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ご報告! 古い店に柴田理恵さんが見えました! [<薬のこと、ダメ薬剤師のこと、家のこと>]

このたび北陸新幹線の金沢延伸を記した石川、富山、長野合同の番組作りのため、柴田理恵さんが笠原十兵衛薬局の古い店に足を伸ばして下さいました。地元長野市出身の「WAHAHA本舗座長」大久保ノブオさんもご一緒です。
ご紹介くださったのはSBC信越放送局。長野で一番古い民放です。

いつぞや林家三平さんがいらっしゃった時も、信越放送のテレビ取材でした。

「長野と言ったら、やはり雲切目薬は外せないでしょう。」と言って下さる信越放送さんには心の底から感謝です。


雲切目薬を有名にして下さったのは、何と言ってもマスコミの方々です。要するに取材と言う形で、こちらからお金は一切支払わず、広いエリアに伝えて頂きました。

その反対に九子がなけ無しのお金を注ぎ込んで出した広告類は、ほとんどが限りなく効果無しでした。
その筆頭がご開帳の公式ガイドブック。

なんと!あの有名な栗菓子の老舗の向こうを張って、清水の舞台から飛び降りるつもりでうん十万、それも数十万ではなくうん十万という大金を出しましたがさっぱりでした。(^^;;


この間ある薬問屋さんが来て「私はとっても運がいいの!」という話をしたら、「いや、それは、雲切目薬が持っている幸運なんじゃないでしょうか?」と言われました。目から鱗(うろこ)でした。

そんな訳で今回も雲切目薬が幸運を呼び寄せてくれ、たった10分間ほどの来訪、たぶん2,3分間の放映でしょうが、柴田理恵さんとともに九子がテレビに出ます。
(信越放送9月8日(月)夜7時~7時45分  BS-TBS 9月20日(土)昼12時~12時45分 MRO北陸放送 9月23日(火)14:50~  TUTチューリップテレビ 9月28日(日)16時~)

柴田理恵さんは、テレビのまんまの明るい印象の方でした。

ただひとつ、九子が驚いたのは、常にスタイリストさんが付いて、本番前にはわずかな髪の乱れもスタイリストさんが直していらしたこと!
ああ、この人はやっぱり女優さんなんだ!と思いました。

柴田理恵さんはよほど元祖雲切目薬の材料の鉱物臭のする白い粉と、目がつぶれるほどしみたという元祖雲切目薬の話に驚かれたのか、現在の雲切目薬αを手にされても「これ、本当に点けても大丈夫?」と言われる始末!(^^;;
この言葉、テレビ的にはどういう風にお料理されるのか、楽しみです。( ^-^)

それからどこやらの駐車場を借りてお弁当を食べ、すぐに軽井沢に向かわれるという強行スケジュールの中、長野市を代表するおみやげとして雲切目薬が組み入れられたのは本当に嬉しいことでした。

そう言えば、林家三平さんがお出でになった時のこともなかなか書けない事情がありました。

実は収録があったのは、あの東日本大震災が起こってからちょうど1週間目の3月18日でした。テレビと言えば例のAC公共広告機構の耳たこコマーシャルのみが流れる中、国中揃って自粛ムードの中、浮いた話は書けませんでした。
まだまだ各地で余震が続いていた頃のことです。

実は収録が終わる頃、一人の女性が顔を出されました。

「えっ!なんて美人なの!!!」

その女性は大きなマスクをつけていて、大きな目以外顔は隠れていたのですが、九子にはその人の美しさがすぐにわかりました。
九子だけじゃなく、きっと誰にでもわかったでしょう。

その人は古い店に入って行かれ、九子はご案内したかったのですがテレビ局の方とお話していて、結局彼女はすぐにまたどこかへ行ってしまわれました。

後からテレビ局の人に聞きました。それが後に三平さんの奥さんになる国分佐智子さんだったと・・。

実は当時巷では、三平さんと国分さんはもう別れてしまったというのがもっぱらの噂でした。

でも実際のところは、余震の続く東京に彼女を一人置いておけないと、三平さんがマネージャー代わりに彼女をロケに連れてきたのです。彼女は取材が終わるまで、車の中でじっと待っていらしたそうです。


その時に三平さんに差し上げた雲切目薬と百草丸がご縁で、林家のおかみさんこと海老名香葉子さんとも知り合わせて頂きました。

たまに頂くお手紙やらお電話やらから、おかみさんの凄さ、おかみさんに躾けられた三平さん他、林家一門の方々の人と人との縁を大切にされる姿勢を垣間見ることが出来ました。
そしてもの凄く忙しい生活の中で、まめに手足を動かしては主婦としてのお仕事も大事にしていらっしゃるお姿に心の底から感激しましたが、九子はそれを真似しようなどとは決して思いません。

と言うか、そもそも真似なんて出来るわけないし、無理しても続かないことわかっているからです。(^^;;


とりあえず先祖が残してくれた雲切目薬のおかげで、何のとりえも無い九子がこうしてマスコミに出させて頂き、この人は凄い!と思う人々の姿を少しだけ覗き見ることが出来ました。

世の中には本当に凄い!と思う方々がたくさんいらっしゃること。その方々は、もちろん持って生まれた才能もさることながら、絶えず地道な努力を重ねていらっしゃること。
それはもう確実にわかりました。


昔九子が大好きだった「巨人の星」というマンガで、主人公の星飛雄馬のライバルだった花形満が言っていました。
「白鳥はあの華麗な姿の下で、見えない足で必死に水を掻いている。」

必死に水を掻くことなしに、いつも努力することなしに、綺麗な姿を保つことは出来ないのです。

必死に水を掻き続ける努力が出来ない人間は、だんだん沈んでいくのです。九子のように・・・。(^^;;

でももしかしたら、外からは見えない濁り水の中に、おいしい魚が住んでいるかもしれない。
外の景色にとらわれるより、藻や水草がゆらいでいる水中の景色だって、捨てたもんじゃないかもしれない。
老いぼれていく自分の姿だってぼんやりしか見えないから、いっそ幸せかもしれない。
水底の泥はあったかくて、お昼寝にはもってこいの心地よさなのかもしれない。

頑張って水を掻き続けられない人生にも、きっと怠け者なりの満ち足りた人生があるのだと、今なら花形満君に言ってやれそうな気がします。
だってもう九子は花形君の母親くらいの年になりましたもん。( ^-^)


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お知らせ  雲切目薬が7/16日(水)発売の「アンアン」に載ります! [<薬のこと、ダメ薬剤師のこと、家のこと>]


「からだにいいもの」という特集です。たぶん最後の方だと思います。1ページ分、ドンと載せて頂けるようです。

またしても九子の強運です。
編集者さんのお友達がたまたま雲切目薬を使っていらして、「これいいよ!」と言って下さったそうで、記事にする旨ファックスとメールを頂きました。


女性週刊誌「アンアン」は九子が学生の頃に創刊された雑誌です。
こんな何十年も経った今でも、まだ現役の女学生に受け入れられ、コンビニには必ず並べられているという事実に、とてもびっくりしました。

特に三男Yにとっては「アンアン」と言う雑誌は女の子が読む雑誌として強く認識されているらしく、大変な妄想を膨らましては「俺さあ、渋谷なんか歩いてて、隣の女の子が雲切目薬点してたりしたら、恥ずかしくてどんな顔したらいいかわかんねえよ。」などと、取らぬ狸の皮の心配をしております。(^^;;

言うまでも無く、まずそれはあり得ません。
「アンアン」を買い求める女の子たちは、ファッション記事を読むついでに、雲切目薬の記事を読むだけでしょうから・・・・。

売れる、売れないの問題ではなく、まずは天下の「アンアン」に取り上げて貰ったという事実が有難いのです。


校正を見せて頂きましたが、若い女性ならではの感性で「なるほど!こういう使い方があったか!」と驚きました。

もしよかったら、書店で手にとって頂けましたら幸いです。

 

7月だというのに、と言うか、7月に始めて、体調崩しました。7月のはじめですから、鬼門の6月の終わり・・という言い方のほうがいいのかもしれません。
ウツなどと言ったら恥ずかしいくらいのごくごく軽い不調です。

今回のウツの始まりは、いかにも怠け者の九子らしいものでした。

きたさんが、裏の梅を取ってくれました。
M氏がその半分くらいを職場に持ていってくれましたが、家に残された梅は日一日と黄色味を帯びてきます。
九子が一日延ばしにしているうちに、砂糖漬けにするには黄色になりすぎた梅が増えてきます。

さすがの九子も意を決して、とりあえず、完熟の全体が黄色っぽくなってしまった梅と、半熟のものとを分けようと決めました。

しゃがみこんで数十分、分別していただけです。 梅そのものには何の手も加えておりません。

その直後です。「あの嫌な感じ」がしました。
どうしようもない疲労感で、例によって夕方のお昼寝です。(^^;;

こういう時にM氏のような何も言わない旦那さまは天国です。
「あっ、お弁当買ってきて!」で終わりです。(^^;;

九子によってなんら手を加えられていなかったことが幸いして、梅の引き取り手も見つかりました。

以来九子は、「7月にはじめてきた今までで一番軽い不調」と信じ込み、だらだら過ごしております。

人に会うのも平気です。人と話していて辛いこともありません。もちろん薬局の仕事も、電話に出るのも普通です。
なんと!ネットショッピングまでやっています。

ただ、身体のだるさとか、何かをするのが億劫な感じが、うつ病と何十年も付き合ってきた九子に普通でない感じを訴えます。

すみませんが、日記を書くのも少々お休みで、皆様のブログを読みにも伺えません。
もうしばらくのことと、お許し下さい。

例によってメールは問題なく出来ます。
プロフィールにメルアドを大きく書いていた事を思い出しました。
なにかございましたら御連絡下さい。

雲切目薬が「アンアン」に掲載されるなどという嬉しいことがあっても、よくならないのがうつ病の不思議さです。
普通の落ち込みなら、いいことがあれば気持ちが弾んでよくなりそうな気がしますが、うつ病の時は宝くじが当たっても嬉しくありません。
そもそも欲しいものなど何も思いつかず、お金など、あっても困るだけのものになるからです。
(だから、ネットショッピングが出来るなどというのは、うつ病の風上にも置けない状態なのです。)

つくづく九子は黙っているということが出来ない人間です。男に生まれていたら、ちゃちい、つまんない男になっていたことでしょう。
責められても、責められても、何の言い訳もせずに、自分が為すべき事だけを黙ってやり通し、その背中だけで自分の真実を物語るような人間は素敵だなあと思いながら、今日もまたウツの言い訳をしている九子です。

では、また。


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小心と残心・・・沖縄の旅 [<薬のこと、ダメ薬剤師のこと、家のこと>]


☆沖縄の旅とありますが、実のところ沖縄についての情報はほとんど書かれていないのでご注意下さい。(^^;;

 

こういうのを鬼の霍乱というのか、年寄りの冷や水というのか(これだけは違う!と思いたい。)、青天の霹靂と言うのか、30年間飛行機に乗ったことの無い九子が、今年は2度も乗ることになった。
その最初が今回の沖縄旅行である。

30年前と言っても、手順も、飛行機そのものも、客室乗務員さんの制服さえもほとんど変わらない。

ボーッとしてる九子でもその変化に気が付いたことと言えば、タラップやそこまで行くための乗り物がなくなったこと、スチュアーデスがキャビンアテンダントになったこと、そして彼女たちが実際に着用して右や左に首を曲げ息を吹き込む真似をしていたのが印象的だった救命胴衣の説明が、ビデオ中心になったこと・・、くらいか。

今回の沖縄旅行を計画したのはM氏であった。それも生協のチラシから・・。

九子が生協の注文書を書き込んでいてもほとんど見ない(九子が勝手に注文してるだけで、見せたことも無い(^^;;)M氏であったが、いつの間に読んだのか、添乗員付き、3泊4日、いいホテル、いい食事付で格安なのを目ざとく見つけて申し込んだらしい。
考えてみたらこの時期、沖縄は梅雨だった。よりによってこんな時期にしなくとも・・・。その上M氏は雨男!

