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自分の中の掟(おきて)と顔のないお化け [<九子の万華鏡>]

日本には見えない縛りが多くある。


 

たとえばこうだ。


 

しばらくぶりで見かけた人が明らかに昔より自分に冷たくなったように思えた。態度がよそよそしい。私に何か怒っているのかな?何が原因だろう?


 

その人と話してた人も既知である。


そんな時、「あの方どうされたのかしら?私を怒っていらっしゃるのかしら?あなたどう思われて?」


と、こんな小津安二郎の映画の世界風で無くてもいいけど(^^;;


そういう質問ってなかなか出来ない。


 

一番は自分とその人の関係性にその既知の人を巻き込むことを恐れるからだ。


 

それでなくても自分の中に掟があまた出来ていて、そんなことを聞くのは不躾だとか、自分も聞かれたくないことを聞くもんじゃないとか、あの人とはそんな仲じゃないでしょうとか、そんな気持ちが勝ってしまって聞くことが出来ない。


 

こういうこともある。


 

電話というのは昔からある双方向の通信手段で、その場でけりが付く事が多い。


それに引き換え、昔は手紙だけだった一方通行のやりとりが、現代社会は時間的には素早くなったとはいえ、メール、ライン、SNSの書き込みなど、多彩になっていくつも選択肢が増えた結果、私のような小心者が悶々とする機会が多くなった気がする。


 

あの人からまだ返事が来ないけれど、メルアド間違えて届いてないのかしら?何か不都合なこと書いて怒らせてしまったのかな?具合でも悪いのかな? 単にお忙しいなら良いのだけれど・・。


 

悶々とするくらいなら、もう一度メールを書く、いっその事電話をする・・。


という選択肢はなかなか取れないのよねえ、九子の場合。


気を悪くされるのが怖くて(^^;;


 

こういうのを総称して「遠慮」と呼ぶ。


 

遠慮は良くも悪くも私たち日本人を特徴づけるものだ。


 

慎ましく恥ずかしがりな日本人のこの特性は、大変美しいとされるし、この国に住んでいる限り誠に居心地がいい。


 

だけどそこに重大な欠点があることにお気づきだろうか?                                                        


遠慮ということは自分の考えを閉じ込めて、人にゆだねてしまうことだ。


自分の考えは表現してなんぼだ。いくら自分でずっと考えていましたと言ってみても、言葉にして表現するか、文字にしてあらわさなければ他人には伝わらない。


 

そもそも遠慮ばかりしていると、本来の自分の欲求というものがだんだん希薄になって、人の考えにとって変わられていく。


 

最初のうちこそ自分の考えが通らなかったことに残念な思いをするかもしれないが、それがたび重なるごとに次第に慣れていき、人が考えてくれる意見に乗っかるならその方がずっと楽だと、自分の考えを持つことすら拒絶してしまう。


 

それがある人=誰かの考えに同化することであれば、まだ選択の自由がある。


少なくても数人分の意見はいつでも出るからだ。


 

ところが日本には「みんな」という顔のないお化けがいる。


「みんなそう言ってたよ。」「みんなこういう意見だよ。」


「みんな」の意見に取り込まれたが最後、あなたに思考の自由はもはや無くなる。


 

日本の未来は安倍首相が言うほど明るくない・・・と思う。


中国にしてやられて、すべてを無くしてしまうのではないだろうか?


 

中国はとんでもない国だと思うが、中国人一人一人は自分が好きなように生きている。


彼らのエネルギーが底なしに思えるのは、自分のやりたい事に貪欲で、誰がなんと言おうとまず自分を貫いて突き進む強さがあるからだ。


 

日本人で「私はこれがしたい。」とはっきり言う人、そんなに居ないんじゃないかな?


その一番の原因はこの国の教育のせいだと思う。


 

恥をかく。世間体が悪い。失礼だ。みっともない。


何度となく言われ続けてきた言葉たちが、あなたの自由な思考力を損い、奪っていく。


 

少なくとも小学校低学年まで、この国でも子供たちはまだ生き生きとしている。


何ものをも恐れない目をして、自由に動き回り、好き勝手にしゃべり続ける。


それが急に小学校高学年あたりから物言わぬ子らになり、気持ちを閉じ込めようとする。


 

私たちは「みんな」から自由にならなくては。


「他人の目」から自由にならなくては。


そうでないと、いつまでたっても自分の頭で考える習慣がつかない。


自分は本当は何がやりたいのか、突き詰めることが出来ない。


 

この頃「みんな」が集団で作り上げて来た日本方式が、世界の中ではそううまく機能していないように見える。


「みんなの総意」を探っているうちに、世界ではずっと素早く物事が進んでいってしまう。


日本の企業が負けているのは、決断のスピードなのだと思う。(expedia)






偉そうなこと言いながら、九子は子供時代ずっと自分の夢も、将来の希望も、まったく考えることは無かった。考えなくても決められていたからだ。


親がすべて決めてくれ、ただそのレールに乗っかっていたからだ。そしてずっと乗っかり続けていたほうがはるかに安全で楽だった。


 

楽に甘んじた結果、自分でするべき経験も、自分で選び取る力もひ弱な、すべての人を怖れる未熟人間になった。


 

自分に自信が戻ってきたのは、坐禅(座禅)に出会ったからだ。


坐禅(座禅)が自信も幸せも 希望も笑いも・・すべてを与えてくれた。


 

