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井形慶子著「イギリス流と日本流 こだわり工房からの贈り物」に書かれなかった祖母すゑさんの話 [<薬のこと、ダメ薬剤師のこと、家のこと>]

☆10月の末に発刊された井形慶子さん著「イギリス流と日本流 こだわり工房からの贈り物」という本の中の日本編トップの第7章に「女たちが作った一子相伝の目薬」ということで雲切目薬が取り上げられました。

たまたま九子は軽症ウツの最中でしたので、正式にお知らせするのが遅れてしまい、申し訳ありません。

井形さんは470年、と言っても九子が知るのはわずか100年に満たない雲切目薬の歴史の中で、その肝心肝要なところを上手に取り上げて本にして下さいました。心から感謝申し上げます。

「九子のブログ」にまで触れて頂きましたので、万が一御本からこのブログにおいで頂いた方もおありかと思いまして、本日は彼女の本の続編のような、彼女にお話し切れなかった九子の祖母すゑさんのお話をしてみようかと思います。

イギリス流と日本流 こだわり工房からの贈り物 心豊かに暮らすための12のリスト

イギリス流と日本流 こだわり工房からの贈り物 心豊かに暮らすための12のリスト

  • 作者: 井形慶子
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2012/10/19
  • メディア: 単行本

 

16代笠原十兵衛夫人すゑさんのことは今まであまり書いたことが無かった。
九子の祖母すゑさんは、九子が8歳の時に亡くなっているし、亡くなる前も長いこと喘息で臥せっていて、あまり顔を合わせることが無かった。

いきおい記憶もおぼろげで、おばあちゃんと一緒の記憶と言ったら、3~5才の頃に宇奈月温泉に連れて行ってもらって、トロッコ列車に乗せてもらったことが最大限に華々しい思い出で、あとは、夜、家からほんの数百メートルのところに当時はじめてアーチ型の商店街のネオンサインが灯って、それを着物姿のすゑさんにおぶわれて見に行ったようなはかない記憶くらいしかない。

九子にはすゑさんよりもずっと近しい人がいた。「あうわん」という呼び名がついた、すゑさんよりも十以上若い、言ってみれば九子の乳母さんみたいな人だ。

母は忙しかったので、九子は四六時中「あうわん」に世話をしてもらっていた。
「あうわん」という呼び名は九子がつけた。赤ん坊が母親を「うまうま」から「まま」と呼び始めるように、幼い九子がいつとはなしに彼女を「あうわん」と呼び始めたのを、大人たちも真似して「あうわん」と呼んだ。

彼女は東京から疎開して来たおしゃれな人で、当時我が家のすぐ裏側に住んでいた。
痩せてとがった体つきのすゑさんとは対照的に、ふくよかな体型の色白な人だった。
そして世話好きな人情家でもあった。

「あうわん」はすゑさんのお供係りもしていたので、宇奈月温泉には「あうわん」も同行した。
いつでも「あうわん」と一緒の九子には、せっかく一緒に行ったすゑさんの記憶は薄い。


そういえばすゑさんに、近くの映画館に映画を観に連れて行ってももらったことがあった。

当時わずか5歳くらいの九子は、一丁前に「ユウチャン、ユウチャン」と呼んで、石原裕次郎がひいきだった。(^^;;

後から考えたら、あれはきっとすゑさんか、「あうわん」か、お兄さん店員のイケちゃんか、当時18歳くらいだったお手伝いのハルミさんの影響だったに違いない。

当時は九子のまわりに、たくさんの大人たちがいた。そして九子はいつの間にか、いろんなことを自分でやらないで大人たちにやってもらう癖がついてしまっていたのだと思う。


すゑさんが美人だったのは誰もが知るところだ。
海底から金貨を引き上げて有名になった賢造さんの奥さんYさんに言わせると「マリーネ・デートリッヒ似の美人だった」ということになる。

それが父の言葉を借りると「まあ、色は黒かったけれどな・・・。」になり、さらには、「おやじさん、顔ばっかりに惚れて結婚したんで、あとになってえらく後悔してたんだぜ。」となる。

父の話ばかりを聞かされて育った九子は、気の強いすゑさんが、芸者さんにモテて甘い顔をしていた16代十兵衛さんを頭ごなしに叱っていて、十兵衛さんは頭を抱えてすゑさんの怒りがおさまるのをこらえていたという光景ばかりが浮かび続けていた。


ところがある時、我が家の歴史の語り部であり、井形さんの本では「庭の掃除をしてくれている86歳のお手伝いさん」として登場するきたさんが、まったく違う話をしてくれた。

「おばあちゃんはねえ、本当に働き者だったんだ。真面目で、っていうよりも生真面目で、曲がったことが大嫌いで・・。きっと真面目過ぎたんだなあ。

俺はさあ、おばあちゃんに銀行の通帳を作ってもらって、節約してお金を貯めなさいと教えてもらったんだ。おかげで店を持つことも出来た。有難かったなあ。

おじいちゃんは当時、長野市の市会議長なんていっても「名誉職」って言って無給だろう?
それなのに毎日のようにお客さんは何人も来るは、その度に西洋料理やうなぎや、そばや、天ぷらや田楽や、取り寄せては食べさせていたんだから、いくら雲切目薬が売れたって足りないくらいお金がかかったんだよ。

その上、選挙は今よりずっと大変だった。酒の接待なんか当たり前だった。おばあちゃん、本当に朝早くから夜寝るまで良く働いたんだよ。
あんなに美人でも、自分の着物なんかほとんど買わずに、ふだんは継ぎの当たった地味な着物を着て、贅沢な着物なんかそう何枚も持っていなかった。

おばあちゃんはねえ、真面目過ぎたから病気になったんだと思うよ。
喘息もそうだが、うつ病にさあ。」


そうなのだ。九子のウツはすゑさんにつながる。
父はじめすゑさんの3人の息子たちも、九子の5人の子供たちも、誰も、家系でうつ病は他に居ないのに、ただ一人、九子だけがウツを継いだ。


すゑさんが真面目過ぎたという話は、その通りだと思う。

九子の記憶の中で、雲切目薬の成分表には載っていない高価な金箔を惜しまず入れていたのはいつもすゑさんで、母恭子が入れていた記憶は無い。

ひょっとしたら母もちゃんと入れていたのかもしれない。でも、そうでなかった可能性も感じさせるところが母にはあった。

利に聡い人だったからだ。(^^;;

すゑさんはその点、杓子定規に、疑問も抱かず入れていたのだと思う。何しろ真面目を絵に描いたような人だったそうだから・・。

確かにそういうのをうつ病になり易いタイプ、「うつ病親和性性格」と言うらしい。

もっとも、きたさんは九子の病気をおばあちゃんと同じなどとは絶対に信じちゃあ居ない。
「おばあちゃんのはよっぽどひどかったさあ。ぜんぜん違うよ!」


もちろん九子とて、どうせ継ぐならすゑさんの美貌とか、勤勉さとかをなぜいっしょに継がなかったものか、それらのどちらかでもを継いでいたなら、合わせ業(わざ)でウツがあってもまあ許せたのになあ・・と、考えてもしようもないことを考えたりする。

すゑさんのウツはきたさんの言うように過酷だった。
母も祖母が何度も庭の井戸のつるべのところで首を吊ろうとしていたのを、すんでのところで制した事があったそうだ。

当時ウツに有効な薬はまだ何も無かった。トリプタノールも、トフラニールも、アナフラニールもリーマスも、日本で認可されたのはすゑさんが亡くなる少し前の頃だ。

療法と言ったらただひとつ、電気ショックだけだった。
脳に軽い電流を流す衝撃を伴う治療法で、現在も薬の効かない難治性のウツ病には使われている。

すゑさんは、それをとても嫌がったと言う。
無理も無い。聞いただけでも恐ろしい。
それをウツが来るたびに何度もされるのだから、怖さ、痛さがわかる分だけ尻込みするのはよくわかる。

長野では当時まだ電気ショックをしてくれる病院が無かったので、すゑさんは次男のK叔父さんが勤めていた東京の日本医大の病院に通った。

その時いつもすゑさんに付き添っていたのが16代十兵衛さんだったのだという。

きたさんの話ではおじいちゃんはすゑさんにこう言ったのだそうだ。

「おまえが死んでしまったら、おれはどうやって生きていったらいいんだ!
おれがついてるから、大丈夫だから、頼むから治療を受けておくれ!」

この16代十兵衛おじいちゃんとすゑさんの件(くだり)になると、きたさんは決まって声を詰まらせ、恥ずかしそうに涙を拭いて、「いや、今日も長居しちまったな。」と言って席を立ち、話半ばで帰っていく。

さすがに年とともに繰り返しが多くなったきたさんの昔話だけれど、そんな訳でこの話はいつでもここでおしまいで、ここから先は聞いたことが無い。

 

すゑおばあちゃんが亡くなった時、十兵衛おじいちゃんは九子の所に来て「おばあちゃんがちんぷなさったんだよ。」と言った。なぜだかひどくその言葉だけが頭に残っている。

ちんぷってどんな漢字だろう?そしてどういう意味だろう?
今で言うありきたりと言う意味の「陳腐」という言葉に、死ぬという意味があるのだろうか?
それに確かに「なさった」という敬語がついていた。

意味はわからなくても、おじいちゃんにとっておばあちゃんは、誰より大切な人だったんだろうとなんとなく思う。


美人薄命とか薄幸の佳人とかよく言われる。
喘息やうつ病で長く病んでいたすゑおばあちゃんには長いことそんなイメージがあったのだけれど、きたさんの話でそうじゃなかったことがわかった。

すゑさんは、確かに苦労の多い人生だったかもしれないけれど、十兵衛おじいちゃんに愛されて、護られて生きてきた。

女の人生にはたった一人、中には二人も三人もの人もいるだろうけれど、その時々にはたった一人だけ、命懸けで護ってくれる男が居たならば、彼女の人生は決して不幸ではないと思う。

仏壇の上にかかる16代十兵衛おじいちゃんの写真の隣のすまし顔のすゑおばあちゃんの顔。

九子にうつ病があることがわかってから、不思議とすゑさんには親しみを感じるようになった。
特にウツが来た時は、おばあちゃんの顔が見たくなる。
「薬も無い頃、辛かったね。すゑおばあちゃんは我慢強かったね。よく頑張ったね。」

そうするとすゑおばあちゃんが、口元を少々緩めてこう返す。
「あんたはいいねえ、いい薬があって。それにMさんも優しいし・・。
 雲切目薬のこと、頼んだよ。私もおじいちゃんも、パパもママも応援しているからね。」

 


雲切目薬を作り続けてきたのは代々の笠原十兵衛ではなくて、その妻たちであった。

要職につくことの多かった十兵衛に代わって、「目がつぶれるほど沁みる」と言われた元祖雲切目薬で万が一の事故があった時に十兵衛に責任が及ばないように、妻たちが黙々と何千何万と言う数の雲切目薬を作り続けた。
それは井形慶子さんではないが「女たちの一子相伝」とも言えるものだった。

元祖雲切目薬は祖母すゑさんから母恭子へと伝授された。だが、母恭子から九子へは、伝授される前に製造中止が決まってしまった。

それは今考えると、我が家にとってはもちろんのこと、日本中の人々にとって大変幸運なことだった。
九子が万が一目薬を伝授されて作らなければならなくなっていたとしたら、それこそ雲切目薬は、なんらかの事故のために今頃存続してはいなかったと思われるから。(^^;;

九子に出来るのは、元祖雲切目薬の最後の生き証人として、祖母や母の苦労を世の中の人々に伝えることだけだ。

苦労だけではなくて、彼女たちの何気ない日常のほっこりとした幸せや、飾らない笑顔のひとつずつでも感じ取って頂けたら幸いに思う。


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高村薬局 [<薬のこと、ダメ薬剤師のこと、家のこと>]

出来すぎ母の実家「高村薬局」は、長野県千曲市稲荷山(ちくまし いなりやま)に今もある。(ちなみに雲切目薬がここでも手に入ります。( ^-^))