ところが、雨にはほとんど合わず仕舞いだった。
全国各地で30度を大きく越える炎天下の中、沖縄の最高気温はずっと27度ほど。快適だった!
やっぱ、強運九子が同行したせいか?( ^-^)

残念だったのは空の青さを反映する海の色が、くすんだままだったこと。
まあ、仕方ない。時期が時期だもの。

M氏の目当ては、沖縄に住んでいらっしゃるかつての恩師の高江洲義矩先生にお会いすること。ちょうど4時間ほどある自由時間を使って、80歳近くになられる先生と奥様に長年の無沙汰を詫びたいということだった。

5年前に重い脳梗塞をされたという先生だが、車椅子ではなく、しっかりとした足取りで歩いて出迎えて下さったのには感激!

「私はね、この人にたくさんのプレゼントをもらいました。ボストンに3年間も住まわせてもらったし、学会でいろいろなところへ連れて行ってももらった。だから、今度は私が恩返しする番だと思ったのよ。」と奥様。

口の利けない先生のそばに片時も離れずに寄り添ってお世話されたという奥様のご努力を思い、自分がそういう立場になった時に果たしてどれだけ出来るものだろうかと、じっとM氏の横顔を覗き込む九子・・・。

優秀な先生と違い、M氏は天下のハーバード大に通うためにボストンに住んだ訳でもなければ、学会で外国に連れてってくれた訳でもないんだけれど・・。(^^;;


高江洲先生の凄いところは、時間を大変に大事にされたところ。生徒たちの疑問には間髪を入れずに答えられ、あいまいなところはすぐに調べられる。行動力の人だった。

先生の著書はほとんどが東京歯科大学教授または同大名誉教授という肩書きで書かれているが、M氏は遠い北国の歯学部を卒業している。さて、その接点は・・。

実は先生は遠い北国の歯学部で長い間教鞭を取られ、ご家庭の事情で退官されて故郷の沖縄でいったん歯科医院を開業された。
こういうのを下野と言うのだそうだが、直後に先生の母校である東京歯科大から再び教授として招聘されたということだ。

こういうこと事体が大変珍しく、その上母校で更に名誉教授にまでなられた訳だから、これ一つ取っても先生の力量やご人徳がよく分かる。

先生の座右の銘は「迅速は親切なり」であったそうだ。
なるほど!言われてみるとその通り。だけどそれがとても難しいことは、誰もが皆知っている。

そんな偉大な先生が、なぜかM氏に目をかけて下さり、留学を薦めて何十校もの大学の資料に目を通して下さったらしいのだが、M氏のネックは英語力だった。

今でも外国の人を目の前にすると、M氏の日本語はなぜか外国人のそれになる。「ミガキカタ、ツヨスギマ~ス。モットヤサ~シク~。」
彼としても一生懸命伝えようとすればするほど焦って、結果がこれなんだからなんだかとっても可愛らしい。( ^-^)

彼の名誉のために言っておくけれど、会話力が無いだけで、彼だって文字で読めば英語くらいちゃんとわかるのだ。

でも外国なんかに行ってくれなかったおかげで、九子はM氏に出会えた訳だし、M氏が家に来てくれたから、いつでも出来すぎ母の助けを借りられて、5人の子供をなんとか育てることが出来たというわけだ。

その上M氏は、怠け者のダメ嫁が朝からお昼寝していても、時間ばかりかかってろくな料理が出来上がらなくても(^^;;、埃と物で溢れた家に住もうと怒った顔もせず、いつもニコニコ笑顔を絶やさぬ出来た人なのだ!
だから彼の英会話力に、九子はとっても感謝している。( ^-^)


ホテルの窓から見えたのは、残念ながら毎日毎日灰色の海と空だった。
まあそれでも、今日の海の色の方が昨日のそれよりも少し明るい。

その時あれっ?と気がついた。窓ガラスに貼られた「小心手夾」の文字。
中国語に違いない。

沖縄は思った以上に中国、韓国、アジアの人々が多い。
おんなじ顔でも違う言葉を話す人々を何人も見ていると、おんなじ顔の日本語を聞くとほっとする。

上の「小心手夾」を日本語にすると「指を挟まないようにご注意下さい。」となる。
窓を閉める時に指を挟まないようにという注意書きだが、それがなんとなく面白かった。

「『気をつけて』っていうのを中国では『小心』って言うんだ!小心って日本語の意味は『小心者』みたいにあんまり良くないのにね。」・・・と九子。
M氏は指と手の方に注目した。 「指という単語は、もしかしたら中国では別の意味になるのかもしれないよ。そうじゃなきゃ、そのまま指と書くよ。」・・とM氏。

それで終わりになった会話を、例によって九子は考え続けていた。

小心って言うのは、何に付けてもおおざっぱな中国人が、意識して心を小さい事にも向けるように、つまりは注意してっていう意味になったのかも。

日本人の心は最初から繊細だから、それ以上に気遣いしちゃうと、おどおどびくびくの「小心」になっちゃう。

心の捉え方ひとつ取っても、国民性って出るのかも・・・。

指の方はもしかしたら、クレイマー対策かしら? 
指に気をつけて・・・じゃあ、手をはさんで指以外の部分を傷つけた場合はどうなのよって言われた時に、とりあえず手全体には責任取りますよ・・みたいな。


そう言えば、九子が沖縄で出会った見かけは日本人そっくりの人々は、みんなとてもお行儀が良かった。
なぜか九子は彼らに二度、英語ですみませんと言われた。

一度目などは、子供のおもちゃを拾ってあげた時だから”Thank you !”が相当なのに、”Sorry !”と言われた。
この人、日本人みたいだなと思った。

まさか日本人が九子を見て外国人と思った??という想像はあまりにもばかげているから、その外国人と思しき人は、「私に非がありますよ。」とも受け取られ兼ねない”Sorry"を日本人と同じように無防備に使ったことになる。

二回目も、いかにも気を遣った感じのSorry !で、中国人も韓国人も、普通の人はいい人じゃないの?と思わせた。
それでも執念深い九子は、「あっ、やっぱりあれは台湾の人か!」と結論付けてしまったのだったが・・。(^^;;


残心の方は、帰りの飛行機の機内で出会った。

頭の上の方に写ってる小さなテレビ画面。その音が、手元のヘッドホンで聞けることに気がついたのは、帰りの飛行機の中。

外国人と思われる男性が剣道を小さい子供たちに教えていた。日本人の子供たちだったから、彼は日本に住んで居るようだ。

彼はニュージーランド人。時はバブル時代。ニュージーランドにはたくさんの日本人が働いており、日本語を勉強すればお金になりそうだと軽い気持ちで始めた日本語。

日本の高校に留学し、アニメ好きが昂じて入部した剣道部は、遊びが全くない厳しさで、直ぐに入部したことを後悔する。

だがある時、普段なら数分で倒されてしまう先生との試合中、何とも言えない清々しい気持ちになり、全く疲れも感じないまま気が付けば1時間近くが経過していたと言う。

剣道を何も知らない九子が言うことではないかもしれないが、これぞ坐禅で言うところの三昧(ざんまい)の境地だと思う。

これを契機に、彼は剣道にのめり込んで行く。何とか剣道の奥義を極めたいと思っていた彼が、ある時「残心」と言う言葉に出会う。

「残心」とは文字通り、心を残すこと。

剣道ではとくに技を終えた後、力を緩めたりくつろいでいながらも注意を払っている状態のことだそうだ。意識した状態を持続しながら、相手の攻撃や反撃を瞬時に返すことができるよう身構えていること。
一本を取った後にガッツポーズなどするのは、奢り高ぶっていて残心が無いと言うことになるらしい。

この残心、日本人は日常生活の中で普通にやっていると言う。

たとえば、相手の姿が見えなくなるまでずっと見送る。
たとえば、相手が電話を切るのを確かめて、しばらくしてから受話器を置く。

これらは武道のように敵に対しているわけではないが、相手の動作に最後まで心を寄り添わせる日本人の気遣いそのものだ。


「残心」と聞くと、九子くらいの年代の人ならこの歌を思い出す方も多いのではないか?

I left my heart in San francisco

この歌は、残心なのではないか?
ならば残心は日本の専売特許ではないんじゃないの?と、初めは思った。

でもやっぱり違うのだ。

パリも行ったし、ローマも行った。
マンハッタンなんか、もう二度とごめんだ。

やっぱり僕が心惹かれるのはサンフランシスコ。
何といっても愛する君の住む、太陽輝くサンフランシスコが一番さ!

と言う歌なのであって、心はサンフランシスコにずっと留まって動くことが無い。


日本人の、特に武道の「残心」は、一時留まった心が、またすぐに動き始める。
いつも精神を研ぎ澄ましている武士の心の在り様がよく表された言葉なのだと思う。


武士のごとき「残心」はそうそう簡単に身につかないけれど、「心残り」なら九子にもあるよ。

I left my heart in Okinawa!

次来る時は、ちゃんと晴れてね。( ^-^)


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血液型ウイルス学 [<薬のこと、ダメ薬剤師のこと、家のこと>]

M子が今最後の実習で、国立医薬品食品衛生研究所というところに行っている。

遊び人の彼女がなんでそんなややっこしいところを選んだか・・。

あれはもうかれこれ8年前。
我が家にこんな事件が起こった。

M氏が土曜日ともなればほぼ一日も休まぬ皆勤賞で、車で20分ほどの彼の実家へ5人の子供たちをみんな引き連れて行っていたという話はおなじみだと思う。
ある時、そう、ちょうど今と同じような時期だったと思うのだが・・・。

帰ってくるなり、蒼白な顔でトイレに駆け込む者、我慢できずにその場に吐いてしまうもの、我が家はさながら戦場のような悲惨な状況に陥った。
実家でもらってきたロタウイルスが原因らしかった。

今騒がれているほとんどはノロウイルスで、ロタウイルスの名前はあまり聞かないが、M子によると、ノロウイルスは割りとゆっくり、24時間ほど経ってから発症し、ロタウイルスはすぐに発症するのが特徴だと言う。

実家から帰ってすぐに発症したところを見ると、やはりあれはノロウイルスではなくて、ロタウイルスだったのだろう。

同じように実家へ行ったのに、長女N子はまったく症状が出ずにピンピンしていた。次男Sは実家へ行っていなかったが、あの騒ぎの中で二次感染もせずに涼しい顔だった。
ダウンしたのは長男R,三男Y,次女M子、そしてM氏である。

九子はと言えば、ほとんどベットに寝たきり状態の年寄り二人をロタだかノロだかから守ることに精一杯だった。衰弱した彼らがウイルスにやられたらひとたまりも無い!

ただし今思うと、備えは非常に甘かったと言わざるを得ない。

アルコール消毒は効かない、次亜塩素酸を薄めて・・という知識だけは持っていたのだが、せいぜいが両親の寝ている部屋に入るときに手に次亜塩素酸を薄めた液をつけてるだけ・・みたいな。

その上、今のテレビでは吐しゃ物の処理の仕方までなるべく手を使わずに・・などと丁寧に教えてくれるが、当時はそんなことまでわからないから、手袋も使わずに素手で処理したり・・。

そんなざるみたいなやり方でも、両親は無事だった。特に父が乗り切ったのは奇跡のようだった。

だがその父も、以後そこそこ元気だったのに、その3ヵ月後にあっけなく亡くなる事になる。
こういうのが寿命というものなのだなあと、その時しみじみ思ったものだ。


ところで実家に行ったのに元気だったN子。実家には行かなかったが、いつ感染してもおかしくない状態だったのに感染しなかったSと九子。ここに何か共通点はないか?
逆に言えば、ウイルスにやられちゃったR、Y、M子、M氏の共通項は何か? 
実はあったのだ!

