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日記ではなく、ご報告 [<父を亡くす、母を亡くす>]

九子の出来すぎ母が、平成18年12月6日、79歳で旅立ちました。

4月に逝った父を追いかけるかのような年齢的にはまだ若いと思っていた母とのまさかの別れに、呆然としています。



しばらく日記の更新をお休みさせて頂きます。

また、メールやコメント頂いてもお返事出来ないかもしれませんが、御赦し下さい。



必ず戻ってきますので、どうぞご心配なく。



☆これからしばらくの日記は<父を亡くす 母を亡くす>でお読み下さい。
タグ:母の死

父のこと・・・・その2 [<父を亡くす、母を亡くす>]

父の戒名は「誠心院」ではじまる。
確かに父は40年間、誠実な政治家で在り続けた。

「笠原はきれいな選挙をする。」と良く言われた。
田舎の選挙にはつきものの酒も一切出さなかったし、金の疑惑など皆無だった。

もっともこれは、本人金にはとんと縁も無く、人を騙す才覚も、度胸も無かったという事も幸いしていたのだが・・・。(^^;

父は若い頃酒が大嫌いで、宴会の席では出来る限りジュースでしのいでいたらしい。
代わりに大の甘党で、視察旅行の汽車の中でも、酒盛りをしている議員仲間に、伊勢の「赤福餅」なんかををふるまっては顰蹙(ひんしゅく)を買っていたようだ。

いつしか父の甘い物好きは皆の知るところとなり、頼まれ事のお礼には甘いお菓子が届けられることが多くなった。

たまにその菓子包みのなかに「御礼」と書かれた金包みが混じっている事があると、父は即座にそれを現金封筒で差出人に送り返すのだ。

「うまくいったお礼なんだから、頼まれ事の前にもらう訳じゃないんだから、貰っちゃえばいいんじゃないの?」と母や私などは良く言ったものだが(^^;、父は頑として譲らなかった。

父の子供の頃のあだ名は「泣き隆(なきりゅう)」だったと言う。
気が小さくて泣き虫の男の子は、当時の友人の弔辞によると「旧家の坊っちゃんだから人が良くて、その上面倒見がいい」子供だったそうな。

その世話好きの性質は、議員として遺憾なく発揮され大いに役だったと思われる。

記憶の中で、元気だった父は家に居る時、いつも電話を抱えていた。
誰かから頼まれ事の電話がかかると、即座に誰かに電話をするというのが父の日常だった。

電話嫌いの私にはとても真似出来ない芸当だなあと思いながら、いつも父を眺めていた。

議員生活の長かった父にはいつも高飛車なイメージがつきまとっていて、彼の声を威圧的だと感じる人々も多かったみたいだ。

しかし実のところ、父はいつも電話をする時、なぜかわざと胸をそらし、シャツの上から胸といっしょに少々突き出た腹を右手でなでまわしながら話をしていた。

今考えるとあたかも気弱な「泣き隆」が、気の強くなるおまじないをしているみたいで可笑しかった。


父に死なれて見てはじめて、いかに父に護られていたかを知った。

生まれてから今まで、私はいつでも長野市議会議員笠原隆一(十兵衛)の娘だった。

父が引退を決めた時、自分が後を継ぐ事を考えた時期もあったが、どんなに
「次は九子ちゃんだね。」と言って下さる人が現れても、父は「お前なんかには勤まらん。」という顔をしていた。

父が集めた何千枚かそれ以上の名刺。
そればかりか、自分で作っていた「長野オリンピック招致特別委員長」やらのすべての名刺まで、始末の良すぎる出来すぎ母の手によって一枚残らず処分されてしまったのは大変残念であるが(^^;、そうして培った人脈は父の何よりの財産だったに違いない。

少々演説がうまかろうが、少々人目を引こうが、不肖の娘にもとよりその人脈を築く才覚は無い。

そもそも人前に出るのは嫌い、電話も嫌い、人の顔も覚えられず、人の世話などしたことも無い、押しも弱く、酒も弱い娘が、何も無かったら選挙の候補者になどなりようがない。

すべては笠原十兵衛という「看板」と「地盤」があったからこそ人の口に上っただけの話であった。
(金の入ったカバンだけは、最初から無かったが。(^^;)

選挙と言うお祭り騒ぎは人間を変える。
その最も際たる者がこの九子であった。

ハイになるという言葉があるが、あれほど人前に出ることの嫌いな人間が「十兵衛の娘でございます。」と進んで先頭に立ち、見ず知らずの人々に電話をかけ、全く知らない家々を訪ね歩いた。

今考えると信じられない話であったが、すべては父を当選させるため・・、と言えば聞こえがいいが、議員は落ちたらタダの人、その日から生活に困ってしまうのだから、家族が必死になっても無理は無かった。