九子はいつも家にばかり居たがる子供だったが、母に連れられて何度か訪ねた稲荷山の家の事は子供心に良く覚えている。

小さい頃の記憶しかないけれど、黒光りした高い梁が屋根の高さ位にあって、土間のすぐ脇に障子も襖も無い居間があって、居間を見下ろすように作られた大きな神棚があった。

障子も襖も無かったのは天井が高すぎるからで、どんなサイズのを持ってきたってどうやったって届かない!居間では皆が着膨れてコタツを囲んでいた記憶がある。
あの構造じゃあいくら暖房しても暖かい空気はすぐに逃げていくから、冬は寒かっただろうなあ。

薬局の真ん中には童謡に出てきそうな大きな振り子の時計があり、二階に続く階段は、側面が箪笥になっている大きな漆塗りのもの。それと当時でも珍しかった手でハンドルを回すタイプの黒電話が、まるで宝物のようにガラス張りの「電話室」の中に格納されていた。

そして庭を臨めば、重い扉に覆われた古い蔵があって、出来すぎ母は鵜の目鷹の目で中のお宝を狙っていたっけ。(^^;;

稲荷山は昔、生糸産業でたいそう栄えたところだと聞く。

母も兄弟7人の6番目だけれど、薬大にまで出してもらい、何不自由無い生活をさせてもらっていた。
もちろんそれは高村薬局を継いでもらおうという思惑だったはずなのだが、母が笠原家に嫁いでしまったため、母にかけたお金は丸ごと無駄になってしまった訳だ。(^^;;

その代わり、母が来てくれた我が家のほうは、棚からぼた餅状態である。( ^-^)

実は母の兄姉はみんな母親の縁が薄くて、母の実母だった人も、優しかった後妻さんも、若くして癌で亡くなっている。

二人とも東京の癌研病院で当時最高の治療を受けさせてもらっていたそうだから、物凄いお金がかかったのだろうと思うが、それが出来るだけの財力もあった訳だ。

その誰よりも愛妻家だった「稲荷山のおじいちゃん」が今日の主人公だ。

おじいちゃんはいつも光沢のある着物に黒い足袋を履いていた。今考えると上等な絹の着物だったんだろう。冬でも中にらくだのシャツを着て、綿入れ半纏(はんてん)くらいで過ごしていたのだろうと思う。

うちの16代十兵衛さんもそうだけど、明治の人は本当に我慢強くて逞しかった。そんな環境で80歳を越える年まで生き延びた。

稲荷山のおじいちゃんは千葉大の薬学部を出ている。

現代に至っても千葉大の薬学部を卒業すると言うのは、薬剤師にとっては東大を出るくらいに凄い事なのだ。ましてや明治時代にだ。


だけど九子は小さくてそんなことわからないから、ガリガリに痩せて体中の血管が蛇みたいに浮き出た腰の曲がったおじいちゃんを見るたびに、ちょっと鉤鼻の魔法使いのおじいさんをいつも連想していた。

おじいちゃんの瞳の色は変わっていた。
あんまりいろんな物に気づくということの少なかった九子が気づいたくらいだからよっぽどだ。

どこか緑がかったというか、ブルーがかったというか、日本人の標準よりも淡い色をしていて不思議だった。

出来すぎ母にもそれはちゃんと受け継がれていて、モテ期の長かった母の武器のひとつになっていたようだ。(^^;;
(残念ながら九子には伝わらなかった。)

魔法使いのおじいさんと違うのは、稲荷山のおじいちゃんはいつもしわだらけの顔をくちゃくちゃにしてニコニコと笑っている優しいおじいちゃんだったことだ。
いつも満面の笑みで、怒った顔など見たことが無かった。

それでも魔法使いのおじいさんというのは、ある意味当たっていた。

出来すぎ母の話だと、おじいちゃんは戦争中のなんにも無いときに、薬局に常備されている試験管やビーカーやアルコールランプなんかで、飴やカルメ焼き、キャラメルやチョコレートまで、作っては子供たちに振舞うのを楽しみにしていたらしい。
(坐薬を作るのに使うカカオ脂は、チョコレートの原料でもある!)

ただのお砂糖が飴やキャラメルになるのを見れば、それはもう魔法以外の何物でもないと子供たちは目を輝かせたことだろう。


母は稲荷山で、男の子たちと一緒になって野山を駆け回って育った。
大人になって母みたいになんでも出来る人間になるためには、小さい頃に野山を這いずりまわってエネルギーと生きる知恵みたいなものを蓄えておく必要があるんだなと九子はいつも思っていた。

男勝りのおてんばで、乙女(おとめ)という母の本名とは似ても似つかない子供だったようだ。

だから母は嫁いでからすぐに「恭子」という名前に改名した。
本当のところ乙女には「お留め」つまり六人目ともなるともうこのくらいで子供は要りませんからこれで最後にして下さいという願いがこもった名前だった事に、誇り高き母は屈辱を感じていたのかもしれない。

それほど優秀な父親を持っていても娘である母にはその遺伝子が伝わらなかったためか、遊ぶのに忙しかったのか、とにかく母は千葉大ではなく東京女子薬専をめざすことになる。(^^;;

母は見事合格を果たすのだが、跡取りのY叔父さんの話によると、「おやじさんは松代(まつしろ)の恩田重信さんとこへ高そうな掛け軸を何本か持って行ってはいろいろ頼んでたぞ。あれが効いたんじゃないのかな?」という事になる。(^^;;
 
ちなみに恩田重信さんというのは、明治薬科大学の前身である東京女子薬専の創始者である。
( ^-^)

現在はY叔父さんが薬剤師の叔母さんと結婚して、高村薬局を守っている。

 

九子は長いこと、高村の親戚とは疎遠だった。
東京近郊に出てしまっている母の姉や兄たちの子供たち、つまり九子の従兄弟に当たる人々のことなど、顔も知らない人がたくさん居た。

ところがある時、そういう中のお一人と是非とも連絡を取らなくてはいけない事態が生じたのだ。

あれはもう2年前になろうか。
息子が、大好きなバンドのライブが何年かぶりに長野であるというので、どうしても行きたがっているのを知った。

当時彼とは少々ぎくしゃくしていて、ちょっと点数を稼ぎたいという思いもあって、会ったことも、話したことも無いその親戚の住所を散々尋ね回って、雲切目薬をお送りして(^^;;お願いをしてみたのだ。

「息子とはあまり話さないんでねえ・・。」と言いながら、その方はわざわざ息子さんに連絡を取って下さり、長野でのチケットを、うちの息子は特別枠で手にすることが出来た。
息子は小躍りして喜んだ。本当に有難かった!

その方こそ、「息子を大学まで出したのに、ロックバンドなんかやっていて困ってるんだよ。乙女ちゃん、なんとかならないかねえ?」と事あるごとに母にぼやいていたという彼だった。

高村、いや篁(たかむら)と言ったらおわかりだろうか。

そう、九子がお願いしたのは、聖飢魔Ⅱのルーク篁さんのお父様。母とお父様が従弟になるので、九子はルークさんのはとこに当たることになる。もちろんあちらはまったく知らない。(^^;;

このあいだルーク篁氏の ウィキペディアを見ていたら、こんな記述があった。


Sgt.ルーク篁Ⅲ世とかつて名乗っていたルーク氏が初めてメディア露出をしたデモタカビデオジャムにおいて一世は薬屋、二世は電気屋と説明を行った。[要出典]。

この一世の薬屋こそがまさしく、九子の母の実家である長野県千曲市稲荷山にある「高村薬局」に間違いないんである。( ^-^)

(ちなみに[要出典]とあるところ、連絡した方がいいのかしら?)


おかげさまで、息子とはその後よりを戻すことが出来た。この時の点数が大きかったと思っている。(^^;;

彼はアマチュアロックバンドのボーカルをやって居るので、ルーク篁氏のギターテクニックには一目も二目も置いている。そして、憧れている。

そういう若者がいかに多いかというのを、聖飢魔Ⅱのチケットがとんでもなく取り難いという事実が証明している。

だから、きっと今ではお父上は、ルーク篁氏の現在も将来にも安心し切っていらっしゃると思う。

でも当時のお父上の切ない気持ち、九子も今になってよくわかる気がする。

なんといっても日本の国では、大学を出てまともな会社に入るというのが自分のためでもあるし、何よりの親孝行と考える。

大学は出たけれど、ロックバンドをやると決めた。
大学を出て就職したのに、会社を辞めてあても無く海外に行きたい。

こういいうことを息子に言われるとドキッとするのは、日本人の親なら同じじゃないのかな?

実は次男は就職仕立ての頃からマグマを抱えていた。半年に一度くらいの割合で、このマグマが吹き上がる。
「オレはこんな仕事をするために会社に入ったんじゃない!あ~、海外行きてえ。」

一部上場企業ではあったが一流企業という訳ではなかった次男の会社が、誰もが知る大企業の完全子会社となり、しかも営業ではなくて開発と言えば名刺を渡せばそれなりに驚かれ、だけどネジ一本や人の目に触れない回路の設計を地味に毎日続けていくだけの気構えは無く、三男なんかに比べればずっと優遇されているお給料を投げ打ってまで、先の見えない海外生活の夢に賭けようとする彼。

「いいよ。別に。君の人生だもの。やりたいようにやったらいいよ。」と心の底から言ってやりたい。
だけど君の準備不足と、マグマがいつもすぐに冷えてしまうように見えるのがどうにも心配なんだよね。

ねえ、魔法使いの稲荷山のおじいちゃん!
おじいちゃんの瞳のような不思議色した魔法の玉で、お願いだからあの子の未来を占ってよ。
あの子がより幸せそうにしている方に賭けてみるからさあ。( ^-^)

 


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年賀状2012 [<薬のこと、ダメ薬剤師のこと、家のこと>]

明けましておめでとうございます。ことしもよろしくお願い申しあげます。m(_)m

新年早々更新をさせて頂くつもりが、ふだん居ない子供たちがぞろぞろ帰って来て急に「九子さんちの大家族」になるとふだんの3倍ほどの仕事量になり、精も魂も尽き果てて長時間のお昼寝が必要だったり致しましてこんなに遅れてしまいました。どうかご容赦を。

さて、まず新年恒例の年賀状のお披露目から・・。

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迎春

辛く悲しいことの多い一年でしたから、今年こそ明るい希望の年となりますように。
薬局の一番の収穫は、長年の謎であった元祖雲切目薬「一子相伝」の材料の中身がわかったことです。たまたま薬局にいらっしゃった薬科大学の先生が分析して下さいました。
また、雲切目薬が地元テレビで取り上げられ、今回は林家三平さんとお忍びで佐智子さんもおいで下さいました。
タウンページのCMに出てくる海老名香葉子さんが丹精込めて
整えられたおうちの中で、ムーミン一家のように仲睦まじく暮らしていらっしゃる様子が目に見えるようで、少なくとも「蛯老名さん家のちゃぶ台」返しは有り得ないと思います。
還暦を迎えたM氏は、娘二人の薬大の学費が肩にのしかかり、
夢に描いていたリタイアもままならず意気消沈しております。
息子3人もそれぞれの道を可も無く不可もなく歩んでおります。
今日も昨日と同じように生きていられる幸せをかみしめたいと思います。             平成24年 元旦


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「一子相伝(いっしそうでん)の石」というのは、薬局の古い薬箪笥に入れられた得体の知れない石のことです。
古い安物の茶封筒に「一子相伝 シンジュ」と書かれて長いこと入っていましたが、それが代々の店主にしか伝えられなかった元祖雲切目薬の秘密の原料であったこと以外、まったくの謎でした。

その石は青みがかった灰色をしており、直径1cmくらいの小ぶりな石で、砂利みたいにたくさん入っています。触ると白い粉が指につく、チョークと石の合いの子みたいなたぶんもろい石です。

それが旧式の(B4)茶封筒の三分の二ほどあったのですが、九子が勝手に偉い学者さんと間違って、その上その人が「もっと入れろ、もっと入れろ。」と言っているのだと勝手に解釈して、その人の連絡先も訪ねずに100グラム以上を渡してしまったため、現在は茶封筒の半分くらいになってしまっています。

それでもすぐその後に偶然薬局においでになった帝京平成大学薬学部の鈴木重紀先生が、わずか5グラムほどをお持ちになったきりで長年の秘密を現代の精巧な分析の機器により解明して下さいました。心より御礼申しあげます。
m(_)m