これこそ我が家におけるノロウイルス(本当はロタウイルスだが・・)都市伝説というやつなのであるが・・。


かからなかったSとN子は血液型B型で、九子はAB型。かかったR、Y、M子はすべてA型。M氏はO型・・・なのである。

「血液型人間学」

さっき、父がかからなかったのが奇跡と言ったが、父はA型、母はB型だった。

自分がかかって苦しんだウイルスを研究する機関に行ってリベンジしようとでも思ったか、M子はこの時期上記の研究所の、しかもノロウイルスの研究室に配属された訳なのだ。


都市伝説というのはご承知のように学問的裏づけとか根拠なんかが無いか乏しいものであるが、実はネットで血液型とノロウイルスのかかりやすさを調べている割合信用のおけるサイトがあって、そこでもノロウイルスにかかりやすいのはA型とO型で、かかりにくいのはB型とされているようだ。

まあ我が家のは症状は似ているがノロウイルスとは全く別物と言われるロタウイルスの結果だし、あんまり当てにしてもらっても困るわけなのだが、研究者の中ではそういう研究がされていることは事実で、結論を出すには早いがまあ様子見と言うことで認識されているらしい。

何でも血液型を分けているのが赤血球表面にある表面抗原というもので、それをとっかかりとしてノロウイルスが体の中に侵入するらしいのだが、A型とO型の表面抗原はノロウイルスが侵入しやすい形になっていて、B型のは侵入しにくい形なのだそうだ。

こういう研究の時になぜか端に寄せられるのはAB型だ。両方持ってるAB型はどうなのよ?と言いたいが、研究結果には載ってこない。とりあえず九子はかからなかったと言うだけだ。

それにしてもそういうのをちゃんと研究してる研究者さんがいるというのは驚きだ!

その表面抗原の話が本当であれば、血液型の違いというのはもしかしたらわれわれが考えてるよりもずっと大きな違いなのかもしれない。

よく血液型を気にするのは日本人だけ・・などと言われて、まあそれも無理も無い!アメリカだったら、目の色、肌の色、紙の色、国籍など、ありとあらゆる違いがあるのだから、血液まで踏み込んで分けなくとも・・と安易に納得していたが、A型とB型では赤血球という大事な細胞の顔(表面マーカーとも言われてるらしい)が全く違うわけだから、A型好きな細菌やB型好きなウイルスがあるのだろうし、何と引かれ合う、何と反発すると言うことだけとってみても、さまざまな違いが出てくるわけだ。

特にA型 B型の根本を決める「顔」に差があるというのは決定的なことだと思うし、異なる血液を輸血されると血液が凝固してしまうという現象ひとつとってみても、これはかなり深刻な違いなのではあるまいか?。

ところで我が家にはもう一つ、血液型に関する都市伝説?がある。

我が家のB因子を持ってる3人、つまり次男Sと長女N子、それに九子の3人は、どう考えても話下手だ。
話下手というか、理論整然と話が出来ない。

3人に共通するのは、誰かに「○○は・・だよね」と言われると「そうそう。」と共感するのだが、自分から物の名前を並べて話をしようと思うと「なんだっけ?」ということになってしまうことが多い。

要するにテストで○×式は強いのだが、記述式は弱いタイプ。もっと言えばボケは出来てもツッコミが苦手タイプ。

そこ行くとA型はみんな理論に強い。

Rも九子があまりにも薬の名前を知らないのを馬鹿にするほど薬理に詳しいし、「ああ、それはこれでしょ!」と名前がすぐに出てくる。
Yも固有名詞にはめっぽう強く、空気読めない(KY)だから(^^;;、聞いてるほうが嫌になるほど蘊蓄を傾ける。
M子に至っては、4歳違いのYと小さい頃から口げんかばかりしていたのが幸い(いや、災いか?(^^;;)してか、今ではああ言えばこう言うの口達者で、こちらも最先端の薬の名前や知識が打てば響くように出てくる。

O型のM氏はその中間型かな?彼は努力家だから、もしかしたらどちらと判別できないのかもしれないが・・。

こういうのを見ていると、やはりA型因子には正確な記銘力を司る何らかの情報があり、B型にはそれが無いのか?と勘ぐりたくなる。(九子さんはA型も持ってるはずですが・・。(^^;;)

もちろんこれは我が家に特異的なケースで、たぶんA型、B型の中の一例に過ぎないと思う。
我が家の場合、B型因子はすべて出来すぎ母の因子であり、A型因子はすべて父の因子なのである。(M氏O型のため)

ちなみに父は市会議員をしていただけあって、名前の覚えも語いの多さにも自信を持っていた。
母は言葉に力はあったが、(その力で父を負かしていた。(^^;;)どちらかと言うと感性の人で、理論整然と言うのには程遠かった。

とにかく我が家のこういう特徴は、ノロウイルスが識別するおおもとの「A型」「B型」に派生する違いではなく、いろいろあるだろうA型B型の亜系というのか、その下のそのまた下の分類というのか、そういうレベルでの違いであろうと思われる。

だからまた別の家系では、同じ血液型でも我が家とは別の性格になるのだと思う。


小保方晴子さんという弱冠30歳の研究者が、新種の万能細胞を非常に簡単な方法で作り出すことに成功して今話題だ。

これはあくまで九子がテレビを見ていて理解した事なので間違っていたらお許し願いたいが、彼女が最初目をつけたのは、植物が飢餓状態に陥ると子孫を残すために自分自身を変化させると言う行動であり、この行動は長い間植物固有のものであり、動物では絶対に見られないと考えられていた。

動物でもそういうことが起こるのではないかと考えた彼女が、「酸性の液に細胞を漬ける」という状況を考え出す。つまり植物の場合の飢餓状態に相当するものが、動物細胞を「酸性の液に漬ける」だった。

その結果、STAP細胞と呼ばれる新種の万能細胞が出来あがった。

彼女を見ていると、あんなにおしゃれな格好でよく実験が出来るなあとまず思う。九子じゃあ考えられないよ。
きっと何度も何度も大好きな実験を繰り返しているうちに、液をこぼしたり、何か落としたりという失敗を極力しないように手が、身体が慣れて行ったのだろう。
だからどんなおしゃれな服でも平気で着ていられるんだよね。

それから、実験中の彼女の顔が物凄く楽しそう!
徹夜してまで研究に没頭出来るのは、やはり「好き」が基本なのだろう。

こういう人の血液型は何型だろうとやっぱりとっても気になる。
皆さん、こういう人が自分と同じ血液型であって欲しいと思われてるんじゃありませんか?

今のところどこを見ても彼女の血液型に関する話題は出ていないが、ドッコイ!九子は彼女が絶対に九子と同じAB型であって欲しくない。

もちろん彼女みたいな優秀な人は九子なんかの対極にいて欲しいと思う気持ちもあるのだが、万が一自分の中に彼女と同じ血液が流れているとわかったとしたら「じゃあ、彼女とこの九子の落差はなんなんなのよ!」ってことになり、自分があまりにも惨めになるからだ。(^^;;

まあねえ。彼女だって九子ほど、怠け者のお昼寝好きだったら、絶対に今の発見はあり得ない訳だし・・。


それにしてもおお、嫌だ、嫌だ!実験なんて!
ノーベル賞なんかもらうより、毎日ぬくぬくコタツでお昼寝三昧の方が九子はず~っとず~っと嬉しい!(^^;;


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長所診断 [<薬のこと、ダメ薬剤師のこと、家のこと>]

今年の正月は義兄のことがあり、年賀状も門松も無いちょっとさびしいお正月だ。
毎年恒例の年賀状ブログも当然書けない。
三が日のテレビも芸人さんの笑い声だらけだとなんとも白々(しらじら)してしまうので、何か賑々(にぎにぎ)しい話はないかと思ってたどり着いたのがこの話題だった。


年末のあわただしい時期に、九子はさらにあわただしく、パソコンの乗り換えのための作業をしていた。
そう。長年使い込んだwindowsXPパソコンが今年の三月いっぱいで使えなくなるので、新しくwindows7のパソコンが来るのだ。

まあ、XPパソコンそのものは寿命だった。だけどwindows7パソコンのために新しい調剤ソフトを買わなければならず、そのための出費がうん十万というのは痛い!

本当のところ、ここで保険薬局をやめてしまって調剤から身を引くことまで真剣に考えた。本当はその方が世の中のためだし・・。(^^;;

思いとどまらせたのはただひとつ!
薬剤師としての矜持!とでも言えば、そりゃあカッコよかろうが、そんなわけ無いじゃん!(^^;;

保険薬局やめちゃうと、問屋さんから今まで自由に取ってた薬が取れなくなる。
わが家では、風邪薬のPL顆粒だの抗生物質だのを勝手に取っては家族が使っていた。
そうなのだ。笠原十兵衛薬局は、自家消費の多い薬局なのである。(^^;;
「そりゃあ不便だよなあ。」とM氏はじめ家族から(もちろん九子も)不満が相次いだ。

その上これで調剤から離れてしまうと、九子のただでさえ乏しい薬の知識がますます先細りになるだろう事も大きな危惧だった。

そしてついに!笠原十兵衛薬局はこれからも調剤をする方向に舵を切った。
決して経済的に考えた決断ではない。調剤をやめた方が、少なくとも月々数万円は浮くのである。

とにかくそんなこんなでXPパソコンのファイルを整理していた時に、以前書いていたマイぷれすというブログサイトのフォルダからそのリンクは見つかった。


「長所診断」というのだそうだ。ああ、そういえば昔これやったことあったよ。結果もたいてい覚えてる。
前やったのは、確かもう七、八年前じゃないのかな?


あなたはこんな時どうしますか?という質問が50問あって、それに、はい いいえ どちらでもない で答える。

これならすぐに答えが出そう!と思う間もなく、もうやり始めてる九子。
(これだから仕事がいつまで経っても進まない。(^^;;)


簡単に出来ると思ったが、かなり迷う。長いこと考えても三択のひとつに絞りきれない問題が三分の一くらいはあった。もちろん答えを出さないと次に進めないので仕方なく一つを選んだ。

そして出た答えに九子は驚愕した。


昔やった時に出た答えとまったくおんなじだったからだ。

あんなに迷って選んだのに、こんなに何年も経ってからなのに、えっ! 全然変わってないの?

試しに九子はでたらめに丸をつけて再度やってみた。
もしかしたらどれに丸しても同じ答えが出るんじゃないかと思ったからだ。でも今度は違う動物が出てきた。
そう。あなたの性格は動物で象徴される。

「この占い、すごい!!」

その時はじめてわかったのが、これがエゴグラムを基にして作られた診断結果だということだった。
「占いじゃありません。」と但し書きもあった。

エゴグラムというのがわかり難いが、要するに人の心はひとつじゃなくて、5種類の自我状態により成り立っていて、人の性格や行動パターンは、この5種類の自我状態の強弱のパターンにより左右される。そのバランスをテストによって診断するものらしい。(これでもまだわかり難い(^^;;)
自分のなりたい性格に自分を変えていく時にこれが役にたつらしくて、学会まであるということなのでそれなりに信憑性はある。

 

ところでどこが賑々しい話題なのかって?
それは九子の長所として引き出された答え!


えっ?こんなに派手な動物なの?
それに、この書かれよう、なんか照れるじゃない。(^^;;

正直九子は、この結果に満足だ。長所短所を含めてかなりの確率で当たっている気がする。

答えはこうだ!とお披露目したかったが、なんだか小っ恥ずかしいのでリンク元だけ書いておきますので、気が向いたらご覧ください。

 

・・・と書いたところで、結果のリンク元を保存し忘れていたことに気づく。

リンク元がわかれば、それをクリックしてもらうだけでちょっとニヤつく結果をここに表示することを避けることが出来る。

そして試行錯誤の末、九子の知識ではリンク元を表示する以外、本文に貼り付けるのを避ける方法は無い事が判明。


そして次に考えたのがネット検索。 結果にある文章の中から一文位をコピーして、検索にかける。すると!!!

