺の話>]

前回の日記をすごいぞイチロー!スレッドから投稿した時、偶然隣あわせたのが「悲しみにせよ、喜びにせよ」という暮石さんの日記だった。



渋い大人の文章に惹かれて、すぐにマイアンテナに入れさせて頂いた。

(九子が紹介するまでもなく、すでにかなりの有名サイトである。)



「袖すりあうも・・・」という件名で、マイアンテナに登録させて頂いたご報告を書いたBBSの答えに、暮石さんは「他生の縁」と応じて下さった。



九子は心の底で「さすが!」とうなった。



あれは確か、子供たちが皆通った信大附属長野小学校の廊下。

子供たちはもう皆卒業してしまったが、九子は学校薬剤師というのを仰せつかっていて、年に数回足を運ぶ。



去年だったかその廊下に書いてあった「袖すりあうも、他生の縁」という文字をまじまじと眺めながら、「えっ!マジ~!!」と本気で驚嘆している九子がいた。



他生の縁って、こう書くんだ!

・・・・・・・てっきり「多少」かと思ってた。(^^;



九子の論法によるとこうなる。



ちょっと袖がすりあった、今風に言うと、ちょっと肩が触れただけの人でも、その人とは何か多少なりとも縁があったって事。

・・・ってことは、あくまでこの世の中での浅い縁の事だよね。



それに対して「他生の縁」とは、生まれ変わりを何回も繰り返してきた数えきれない年月の間に、今こうして巡り合えた縁を生じさせる何かがあったという、それはそれは深い過去世からの縁(えにし)の事だ。



ひとつの言葉が漢字一つでこんなに違った意味になるなんて・・。

(って驚く前に、勝手に間違えてた反省ってものはないの?(^^;)



九子は一応仏教徒だ。

つまりZen buddhistである。

英語で書いたのはかっこうつけたいからではなく、Zen buddhistに相当する日本語が見つからないからだ。 禅仏教徒とは言わないよねえ。



だから、生まれかわりは信じる。

というか、信じなければ仏教徒には成れない。



九子がお世話になってる活禅寺(←ここ)のお経の本の最初に、開経偈(かいきょうげ)というお経本を開く時に唱える短いお経がある。



そこには、正しい仏教に会う事は、「百千万劫難遭遇(ひゃくせんまんごうなんそうぐう)」、つまり百千万劫(ごう)年生きたとしても正しい仏教にはなかなか巡り合えないという事が書かれている。



一劫年(いちごうねん)という長さの単位をご存知だろうか?

最初に和尚様からこれを聞いた時、九子はのけぞった。



一劫年とは、何キロ四方だかのとてつもない大きい石の上に、百年に一度天女が舞い降りて舞いを舞い、その羽衣がすれて石が削れて無くなってしまうだけの時間という事だそうだ。



言うまでもないがお相撲さんみたいな天女が、鎧かぶとを身に付けて踊る訳ではない。

あくまでもやんごとない天女が、絹の羽衣をまとっているのである。



それだけ考えても、とてつもない時間だ。

それが百千万劫年!



自分なんてもんがちっぽけに思える、

仏教のこういうスケールの大きさって好きだ。



ところで開経偈の全文はこうだ。

「無上甚深微妙の法は、百千万劫にも遭い遇う事難し。我れ今見聞し、受持する事を得たり。願わくば、如来の真実義を解し奉らんことを。」



ふ~ん。百千万劫難遭遇の正しい仏教に巡り合った幸運にあぐらをかいて、全然日々研鑚してない人、どっかにいませんかあ?(^^;





なんだか自分が天女に思えてきた。

もちろん九子に一目会った人は、みんな九子に酔いしれて「天女のような人」って思うであろう事は想像に難くないが・・・(^^;、そうじゃあなくて・・・。



仏教という途方も無い大石の上へ、たった百年に一度だけ舞いを舞いにやって来る九子。



あ~たがそうやって遊びほうけているうちに、他の人は三年も五年もみっちり坐っているのですよ。(これを称して、石の上にも三年。(^^;)



ほうら御覧なさい。あ~たと同じ時期に入門した人は、みんな黒いお衣着けて法名までもらっている。



それなのにまだ入り口辺りでウロウロしていて、まったくもう、自分が情けなくないんですかあ?



えっ?何ですって?



「まあいいかあ。
一劫年も経てば、石だって少しはちっちゃくなる。(^^;」

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