石の中身はほとんどが亜鉛で、ごくごくわずか水銀が入っていました。

亜鉛というのは元祖雲切目薬の成分中に多量にふくまれています。たとえば硫酸亜鉛、たとえば酸化亜鉛、それらは雲切目薬の主要成分の一部です。

実は「ごくごくわずかの水銀」というのがミソなのです。

当時善光寺の近辺には郭(くるわ=遊郭)がたくさんあって、善光寺参りのお客さんや近隣の郭の無い地域からお客さんがたくさん来ていたそうです。(たとえば松本は武士の町なので郭などは無くて、松本からのお客さんも多かったとか・・。)

当然性病が蔓延するのですが、水銀は抗菌作用があるので性病、特に梅毒に良く効いたそうです。梅毒は目にも症状が出るため、目薬の中にごくわずかの水銀を入れた雲切目薬は目の梅毒の特効薬として珍重されたのではないでしょうか? 石のほとんどを占める亜鉛のほうはもともとの原料に混じってしまい問題ありません。 だからそれが、代々店主にしか伝えられてこなかった「一子相伝」の秘伝の石という訳です。

水銀は今ではその毒性のために医薬品に入れられることはなくなってしまいました。もしかしたら祖母は入れていたかもしれませんが、母は入れていなかったと思います。 考えてみると茶封筒の一子相伝の後に書いてあった「シンジュ」という言葉は水銀化合物を意味する「シンシャ辰砂」のことだったのかもしれません。

地元SBCテレビ(信越放送)では雲切目薬を特に良く取り上げて下さいます。
今回は長野市と松本市それぞれの名店を林家三平さんが訪ね歩くという企画で、長野市では笠原十兵衛薬局も取り上げて頂きました。テレビ局の方が「長野(市)といったら雲切目薬を取り上げないわけにはいかないでしょう。」と言ってくださったのが嬉しかった!
何しろ10年前は誰も知る人の居ない売れない目薬で、会計士さんからは「薬局閉めちゃったほうがいいんじゃないですか?」と言われる有様でしたから・・・。(^^;;


実は九子にとって三平さんはそんなに憧れる人でもないし(ごめん!三平さん!)、これがキムタクが来るとかだったら別だけど(^^;;、礼儀正しいまじめな青年が来て下さったという印象で平常心でおりましたが、最後のほうで大きなマスクで顔の大部分を隠しても唯一出ている目の美しさだけで只者でなさをすぐに感じるその人が来て下さった方がずっと心踊りました!

そう。当時週刊誌ではもう別れたとも報じられていた国分佐智子さんです。その日は東北大震災から一週間後。まだ東京でも余震がたびたびあった頃だったので、佐智子さんが不安がって急遽おしのびで取材に付いていらしたそうなのです。

佐智子さんとはほとんどお話しする暇もありませんでしたが、とにかく目だけで「すっ、すごい美人!」とわかるというのは並大抵ではありません。女優オーラというのでしょうね。

それから半年ほどして、実は実は安住紳一郎さんの「ぴったんこカンカン」のスタッフの方も来店して下さったのです。好感触だったのですが、小川村のおやきの取材で手一杯になって「今回はすみません。」という電話が来ました。残念!


林家三平さんの色紙を見て雲切目薬を買ってくださる方もいらっしゃるし、そんなお礼も込めてお手紙やら地元の果物やらをお送りするとそのたびにご丁寧なお心遣い頂いてびっくりします。

地元のぶどうを差し上げた時は、ご婚礼の引き出物のおすそ分けに預かりましたし、リンゴの時は三平さん直々にお礼のお電話を頂戴しました。 賢婦人で名高い母上様から乱れ一つない達筆でお手紙を頂戴したこともあります。

芸能界に詳しい方の口から、「林家一門は芸能界でも特別に義理堅い。」と伺ったことがありますが、こうやって直々に人と人とのつながりを大事にする姿勢を学ばせて頂けるのは光栄だったと思います。
来て下さったのがキムタクじゃなくて、安住さんじゃなくて、林家三平さんだったこと、感謝しています。
( ^-^)

賀状の通り、息子三人は三人三様の道を歩いております。
娘たちは試験に追われて大変です。

「この次いつ全員で会えるかわからないから、みんなで写真でも撮ろうか。」
と言いながら、結局いつも撮れずじまいです。

こうしてみると、子供たちと一緒に居られる間というのはわずか18年だけです。(都会だと22年でしょうか。)
最初からそれを考えて子育てが出来たら良かったけれど、後から気づいても遅いよって話です。
子供たちとはいつでも話が出来るという考え方は甘いのかもしれません。
今からまだ間に合うお父様お母様がた、どうかお子様が手元においでのうちにじっくりお話しておいてくださいね。( ^-^)


では皆様、今年もよろしくお願い申しあげます。 m(_)m

★長野県にお住まいの方々にお知らせです。1月 6日(金)SBCテレビ「3時はららら」で雲切目薬が放映されます。今回は芸人さんのX-GUN 西尾さんが来て下さいます。よかったらご覧下さい。


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保険薬剤師研修会 [<薬のこと、ダメ薬剤師のこと、家のこと>]

九子んちのそばにマンションが出来る。九子は心配でたまらない。

随分前から計画はあったのだが、この不景気でのびのびになって、たぶんこのままもう建たないんじゃないかって思われてたのだが、最近になってマンション販売のチラシが入ったり、笠原十兵衛薬局に雲切目薬を買いに来た人がマンション販売の人で、「ひとつよろしくお願いします。」と挨拶されたので本当なんだと思う。

まだ草ぼうぼうの荒地だが、マンション名ののぼり旗が並び、対抗するように反対派の人たちの「建設計画を見直せ!」やら「絶対反対!」やらの勇ましい黄色いのぼりが道路のあちこちに立っている。

マンションが出来上がればたぶん長野市で一番という位、善光寺に近いマンションになるはずだ。

最初の計画では13階建で、屋上は善光寺東側の城山に立つ老舗の割烹と同じ高さになるという話だった。
もちろんマンションのすぐ前の、こちらも小林一茶の時代からある本屋さんも一日中日差しから取り残されることになる。

ところでマンションのうんとそばって訳じゃなく、日照権の影響からも騒音の問題からもとりあえず外れている笠原十兵衛薬局の九子がなんで心配してるのかって?

それは簡単明瞭!
マンションが出来るって事は、人がいっぱい増えるって事でしょ?
新しく来た人ばかりだから、薬局って名前がついてる以上何も知らずに(^^;;笠原十兵衛薬局に処方箋を持ってくる人があるかもしれないじゃない!

えっ?普通の薬局ならそれは商売チャンスとばかり喜ぶところじゃあ?

普通の薬剤師さんがいる普通の薬局ならまあそうだけど・・・。
(なるほど!九子さんはダメ薬剤師。雲切目薬売ってるだけで、処方箋調剤は苦手だもんね。(^^;;)

たとえば子供が風邪ひいたときのシロップ剤。今はドライシロップという顆粒状のものが主流だけれど、昔ながらの液体のシロップ剤もまだ残っている。液体の薬は水剤と言われるのだけれど、粉薬以上に作るのに気を遣う。

子供が多くなればアトピーの子も喘息の子もいるだろう。

喘息の吸入薬なんか九子のとこで今まで出した事が無いから器具の使い方とかうまく説明できるだろうか?
それ以上にアトピーの軟膏を2剤合わせてリント布に広げて渡すと言う指示を皮膚科の先生が出して来ることもある。不器用な九子にとっては半日仕事になるかもしれないのに、手数料は一切無し。

まあ仕上がりを見ればとてもそんなに時間をかけたとも、手数料取れるとも思えないんだけど・・・。(^^;;

そうそう、倍散というのもある。
たとえばリン酸コデインという咳の薬はとても強い薬だから100倍散(100グラム中に1グラムのリン酸コデインが含まれるように調整した薬)でも劇薬扱いだし、10倍散は麻薬になる。
 (風邪薬によく入ってるリン酸ジヒドロコデインとは別物です。)

100グラム中99グラムのその他の部分は賦形薬といって乳糖やでんぷんが使われ、原薬には間違えない様に色素で色をつけておく。これで混ぜ方が均等かどうかがわかるという仕組みだ。

まあ今は、問屋さんに頼めばメーカーが作った10倍散でも100倍散でも1000倍散でも用意されていると思うから、そんな事する必要がないのかもしれないが・・。

それでも九子はそれなりに準備はしようと思った。だから保険薬剤師研修会のファックスが入ってきた時「これは行かなくちゃ!」と思ったのだ。


長野県薬剤師会は松本市にある。長野市から一時間ほどなのだけれど、ふだんはなかなか行く事も無い。サイトウキネンや「神様のカルテ」で有名になった松本の街は、独特の風情があって本当にいい街だ。

九子はてっきり、みんな保険調剤初心者の若い人ばかりかと思っていた。
ところがまずその人数の多さにびっくりした。

「え~っ?九子みたいに出来ない薬剤師さんってこんなに大勢いるの?しかもかなり年配の人まで・・。」
もちろんこれは九子の勝手な思い込みであった。(^^;;

入り口に近いほうに並んでた人たちは、実は長野県薬剤師会の講師の先生方だった。20人くらい。
30代40代が中心の中堅どころで和気あいあいのとてもいい雰囲気だった。
長野県薬もこれなら安心だね。( ^-^)

その講師の先生方の一人に、九子は見覚えのある顔と名前を発見した。
熊谷信先生。日経DIに良質なブログを寄せていらっしゃる。もちろん九子日記のように薬剤師が見てもなんの役にも立たず、軽蔑されるだけの代物(^^;;とはきちんと一線を画し、日々の薬局業務に直接関わる有益な情報が満載で多くの読者が居る。( ^-^)

信州大学経済学部を卒業されて一旦社会人になってから薬大に入り直して薬剤師になったという変わった経歴の先生に、まさかお会い出来るとは思わなかった。

何人かの先生方の講義の後、患者役と薬剤師役の二人の先生のお芝居があって、それを題材に薬歴の書き方を学ぶ。
3人~4人がけのテーブルが20こ弱。偶然並んだその面々で薬歴の書き方や薬剤情報の伝え方などを話し合う。

薬歴というのは、薬局が処方箋を受けた時に必ず書いておかなければいけない患者さんの個人情報を含む薬やその他の情報だ。

九子のテーブルは3人掛けで、九子の左側は松本のクリニック勤務の美人薬剤師のMZさん。
医師とも対等に話が出来るという彼女は、好奇心旺盛な頭のいい人だ。

右側のおとなしい若者は、しかしグループ討論が始まるとしっかりした知識を持った薬剤師さんだったことがわかる。


今日のテーマでは、「たまたま通りがかりで来店したAさんにワーファリン(血液さらさらにする薬)が出た時」に、Aさんにどういうふうに薬の説明をするかを考えた。

手元に渡された用紙に自分なりの薬歴を書き出して、最後にそれを3人でつきあわせる。

一目でわかること。他の二人のは長いが、九子のは短い!(^^;;

特におとなし気な若者は、SOAPと呼ばれるシステムを導入して書き込んでいた。
subjective(主観的理解)    objective(客観的理解)   assessment(評価) plan(今後の計画)
これだけのことを患者さんの訴えから読みとって今後の計画まで導き出す。
さすがあ!