たくさんのブログでこの「長所診断」が取り上げられ、九子と同じ結果を出した人がたくさん居たのだ。2004年から2008年頃の記事に多い。
ところが残念なことに、そのどれもが本文中に結果として貼り付けられているだけで、その結果を示すリンクは書かれていない。

考えてみたらそりゃあ当たり前なのだ。
とにかく大事なのは「長所診断」の診断サイトを紹介することで、自分の結果のことなど枝葉末節なのだから・・・。

仕方ない。本文中にこれをそのまま書くか!

でもなあ・・・。

 


そして九子はその結論に至った。

そうなのだ。そうするしかないのだ。「長所診断」を、もう一度最初から診断をやってみる。そして同じ答えを出し、その上に表示されてるURLをコピーすればいい!


実は小心者の九子は、本当は三回目を試す勇気なんてなかった。だって三度目の正直で、取り繕ってることだとかが噴出し、似ても似つかないない結果が出ちゃう可能性だってあるじゃない!(^^;;

いや、確率から言っても違う答えが出る可能性のほうが断然高いのだ!

ところが!出ちゃったんですよ!三回目も同じ結果が。


実は今回のは、九子が最初と二回目をやったところとは違うサイトだった。よく見ると問題数も50問ではなく45問だし、問題の中身も似たようで違っている。「エゴグラムを使った長所診断」というのは、いろいろなところで少しずつ問題を変えながら作られているらしい。
それにしてもよく出たなあ、三度も。答えながら、なんて支離滅裂な人間なんだと自分に呆れていたのに・・・。(^^;;

そしてその動物が出てる絵を何度も確認しながらリンクをコピー。確認のために検索窓に貼り付けると・・・。
なっ、なんだあ?違う動物が出ちゃってる!「完ぺき主義で働き者のアリ」らしい。
九子と180度違うタイプ!(^^;; これじゃせっかくやった意味ないじゃん!!

 

そんな訳で、図らずもここに結果をお披露目することに相成りました。皆さん、松の内のご一興ということでご笑納あれ!


それでは結果発表です。

 

あなたの長所は芸術的なすばらしい感性です。


あなたは上品さと優雅さ、ユニークな表現力と繊細な感性を持った、魅力的な人間です。
きわめて同情心に厚いあなたは鋭い感性で他人の痛みをよく理解し、辛抱強く支えます。
そして直感力に優れていて、創造的なので芸術や文学などの分野ですばらしい業績を上げます。
あなたの芸術的センスは、まわりの人も認めているはずです。


あなたを象徴する動物は・・・

美しいクジャクです。




 

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さらに長所を伸ばすには

平凡さや単調さを嫌うあなたは、心の浮き沈みが激しいことがあります。
実際以上に大げさに表現し、落ち込みや高揚感を増大させて、周囲を困惑させることもあります。
また悲観的になりやすく、うまくいかないと引きこもろうとします。
しかし逆に、自分の感情さえコントロールできれば、もともと芸術性の高いあなたは、人のできないような創造的な仕事をすることができます。
そのためには、人が嫉妬するような自分の長所を見つけ、それに自信を持つことが必要です。
自分の行った仕事を肯定的に評価すれば、自分には日頃感じているよりも、はるかにすばらしい能力があることに気づくでしょう。

何度読んでも、なんか照れちゃうなあ。(^^;; もちろん短所もうんうんと思うことばかり・・。


昔だいぶ話題を呼んだ診断法らしく、きっと試された方もいらっしゃると思います。なつかしいとおっしゃる方もいらっしゃるでしょうか。
結果を読んでもあなたの長所ばかりが強調されていて短所はあんまり出てこないから、きっといい気分になること請け合いです。( ^-^)

よかったらあなたもどうぞ!

長所診断テスト http://www.egogram-f.jp/seikaku/sin-d.htm     http://www.kct.ne.jp/~success/sindan.html  http://www.kct.ne.jp/~success/0files/javatest.html など


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神戸ルミナリエと有馬温泉 [<薬のこと、ダメ薬剤師のこと、家のこと>]

「これで卒業やから、最後にルミナリエ見に来(き)いひん?」
早いもので来春神戸の薬大を卒業予定のN子から、九子からすればまるっきりの関西弁だが、本場関西の友達からはまだOKが出ていないという関西弁モドキで誘いの電話があった。

最初はN子と九子の親娘二人の予定が、次女M子も合流し、それならばスポンサーがあった方が何かと便利と、ビンボー神だが金離れだけは良いM氏(だからビンボーなのか?(^^;;)も参加とあいなった。

ルミナリエを見て、その夜どこかで一泊。
どうせならビジネスホテルなんかじゃなくて、もっと素敵なところがいいな。
( ^-^)

と、思いついたのが有馬温泉。

有馬温泉と言えば秀吉候の時代から有名な老舗温泉。もちろん宿泊料が高額なことでも日本一!

ところが!
見てみるもんですね。時代は確実に変わっている。

ネット大手の代理店を通すと、日曜日一泊にすれば一人一泊二食で一万円台が実現している!

後で神戸に住むハトコに聞くと、なんでも有馬温泉は、阪神大震災でかなりの打撃を被り、もちろんお湯が出なくなるとか建物の被害などのほかにも、今までのお得意さんが高い温泉から離れてしまうという致命的事態に陥ったのだという。

そこで若い経営者たちが「もう今までのように伝統にふんぞり返っていては商売が立ち行かない。」と、日帰り入浴プランや、シーズンオフの低価格プランなどを次々と打ちたて、こんな時期の、しかも日曜夜の一泊だったら、九子たちはそのおこぼれにありつけると言う訳らしい。

これを逃す手はないと、しぶるM氏に土曜じゃなくて月曜休診を頼み込む。

これが大正解!
そんな低価格プランであるのに、4人部屋はログハウスまるまる一棟。しかもジャグジー付である。
そして極め付きは夕食の神戸ビーフのステーキコース。

本当は但馬牛のステーキと神戸牛のしゃぶしゃぶが両方食べられるコースも選べたのだが、稀に見る節約家のため、神戸に6年間も住みながら「高いから」と神戸牛は言うに及ばず牛肉は一切食べなかったという(^^;;N子のたっての願いで、神戸牛オンリーのコースとあいなった。

いやあ、神戸牛! たかが神戸牛、されど神戸牛。
ニュースでは全国あちこちで食品の不正表示が槍玉にあげられてる時期。もちろん最初から信じちゃあいるが、このご時世では神戸牛と謳って別の牛と言うのはありえまい。

本場で食べる神戸牛の旨みと柔らかさが、人生これからの彼女たちの味覚の指針となってくれることを切に祈る。
(残念ながら九子にとっては遅きに失した。M氏は今のままの味覚音痴の方が何かと都合がいい。(^^;;)

そして、炭酸塩のじわじわと温まる温泉や秀吉候が愛した黄金色のにごり湯が夜中の12時まで利用できる。

お風呂へはログハウスから本館へ、少々肌寒い小道を通り抜けて行くのだが、びっくりしたのが夜空の美しさ。
もちろんあれほどの星々の瞬きは長野市内でもなかなか見ることは出来ない。

目の良い人にしか見えないと言われるオリオンの三ツ星の右下斜めにやっと見えるはずの小三ツ星すら、九子でも確認することが出来た。

神戸という都会の近くでこんなに美しい星空が眺められるとは・・。
いや、もともと神戸という街は、六甲の山々が背後にそそり立ち、水の美味しい自然環境の豊かな街なのだ。
N子の大学のシンボルも、秋に咲くに決まっているのになぜかこの辺では春に咲く可憐な紫色の桔梗の花だ。


さすがにこれだけ堪能した後だから、この値段でジャグジーまでお世話になったらいくらなんでも悪いよね!と最初は思っていた。

というのは、そのジャグジー付浴槽の広さときたら、縦横各2メートル近く、お湯もゆうに1トンは入りそうな豪勢なものだったから。

これって追い炊き出来ないお風呂だよね。ってことは、一人一人お湯換えるのかしら?二~三人一緒に入れないかしら? と、ケチくさいことを考えながら、九子はただただ眺めているだけのつもりだった。

ところが物事というものは思いがけない方向に転んでいく。

疲れていたのかM氏のイビキが想像以上で、寝ることにかけては自信のあるこの九子がどうやっても眠れない。
その上歩いた距離は大した事無いはずなのだが、靴が合わないのを我慢して履いていたので甲高の足が痛くてたまらない。

寝ては目覚め寝ては目覚めをくり返すうち、「そうだ!、やっぱ、ジャグジーでしょ!」
人間所詮、快楽の欲求には勝てないのである。(^^;;

水の勢いもかなりのものがあり、20分もすると準備万端。
それにしても真夜中にお風呂とは・・。普段の生活なら隣近所がうるさくないかと極力遠慮するところだが、そこはそれ、ログハウス!
隣の棟まで水音は届かない。・・・どころか、二階とロフトで寝ている3人もまったく気付いた様子は無い。

ジャグジージャグジーと一口で言うけれど、こんな大掛かりなセレブ御用達ジャグジーに入るのは初めてだ。

ボタンを押すと自動的にジェット噴流が出て、時間(たぶん10分くらい)になると自然に止まり、それと同時に浴槽洗浄用のフィルターが自然にするすると延びて来て、お湯の量がだんだん減っていく。

つまりやってみたくてもお湯を貯めておくなど出来ない構造になっているのだ。

そして人間と言うものは悲しいもので、セレブに生まれた人はいざ知らず、九子なんかの庶民の耳には、水が排出されていく金属的な悲しい音が、ついついまるで誰かの恨み節みたいに聞こえてしまうのだ。
冗談抜きでこう聞こえた。

「(せっかく)いい部屋=イイヘヤ(も)神戸牛=コーベギュー(も温泉まで付いてるのに、その上)ジャグジー(まで使うなんて、なんて)嫌な客=ヤナキャク(だろう。)」

括弧の外れたカタカナ部分が、実際にその通りに聞こえた部分である。(^^;;

もちろん身命に誓って、有馬温泉の方々がこんな事を言われるはずが無い。
大変親切に、九子がお風呂に忘れたKおじさんの形見の時計もちゃんと取っておいて下さったし、申し分ないおもてなしの心を見せて下さったのだけれど、贅沢に慣れていない人間というのは、とかく金目のものに卑屈になるものである。

たまにする贅沢は、そんな人間の心を素直に伸びやかにしてくれる効果があるらしい。(卑屈は直ったの?(^^;;)


ところで日付は前後して、肝心のルミナリエの方はどうだったかというと、これがまた素晴らしかった。

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  実は九子は、そん所そこらにあるクリスマスイルミネーションといっしょくたに考えていて、もっと大きなヤツは他にもあるだろうと思っていた。神戸のが先駆けだったっていうだけだと考えていた。

ところがそれが大間違いであったことに気付かされた。

夕暮れが迫る頃、点灯された無数の光のアーチの下を、群集がぞろぞろと歩き出す。
ここがまずコースの出発地点。誰もがみなカメラを持ち、幾重にも続く色とりどりの電球で彩られたアーチの下を、アーチを見上げながらおぼつかない足取りで進んで行く。

色とりどり・・と書いたが、アーチのデザインは毎年少しずつ変わりはするが、基本的にはイタリア人と日本人アーティストの合作によるどこか宗教的なデザインで、アーチを形作るすべてのU字型の板はほとんどどれも同じような形で、それを彩る色彩と絵柄は、どの板も同じところに同じ色の電球が同じ数だけ使われている。

そしてこれも象徴的なのだが、バックに流れるのはキリスト教のミサ曲を思わせる合唱と静かなオーケストラの演奏である。

そうなのだ。あれからもう19年。神戸ルミナリエは阪神大震災の翌年に、犠牲者を悼む目的で始められた。

人間が死ぬと魂は光の玉になって、自由にどこにでも飛んでいくというのを聞いたことがある。
ルミナリエの数々の光は、震災で亡くなった方たちの魂を表しているのだと思う。
そしてそれらの魂に出会うために、近づいて何事かを伝え合うために、私たちは光のアーチの下を歩き続けるのだ。