父という隠れみのがあったからこそ出来た事だった。
十兵衛の娘でなかったら、鼻もひっかけてもらえなかったろう。

考えてみると、人生の中ではその場の勢いでやってしまって、後で取り返しのつかないことをしたと悩む事がよくあると思う。

うつ病があることがわかって、選挙なんかに出ずに済んだ。
それだけはうつ病に感謝している。


父の姿の中で一番鮮やかなのが、ある年の選挙で遊説中に親友だったY議員の宣伝カーとすれ違った時のことだ。

その年は新人候補が十数人も出て、父もY議員も苦戦が伝えられていた。

父にしてもY議員にしても都市部を地盤としているので、農村部のような土地のつながりを基にした磐石な地盤がある訳ではない。

その上、Y議員も旧家の坊っちゃんで人が良く礼儀正しい事この上ない人だったから、つまりは二人とも真面目なだけが取り柄であんまり選挙上手ではなかった訳だ。

そういうところがお互いにひきつけあったのか、父と数年年下だが初当選は一緒のY議員は馬が合って一番仲良くさせてもらっていた。

父よりもいつも更に下のほうで当選することの多かったY候補の宣伝カーに向かって、父はなんと、今まで政見をとうとうとしゃべっていたマイクを離さずに大声でこう言った。

「Yさん、頑張れよ。落ちるなよ。また一緒にやろうなあ。」

それに答えてY候補の宣伝カーから、Y候補自身の律儀な声が聞こえてきた。
「笠原候補のご健闘を心よりお祈り致します。」


もし私が父の立場だったら、自分の当落が危うい時に人を思いやることが出来ただろうか・・?
この時の父の姿は、九子の思い出の中でひときわ輝いている。


幸運なことに父とY議員はその年なんとか当選を果たしたが、まだ若かったY議員はその任期を全うせずして不治の病で逝ってしまった。

父は足が動かなくなるまで、毎年正月の命日にはY議員の未亡人宅を訪ねてお焼香させてもらうのが恒例となった。

その頃から父は、一人また一人と、たくさんの友人達に先立たれる憂き目を見続けてきた。
(・・・続く)

父のこと・・・その1 [<父を亡くす、母を亡くす>]

九子の日記の記念すべき200号にはM氏の話題が華々しく取り上げられるはずだったのに、人騒がせな病人であった九子父が4月10日未明にあっけなく逝ってしまったりするものだから、日記の主人公ははからずも父となってしまった。



10期40年間、みんなに担ぎあげられて一度も落選を知らずに長野市議会議員を勤め、人の話題になる事を好んだ父、17代笠原十兵衛は、どこまでも神輿(みこし)の中心にすわって目立つ事の好きな人だった。

その父の、まるで自ら選んだような見事な亡くなり方だったのかもしれない。



父とは3度ほど大喧嘩をした記憶がある。

最大の喧嘩は、父が76才の時、10期目の市議選への出馬を決めた時だった。



「パパったら何考えてるの?終ったらもう80才だよ。80才のじいさんに一体何が出来る?せっかく負け知らずでここまで来たのに、ひどい点数で落選してみっともない姿をさらす事ないじゃない!私は反対!絶対反対だから・・・!」



一人娘の罵声を後目(しりめ)に、だが、父の決心は堅かった。



思えばまだ誰も大声でオリンピックの招致など唱えていなかった頃から、誰はばかることなく「オリンピックオールマイティー!オリンピックが来れば陸の孤島長野市に、新幹線も高速道路もやってくる!」と叫んで、オリンピックの招致に尽力した父である。



そのオリンピックを議員として見ずして引退するのは、後ろ髪引かれるものであっただろう事は充分に推測がついた。



「でも、だからと言って、往生際悪いってもんでしょ!」



弔辞の中で議員仲間だったTさんが「実は最後の選挙で、もう引退すると言っていた笠原議員を説得して『もう一回一緒にやりましょう!』と言ったのは私なんですよ。」とおっしゃった。



それを聞いて、「父は何がなんでもオリンピックにしがみつこうとした訳ではなかったんだな。」と思ってさわやかな気持ちになった。



父は最後の選挙で始めて、今までの「笠原隆一」ではなく襲名の「笠原十兵衛」で戦った。

この名前で落選したら、やはり長野市議で市議会議長を長年勤めた

16代笠原十兵衛の名前にも傷がつく。



背水の陣だった。



父は年に似あわず、良く動いた。

暑い盛りの選挙戦で、「おれは夏はどんなに暑くても平気なんだ。」と、引退で地盤を譲ってもらった別の議員さんの広い広い地元を、精力的に歩いて回った。



父の努力は報われて、わりに上位の成績で当選することが出来た。

しかしこの時の無理がたたって、直後に脳梗塞の軽い発作をした。



でも父はまだまだ若かった。

オリンピックの本番では、雪の中、白馬のジャンプ場や吹雪のスケルトン会場にも足を運んだ。



戦争中、中国の大地を一日に何十キロも歩いたという自慢の足だった。



日本勢の大活躍もあって、前評判の悪かった長野五輪は、終ってみたら大成功で、サマランチ会長から「今までで一番組織的に運営されたオリンピック」という誉め言葉まで頂戴した。



たぶん父の生涯最高の日ではなかったか。



その最高の日を、市議会議員として、いや「長野オリンピック特別委員長」として一段高い場所で迎える事の出来た父は、そして父の人生は、幸せなものだったと思う。



賑やかな葬式だった。



長野五輪の時の塚田佐(たすく)前長野市長が葬儀委員長として弔辞を述べて下さった。

その中で「笠原議員は、達者なドイツ語で外国の委員達と語りあった。」と言われた時には、九子を始め孫達も、あまりの話の展開にギョッとした。

(^^;



確かに薬専(薬大の前身)でドイツ語は少々かじった事はあっただろうが、ドイツ語はおろか、英語すらカタコトの挨拶程度しか出来ない父だったからだ。



でもそんなことはおかまいなしに、外人さんの中へ入って行って楽しそうに話をしている姿は皆に目撃されている。



外国も外国人も大好きな父だった。



美しい女性は、もっと好きだった。



だから、今をときめく小坂憲次文部科学大臣の美人妻まり子さんに、丁重な大臣からの弔辞を代読して頂いて、父はさぞや満足だったと思う。



その上引退してから7年もたっているのに、500人を軽く超える方々に弔問に来て頂いた。

賑やかな事が大好きだった父の、華やかなしめくくりであった。

(・・・つづく



☆皆様、そんな訳で更新が遅れました。

九子にうつ病がある事をご存知の皆さんは、きっとご心配下さっていらっしゃると思いますが、お陰様で九子は元気で居ります。

ご安心下さい。( ^-^)

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