九子が書いた答えはこんな感じ。
ワーファリンは朝飲んでも夕食まで影響が出るので納豆はずっと食べないように注意してください。
(これは自分が誤解していて、一時期まで夕食の時に少しならOKとか言ってた時期があったので(^^;;)

それと、「処方箋はなるべくいつものかかりつけ薬局へ持って行きましょう!」
あれ?普通、薬剤師さんってそこに食いつきますか~?
そうだよねえ、普通じゃない薬剤師の九子さん、かけ込みで笠原十兵衛薬局へ処方箋持ってこられても困っちゃうよねえ。(^^;;


参加者は大手の調剤薬局勤務の人が多かった。実は処方箋の多い薬局には保険指導というのがある。一ヶ月に何千枚もの処方箋を扱う薬局ならば数年に一度は回ってきて、処方箋と薬歴簿を持って集団指導やら、更には個人指導まであるらしい。

笠原十兵衛薬局は驚くほど返戻レセプト、つまりどこかが間違ってて戻ってきちゃうレセプト(保険調剤請求書)が多いのだが、決して保険指導にかかることはない。
たかだか○枚の処方箋の請求書を指導するほど薬剤師会もお役所も暇じゃないからだ。(^^;;

だからこういう講習会ではレセプトや薬歴の書き方の話が特に重要になるのだ。

もう、おわかりだろうか。
九子が期待していた調剤技術の講義というのはまったくなかった。
倍散の作り方も、軟膏の混ぜ合わせ方も、なあんも教えられなかった。

考えてみればそんなことは新卒の段階でどこかの調剤薬局へでも勤めて、先輩薬剤師さんから習えば事足りることなのだ。

九子だって、一応修行のために調剤薬局に勤めたことはあった。だけど当時の九子は坐禅に出会う前であまりにも未熟な人間だったため、人間関係を構築するだけで手いっぱい。
せっかく素晴らしい職場に勤めさせてもらったにもかかわらず、ほとんど何も学べずに退職してしまった。

その後何十年、九子はいいご身分で、最初のうちは子育てが忙しいと言い訳し(実際は出来すぎ母に何でもやってもらっていたのだが)、当時は景気の良かったビンボー神M氏やら父の収入に頼りきり、薬剤師としての仕事などな~んもしなかったし、それが今は、おかげ様で少しは雲切目薬が売れるようになって、お昼寝しながら雲切目薬を売っているお気楽生活!
その上ちょっと頑張ろうとするとうつ病が来るから無理も出来ないって訳で、お膳立ても完璧だ。(^^;;


数年前もこんな事があった。
長野日赤病院の皮膚科のH先生が退職されて、どこかでクリニックを開業されるらしいという噂が流れた。
実はH先生のご実家は笠原十兵衛薬局の目と鼻の先。しかも当時、洋品店をされていた先生のご両親は時を同じくして店を畳まれたのだ。

きっとH先生、ご実家で開業されるんじゃない?
九子は生きた心地のしない何ヶ月かを過ごした。(^^;;

結局H先生は、ぜんぜん別の所へ開業された。ほっ~~~。( ^-^)


ところがこの間、となりの八百屋のおじさんがH先生の処方箋を笠原十兵衛薬局に持ち込んだ。
「おい、九子ちゃん!これ急いでやってくれよ。」

愛すべき八百屋のおじさんは薬大生2人を抱えたわが家の経済状態をいつも心配してくれて、用も無いのに(^^;;あちこちから処方箋をかき集めて持って来てくれる。

いつもならなんとか備蓄センターから薬を取り寄せて大汗かいてやるのだが、さすがに今回のは困った。
d-カンフルと l-メントールを軟膏と混ぜ合わせるというものだった。

近所の他の皮膚科さんの処方箋を扱ってる薬局に問い合わせたが、そこでも材料が無いという。
いわんや、笠原十兵衛薬局おや。(古典の反語でありましたねえ。ましてや笠原十兵衛薬局にあろうか。いや、あるはずが無い。(^^;;)

ここで秘密の話を致しましょう。
実は元祖雲切目薬の中にもd-カンフルがたくさん入っておりました!

カンフルというのはいわゆる樟脳(しょうのう)の結晶、昔はたんすの中に防虫剤としてよく入っていた。
ところがこれを細かくするのがとても大変で、目薬作りの難関だったそうだ。

ところがある日、16代十兵衛の兄の忠造さんから朗報がもたらされた。
忠造さんは東京帝大へ入り、帝大の友達から「カンフルはエタノールによく融けるよ。」と教わった。
以来カンフルはエタノールに融かしてどろどろにするというのがわが家の定番になったそうだ。

その後忠造さんは政治家になったので、弟の九子の祖父が16代十兵衛を継いだと言う訳だ。

だから、とにかくその処方箋を見た途端、たぶんカンフルとメントールは合わせてエタノールで融かすのだろうと言う事を九子は即座に理解したのだ。エッヘン!(^^;;

そんな事わかっても調剤が出来ない以上どうしようもない。

結局八百屋のおじさんにはH先生のすぐそばの薬局まで戻ってもらった。
神出鬼没のおじさんは軽やかに去って行った。


あ~あ、もしH先生が近所に開業されてたらこんな処方箋を毎日受け取ってたかと思うとぞ~っとするよ。先生もこうなる事を予想して遠くに開業されたんだろうか?(^^;;


研修会でもう一つ九子の興味をそそったのが薬剤師の調剤拒否権。
以前だったら薬剤師の調剤拒否は認められていなかったはずなのだが、ここへ来て薬剤師が処方箋に疑問を感じて処方医に処方箋内容の照会を行い、その回答に納得がいかなければ調剤を拒否してもいいということになったらしい。

いやあ、これは薬剤師の面目躍如だねえ。
もちろんそれは、豊富な知識を持ってて医師にも確たる態度で説明が出来る薬剤師さんの特権だけど・・・。

えっ?九子も経験あるよって?

店に出た途端、いつもどおりの雲切目薬のお客様だと安心するんだけど、処方箋渡された途端に胸がばくばくして呼吸が早くなる。

それって調剤拒否じゃなくて、調剤に対する拒否反応!(^^;;(^^;;
だんだん克服しましょうねえ。( ^-^)


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耐震診断 [<薬のこと、ダメ薬剤師のこと、家のこと>]

九子は自分のことをすごくツイテル人間だと思う。そう思う理由はたくさんあるのだが、必要な情報を割合見逃さないというのもその一つだ。それもその時に限って、偶然見てみたら重要だったという事が多い。

この間も回覧版が回ってきて、ふだんならほとんど読まずにハンコだけ押してお隣に回してしまうのに、その日に限って目を通してみたら、回覧版に入ってた「広報ながの」に無料耐震診断の広告が出ていた。
なんでも昭和56年以前に建てられた建物なら無料で耐震診断してくれるという。

笠原十兵衛薬局の建物は店舗に住宅が併設されていて、建てられたのは昭和どころか明治25年。明治24年に善光寺一帯に大火があって仁王門なんかも焼けてしまったのだが、それに巻き込まれて焼けた後、15代笠原十兵衛が建てたものだ。

実は東日本大震災の後、度重なる地震に心配になって出入りの業者さんに耐震診断の相談を持ちかけてみたところ、「明治25年?診断するまでもなく危ないですよ。」と、いかにもお金かけても無駄な話と言わんばかり。
それを無料でやってくれるって言うんなら、頼んで見る価値ありだよね。( ^-^)

早速「広報ながの」をコピーして、申し込み書を市役所に送る。
ご丁寧にも「二年程前に、信州大学工学部の土本教授と研究室の学生さんが長野市の登録建物に推薦するための調査に見えました。補強できるものならなんとか補強したいと思います。」という一筆までしたためて・・。

その一筆が効いたのか、翌日朝一番に連絡が入る。住宅併設の店舗であることが条件で(店舗のみだと不可)、その確認が取れたのですぐにも調査員に連絡するとのこと。


お盆が開けた次の日に調査員さんはやってきた。
実は17日の午前11時頃と連絡が入った時、さすがの九子も部屋を少しばかり片付けることを考えた。
お盆開けの17日一日かけて片付けたら、とりあえずはまあ、とっ散らかってる感じはやわらぐのではないか。(^^;;

「18日じゃだめでしょうか?」と言う九子の声が届くことはなかった。「じゃあ17日でお願いします。」電話はすぐに切れた。

考えてみれば一日かけて一部屋や二部屋ちょっとばかり片付けてみたって、調査は家中なのだ。
ボロはすぐ出る。(^^;;

であるからして調査員さんは、ほとんどいつもと同じ状態の九子んちを見て行ったわけだ。

我が屋の居間を見た時に、調査員さんは「ええっと、ここは納戸ですね。」と言った。
無理も無い。黒光りした太い天井柱に添って、何十着もの衣類のかかったクリーニング屋のハンガーが並ぶ。
テレビだってあるんだよ、パソコンだってあるでしょと言ってみても、衣類を掻き分けないと見えないんだよねえ、これが。(^^;;

見る部屋見る部屋天井に渡されたポールから洋服類がかかっているので、なんと納戸の多い家だろうと調査員さんは思ったに違いない。

何しろ片付けられない九子であるので物を捨てられない。その象徴が衣類である。
見るに見かねたM氏がハンガーをたくさん買って、突っ張りポールを渡してくれ、そんな訳でどの部屋にもどの部屋にも衣類がかかっている。

その上整理整頓が下手なので物が部屋に溜まる。溜まるのは物だけではない、ホコリもだ。(^^;;
九子の寝室に至っては、洋服の他に本まで積んである。それもおびただしい量だ。


使わない部屋が無駄に多いわがやに半ばあきれながら、調査員さんはよく見て下さった。

例によって九子はいつもの言い訳を言った。
「母がいる時はもっとずっときれいな家だったんですよ。私、母になんでもやってもらった一人娘で、掃除も嫌いでやらないもんだから、散らかっててすみません。」

明日にも補強しないと危ないですよと言われることを覚悟していたのだけれど、言われたことはこうだった。

「なかなか立派なおうちです。こういう家を見る機会は私もそうそうありませんよ。建てられた当時はかなりお金をかけて作られたお家でしょう。大黒柱もけやきでしっかり出来ていますから、すぐにどうこうという事はないと思います。ただ、壁の少ない部分に壁を作るとか、斜めに材木で補強するとか、やり方はいろいろ有ると思いますので考えてみましょう。9月中に結果がでますから、その結果を見てから更に精密検査をされることをお薦めします。精密検査も無料で出来ますし、見積もりも出て来るし、いざ工事となれば市からの補助金も出ます。
いやあ、良いおうちですよ。大事にお使いください。それでは、これで。」
気を良くした九子が調査員さんに雲切目薬をさしあげたことは言うまでも無い。( ^-^)


それにしても良いこと言ってもらったなあ。こんなに汚い家なのに・・・。(^^;;

まあでも言われた通り、少なくとも明治25年に建った当初は立派だったに違いないと思わせる飾り障子やら飾り窓やらの贅沢な遊び心は確かに感じられる。
気の毒に、ホコリにまみれて誰も目を止めないけれど・・。

それと一番九子が地震で壊れて欲しくないのは、古い店と祖父が有名な宮大工さんに頼んで作ってもらったという善光寺の正確なレプリカのお仏壇だ。それだって、まずは家が壊れないってことが重要なのだ。

調査員さんは誠実そうだった。「あのうちはエライ散らかってて・・」なんてことは金輪際人にもらさない感じだった。
まっ、本当のことだから言われてもしかたないけど・・・。(^^;;



その日の夜、居間には畳の広さが目立った。それでもこれでも散乱していた雑誌類を片付けたからだ。
畳が見えると、また坐禅でもしてみようかなという気になった。

九子はこの頃また坐禅をはじめたのだ。ウツの最中はどうしても坐禅がうまく行かないことがわかっているので坐る気になれない。
ウツが一段落するとまた、そろそろ坐ろうかという気になる。

あれっ?九子さん、いつもは活禅寺の方に向かって坐るんだよねえ。今日は正反対にテレビの前で坐ってどうしたの?
よほどテレビが有り難いの?(^^;;

えっ?テレビ見ながら坐っちゃうの?しかもテレビはお得意のQVCじゃないですか!
あっ、その商品なかなかいいねえ!それにいつもの4割引って書いてあるよ!

それにしても坐りながらしっかり見てるねえ、って言うか、見ながらよく坐れてて、さすが!
(さすがって言うな!(^^;;)

言うまでもなく坐禅は半眼と言って、目を開けるでもなく閉じるでもない状態で坐る。
もちろん音は聞こえるし、テレビを見ようと思えば見られるのだ。

だけどさあ、買いたいものいっぱい見ながら、それで本当に雑念が払えるの?無心になれるの?

まあ九子クラスにもなるとねえ・・・と言いたいとこだけど、そんな訳ないじゃん!
たまたま座禅をしようと思いたった時間が、どうしても見たかったQVCの番組とかち合ったというだけの話!(^^;;


実は九子の後ろでは、M氏がいつものようにパソコンのスロットゲームをやっている。毎日毎日、よくもまあ飽きないよ。 そんでも本人に言わせると、年とったせいでこの頃若い頃ほどの情熱が無くなって困るって言ってたけど、いやあ、それどころか!
それだけ出来れば恥の上塗り・・じゃなくて、欲のかきすぎってもんよ。(^^;;

彼こそは九子の上を行く修行の達人だ。
だって彼の頭の中は儲けてやろうっていう邪念でいっぱいなんだよ。それなのに頭を真っ白にしないと出来ないスロットなんかよく出来るもんだ。彼の頭の中で無念無想と煩悩が両立してるなんて信じられない!