アーチを抜けてしばらく進むと広場が見えてくる。こちらの広場はアーチがかすんでしまうほどの鮮やかで煌びやかな電球に彩られ、まるでアラビアンナイトの宮殿を思わせる。

どこやらから教会の鐘が聞こえる。公園内に作られた誰でも鳴らせる平和の鐘だ。

屋台の的打(まとうち)よろしく(と言っては大変失礼だが(^^;;)、いくつも並ぶ鐘めがけて、人々が小銭を投げつける。
もちろん小銭はお賽銭で、九子も何回か投げてみて、1円よりも10円が、100円よりも500円が、鐘に、より当たりやすいことがわかった。
当たったからとてどんなご利益があるのかは定かではない。(^^;;


ふと横を見ると、まるで喧騒を避けるようにたたずむ車椅子の年配のご婦人とその脇に立つ娘さんのような女性が目に付いた。
娘さんのような女性が深々と頭をさげて手を合わせていらっしゃる先には、「希望の灯り」というランプみたいなものが見える。

これは震災の日からずっと長い間、心ある人々がずっと絶やさずに守り続けてきた灯りであるという。

娘さんとご婦人は震災でご家族を亡くされたのだろうか。祈るお顔の真剣さがそれを物語っているようだ。

19年間と言えば、生まれたての赤ん坊が高校を卒業する。
私たちは年を取り、時代は変わり、さまざまなものが現れては消えていく。

その流れ行く世の中で、灯りひとつを守るために、来る日も来る日も単純な作業を繰り返す人が居る。
単純とは言え、嵐の日も、寒い夜も、酷暑の夏も、雨の夕べも、皆が遊びほうけている休日だって、火種を絶やすまいと灯りを見守る人が居る。
そうやってもう19年が過ぎた。(注:灯りそのものが最初に灯ったのは震災から5年後の2000年だそうです。)

私たちの関心は、今や神戸ではなくて、東日本大震災だ。
それとて気紛れな私たちが、被災者の方々の日常に思いを巡らす機会などほとんど無い。

来年もルミナリエが存続出来るように100円募金をやっている。
神戸の人々の奥ゆかしさなのか、募金箱は100円以外入れてはいけないような書き方で、迷ったがとりあえず500円玉を用意しておいたら、千円札も何枚も見受けられた。
これだけの華やかな灯りの祭典を開くには、そりゃあお金がかかるだろうし、考えてみたら入場料をどこでも払った覚えが無い!

入場料を取っていないことを見ても、このルミナリエはただのクリスマスイルミネーションとは違うのだ、死者を弔う鎮魂の灯りであるということを来場者は理解して欲しいと言う主催者側の強い思いがあるのだと思う。


人は誰でも、生まれてから100年と経たないうちに死んでいく。
その中で一握りの才能ある人、功成し名を成した人、偉業を達成した人たちだけが、歴史に名を刻む。

ではその一握りに入れなかったごくごく普通の人々はどうだろう?
歴史になど名は刻めずとも、自分がこれと思った分野で、自分なりの才能を認められ、毎日を幸せに満足して暮らせたらその人の人生は幸福だったと言えるのではないか。

19年前の震災は、そういう普通の人々から、普通の幸せを奪い去った。
遺された人々も、彼や彼女がもしかしたら今頃辿り着いていたかもしれない夢の終着点をあきらめられずに居る。

震災の被災者は誰でも「震災を、私たちを忘れないで。」と言う。
彼らが忘れて欲しくないのは一体何なのだろう。そしてなぜなのだろう?

亡くなった家族が懸命に生きていたという証だろうか?

確かにそれが若い人だった場合には、彼らの力は活かされきらぬままに生命を断ち切られたことになる。
家族を遺してということになれば、まだまだ続くはずだった安らぎに満ちた家庭の温もりが突如失われる。

彼らの無念を、遺された者の不幸を、無関係な私たちでも容易に想像することが出来る。


ルミナリエの灯りは、思い半ばで人生を断たれた人々の、かつて描いた夢や希望、そして幸福な人生の輝きそのものなのではなかろうか。
19年間大切に守られた灯りが「希望の灯り」と名付けられているのを見ても、もはや輝きを失ってしまって語ることも歌う事も見ることも触れることも出来なくなってしまった彼らに捧げる、生きとし生ける者のせめてもの労わり。
彼らが今でも希望に輝き、あの世で幸福に暮らしていると信じる証(あかし)。
そして彼らの叶わなかった夢が、次の世ではきっと叶うと力づける(彼らと遺された者とを)勇気。

この灯りが、来年も再来年も、ずっと灯り続けるように、切に祈る。
一度家族という希望を亡くした人々が、もう二度とさんざめく希望の光を失うことの無いように・・・。


まだ一度も神戸ルミナリエをご覧になっていない方、是非一度iいらっしゃってみませんか?( ^-^)

 

 


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鉄砲撃ちと犬 [<薬のこと、ダメ薬剤師のこと、家のこと>]

きたさんは、我が家の歴史の語り部だ。

15歳で奉公に来てくれてから、戦争に行っていた父よりも、お嫁さんに来たよりも、ずっと長い間この家に居続けて、元祖雲切目薬を作ったり、穏やかだったが人使いの荒かった16代十兵衛おじいちゃんや、働き者だったが病気がちだったすゑおばあちゃんの信用も厚く、そしてこの家一番の働き手として我が家を担ってくれていた。

16代十兵衛さんや、すゑさんはもちろんの事、父や、年下だった母の最期の看取りもしてくれた。

きたさんの口癖はいつも、「おれはこのうちと一蓮托生さ。」だ。
 

きたさんは、今じゃあ長野市になってしまっている信州新町の日原村というところの出身だ。
だからきたさんの薬店は「日の原薬品」という名前だ。
長い年季奉公を明けてから、薬種商の資格を取って、自分の店を構えた。
九子が生まれてしばらくしてからのことだ。


きたさんのおやっさまは、村でたった一人の鉄砲撃ちだったそうだ。
きたさんの兄弟はみんな大そうな親孝行で、おやっさまの事をとても尊敬している。
もちろん、働き者で、誰よりもそば打ちが上手だったというおっかさまのことも・・。

「おっかさまの作ってくれたそばは、香りが違うんだ。ふわあっと、何とも言えないいい匂いでさあ。いろんな評判の蕎麦屋に連れて行かれて食べたけど、おっかさまのそばにゃあ敵わないよ。」

きたさんのうちは男4人、女1人の5人兄弟だ。戦争に行っても、誰一人欠けずに戻って来れたのが自慢だ。


昔は狩猟免許が高かったから、鉄砲撃ちの資格を取るのは誰にも出来る訳ではなかった。
おやっさまは、普段はキジや山鳩を撃つ。
今よりも鳥も動物も多かったし、高い狩猟免許を払ってもそれなりのお金になったらしい。

食べ物が乏しくなる冬になると、おやっさまは野ウサギを獲る。そしてさばいた野ウサギを汁に入れてぐつぐつことこと煮込む。

それが家族の大のご馳走で、その汁を飲むと、身体がうんとあったかくなって、みんな風邪も引かず、元気に過ごせるんだ。

「あの頃は5歳になるかならないで死んでく子供もたくさんいたんだよ。でもおやっさまのウサギ汁のおかげで、おらあちはみんな丈夫に育ったんだよ。」
昭和10年前後。戦前の話である。

きたさんがおやっさまを尊敬していた理由は他にもある。当時の学校の担任の先生のことだ。
贔屓(ひいき)が激しくて、有力者の息子や娘にはちやほやし、きたさんたちには冷たく当たったらしい。

ある日家庭訪問でその先生が家に来て、先生とちょっと話をしたおやっさまは、きたさんにこう言ったと言う。「われ(おまえ)、あんなもん相手にするじゃねえ。」

当時は今よりも先生に権威があって、親たちはみんな先生にちやほやしていた時代だ。
先生に「様」をつけて呼ぶ人もたくさん居た。
その偉いはずの先生を「相手にするな。」と言ってくれた。

きたさんによると、その先生は戦時中の人手不足の時代に、代用教員と言って、正規の手順を踏まずに即席で先生になった人らしかったが、一目でその先生の正体を見破ったお父さんを、きたさんは「おやっさまって、なんてえれえ(偉い)人だ!」と子供ながらに尊敬したのだそうだ。


きたさんは子供の頃から山を駆け巡って遊んだり働いたりしていたから、米寿(88歳)を数える今でも、3時間ほどで一山を上っては降りてくる事が出来る。


そしておやっさまに教えられた山の注意は数多くあるけれど、一番大事なことは、万が一の備えにいつでもマッチを用意しろと言うことだそうだ。

事故にあった時にマッチをすって火をつける。火がつけば誰かが必ず気づいて来てくれる。
いざとなったら「明かりが欲しかった。」とか「暖を取りたかった。」とか、言い訳すればいい。
命を落とす事に比べれば、不注意の罰金数万円は安い!
あんまり声高に言える話じゃないけれど、それが山で暮らす人たちの知恵だ。

刃物も何かのときに必要だから、必ず持っていく。

万が一熊に合うのが山で一番怖い。
きたさんもおやっさまにならって、二十年前くらいまで鉄砲撃ちの免許を持っていた。

「最近は試験も難しくなるわ、ややこしい規則ができるわで、新しく免許を取る人なんていなくなっちまったんだよ。そら、みろ、今んなってカモシカやなんかがえれえ増えて、役人連中困ってるわっさ。
おれ、前に計算した事あるんだ。今はねえ、鳥一羽撃つのに、弾ひとつ3000円くらいにつくんだよ。高えよなあ。」

おやっさまに教わった。
熊に出会ったら、ちゃんと立木のそばに居て、熊は最後襲う時は必ず立ち上がるから、鉄砲を熊におっつけてどかんと撃つんだよ。
必ずでかい穴あくから、野郎ども必ず惰性で来るから、木のそばに居れば木のそばで避ければいいから・・。
そのまま場合によっちゃあ、5メートルも10メートルも、坂だからすっこんで落っちまう。戻ってくるったって、やつらだって大怪我負ってるわけだから、いいかげん時間かかるわさ。


鉄砲で狙うときは、必ず引きつけて構える。肩を引いて鉄砲を身体に固定する。先の方なんか見たって当たりっこない。何か狙うより先に、自分の肩に引き付ける。身体で覚えるまで経験積まなきゃだめだ。

自信のない鉄砲撃ちほど撃ちたがる。余裕を持って構えないと当たらない。びくびくしながら撃つと、動くものはなんでも獲物に見えて撃っちまう。だから、自分の犬を撃ったり、人を撃ったりしちまう。


次に怖いのが蛇。アオダイショウなんかはなんとも無いが、マムシだったら命が無い。
悪い事にマムシは度胸がいいから、決して逃げて行かない。


実はきたさんのおっかさまがマムシに出くわして、すんでのところを助かった。
飼っていたおやっさまの猟犬が救ってくれたのだそうだ。

おっかさまが大きな荷物を背中に載せて山から下りてきて、バランスを崩して足をくじいて動けなくなった。そこんとこにマムシが居た。

犬が蛇の胴体にかじりつき、顔を左右に何度も振っては、マムシの頭を地面にたたきつける。マムシは長くなってのびてしまう。(蛇はとぐろを巻いてるときが一番元気がいい。)

利口な犬は距離も知っている。マムシから後さずりする時もちょうど30センチくらいで、それ以上でもそれ以下でもない。

下手な人間よりも猟犬の方が賢いから、慣れない人が山へ登るときには犬をつけてやる。
「犬が空へ向かって変な声で鳴くような事があったら、マムシがいるから気をつけな。そうしたら俺がすぐに行ってやるから・・」

そういう芸当の出来る猟犬は、実は純血種じゃなくて雑種だったんだそうだ。

クマブチって犬は特別だ。熊を狩る専用の犬だ。だが、そんな犬はそうたんとは(たくさんは)いねえ。

普通の犬なら、雑種の方が頭がいい。

考えてみると人間だって、混血の方が父母両方のいいとことって生まれて優秀だと聞く。

 

おやっさまが冬の夜、犬を連れて狩に出た時は凄かった。

鳥が居ると、犬が匂いを感じて尻尾を振る。おやっさまは一番見晴らしのいいところに陣取って、「よしよし。待て待て!」と犬を待たせておく。

最初はかさっと音を立てて脅かせる。すると鳥が一、二羽驚いて飛び立つ。
銃は二連式だからそれをおやっさまがパン、パンと二発撃つ。
犬たちはまだ追い立てない。おやっさまが弾を込めるのを待っているんだ。

犬はおやっさまが命令するまで何もしねえ。何もしねえけど、鳥が落ちたとこをよく正確に覚えてるんだ。
おやっさまがよし!と言うと、一目散でそこへ駆けていく。

犬は決して獲物を引き摺らない。上へ向けて、空へ向けて獲物が傷つかないように大事にくわえる。
深い雪ん中を犬が獲物をくわえあげて帰ってくるところは、まるで泳いでるみてえだったなあ。

 

熊に会うとさすがの犬も怖気づく。怖いものだから尻尾を丸めておやっさまの方へ後ずさりする。
そういう時が、鉄砲撃ちの正念場だ。犬に、俺に任せろってとこ見せなきゃなんねえ。

犬が最後に信用するのは飼い主だ。
犬に馬鹿にされちゃあ鉄砲撃ちはつとまんねえ。犬には絶対に信用されなきゃあなんねえ。

 


「おれもモクが死んでから、もう一度、犬を飼おうと思ったんだけどさあ・・。」

モクというのはきたさんの犬で、15才くらいまで生きた。
きたさんもモクを躾けて何度も山に連れて行ったが、おやっさまの犬にはかなわなかった。

きたさんは「毛がもこもこしている」というのを「もくもくしている」という。
そこから犬の名がついた。

 

「人間なら、最後になんか言えるけど、犬はなんにも言わねえ。
身体冷たくなって来てるのに、俺が行くと無理して頭上げて手え出そうとする。
あれがもうらしくて(可哀想で)、涙出て、涙出て・・・・。


だから俺より先に死んでくもんは、もう一生飼わないと決めたんさ・・・。」

 

きたさんのおやっさまみたいな鉄砲撃ちも、おやっさまが躾けたような猟犬も、何よりきたさんみたいな人も、これからの世の中にはもう金輪際(こんりんざい)現れないだろうなあと思うと、すごく寂しい。
 


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詐欺師の手練手管 [<薬のこと、ダメ薬剤師のこと、家のこと>]

日頃自分の強運を確信している九子であるが、ごくたまに、世の中はなぜこんなに思い通りにならないのだろうと嘆息することがある。

その時九子が苦々しく思ったのは、どうしてこういうタイミングでこういう事がおきるのか、まったく間が悪い!ということだった。

社会というものは、自分などというちっぽけな人間の都合なんかにとんと無関係に動いているものだなあという思いも強くした。


時は去年の10月の中頃。
その時九子は、ウツの真っ最中だった。

またもやすべては一本の電話からはじまった。

またもや・・・というのには訳がある。
ご存知の方はご存じの通り、九子は以前、オレオレ詐欺(振り込め詐欺)に巻き込まれたことがあったのだ。(^^;;

電話の主は、どこにでもいる、やたらに明るく調子のよい浅薄な感じの若者で、広告会社の社員とのことだった。
「ご依頼の広告の原稿が出来上がりましたので御電話しました。」と言われた。

九子は頭を抱えた。ご依頼もなにもそんな広告、出した覚えがなかったからだ。
ただ当時おつきあいしていた広告会社があって、もしかしたら義理で一本広告を出すことになってしまっていた可能性もゼロではなかった。

とにかく九子はウツだったのだ。
自分のやった事に自信がなかったし、強く言われるとなかなか断れない状況にあった。

値段は・・・と聞くと、10万円だという。
ここへ来て九子のシビアな経済観念、つまりは必要以外のお金はびた一文出したくないという意識がウツに勝つことになる。(^^;;

自分が思い当たらないことにお金を出すなんてどうしても出来ません!と九子は強く言い放った。

すると彼はあんまりなディスカウントを持ちかけた。

「そちらの枠をもう作ってしまってあるので、この段階では中止は出来ません。私にも責任があることなので、それなら半値に致しましょう。」


半値って言っても5万円よねえ。それでもまだ高い!
それでも無理です!とのたまう九子に、彼は更にその半分の2万五千円まで譲歩しますと言って来た。四分の一までにするなら、最初からその値段にしときなさいよって話!


実はこのやり取りは都合3回くらいの電話応答になっていて、九子もいい加減、受話器を取るたび同じ相手からの無益な電話に辟易(へきえき)していたのである。

2万5千円でこのしつこい男と手が切れるのなら、お金払ってやろうかと言う考えも頭に浮かびかけたその時、九子にそれが天啓のようにひらめいた。

「原稿を見せて頂けば私がお願いしたものかどうかはっきりしますから、どうかファックスで原稿を送ってくださいな。」


あちらはしばらくしてからファックスを送って来た。
それを穴の開くほど見つめた結果、注文した覚えはまったくなかったし、それより何よりその広告に、ある致命的な欠陥を九子は見つけたのだ。

コピーで送られた原稿はなるほど読めばわかるサイズではあったが、サイズと書かれた実際の広告の大きさはたったの縦2.5センチ、横3センチ。

ここに雲切目薬の写真やら、電話番号やら諸情報を載せたところで、いったいどこの誰が見る、というよりも、そんな豆粒のような広告は、アフリカのマサイ族でもない限り誰も読む事が出来ない代物であった。


ファックス届きましたか?という電話が更にあったので、九子は言った。
「見ましたけど、このサイズおかしいでしょう?2.5センチ×3センチなんて、いったい誰が読めるんですか?」

するとあちらの言い草がいい。
「だって安くしたでしょう。安くしなければそのサイズの4倍だったんですよ。」

頭に来た九子がここで言い放った一言が地雷を踏んだようだ。
「誰も見ない広告を出してお金を取るなんて、それ詐欺って言われても仕方ないでしょう?」

その瞬間、今まで人当たり柔らかかった若者の語気が明らかに変わった。
「あんた、詐欺って言ったよねえ。詐欺呼ばわりされるなら出るとこ出てもいいんだよ。」

詐欺って言われてキレルなんて、やっぱり自分たちに詐欺やってるって自覚があるんだわと九子は思ったが、作戦的にはあんまりいい状況ではない。

九子はいったん電話を切ることにした。


その後も何度と無く鳴り続ける電話。

九子は無い知恵を絞って、消費者センターに電話をすることにした。
ところが消費者センターで言われたことはこうだった。

「大変申し訳ありませんが、当センターでは個人のお客様が購入された商品のトラブルのご相談に応じておりますが、そういう業者の方の相談には応じておりません。なんでしたら、弁護士さんなどに相談されるのがいいかと・・。」
 
皆さん、ご存知でした?
消費者センターは、あくまで個人の相談しか受けてくれないってこと。
お店やってる人の問題は、個人商店も個人商店、九子一人しかいない店でもダメなんだって!

仕方が無いので、こんどは薬剤師会に電話をかけた。
長野市薬剤師会は弁護士さんと契約していて、何か問題があったらいつでもご相談くださいと前に言われていたからだ。

果たして、薬剤師会は及び腰だった。
最初に言われた。

「申し訳ありませんが、この件に関して、薬剤師会は間には立ちません。あくまで笠原十兵衛薬局さんと業者さんの間の問題として処理してくださいね。」

なによ、それ!と思ったが、まあ彼らの言い分もわかる。
薬剤師会が介入してくれる問題と言うのは、あくまで医療過誤、つまり、調剤間違えだったり、患者さんとのトラブルだったりであり、広告がどうのというのはまた別物ということなのだろう。

のれんに腕押しだなあと思いつつ、教えてもらった弁護士さんに電話する。
話し始めたら弁護士さん、身を乗り出して(かどうかわかんないけど(^^;;)、そういうことなら是非お話伺いたいので、いついっか来て下さいと言われる。

あの、皆さん、忘れてませんか?
九子はウツの最中だったってこと。
まあ、軽症だからこんなことも出来たのだけれど、特に人に会うのが何よりも辛い訳です、九子の場合。

ただ、仲良しの顔に会うよりは初対面の人に会うほうがずっと楽なので、何ヶ月ぶりに車を運転して(これもウツの時は注意力が散漫になっているので気をつけなければいけないのだけれど・・)必死の思いで弁護士事務所にたどりついたわけ・・。

まあこうやって無理してでも弁護士事務所まで来ようと言う気になったのは最初の電話以降、手を代え品を代え、同じように身に覚えのない広告費を支払うように要求してくる電話が相次いだからだ。その数、5、6社。社名はみんな違ったが、内容はいっしょだった。

たぶん「健康」10月号に出た雲切目薬の記事を読んだんじゃないかな?
そして案外悪巧みを考えるやつらは、情報を共有してツルんでるんじゃないのかな?

K法律相談事務所は新しくて立派な、無機質な感じの建物だった。
5人位が同時に座って相談できるUの字型の机があって、九子はそのど真ん中に座る。
ほどなくK先生が顔を見せる。中堅どころの働き盛りという感じ。

K先生に言われたことは、次の3つ。
1.絶対にお金を支払ってはいけません。
2.「弁護士に相談したので、これ以上のことは弁護士と相談して欲しい。」とつっぱねる。
3.電話があったら、出来るだけ録音する。もし録音がだめなら、いついっかの何時何分に誰から 電話があったかをメモしておく。

特に2番の「弁護士さんに相談してあります。」っていうのはホント、良く効いた。
僕の名前を出してもいいですよとまで言って頂いたが、ほとんどの電話は「弁護士」と一言言うだけで、がちゃりと切れて、二度とかかって来なくなった。

たった一社だけ、教えてもらったとおりに言ったら、「奥さん、ずいぶん威勢がいいねえ。」と言われた。
あの~、九子は今ウツなんですけど・・。(^^;;


ついでだから、K先生に九子が前から聞きたかったことを尋ねてみた。
「先生、実は私にはウツの持病があって、薬も死ぬまで飲まなきゃいけないのですが、病気を理由にして契約を無効にすることは出来ますか?」

すると先生はこんなことをおっしゃった。
「う~ん、難しいですねえ。今見る限りでは、あなたのウツは非常に軽い。もしも何かの契約をした場合、その時点にさかのぼってあなたの病気の状態がどれほど重かったかというのは、大変判断が難しい。だから、病気を理由にするのは無理とは言わないが 難しいかもしれませんね。」

実はまだいろいろ聞いた。それをバッグに忍ばせたICレコーダに録音しといたのだけれど、(それっていけないことなのかしら?(^^;;)、いつの間にか中身が忽然と消えてしまっていた。(何のことは無い、電池が切れてメモリーがふっとんだだけ。)
事の善悪は、録音が消えてしまったという事実に答えを見出そう。( ^-^)

お金にシビアな九子は(^^;;、面接の前に値段を伺っていた。
「まあ、30分5000円くらいなもんです。」
お支払いしようとすると、「この程度のことではお金は頂けませんよ。電話の様子だと、もっと差し迫っているのかと思いましたんで・・。私、何も伺わなかったことにしますから、このままお帰りください。」

なんて優しいK先生!!
後から雲切目薬3本お送りしたけど、5本のほうが良かったかしら・・。(^^;;


ああ、世の中広しと言えども、オレオレ詐欺(振り込め詐欺)と今回のは何詐欺だ?
とにかく2回も詐欺に引っかかりかけた人間は、そうはたくさんいないんじゃないかな?

二つの詐欺を比べてみると、より巧妙なのはオレオレ詐欺だ。
とにかくだまされてる人間に、だまされてるという意識をまったく感じさせない。
これは、凄いことだ!