パチンコにしろ、スロットにしろ、頭ん中を無の境地にするためにM氏が費やした時間の多さたるや、九子の座禅の修行の比ではない。
やっぱりそれだけの努力の賜物かしらね。
(それと注ぎ込んだお金もね・・。(^^;;)

ご先祖さま!こんな将来の18代笠原十兵衛M氏と18代店主九子ですが、これからもご指導ご鞭撻よろしくお願い申し上げます。m(_ _)m


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九子の霍乱 [<薬のこと、ダメ薬剤師のこと、家のこと>]

「鬼の霍乱」と書いたら読んで頂き易かったと思うけど、知っての通り九子は断じて鬼ではない!
(仏と言うほど鉄面皮でもないが・・・。(^^;;)


いやあ、ただでさえご無沙汰の九子がここ10日以上病に倒れてしまいました。よってマイぷれすの皆様にもso-netの皆様にもこの上なく不義理をして居りまして大変申し訳ありません。この場を借りてお詫び申し上げます。m(_ _)m
えっ、計算が合わない? その後のお休みは生来の怠け病です。(^^;;

さてその病とは何か!タイトルどおりの「霍乱病(かくらんびょう)」でありました。

漢方薬のバイブル「傷寒論」のタイトルにはちゃんと「霍乱病」という項目があるのだけれど、まったく字の通り寒さに傷れて(やぶれて≒やられて)霍乱=吐いたり下したりしちゃった訳である。

これを現代の医学では「ウイルス性胃腸炎」とか、「おなかの風邪」とか言うそうな・・・。
今回の日記には一部尾籠(びろう)な表現が含まれますがお許しを・・。m(_ _)m

症状は突然起こった。
久しぶりにN子に長電話して、さてさてそろそろ寝ようかなと思った途端刺すような胃の痛み。
それが並大抵の痛みじゃないのだ。背中を丸めてただただ耐えているのだけれど痛みは衰えを知らず、そのうち吐き気も加わってトイレに駆け込む九子。

傷寒論の時代から腹痛にとりあえず有効なのは、原因とおぼしきものを吐いたり下したりして外に出してしまう事だ。
普通ならとりあえずはそれで良くなるはずだった。

まあ九子もなんとか落ち着いた。
ああ、良かった!なんか悪いもんでも食べたのかなあ?
ところが・・・。

朝方の5時頃に、再び激痛が襲った。
オシッコの後、急激に痛くなった。

後から思うと激痛の持続時間は毎回20分から30分位で、その間を必死に耐えているといつの間にか良くなるという経過だった。
良くなるといっても鈍痛はずっと続いていた。

それからも九子は4~5時間ごとに激痛に襲われた。不思議な事に激痛はいつもオシッコの後トイレで起きた。胃が痛いのと排尿はなんか関係あるんだろうか?

4度目の激痛で救急に飛び込んだ。
土曜の夕方の救急外来の窓口には「発熱のある人、下痢のある人、吐き気がある人は申し出てください。」と大書されており、結局インフルエンザの子供達と同じ待合室で待たされた。

M氏は待合室に決して近寄らなかった。君子危うきに近寄らず!(M氏が君子であるかどうかは知らない。(^^;;)

九子にはなんとなく先入観があった。ノロだかロタだか知らないが、得体の知れないウイルスが九子の身体の中で暴れ回っている間は、インフルエンザウイルスは近寄れないんじゃないのかなあ? だから平気で子供達がゴホゴホ咳してる中で待っていた。
とりあえず九子がインフルエンザにかかってないところを見ると(もちろん予防接種はやってあるけど)その理論は正しかったのかしら?(^^;;

九子は割合早く呼ばれた。インフルエンザじゃない可能性を感じ取ってもらえたのかな?
お医者さんは40代後半くらいのなかなか落ち着いた先生だった。

「たぶんウイルス性胃腸炎。俗に言うおなかの風邪ですね。この病気には対症療法しかありません。下痢はあまり止めるとよくないので整腸剤だけ出しますね。あとは痛み止め。まあ3日たてば良くなるでしょう。」
最後のお告げのような「3日」と言う言葉が後に災いを引き起こす。(^^;;

この場合の痛み止めとは九子でも知ってる古典的な鎮痙剤のブスコパン。ブチルスコポラミン臭化物というのが成分名で、セデスやバッファリンでは効き難い内臓痛を止めてくれる。要するにお腹の痛みを起こしてるところの臓器の痙攣を鎮めてくれる薬なのだ。

ブスコパンは実によく効いた。
ただし飲み方にはコツがあった。

要するに激痛が来た後に飲んだのでは間に合わない。
痛みは何もしなくても30分もすれば自然に良くなってしまうのだから、それとなぜだかオシッコに行った直後に痛くなると言うのも考え合わせて、少なくとも痛みが起こりそうな時間、オシッコに行きたくなりそうな時間を予想してそれより少なくとも1~2時間前位にはブスコパンを飲むようにする。

この飲み方を覚えて以来さしもの激痛も陰を鎮めた。

ところが先生が治るとおっしゃった期限の4日目の朝、ブスコパンを飲んでいたにも関わらず、激痛が再び九子を襲った。

えっ、なんで?!先生は3日で治ると言ったよねえ。だけど今日は4日目の朝で、今まで効いてたブスコパンも効かないなんて!
悪くなってるじゃん!

そこでまた救急外来に電話して状況を説明。痛みに耐えながら電話してるんだからそりゃあ迫力あるよね。(^^;;
「大丈夫ですか?一人でここまで来られますか?」と応対してくださった看護師さんの優しい声に力を得て、タクシーを頼んで長野市民病院へ。

長野は県庁所在地でありながら、長い間大きい病院と言えば長野日赤病院しかなかった。
信州大学医学部附属病院やスピードスケートの小平奈緒選手で有名になった相澤病院など大病院を抱える松本には到底勝てなかった。

でも平成7年に長野市民病院が出来て、ホテルみたいにきれいな建物や立派な施設、流行り出した「患者様」という呼びかけが評判を呼び、一躍長野日赤の対抗馬に躍り出た。

実は現在でも黒字を続ける数少ない病院の一つだそうで、今では増床して1.5倍くらいに大きくなったのだけれど、清潔さも「患者様」という呼びかけも昔のまま、今では院内にコンビニも入り(長野では珍しいと思う)、レストランもどうやら東京の業者さんが入ったとかで、本当にこれが病院の中?と言う様なおしゃれなたたずまいである。

自分が市会議員時代、一応医療関係者という事で(^^;;建設に携わった病院がこんなに盛っているのを見て、きっと父は鼻高々な事だろう。
そうなのです。我が家は父と娘二代に渡って、本業の方はさっぱり・・という薬剤師一家。
娘たちよ!せめて三代目はまともな薬剤師になってね。(^^;;

そうそう。救急の待合室には研修医さんと思われる白衣のドクターが苦しそうにうずくまっていた。インフルエンザにでもかかったらしい。なぜ彼が研修医さんとわかったかというと、患者ならば必ず「○○さま」と呼ばれるはずが、「○○君」と呼ばれていたからだ。(^^;;


ほどなく九子も呼ばれて、その頃にはさすがに背中を丸めなくても普通に歩けるようになり、30代の前半らしい若い間○マ○先生に経緯を説明する。

ひっかかったのは「ふ~ん。今日来られたのはどうしてですか?」と言う一言。

父がお騒がせな病人だった頃、救急車でかけつけるたびに「十兵衛さん、どうしてまた救急車なんか乗っちゃったんですか?」と当時の父の主治医の先生によく言われたっけ。
この場合父は知らないうちに乗っけられてただけだから、全ての責任は救急車を呼んだ九子にあったのだが・・。(^^;;

まあ○マ○先生の言い方にそれとおんなじニュアンスを感じたわけなのだ。
だって3日で治るって言われたのに、4日目の朝になっても余計悪くなってるんだよ。これでも随分我慢したんだから・・。

「そんなら血液とX線見てみましょうかね。」

○マ○先生は言葉は優しいがやることは荒っぽい。なにもわざわざ肘の内側の一番血管の出やすいところをはずして、先っぽの方のわけわかんない血管に針刺すことないと思う。案の定うまくいかないらしくて格闘すること数分間!
まあいいよ。九子がこの若い医師の実験台になってやってるんだと思えば・・・。(^^;;

○マ○先生は初志貫徹、肘の内側の誰でもそこへ打つだろうという血管には目もくれず、最後まで細い血管にこだわった。
そしてその針を通して1時間くらいかけて輸液が身体に入っていく。

点滴ってやっぱり身体がしゃんとする。
昔よくブドウ糖の注射というのがあって、九子のおじいちゃんが近所のお医者さんに往診してもらっては200cc位もあるような太い注射を打ってもらっていた。

補充するのは今ではブドウ糖だけじゃなくて電解質と呼ばれるさまざまな金属イオンの類だと思うが、食塩水だとか、言ってみればどうでもいいようなものが人間の身体をこんなに元気にしてくれるのが不思議だ。
生命の源は海にあったというのがわかるような気がした。

X線の結果も問題なしだった。(考えてみればウイルスってX線に映るはずないよね。まあ腸捻転とかの可能性を排除したのかとは思うけど。)

○マ○先生の最後通告が待っていた。
「だいぶ宿便が溜まってますねえ。便秘の薬だけ出しときますね。」

何よ!それ!
九子は死ぬ思いして病院へやってきたのよ。便秘でこんなにお腹が痛いはずないでしょうが!
しかもわざわざ他の患者さんがいっぱいいる中で聞こえるように言わなくたって!

怒り心頭に達しても最低限のマナーを守りつつ○マ○先生に軽く会釈して処置室を出る九子。
大人だねえ。(^^;;

結局丸一週間がたって、さしもの激痛は影を潜めた。
ブスコパンには助けられた。1錠10円もしない安い薬だ。
もちろん救急外来でもらった分はとっくに終って、問屋さんに100錠頼んだ。
こういう時だけはうちが薬局で良かったなあと思う。

あとからわかった事だが、例の針刺し痕は見るも無残な内出血を形成していて20日経った今でも紫色が消えない。

本当は九子は知っている。
桂枝茯苓丸(ケイシブクリョウガン)という漢方薬を飲めば、驚くほど早く内出血が消えてしまう事を・・。
だけど九子は敢えてそれをしない。

まったくいまいましい○マ○のヤツめ!この恨み忘れてなるものかあ~。(^^;;(^^;;


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漢方薬の不思議  その2 [<薬のこと、ダメ薬剤師のこと、家のこと>]

漢方薬の不思議その1より続く

M氏が漢方薬の効き目に着目したのは偶然だ。だけどいつも抗生物質や痛み止めがイマイチ効かない患者さんたちの治療に困っていて、なんとかならないかとずっと思っていた。

ある日、診療所のM氏から電話があった。虫歯の痛みが何を使っても取れない患者さんがいて困った。漢方で何か効く薬はないかというのだ。
誰でもよく効くことで知られている巷では最強の痛み止めのボルタレン錠でも効かなくてほとほと困っているのだと言う。

九子が行ってた朴庵塾の漢方薬の教科書、すなわち荒木性次(朴庵)先生の「新古方薬嚢」には虫歯の治療に関する記述が載っていた。
不勉強な九子でも知ってた(^^;;たった一つの歯痛の処方が四逆散(しぎゃくさん)だった。
当時ツムラではまだ四逆散のエキス剤は作っていなかったのか、はたまた笠原十兵衛薬局にはどうせなかったかどちらかだった。(^^;;

四逆散というのは、サイコ、カンゾウ、キジツ、シャクヤクを等分にしてすべて細かい細かい散剤、つまり粉に挽いたもののことだ。漢方薬と言う場合、普通は葛根湯などという湯、つまり煎じて作るお茶みたいなものが一般的だから、散がつく剤形はまあ例外に属する。「○○散」という剤形、一番有名なのは婦人薬の当帰芍薬散だろうが、熱を散じる作用が「湯」よりも強いと言われる。

笠原十兵衛薬局にたまたま原料の4生薬は揃っていたがそんな粉挽器が用意してあろうはずもなく、「どうしようか?」と考えあぐねていたところ、M氏が「いいよ。材料全部入れて煎じるように袋に入れて作ってくれ。」と言うので、本来ならば散にするべき生薬をすべて同じ分量はかりにかけて、一日分ずつ煎じ袋に入れて作ってみた。
九子特製「四逆散」ならぬ「四逆湯」である。これを患者さんに煎じてもらおうという寸法らしい。

ところがあら、不思議!このへんてこ「四逆湯」がものすごく効いちゃったそうなのだ。
虫歯が痛くて痛くて、痛み止めも抗生物質も受け付けずに困ってた患者さんが、この一包で楽になっちゃったというんだから驚きだ!