オレオレ詐欺に引っかかる人は、すっかり自分が悪者どもが仕組んだ架空の世界に取り込まれて、自分が見えなくなっている。
「愛する○○のためなら、こんなお金くらいまったく惜しくない!」という気持ちで喜んで(というと言葉が悪いかもしれないが)振り込んでいる。

九子の場合だって、「これで次男Sに前科が付かずに済むのなら安いものよ、このくらい!」と思って、言われた金額以上を振り込もうとしていた。

九子の場合幸いだったのは、あちらが言ってくる息子の不埒な行状をバカ正直にぺらぺらと赤の他人に話してしまう開けっ広げな(恥を知らないとも言う(^^;;)性格だったため、「大金ですね。」と声をかけてくれた送金窓口の人が、九子の打ち明け話を変だと気づいてくれたことだった。

とにかくオレオレ詐欺にあった時、冷静な他人が一人入ってくれることで、夢から覚めることが出来る。

それに引き換え今回の詐欺の方は、詐欺というより脅しなんだろう。
こちらがそんな契約をした訳ではないことは途中でもうわかっていた。
ではあるが、ドスの効いた声の御仁が何度も何度も電話をかけてくると、業務にも差し支えるし迷惑だからと、ついついお金を払った方が楽だと思いたくなってしまう。

一度でも支払ってしまうとそこに付け込まれて、同じような会社が我も我もと同じ要求をしてくるのだろう。
要は脅しに屈しないことだ。

弁護士さんでなくとも 強面で威圧感のある声の男性が一人居てくれたならば 次の電話はもうかかってこない可能性は高い。
  
女性が強くなったとよく言われるが 体力的にはどうしても劣る訳だから 女性だけの職場は狙われやすいんだろう。


そうそう、よく考えてみたら、先物取引騒動というのまであった。
まったく、危ない橋を幾たびと無く渡りながら、実際の被害にはあっていないというのは、これこそが九子の強運のなせる業なのだろう。( ^-^)



今年は2013年。雲切目薬の創業が天文12年、つまり1543年だからして、今年でちょうど470年目の節目と言うことになる。

さてさて過去17人の笠原十兵衛さんとその奥方さま、お薬師さまと神さま、仏さま。
どうか非力な18代九子ですが、出来ましたらもうこんな事には金輪際巻き込まれませんよう、もしも巻き込まれても寸でのところで思い止まらせて下さいますよう、これからも何卒何卒御守りお願い申し上げます。

そして親愛なるK弁護士さま、ご迷惑ではございましょうが、これを機会に友達少ない九子の、家族親戚以外は十人にも満たないケータイアドレスに番号入れさせて頂きましたことをご報告申し上げます。

いえ、ほんの御守り代わりでございますので、滅多な事ではお電話など致しません。
水戸黄門の印籠よろしく、こんど悪行三昧の輩が薬局に足を踏み込んだ時には、これを見せつけてやるだけでございます。


って、お金払ってないんでしょう?
K弁護士さんにそんなに大盤振る舞いさせちゃっていいの?。(^^;;(^^;;




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年賀状2013・・・・・我が家の家訓 [<薬のこと、ダメ薬剤師のこと、家のこと>]

謹賀新年

平成二十四年は我が家にとって晴れの年でした。
長男Rが5月にとても素敵なお嬢さんと結婚しました。
でも胸の痛むような悲しいこともありました。

雲切目薬は例によって地元のマスコミばかりではなく、雑誌「健康」10月号や、井形慶子氏著イギリス流と日本流 こだわり工房からの贈り物」に取り上げられました。

井形氏が書いて下さったように、雲切目薬は女たちが作り、女たちが守った一子相伝の目薬でした。
改めて母恭子祖母すゑの尽力が偲ばれます。

何しろ「女たち」が主役の我が家ですので、いつも歯科医院の話題が少なくて恐縮ですが、Rもだいぶ慣れて、中にはM氏よりも上手な分野もあるようです。

本年も皆様にとって、心配事の少ない単純なことでふっと笑える一年になりますように。

平成二十五年  元旦


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 三連チャンで我が家の事を立て続けに書くのも気がひけるのだが、雲切目薬の話の続きに、例によって年賀状とタイアップさせてお披露目してみようと思う。

我が家には家訓がある。
と言っても書いたものが残っているわけではない。

家長として十兵衛を引き継いだ祖父から父へは、きっとしっかりと伝わったに違いないのだが 、九子の場合は、父が何かの折りにふれてひとつづつ格言めいた講釈をたれながら、最後に「これはうちの家訓だからよく覚えておくんだぞ!」と言っていたのを、またか!と思って右から左へ聞き流していたもんだから、今になってからもっとしっかりと聞いていたらよかったと忸怩(じくじ)たる思いである。

それでも必死に頭をひねった挙句、思い出したのが次の四つだ。
とりあえずこれは、皆様にお見せするためというよりも、何も教えられていない我が家の5人の子供たちに言い含めるという意味で書いておこうと思う。

1.我が家の財産は「信用」である。

2.いつでも最悪のことを考えて行動せよ。

3.保証人には絶対になるな!

4.細く長く。


順番は九子が勝手につけた。
こうやって書き並べてみるとなんだか変てこである。きっと他にもっと大事な項目があったに違いない。


最初にあげた我が家の「財産は信用」というのは、一番何度も言われた気がする。

「うちはお金は無いけれど、笠原だと言うだけで人が信用してくれる。それが一番大きな我が家の財産だ。」

なんだかお金が無い言い訳みたいだが(^^;;、祖父からも父からも事あるたびに言われ続けた。

これはたぶん雲切目薬屋だったという側面よりも、祖父も父も市会議員であったという理由の方が大きい気がする。

選挙という洗礼があるから、人に嫌われないようにするというのが第一で、とにかく敵を作らないようにということが重んじられた。


いつでもどこへ行ってもたてまつられて威張っていた印象の父だったけれど、亡くなる少し前にこんな事を言ったのが印象深い。

「俺は一度でいいから本当に自分の言いたいことを言いたかったよ。 人様の顔色なんかうかがわないでさあ。」

その父に、おまえは人に気を遣いすぎると言われ続けた九子だったが、それは人に気を遣っていたんじゃなくて、単に人が怖かっただけだと、活禅寺で坐禅に出会ってはじめてわかった。


2番目の「常に最悪のことを考えて行動せよ」は、なかなか遵守出来ない家訓のようだ
3番目 の「保証人になるな」にも通ずるのだが、話は16代十兵衛さん、つまりは九子のおじいちゃんにさかのぼる。

おじいちゃんは様々な頼まれ事をしたが、中に近所で当時羽振りのよかった実業家から6000円の事業の連帯保証人を仰せつかり、事業が失敗してその人は満州に夜逃げしてしまい、4000円ほどの残金を返すため、毎月100円というお金を何年にもわたっって払い続けたという事だった。

100円というのは、今のお金で100万円くらいの価値があったそうだ。

                                                                                                      
当時市会議員は無給だったから、100円は当然雲切目薬の売り上げでまかなう。
一ヶ月で100万円だなんて、九子じゃどう逆立ちしても及ばない途方もない金額だ。

たぶんその一件でほとほと懲りた16代目が家訓に加えたものと思われるが、実は父17代もおぼっちゃん育ちのお人好しで、何度も社長に祭り上げられてはうまく行かなくなり、出来すぎ母に叱られながら尻拭いを続けていたらしい。

そう言えば父が関わった事業はほとんど失敗していた(^^;;
そもそも父には商才というものがなかったんである。


父と母は選挙対策もあってたくさんの頼まれ仲人をしていたが、ある時そういう子分の人の一人がビルを建てるから保証人になって欲しいと言ってきた。

父はすぐにもハンコを押そうとしたが、それを阻止したのは出来すぎ母だった。

母は日頃、家訓にのっとった生活をしていたとはとても思えなかった(^^;;。

稀代のバクチ好きなので、一か八かの勝負が大好き。
とてもじゃないが最悪の事を考えていたなんて思えなかったし、どちらかというと細く長くよりもむしろ太く短くを旨とする人生だった。

その母が、保証人になろうとした父を、家訓を忘れたのかとなじった。
なんでこんな時だけ?・・・って話だが、母は母なりに我が家の行く末を考えていてくれたんだろう。(それとも単純にお金が惜しかった?(^^;;)

結局そこのビルは何事もなく建ち、現在でも存続していて、父が保証人に納まっていようともなんともなかっったという訳だ。


最後の家訓は、九子にとって誠に有り難い家訓である。

父まで17代の当主 のなかに、野望をもって家を大きくしようとか、東京に出て一旗あげようとかいう人間がいなかったからこそ、雲切目薬は今日まで残り得た。

たぶん一人でも遣り手の十兵衛さんがいて全国区なんかをめざしていたならば、ちょっと大きくなったところで、さらに大きな会社に乗っ取られてしまうというのは、今でもよく聞く話である。

十兵衛さんは代々小粒であったらしい。(^^;;


九子が薬局を継いでから、活禅寺で知り合った経営コンサルタントさんに「笠原十兵衛薬局は商売の体をなしていない。」と、かつて言われた(^^;;

なんと言われようと、鬱の時でもお昼寝しながら、細~く長~く雲切目薬を 売っていれば良い今の笠原十兵衛薬局の現状に、九子は大変満足しています。( ^-^)

今年もよろしくお願いします。

 

 


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井形慶子著「イギリス流と日本流 こだわり工房からの贈り物」に書かれなかった母恭子の話 [<薬のこと、ダメ薬剤師のこと、家のこと>]

17代笠原十兵衛の妻、出来すぎ母恭子は、きたさんではないが雲切目薬の中興の祖だった。
母が居なかったら、そして母でなかったら、雲切目薬を今まで存続させることは出来なかった。

実家の 高村薬局を継ぐはずが、面食いが災いして父なんかにフラッとなって、苦労するのは目に見えていたはずなのに我が家にお嫁さんに来てくれた。

尤(もっと)も、笠原家に嫁ぐ人間は多かれ少なかれ仲人さんやら人々の噂に惑わされ、古い家だからよほど財産があると思って来るらしいのだが、来て見て噂とは程遠い家の現状に臍(ほぞ)をかむらしい。
少なくとも母とM氏はどちらもそうであるらしかった。(^^;;

稲荷山(長野県千曲市稲荷山)の野原を男の子たちと一緒に走り回って育った母は、じっとしている事が出来ない性格だった。
手と足と目と耳と口と頭と・・彼女は一度にいくつもの器官を動かした。

九子が中学生頃、最後の、定時制高校に通う学生のお手伝いさんが居なくなり、当時脳溢血で倒れて寝たきりだった祖父16代十兵衛の介護をしながら、年間に三万個という元祖雲切目薬を、たった一人で作り続けたのが母だ。

今と違って介護保険などというものも、やれデイサービスだ、ショートステイだなどというものも皆無の時代だ。
大柄な十兵衛さんをお風呂に入れるのだって、小柄な母一人の手には負えず、きたさんが手伝いに来てくれて廊下の天井に這わせたロープに十兵衛さんがつかまって、風呂場まで歩けない足を歩かせて連れて行ったものだ。

介護する方はもちろん、介護される方だってそれはそれは大変な時代だった。
出来すぎ母が居なかったら・・と申し上げる意味が少しはわかって頂けると思う。

母と九子の生まれる順番が変わっていたとしたら・・・と、九子はおぞましいことをいつも考える。(^^;;
もしもそうであったなら雲切目薬は今頃、絶対にこの世に存在してはいないのだ。

母は何でもござれの万能選手だから、順番が後でも先でもうまくやったに違いないが、九子の場合はどう考えても、今のこの展開でしか出て来てはいけない人間だ。

それなのに、九子の場合はいいとこ取り。自分で何をやったという訳でもないのに、テレビや本に大きく取り上げてもらっている。それもこれも、九子の強運のなせるワザか・・。(^^;;


出来すぎ母が辛くて泣いたのを見たことが無い。思い出の中の母恭子は、いつでも満面の笑みだ。

母にかかると、どんな仕事も喜びの種になるらしかった。
何十工程もある元祖雲切目薬作りを機械一廻しにつき1500本分となると、何十×1500回の手数がかかる訳で、九子には一廻し分すら一生かかっても出来そうに無いが、母はいつでも楽しそうだった。鼻歌まじりに、何の苦も無く、一人、気の遠くなるような作業を続けていた。