そんなこんながあって、M氏の漢方薬への熱の入れようは並大抵ではなくなった。
やっぱり苦しんでる患者さんを目の前にしてるM氏は強い!
九子みたいに腕をふるおうったって誰も来ない薬局じゃあ、腕の奮いようがない!(^^;;

以降M氏は年間20万円くらいの講義のために毎月一度は上京するようになった。
実はそれまで九子がその講義を受けていた。なんという無駄な出費であったことか!(^^;;

M氏の努力はすごかった。聴いた講義はすべてテープに録音し、誰かさんみたいにそれを仕舞いっ放しの埃まみれにせず(^^;;、一回分6時間ほどのテープを起こして一字一句間違いなくノートに書き写す。その手間だけでも膨大だ。九子なんかじゃ1時間だって続かない。

いつもはツムラのエキス顆粒ばかり使っているM氏だが、煎じ薬の効き目には一目置いている。
例の話の「四逆散」改め「四逆湯」の患者さんほどピタリと痛みが止まった例は、あれ以来ないのだそうだ。
「同じ四逆散でもツムラのエキスじゃあ、やっぱりああはいかないんだなあ。」というのがM氏の率直なる感想である。

四逆散以外では、エキス剤は案外健闘しているようだ。
歯肉が腫れた時の八味丸、神経質で夜眠れない人の歯軋りや歯槽膿漏には柴胡桂枝乾姜湯、四逆散よりも熱がひどくない感じの腫れには排膿散及湯などなど。

すべてツムラ一日分か二日分で効かせているという。
一日分か二日分。一日分は150円を頑として崩さないM氏である。(150円じゃ絶対足出てるよ。)

それに漢方薬ってあんまり早く効いちゃうと儲からないのよネエ。(^^;;

以前藤本先生が話されていたが、荒木性次先生の一番弟子に愛川先生という先生が居て、この人はものすごく的確に処方を選ぶ名人だったそうだ。ところがあんまり上手すぎてみんな一日か二日で治ってしまうので、愛川先生の家はいつも貧乏だったそうな。
愛川先生のお子さんは、貧乏が嫌で医者になられたと伺った。( ^-^)


この間「科捜研の女」を見ていたら、陰陽五行説に従って事件が起こると言うのをやっていた。
そこに出てきた五行の図式が、漢方薬の講義で使うのとほとんど同じだった。

まず頂点を木として、時計回りに火、土、金、水の順で5角形を描く。
ああ、この図が判りやすい!
頂点の木は肝をあらわす。まあ肝臓と思えばいい。火は心、つまり心臓。これは休むことなく死ぬまで動き続ける臓器だから火に喩えられるのも頷ける。次が土で脾胃をあらわす。胃と消化器官一般ということか。大地が養分を蓄える如くに、消化器官である胃腸は身体に養分を与えるという意味だと思う。
次が金で肺または肺臓。これはちょっとわかり難いかも知れない。最後が水で腎または腎臓。腎にはエネルギーの源と言う意味もあり、副腎も含まれる。腎臓が水というのは判りやすいと思う。

つまり人体の5つの臓器をこの図に当てはめて、季節や食べ物や味やいろいろな影響と絡み合わせてその働きを示している。

たとえば春は木が旺する(盛んになる)時期であるから、肝臓の働きが旺盛になる。
黒い矢印が対角線の土に向かって走っているが、これが大変重要な意味を持つ。
木が旺すると、土を傷める。この関係を相剋と言って、ある臓器の働きが強すぎると別の臓器の働きを傷つけると漢方では考える。

さっき歯肉が腫れた時に八味丸を使うと言ったが、これは本当によく効くらしい。
そしてこれが効く理論が、この五行説によってしかうまく説明が出来ないのだ。


表のとおりにそれぞれの臓器に春夏秋冬が割り当てられているけれど、土に当てはめられているのは季節ではなく土用である。

土用と言うのは季節と季節の変わり目の18日間の事で、一年間に5回ある。
一番有名な土用がうなぎを食べることで有名な夏の土用だ。

この土用の時期というのは、不思議に歯を張らして歯医者を訪れる人がめっきり増えるのだそうだ。土のところに肌肉という文字も見えるはずだが、歯の歯肉と考えるとわかりやすいと思う。

本当にこればかりは不思議なのだけれど、「やけに患者さんが歯を腫らして来るなあ。」と思ってカレンダーを見ると「ああ、そうか。今日から土用だ。」ということになるんだそうだ。

土用の時期は土が旺する時期だから、脾胃が強くなりすぎて腎を剋す、つまり腎の働きが弱くなる。だから腎の働きを良くする八味丸を飲むと、歯肉を腫らしてる熱が取れて良くなる・・・っていう事らしい。

八味丸というのはもちろん夜間排尿や残尿感を取る薬として有名だ。普通に考えても八味丸が歯の腫れ止めになるなんてちょっと信じられない。

もちろんよくなりさえすれば理由などどうでもいいのかもしれないが、何千年も前の五行の理論でしか説明のつかない漢方薬の効き方があるというのははなはだ不思議な気がするし、漢方薬って奥深いものだなあと思わせられる。

 

夏の終わりに、九子は久しぶりで庭の草取りをしていた。ああやらなくちゃなあと思っていると梅雨になり、そのうち梅雨が明けて暑くなり、そのうち子供達が帰ってきて忙しくなり、そのうちお盆がやって来て、結局何ヶ月も経ってしまった。(^^;;

10分かそこいらやったところで珍しくM氏の大きな声がした。
「九子、何やってるんだ!だめだよ。今は土用だから、土なんていじると土が荒れるから、草取りなんかダメだ!」

なんでも土用に草取りは禁物らしい。
非科学的な理由だなあとは思ったが、怠け者の九子はやらないですむとなれば理由はどうあれ大歓迎である。

九子んちの庭はそんな訳で、もう長い間草が生え放題になっている。(^^;;(^^;;


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漢方薬の不思議  その1 [<薬のこと、ダメ薬剤師のこと、家のこと>]

平成22年10月10日、11日に長野県長野市で「第43回日本薬剤師会学術会議」が開かれた。

毎年一度各都道府県もちまわりで・・・と言っても約50年に一度しか回ってこない訳だから、一生に一度あるかないかの大イベントである。
かく言う九子も遅まきながらボランティアに応募して、一日だけだが全国規模の学会というものの雰囲気を味わってみた。

宇宙飛行士の毛利衛さんが見えて「宇宙から見た生命のつながり」というお話をなさった。
ずっと聞いて居たかったが、ボランティアとしてはほんのわずかの時間覗き見する程度というのは甚だ残念だった。

そもそも日頃薬剤師の自覚などあんまり無い九子だからして(^^;;、薬剤師中の薬剤師たる講師の先生方などとはおこがましくて口も聞いてもらえない立場であるのだけれど、今回配属されたのが講師控え室の接待係!

いやあ、いらっしゃるもんですねえ、見目麗しくはたまた立ち居振る舞いの一つ一つに知性のにじみ出る「先生」と呼ぶに相応しい薬剤師さんが・・。

学会というのはそういうレベルの薬剤師さんが集う場であるから、あちらこちらで人脈を広げるための名刺交換
が盛んに行われる。

名刺などというものをもとより持たない九子は(それ以前の問題として誰も九子の名刺など欲しがらないが(^^;;)何冊かの著書をお持ちのうら若き見目麗しい薬剤師さんに「サイン下さ~い!」などととおねだりする始末。

薬剤師にもレベルがあるという事をわかって頂けましたでしょうか?(^^;;


レベルといえば看護師さんにもいろいろあるんだなあと思わされたのが今回のホメオパシー事件。
新生児には必須とされているビタミンK注射を行わなかったために赤ちゃんが脳内出血を起こして死亡したという事件だ。

ホメオパシーなどという単語を、今回の事件がなかったら知る由もなかった九子である。
それにしても助産師さんの世界の一部で広がっていたというのが驚きだ。

昔の助産婦さんならいざ知らず、現在「助産師」という資格は、看護師さんの資格がある人が勉強して特別に取る資格のようだ。つまり助産師さんというのは、看護師さんの中のエリートのはずだ。

そういう人が誰が考えてもインチキ臭い治療法を信じてしまったというのが不思議だ。
ホメオパシーについてはbeepさんのブログをどうぞ!( ^-^)

ホメオがつく単語で九子でも知っていたのは「ホメオスタシス」
こちらの方は恒常性維持機構という、体が常に正常な状態を保とうとする機能=恒常性の事であり、九子くんだりでも知っているのだから(^^;;、まあ医療関係者であれば知ってて当たり前の単語なのかも・・・。

漢方薬は化学的に作られた薬よりも恒常性が優れていると言われる。

例えば、これは漢方薬ではないが、「雲切百草丸」は( ^-^)、胃の症状を取るばかりではなく便秘の時も下痢の時も使える便利なお腹の薬なのだが、これは整腸作用と一口に言うけれど、身体が自分で正常な腸の状態に戻ろうとするホメオスタシスいわゆる恒常性が働く結果効き目を現す薬なのだ。

さっき「雲切百草丸」は漢方薬ではないと言ったけれど、漢方薬、民間薬の垣根というのもわかり難いかもしれない。

漢方薬というのは「傷寒論(ショウカンロン)」「金匱要略(キンキヨウリャク)」という主として二冊の中国の古典的教科書を基にして何千年もの経験を積んだ経験的薬であり、厚生労働省が認めた立派な「医薬品」である。

バスクリンのツムラがたくさんの漢方処方のエキス剤(=出来上がった煎じ薬をフリーズドライ製法で顆粒にしたもの)を医家向けに出しているから、お医者さんでツムラの何番と書いたアルミ包装を貰ったことのある方もたくさんおいでだろう。

民間薬というのは、古くから経験的に使われてきた主として単味の(一種類で出来ている)薬の事だ。
どくだみ(十薬)やゲンノショウコ(当薬)、せんぶり、柿の葉、ヨモギ、アロエ、などがそれに当たると思う。これらは厚生労働省が認めた「医薬品」ではない。

民間薬でもなく、漢方薬でもない「雲切百草丸」は「伝統薬」という別の括りで括られるのだと思う。
「伝統薬」とは、全国各地の気候風土、文化、生活環境が色濃く反映された歴史ある医薬品のことだ。


「雲切百草丸」も含めて、来年4月で通信販売出来なくなる可能性がある「伝統薬」と言われるさまざまな薬はたいてい医薬品第二類に分類されている。
これらは「医薬品」にくくられて居る訳だから、民間薬よりはずっと効き目は確かなはずだ。

今回の改正では、効き目の強い「医薬品」だから対面販売されなくてはならないという流れで、通信販売という大きな市場が閉ざされてしまった。

こんな風にしてただでさえ先細りの伝統薬メーカーが更なる苦境に陥って、ついには消えていくという姿を見るのはもうたくさんだ!

我が家の「雲切目薬」は点眼薬だから医薬品第三類で、規制には引っかからずにこれからもずっと通信販売可能だ。幸運だったとしか言いようが無い。


漢方薬に話を戻すと、例えば五苓散(ゴレイサン)という漢方薬は優れた利尿剤(おしっこを出して血圧を下げる薬)であるが、体の中の水分がむしろ少なくて血圧の低い人が飲んでもそれ以上血圧は下がらないという。水分が過剰な人にだけ効果を現す賢い薬と言えるだろう。


それに反してこれは古典的な利尿薬として有名な化学の薬「ラシックス」なんかは、誰が飲んでも一様におしっこに行きたくなる。身体に余分な水分があるなしに関わらず、強制的におしっこを出す薬と言っていいと思う。


つまり化学的に作られた薬はどんな場面でもその効き目を維持するように作られる。
おしっこを出す作用ならその一つだけ、痛みを止める作用ならその一つだけ、どんな人が飲もうと律儀に命令を守り続けるわけだ。

抗癌剤が癌細胞のみならず正常な細胞をもやっつけてしまうなんていうのは、その好例じゃないのかな?