元祖雲切目薬の箱を折るくらいは九子も手伝った。「九子は箱を折るのが上手だねえ。」とおだてられて、言われるままに手伝った。

母はきっと人を使うのも上手だったのだと思う。
九子の高校時代の友達も、結婚前のM氏も、「あの頃遊びに行っては目薬作りを手伝わされた。」と口々に言った。

井形慶子さんが取材に見えられた時「母は当時、台所で雲切目薬を作っていることもありました。良い時代でした。」とお話しすると、「まあ、素敵!」と言われた。

素敵・・かどうかはわからないけれど(^^;;、とにかくいい時代ではあった。
元祖雲切目薬は、どんなところで作ろうが、もしもバイ菌が入り込んだとしても、バイ菌がよもや生息出来ないほど酸性が強くて沁みる目薬だったのだ。

昭和60年に薬事法が変わった。

目薬は医薬品であるから、製造する工場は、無菌室を備えた何十億円もする近代工場でなければならず、目薬の成分も厚生省が決める以外の成分を用いる場合には、一成分につき何百例の動物実験をして、有効性を証明しなければならない。

何十億などというお金があるはずもなく、元祖雲切目薬の成分はほとんどすべてが決められた以外の成分だった。

この法律によって、1300種類の家伝薬、民間薬が消えていったという。
その中で、雲切目薬はなんとか生き延びた唯一といってもいい幸運な例だそうだ。

すべては母のおかげだった。
自ら目薬を作ったことの無い父は「まあ、これも時代の流れだ。俺の代で止めにしよう。」とあっさりしたものだった。
それを「それではあまりにももったいない。」と覆して、復活を願って今の会社に相談を持ちかけたのが出来すぎ母だった。

  •  
    井形さんの本に母の俳句が一句出てくる
  • 「向日葵(ひまわり)を咲かせ鍵などいらぬ村」

 

イギリス流と日本流 こだわり工房からの贈り物 心豊かに暮らすための12のリスト

 

イギリス流と日本流 こだわり工房からの贈り物 心豊かに暮らすための12のリスト

  • 作者: 井形慶子
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2012/10/19
  • メディア: 単行本
   
九子が住んでる善光寺近くのこの辺りは治安もよく、八百屋のおじさんがしじゅう目を光らせてくれているせいもあって、夜中にうっかりシャッターを開けっ放しにしていた事もあったし、郵便局に行くのに鍵をかけなくても泥棒に入られたことが無い・・みたいな話のついでに、母の句を思い出したので詠んでみたら、本に載せて下さった。

たぶんこの句も「NHK俳壇」か、鷹羽狩行(たかはしゅぎょう)先生主宰の「狩」かなんかに取り上げられた句だと思う。

出来すぎ母は生涯に3000句近くの句を残した。残った分だけで3000句だ。
始末の良い母は亡くなる数年前に、ぎっしり句が書き込まれた青いノート一冊を残して、自分の句が載った「NHK俳壇」や「狩」などの雑誌をばっさりと捨て去った。

あんなに忙しい生活の中で俳句なんていつ作っていたのかと思う。

母の俳句と社交ダンスは年季が入っている。
どちらも東京の癌研病院に勤めていた時に薬剤部長さんから教えられたものだそうだ。

彼女の俳句にはドラマがある。人間の感情が炙り出されている。悪く言うと皮肉な感じ。
それが凄いと思う。

たとえば、平成2年1月の同人誌に寄せた句を書いてみる。
(これらは特選に選ばれたりした特別な句ではない。)


「冬苺」
冬苺つぶす戦後を生き抜いて

枯芦を折ればぽっきり骨の音

からくりは裏の裏なり菊人形

一件は知らぬ存ぜぬ頬かむり

一茎を矯めつ眇めつ菊花展

夕暮の落葉を急かす珠算塾

外套の衿立て腹の探りあひ

買ふ気などさらさら無くて毛皮展

洒落気など二の次セーター腕まくり

冬灯や昔ながらの理髪店

 

「日本三大車窓」で有名な姨捨(おばすて)の高台にある公園に、たしか「第一回おばすて句会」で一等を頂いた母の句が刻まれている句碑がある。 

「月の出て棚田の水の動き出す」 

 

そういえばNHK俳壇で入選し、鷹羽狩行先生にテレビで寸評を頂いた句もあった。

「風鈴に間といふもののありにけり」


狩行先生は「大変うまい句で、もっと言ったらどこかで見たことのあるような・・。」という意味のことをおっしゃった。

母はこれを聞いて激怒した。「失礼しちゃう!誰かの真似なんかしていないのに!」


この時の母の怒りは筋が通った怒りだったが、実は母は割と気分屋で、理屈の通じないところがあった。

理屈が通じないというのは一番強いのだ。
理論整然とあの手この手で攻めてみても、「ダメと言ったらダメ!」と母に一言言われたら、すごすごと引き下がるしかなかった。

口八丁手八丁のところが母と良く似ていた末娘のM子は、似たもの同士だったせいかよく母と対立しては怒られたりもしたものだから、こういう母のことを「自己中(ジコチュウ)」と批判していた。

ちなみに母は「そのものずばりのB型」で、末娘は「らしくないA型」だ。

「それっぽいA型」の長男も、父母が口げんかしているのを見ては「あれはじいちゃんを怒らすようなことをいつも言うばあちゃんが悪い!」と言った。


子供たちに何と言われようが、母には誰かの役に立とうとする何とも言えない温かみがあった。
それは、頭で考える前に手が動いてしまう温かみだった。

母は誰にでもよく話しかけたし、誰かが困っていると必ず手を貸した。
九子みたいにまず自分の事すらまともに出来ない人間には、母のようにしろと言われても出来ない相談だった。
何人分かの余力のある母だからこそ、人の分まで手を出して、一人娘の分は尚更手厚くして、挙句の果てに一人娘は自分の事も自分で出来ない半人前以下人間になってしまった。(^^;;

 

すゑさんの話のなかで、すゑさんは16代十兵衛さんに護られて生きたと書いたけれど、出来すぎ母恭子の場合は、逆に父17代十兵衛を護り抜いた一生だったと思う。


雲切目薬には、実は日記には書けない秘密の大事件があって、その修羅場で父十兵衛を護り抜いたのも母だった。

母は私という一人娘が出来ると、自分の事を「ママ」と呼び、父のことを「パパ」と呼んだ。
一人娘が孫を産むと、ほどなく「ママ」は「おばあちゃん」に代わり、「パパ」は何のためらいもなく「おじいちゃん」になった。

そう言えば以前

「名前を忘れた女神」というテレビドラマがあって、子供が生まれると「○○ちゃんのママ」としか呼ばれなくなる若い母親たちの葛藤を描いて評判だったが、出来すぎ母は最初から、誰かの母であり祖母であるというだけの存在を受け入れて、満足していたように思う。

母と口げんかばかりしていた父が平成18年4月10日に87歳と一月足らずで亡くなった。
前夜に腹痛を訴えて、自分の足で歩いてM氏の車に乗り込み、救急車ではなかったのでずいぶん病院で待たされた。

痛い痛いと騒いで暴れていて、とりあえず痛み止めの注射をしてもらい、どうやら消化管から出血しているらしいので今日はこのまま入院しましょうと言われて、父を置いて九子とM氏が深夜に家に帰りついた途端に、急変したと電話がかかってきた。

「急変」という言葉が「亡くなった」と同義語であったとわかったのはこの時だった。状態が急に変わったと言う意味だから、危篤かもしれないが当然生きているとばかり思っていた。

心不全だった。


母にはしばらく父が亡くなったことを内緒にしていた。そんなに長時間内緒にもしていられないので意を決して話をすると、母は「まあ、そう。」と言った。
その言葉に込められた母のいろいろな気持ちを察することは出来なかった。

母はかなり弱っていた。
母が父の葬儀に出ることは最初から無理だと誰もが皆思っていた。

母が父に最後に会ったのは、納棺の時。それも遠くの方から眺めただけだった。

 

その夜、九子は母の隣で寝ていた。ついこないだまで父が寝ていた母の左隣のベッドだ。

夜中に母の声で目が覚めた。
母は寝言を言っているようだったが、すごくはっきりした声だった。

「てるちゃん、おじいちゃん、亡くなったんだよ。ついさっきね。私の腕の中で・・・。」

てるちゃんというのは、母のすぐ上のお姉さんの名前だ。どうやら彼女に電話をかけているつもりらしかった。

おじいちゃんというのは、言うまでもなく父のこと。
私の腕の中で・・というところだけが現実と違っている。

ああ、母は父が自分の腕の中で死んでいくことを想定していたのだなあと思った。

父と母は8歳違いだ。
普通に考えたら老いて行く父を元気な母が最後まで看病して、家の布団なり、病院のベッドなりで父を見送る時には、母が枕元の父に一番近いところにいて、頭を抱き寄せていたに違いなかった。

だがその大事な役割を、母は果たせなかったばかりでなく、お葬式に出ることも叶わなかった。
何も言わなかったけれど、母はさぞや無念だったのだろう。


母が亡くなったのは、父が亡くなったのと同じ年の12月6日だった。まるで父を追いかけるようだったし、母は自分がこうと決めたことは絶対に譲らないはっきりしたところがあった。
父が亡くなったのを知った時、母はもう決めていたのかもしれない。


母があちらに行った時、父が母に投げかけただろう第一声が、九子には手に取るようにわかる。

「何やってんだやあ、恭子のやつ!こんな早くにこっちに来ちまって!
 せっかく俺が40年間市会議員をやって貯めた年金を、お前がちゃんともらってやって九子に渡 してやらなけりゃあ、九子のやつがもおらしい(可哀想)じゃねえか。まだまだ孫たちに学費がかかるんだから。まったく、おっとぼけ(ばか)だなあ。」

 もう誰も使わない長野弁で、父はしょっちゅう、母には「九子がもおらしい。」、九子には、 「ママがもおらしい。」と言い続けていた。

ちなみに父は「ど真ん中の、そして陽気で人情家のA型」だった。

 

雲切目薬を作り続けてきたのは代々の笠原十兵衛ではなくて、その妻たちであった。

要職につくことの多かった十兵衛に代わって、「目がつぶれるほど沁みる」と言われた元祖雲切目薬で万が一の事故があった時に十兵衛に責任が及ばないように、妻たちが黙々と何千何万と言う数の雲切目薬を作り続けた。

その中でも一際(ひときわ)、活躍めざましかったのが九子の出来すぎ母、17代笠原十兵衛の妻恭子だった。


16代笠原十兵衛と妻すゑさんのこと、17代笠原十兵衛と妻恭子のこと、九子にとってはそれが元祖雲切目薬の歴史のすべてである。

そして彼らの生き様は、もしかしたらありふれた戦前の日本人の夫婦の典型であったかもしれないし、あなたのお父様お母様、おじい様おばあ様の中に何千何万とあるその時代の夫婦の平凡な話に過ぎなかったのかもしれない。

戦争は彼らの生き方に大きな影を落としたが、彼らの人間性に強さや美しさという魅力も加味した。

戦争やそれに続く逆境を耐え忍んだ彼らの凛とした美しさは、残念ながらただ漫然と現代人のDNAには乗っからない。
苦労の無い時代に生まれた九子から下の世代の日本人には、どう逆立ちしても真似の出来ない部分だと思う。

まあ、それが人生の醍醐味っていうものかもしれないのだけれど・・・。


九子の五人の子供たちのうち、上三人の男どもは早々に「家は継がない。長野には帰らない。」と宣言した。そして下の娘二人が薬剤師になるべく薬学部に通っている。

そして「どこに就職しようとも、いつか必ず長野に帰って来て家を継ぐからね。」と嬉しいことを言ってくれている。
(それが一番楽ちんな道であることは、お気楽母の毎日を良く見ていればすぐにわかる。(^^;;)

「女たちの一子相伝」 形だけはどうやら整いつつある我が家だけれど、さて、どうなりますことやら。( ^-^)


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