ところが何千年の歴史を持ちながらいまだその効き目の本質がはっきりわからない薬の多い漢方薬は、その薬が成り立っている生薬同士、つまり葛根湯ならばカッコン、マオウ、ケイシ、シャクヤク、ショウキョウ、タイソウ、カンゾウという7種類の生薬同士の相互作用、そしてそれが生体に入った時の浸透圧だの膜電位だのから受ける影響、その他まだまだ他の訳のわからない諸因子によって、化学の薬のような単純な一つの作用ではなく、複雑怪奇、摩訶不思議な変化を遂げて体の多方面に効き目を現す。

例えば上のカッコントウは風邪薬として余りにも有名だけれど、本質的には身体を温めて汗をかかせて熱を下げる薬であり、熱を下げるだけではなく、血行を良くして肩こりや鼻づまりも治す。熱による下痢にも効く。
湿疹の腫れ、かゆみ、結膜炎などの目の炎症、耳の炎症も取り、乳腺炎やおっぱいの出が悪いときにも使われたりする。

考えてみるとこれらすべての作用を併せ持つ化学の薬って無いんじゃないかなあ?


その上、「証」あるいは「證」という重要なものがある。荒木性次(朴庵)先生の著書によれば

「證」とは一口に言って容態のことなり。病者の訴へるあらゆる苦しみの状態を「證」と云。(中略)

傷寒若くは雑病の為に身体の一部に病を生じたる際、必ず発する病状を集め撰び此をその治療に用ひんとする薬方の的確なる使用目標とすべく作られたるものに命じられたる名前なり。

つまり「證」とはしるし即ち證據(しょうこ)と云ふ義にて絶対に誤りは無いと云ふ程の確たる意味を持ちたる言葉なり。 (中略)

そもそも病に薬を用ひんとする場合、其病状を目標とするぐらゐは何人も行ふ所の極めて当たり前のことなれば、何も其目標に対して證と云ふほどの大げさな言葉を使ふ必要はなき筈なり、然るをかく言ふは、深く譯(わけ)ある事なりと言ふべし。

即ち同一症状を目標にして薬を与えても或いは治することあり、或いは治せざる者もありて的確は仲々期し難し。併しそれではイザと云時まことに便りなく甚だ危なっかしき次第なれば、そう云ふことなく何時でも安心して有効に使へる様にと先賢の考へ出せし目標が即ち此の證と言ふものなり、それで之をわざわざ證と謂ふ。

という事になる。

 

例えば九子は若い時、風邪を引くとひどい咳が最後まで止まらず、薬局では却ってお客さんに「お大事に!」と言われる始末で閉口した。(^^;;

店にある薬もお医者さんで貰う薬もまったく効かず、考えてみればこの症状は子供の頃からあり、どんな酷い咳であっても風邪を引いた時だけに限られるので医者からは喘息ではないと言われていて、まあ半分諦めて十数年もそのままにしていた。

ところがある日講義をして頂いていた荒木朴庵先生の愛弟子の故藤本肇先生が九子の話をさらっと聞いて選んで下さった薬がドンピシャだったのだ!

九子が一応出席していたのは(^^;;、荒木性次(朴庵)先生が編み出された日本古来の流派なので「古方」と呼ばれる講義だった。今流行の中医学という薬草を十数種類も山ほど使う中国漢方とは、一線を画している。

藤本先生が薦めて下さったのは「桂枝去芍薬加麻黄附子細辛湯」という薬だった。残念ながらツムラには無くて、煎じて作る。
煎じるのに50分ほどかかるが、煎じ終わった量を一日3回ではなくて6等分くらいにして一日6回くらいこまめに飲む飲み方も教えて頂いた。

教科書として使っていた荒木性次先生の著書「新古方薬嚢(しんこほうやくのう)」のどこを見てもこの薬が「激しい咳に効く」などという文言は一切無い。

代わりに「桂枝去芍薬加麻黄附子細辛湯の證」としてあるのは、
「心下胃の辺りに堅きしこりあり大きさは手の掌大にして其のまわりは盃をなぜる様な案梅の者のあるのが主證なり。多少身体に重みある者。但し軽き者は心下に重苦しき感じありて其れ程に堅くはならず、手足しびれまたは痛む者、熱はある者もあり、無きものあり一定ならず、半身冷えてしびれる者あり、熱無き者は大抵脈遅なり。」という4行ほどの文章のみだ。

薬が効いて初めて気が付いたのだが確かに九子はみぞおちから胃の辺りに違和感があった。
堅いしこりではないが、押すと「うっ!」と痛むというか気持ちが悪くなるというか・・・。
それこそが「桂枝去芍薬加麻黄附子細辛湯」の証、つまりこの薬が効くよというサインだったのだ。

藤本肇先生流漢方の醍醐味は、傷寒論という一冊の書物を何千回何万回読み尽くされて、その中に本来書かれていない身体の中で起こっている変化をご自分なりに解釈されて、一方それぞれの薬の作用も的確に判断された上で、たとえば「これは皮膚の少し下、肌肉のあたりに余分な水がたまって熱を生じている状態だから、まずこの水をさばくために○○という生薬が入った○○△△湯を使おう。」という治療方針を立てられ、それがうまくいかなかった場合には、「この薬で水は取れたはずなのだが熱がまだ残っていて症状を表している訳だな。では今度は○△湯がいいだろう。」と次々と治療を変更され、漢方理論に基づいて最後には治癒させて身体を正常な状態まで持っていくという、まさにそこにある。

とにかく九子の場合「桂枝去芍薬加麻黄附子細辛湯」を飲みだして2日目くらいには咳がほとんど出なくなってしまった。
何年も苦しんだのが嘘みたいに治った。
「へえっ!漢方薬ってこんなに効くんだ!」

本来の薬剤師ならば、そういう体験が契機になって漢方薬の勉強にのめりこんでいくはずなのだ。
ところが残念ながら、九子の場合は「へえっ!」で終わってしまった。(^^;;


こういう漢方薬の魔力に取り付かれてしまった歯科医師が居る。M氏である。( ^-^)
彼のことを書くと長くなりそうなので、本日はここまでってことで。


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制服の話 [<薬のこと、ダメ薬剤師のこと、家のこと>]


つい先日、バリ島で日本人女性が悲惨な事件に巻き込まれて殺害された。いかにも平和そのものに見えるリゾート地にも危険が潜んでいると言う事だ。



彼女は警官の服装を着た男に呼び出されて連れて行かれたのだという。



テレビのインタビューで巷の日本人女性が「私も警官の格好した人から呼び出されたら、同じようについて行ってしまうと思う。警察って言われたら信用しちゃう。怖いですよねえ。」と答えていたが、その危険性は誰にもあるに違いない。



被害女性が騙された警官の制服だが、地元の人が見たら違いがわかったのだろうか?



日本人は平和な国に住んでいるから騙されやすいとよく言われる。英語で言うところのナイーブだ。

英語のnaiveナイーブは「繊細」ではなくて「騙されやすいバカな奴」という意味合いを含んでいる。



騙されるのは日本人ばかりかと思えばそうでもないらしいというのをこないだまたテレビでやっていた。

(九子さんって、どんだけテレビ見てるの?(^^;;)



ヨーロッパを舞台に熟年以上の女性富豪を狙った詐欺師の話だった。



最初は八十歳代の富豪の未亡人に言葉巧みに近づき、ダンディーな身なりと洗練された会話で淡い恋心を誘い、スイスの金融マンを巧みに装って信用させる。その時は深入りせず、しばらく経ってから悲痛な声で電話をかけ、マフィアがらみの交通事故に巻き込まれて窮地に陥っていると同情を買う。そして騙し取ったお金が5億円だそうだ。



次の相手はもう少し若い五十代のドイツの富豪経営者で、同じ手法で近づき8億円を騙し取ったが、更に17億円を騙し取ろうとして警察に通報されて御用となった。



彼の場合は「制服」とは言えないかもしれないが、いかにも高そうな洋服やかっちりしたスーツケース、そして事前につかんでおいたターゲットの趣向に合せた会話でいかにも敏腕で品の良い金融マンを装った訳だから、計算し尽くされた完璧な「それらしさ」だったと言えよう。





そもそも制服というのはいったい何のために誰がどうして作ったのだろうか?



っていう訳で、ネット検索をかけて見た。

「最初 制服」う~ん、あんまりそれらしいのが出てこない。

仕方が無いから「制服」だけで入れると・・・・。

エロ画像ばっかり。(^^;;



ネットが頼りにならないので仕方なく悪い頭で考えてみる。



それはたぶんかなり古い時代。戦争が起きて、見方と敵を識別するために作られたのではなかろうか?

・・・・なんて事はまあ誰でも思いつくよね。(^^;;



敵と味方というのは一番原始的な組織の構造だと思うが、とにかく攻撃すべき人間と守るべき人間を区別する目安というのが必要で、たぶんそれは最初は旗やのぼりであったものが、だんだん進化して来たと思われる。



ウィキペディアには制服の目的は「組織内部の人間と組織外部の人間、組織内の序列・職能・所属などを明確に区別できるようにすることである。また、同じ制服を着ている者同士の連帯感を強めたり、自尊心や規律あるいは忠誠心を高める効果が期待される場合もある。」とある。



そう言えばいつだったかニセ医者が逮捕された。

彼は医師免許を持たぬまま内科の医者として診療所に勤務して診察や投薬をしていたが、誰も彼が医者ではないなどと疑う者はなく、優しくて丁寧な先生だと評判が高かったのだという。



彼がニセ医者になった理由は良くわからないが、お金のためだけならもっと簡単に、それこそ警備員や警察の振りをして銀行の現金輸送車でも狙った方が手っ取り早かったに違いない。



医者というのはリスクが高すぎる。今の世の中患者さんは昔ほど優しく無いから、誤診で訴えられたり、そこまで行かなくても「あの先生ヤブ医者よ~。」などと言う噂が良く立たなかったものだ。

周りのお医者さんや看護師さんが気が付かなかったというのも変だ。



よほど医者になりたくて、それなりに勉強していたに違いない。

刑期が終ったら、本当の医者をめざしてもらいたいもんだ。(^^;;



Dr.林こと林公一先生に言わせると、ニセ医者になるなら精神科医になるのがよいそうだ。 第一金がかからない。診察といっても要するに話を聞くのがほとんどだから、診察室に机と椅子がひとつあればいい。内科だったら聴診器が必須だが、精神科の場合は不要だし、時によっては医者の「制服」である白衣も着ないほうがいい時もあるんだそうだ。



患者が求めるものは薬かカウンセリングかのどちらかだから、目の前の患者がそのどちらを希望しているのか素早く見抜く。

若干の薬の知識は不可欠だが、病名をつける時は必ず「自律神経失調症」にする。

ちなみに自律神経失調症という病名は今の日本に存在しないはずなのだが、こう言われて納得する人は数知れずだ。



その後「あなたがニセ患者になるなら・・」「あなたが本当の患者なら・・」と続き、現役の精神科医林公一先生の皮肉な観察眼の鋭さに唸らされる事必至だ。

「ココロの薬」とつきあう本―安定剤飲みますか?仕事やめますか? (別冊宝島 (432))の画像「ココロの薬」とつきあう本。林先生の文章はたった10ページほどだが、世の中にうつ病がやっと認知され始めた10年前のこれは面白本である。





ところで薬剤師の「制服」と言ったら・・・。なぜかお医者さんと同じ白衣なんである。

九子はこれが嫌でねえ。(^^;;



大学時代、実習の時間と言えば必ずこれを着せられた。

毎年、時期になると午後の時間はほとんど実習に明け暮れて、午後なんてもんじゃない、うまく出来なければ夜になる事も当たり前だった。(子供達に聞くと現在は遅くとも6時頃までには必ず終るようになったらしいが・・。)



九子は元気な時だって手を動かすのが苦手である。最初にもらう実習の手引き書を見てすぐに開始する回りの優秀な人々を尻目に、九子はあっちをうろうろ、こっちをうろうろ、周囲に眼をやって、まずは人と同じ事を同じようにしようとする。



ところがそれが出来ない!

当たり前だ!小学校5年生までコートを着るのに突っ立ったままのかかし状態で、出来すぎ母に着せてもらっていたこの九子に、手を動かせという方が無理なんである。



出来ないのは手が不器用なためばかりではなかった。とにかく実習なんていう代物が嫌で嫌でたまらなかったのだ。

少しでも興味が持てればまた結果は違っていたかもしれない。



所詮文系頭の薬局の一人娘が、親の言うなりに薬大に入っただけの話だから、まわりの、少なくとも自分の意志で薬剤師を志して来た人々にはどうやっても勝てない訳だ。



そして冬になるとウツも手伝って最悪の気分の中で白衣に手を通す。

ちなみにそのどうしようもない気分の悪さがウツ病であったと言う事に九子が気づくのはそれから後二十年もたってからであったが・・。



そう。白衣は九子にとってトラウマでこそあれ、他の何の感慨も抱かせない薬剤師の「制服」なのだ。



ところが世の薬剤師さんはほとんどと言っていいほど白衣を着ている。

薬剤師会も昨今、白衣を着て名札を付けるようにやかましく言ってくる。



そりゃあ処方箋調剤をする時は、いくらなんでもこの九子だって白衣を着るよ。

普段着の人間が調剤室で調剤していたらいかにも怪しいだろう。(^^;;



ところが、笠原十兵衛薬局には、幸か不幸か、(幸に決まってる!(^^;;)処方箋がそんなに来ないのよネエ。

来て下さるお客様の9割は雲切目薬のお客様だから、たまに処方箋だったりするとびっくりしたりする。(^^;;



この間、いかにうちに処方箋が来ないかを実感させられる出来事が起こった。



彼女は某問屋さんのMR(医療情報担当者)さんである。それでもこれでも毎週2回くらいは薬を届けに来てくれる。彼女がうちの担当になってから、もうかれこれ2年以上は経つと思う。



その彼女に言われたのだ。たまたまその時九子は調剤中で白衣を着ていた。



「先生!」と彼女は言う。九子の事らしいが、彼女に先生と言われるような薬の知識を九子が持っているはずがない。でもギョーカイの慣わしでそう呼ばれるものらしい。



もう少し若いころは「先生と呼ばないで。」と一々断っていたが、断るのも面倒くさいのでもう今は「はい。」と返事をしいている。彼女より先に生まれた事は事実であるからだ。(^^;;



「先生が白衣着てる!初めて見ました!」



ああ、白衣はやっぱりトラウマだ。

(^^;;(^^;;


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ダメ!ゼッタイ! [<薬のこと、ダメ薬剤師のこと、家のこと>]


日本薬剤師会が毎年やってる違法薬物撲滅キャンペーンの標語が「ダメ!ゼッタイ!」で、これはもう九子が若い頃からずっと変わっていない。

毎年新人女優さんがポスターの顔となって笠原十兵衛薬局にも一枚ずつ配布されて来るけれど、たしか酒井法子の顔もずっと前に見たような記憶がある。



矢田亜希子の夫でやんちゃで定評のある押尾学が薬物中毒により死亡したと見られる女性を置き去りにし、その後薬物使用の疑いで逮捕されたのと、酒井法子の夫高相祐一氏が薬物所持で現行犯逮捕されたのはほとんど一緒の頃だったと思う。



芸能界はもとより、都会ではどれだけ薬物が身近にあるのだろうかと思っていたら、こんなド田舎の長野市あたりでも「駅の近く辺りで売ってるらしいよ。」と子供が言ってたのにはびっくりした。



九子さんは薬剤師だから、きっと薬物の事に詳しいに違いない!と思ってるあなた。いつもの事ながらとんだ誤解であります。(^^;;



だいぶ前の事だけど、学校薬剤師会主催の違法薬物講習会が開かれて、九子は質問の時間に開口一番「『ダメ!ゼッタイ!』なんて言いますけど、本当は一度くらいならだいじょうぶなんじゃあないですか?」と質問した恥知らずなんである。(^^;;



そこに出席していたのが元麻薬Gメンだったという薬剤師さんで、「絶対にダメです。大人もダメだけど、ましてや未成年だったら、未成熟な身体や脳が薬物に侵されて完璧に悲惨な人生を送ります!」と鋭い口調で言われ、はじめて九子はその恐ろしさを認識した次第。



今、学校薬剤師を中心にどこの県でも薬物防止の授業が一年に一度位づつ中学高校を中心に開催されているはずだ。

学校薬剤師やってた時にそのビデオを見とくべきだったなあ。



九子の手元にあるのは精神科医の吉川武彦先生監修の本だけだ。「恐ろしい薬物乱用」

少年写真新聞社と言うところから出ている子供向けに書かれた本だから誰でも読める。体も心もぼろぼろにする 恐ろしい薬物乱用 (写真を見ながら学べるビジュアル版・新健康教育シリーズ)の画像



そこには本物の薬物中毒者の臓器が写っている。

脳が、心臓が、身体中が、これだけ悲惨な事になっているんだなあ。

それ以上に、この臓器を提供した人物は薬物中毒のためにもうすでに死んでしまっているのだという事実が重くのしかかる。15歳で乱用をはじめ18歳で死んだ青年の死体の写真も載っている。



薬物には実は軽重があって、大麻や有機溶剤(シンナー、トルエンなど)は比較的依存による害が少ないが、しかしより有害な覚醒剤(アンフェタミン、メタンフェタミン)やLSD、更には麻薬への入門薬物(ゲートウェイ)になるので気をつけろとよく言われる。



でも本当は、更にその前段階にあたる青少年の飲酒喫煙が薬物依存の第一歩となるのだ。



なるほどアルコール依存は深刻な問題だし、薬剤師会ではこのところ禁煙運動が盛んである。ニコチンパッチなどの禁煙商品も健康保険でたやすく手に入るようになった。



だけれども、まずは依存に陥らない、出来れば飲まない、吸わないが一番良いことは言うまでも無い。





ウィキペディアによると覚醒剤というのは悲しい歴史を持っていた。



戦中戦後の日本で当たり前のように使われていたヒロポンという薬。これはメタンフェタミンという覚醒剤なのだけれども、日本人の長井長義と三浦謹之介によって開発された薬なのだそうだ。



原料になるのはエフェドリンという咳止め薬だ。エフェドリンは一般的な咳止めの風邪薬によく入っている。

さらにこのエフェドリンは漢方薬の葛根湯だとか小青龍湯だとかの風邪薬の原料の「麻黄(まおう)」という生薬の主成分なのだ。



ついでに言えばリン酸コデインという麻薬も、100倍以下に薄めて一般的な咳止め薬に入っていたりする。

一時期騒がれたブロンのシロップにはエフェドリンもコデインも入っているから、たくさん飲めばそれなりの効果が得られるだろう事は想像に難く無い。



漢方の煎じ薬の原料のなかでツンと鼻をつく匂いと畳の切り屑みたいな外観は一風変わっていて、一度覚えると二度と間違えることが無いのがこの麻黄だろう。

匂いはそのまま覚醒作用をうかがわせるようだし、試しに口に含んでみると少し苦味があり、口の中がしびれるような感じがいつまでも留まって、眠気が吹き飛ぶような気持ちがする。



漢方薬が中心だった日本の医療の伝統の中で、麻黄からヒロポンが作られたというのはもしかしたらごく自然の成り行きだったかもしれない。



ヒロポンは最初咳止めの目的で使用されたが、そのうち疲労回復に優れた効果があると評判になった。



戦時中になると軍が生産性を上げるため積極的に使うようになった。兵隊さんや軍需工場の作業員が寝ずに働けるように、つまりは戦争に勝つために使われたのである。



特攻隊員は飛び立つ直前に、より即効的なヒロポンのドリンクを飲んで任務についたのだそうだ。(こちらの方はヒロポンの純度が高かったと思われる。)他の兵隊もヒロポンにお茶の葉を混ぜた錠剤を常用していたらしい。(カフェインとの相乗作用を期待したというよりも、高いヒロポンを安いお茶の葉でごまかしたのかも。)



九子の出来すぎ母も学徒動員といって女学校から(今の高校生位か?)名古屋の軍事工場に送られた時、朝から晩まで働きづめでもヒロポンを飲むと疲れが取れたと言っていた。



そうやって覚醒剤でも飲んでハイにならなけりゃあ、やってられないもんなんだろうなあ、戦争なんて!



だから戦中から戦後の混乱期まで、ヒロポンは良きにせよ悪しきにせよ日本人の気持ちを支えた薬だったんだろうと思う。



戦中にヒロポンを使ったという母には、中毒や依存は見られなかった。

たぶん粗悪な物で、飲む回数も含有量もわずかだったのかもしれない。



しかし戦後になって中毒者が増えてきて、ヒロポンはその使命を終えた。



そう。薬物は平和な時代にはそぐわないものなのだ。





このあいだテレビドラマにもなった水谷修先生の「夜回り先生と夜眠れない子供たち」には、『ドラッグは人を三度殺す』という言葉が出てくる。夜回り先生と夜眠れない子どもたちの画像


最初は「心」です。優しさ、意欲、気力、友情、思いやり、愛・・など人にとって最も大切な心を殺されてしまいます。
次に殺されるのは「頭」です。普通の人は、同時にいろいろなことが考えられます。勉強をしているときでも、今日のお昼ごはんのことを考えられます。先生に怒られている時でも、放課後何をして遊ぶか考えられます。でもドラッグは、その頭を奪います。
ドラッグを使い始めると、ドラッグのことしか考えられなくなるんです。「いつ使うか」「どうやって手に入れるか」「どこで使うか」「誰と使うか」を考える事で頭の中はいっぱいになります。
最後に殺されるのは「体」つまりその人は死ぬことになります。
これがドラッグの恐怖です。


水谷先生はご自身も家庭環境に恵まれず、若い頃夜の街で過ごしていた時期がおありなのだという。

ああ、だから夜の街に入り込むのが怖くなかったのかと思い込むのは早計だ。



何度も何度も身の危険を味わって、それでも子供達の事が気がかりで夜の街に立ち続け、一人の子を助けるために朝が来るまで何時間でも話し込む。

そういう毎日毎日の血のにじむような努力の果てでも、関わった子供たちのうち20人をドラッグで失ったと書かかれている。



脳は一度味わった薬物の快楽を一生覚えていると言われる。

先生のような大人に巡り合った幸せな子供であっても、薬物を絶つことはそんなにも難しいのだ。



夜の街を徘徊する子供達は、まず家庭での居場所を失った子供達ばかりだ。家庭が温かくて居心地が良ければ、子供達は決して夜の街などをうろつかない・・と水谷先生は言う。



薬物から子供達を守るのは、結局は家庭の愛情ということになるのだろう。





ところで高相祐一氏が保釈された時、まさに帰ろうとするその瞬間「タカソウ~!家族マモレ~!」という声が聞こえて、九子は胸が熱くなった。



声をかけたのはいったいどんな人なんだろう。たぶん彼の友人だろうな。親友と言える人なのかもしれない。

いや、もしかしたら単に酒井法子のファンの一人だったかもしれないが・・・。



そう叫んだ彼が自分の家族を大切にしてないはずはない。家族を養うために身を粉にして一生懸命働く標準的な日本人男性に違いない。



日本のほとんどの家族は皆、彼のような大黒柱を中心にほどほどに幸せな生活を営んでいる。



もし彼が高相祐一氏の友人であったとしたなら、若い頃には高相氏らとともに遊び回った経験もあるのだろう。危ない橋だって一緒に渡った仲なのかもしれない。



「だけどオレ、今は違うんだ、昔とは。だって護んなきゃならない家族が居るんだから・・。だからお前もさ、いつまでもバカな事やってないで、家族を幸せにしてやれよ。頼むからさあ。」



こんなセリフがあの一言に続いていそうで、九子はなんだか幸せな気持ちになった。こういう男達がこの国を支えているんだなと思えた。



そういう仲間に支えられた幸せな高相祐一氏であったとしても、彼と彼の家族のこれからは苦難の道だ。



何しろ薬物中毒で逮捕されたり、専門の病院に入院したり、ダルクという自助グループに入った人々の中で、その後一生にわたって薬物を摂取しなかった人の割合はたった1%、100人に1人いるかいないかなのだそうだ。



たった一度でも手を染めた薬物の快感が脳の中に永遠に刻み付けられて、何年、何十年と経った後でも一度誘惑に駆られるとそれを意志の力で拒む事は絶対に出来ない。



だから、もう一度言おう。ダメ!ゼッタイ!



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