自分に足りない力に気付いた時、誰かが怖くなった時、不安に取り込まれた時。


あなたも坐禅(座禅)をしてみて欲しい。



坐禅(座禅)はこれからの日本の不安な未来に、きっと灯をともしてくれるはずだから・・。

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それでも日本の英語教育を何とかしてほしい! [<英語の話>]

例によって引きこもりの6月と夏バテの7月を過ごしていて、それでも今年のウツはごく軽かったため、テレビを見ながら多々妄想の翼を広げることは出来た。

したがって若干古びてしまったニュースだけれど、しばしお付き合い願います。<(_ _)>



日本人の英語のあまりのお粗末さに、絶対に教育が間違っている!と思う人は多いと思う。

東大に留学する中国人留学生に、(東大生ですら)日本人の英語は幼稚園並みと言われて、悔しい思いはしても返す言葉が見当たらない。


数学者の藤原正彦氏や同時通訳者の鳥飼玖美子氏などから、「英語教育は大人になってからでも十分間に合うし(実際彼らはそうしてきたし)一番大事な英語で何を伝えるかという中身の問題は小さいころに日本語を十分に叩き込まれなければ育まれないのだから、英語の早期教育は時期尚早」と言われれば、専門家が言うならそんなものかと今までずっと思ってきた。

だけどもう限界だ!

ここへ来て憂慮すべき問題が持ち上がった。


下記の記事(すみません、もう見られなくなってます。)によると、例の世界的にも注目を集めた米朝首脳会談の記者会見において、トランプさんは「拉致問題をちゃんと伝えたよ。」と安倍さんに言ったそうだが、本当にはどんな言葉でどんなふうに伝えてくれたのかがよくわからない。

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180629-00056322-gendaibiz-int&p=2


そういう時こそ記者の出番だ。

せっかくの記者会見の場なのだからたくさん(NHKだけでも100人!だそうだ)行っていた記者の中から英語で(当たり前だ!)質問する人間が最低一人や二人居てもよかったはずだ。


ところが彼らはみんな押し黙っていた。

なんで?だってここがトランプさんに、彼の言葉で答えを聞ける最後のチャンスの場だよ!


記事を見て分かった。出席した記者たちは英語が話せなかったのだ!!

要するに幹部クラスが、米朝記者会見というビッグイベントの場に居合わせたというそのことが自分の出世の勲章になるっていうんで、我も我もと手を挙げた。結果英語など全然出来ない幹部の記者ばかりが世紀の記者会見の場に陣取った。その挙句英語の得意な階級が下の、たぶん女性記者が多いと思うが、出番はなくなる。


大枚はたいてシンガポールまで行って、一言も質問しなかった挙句に、真実がまったく伝わらなかった。


これって日本にとって大きな損失でしょう。

そりゃあ何日か遅れでアメリカから情報は来るかもしれないけど、あくまでも人を介した情報であって、トランプさんから直々に聞くのとは情報の価値が違う!


もしも、いつも間違い英語で堂々と渡り合ってる恥を知らない九子なら、きっとあの場で手を挙げていたと思う。

いや、ホント。こう見えて大勢の中で発言するのは割かし得意なのだ。何しろ市会議員の娘だから(^^;;


相手が答える英語がわからなかったなんてことも往々にしてある。そんなこと気にしちゃいられない。答えを引き出せた時点でなんぼだと思う。

答えは理解できませんとすごすご引き上げて、あとは専門家にお任せしますと言っとけばよい。(^^;;


ところで記者会見の場には大手の放送局の他にも小さい新聞社の特派員とかも出ることが出来たのだろうか?そういう人たちなら、望むべきはそれが女性であったなら、大会社のような階級社会の影響は少なめだと思うから、すくっと手を挙げて英語で質問するのは可能だったのではないだろうか?


いや、結局誰も質問しなかったという結果がすべてを物語っている。


要するに核心は 「トランプ大統領が金正恩委員長に日本人拉致問題をどう伝えたのか?」 という一言なのだ。この簡単な一文を英語で言えないような記者を何百人も連れて行って、一体なんのための記者会見か!

一体日本はお金の使い方がそもそも間違っている!




そこ行くと記者会見の先陣を切ったアメリカの女性記者はカッコよかった!

「あなたは金正恩を優秀な大統領だと持ち上げたが、肉親を殺し、民を飢えさせている金正恩になぜそんなことが言えるのか?」


自国の大統領相手に良くそこまで言えるものだと感心した。

もちろんこの記者にとって英語は母国語なのだから、言語の壁ではなくて、ハートの問題だ。


この瞬間、日本人の行動を縛り付けている呪縛のようなものも感じた。


まず「上の人が最初」の序列意識。

誰かが先に口火を切るまでは黙っていようという意識。

真っ先に意見を言うと目立つから、目立ちたくない意識。

つまりはこれすべて「遠慮のかたまり!」


英語うんぬんの前に、こんな様々な圧力で縛り付けられているのが日本人だ。

その上、英語も完ぺきに話さなければいけないというプレッシャー。


さあ、そこで女性の出番だ!女性は一般に語学が強い!だからこういう公の場で英語で発言出来る女性記者を育むべきなのだ!


いや、育む必要はないのかもしれない。かれらはもうそれなりの力を持って、英語出来ない上司にかしずいて待機しているのかもしれない。



女性の社会進出が遅れていると言われて日本はよく叩かれる。

これに関して九子もいつか何か物申したいと思っている。


まずは得意な分野から、女性の能力を示していこう。英語なんか最適分野だ。

そしてその場合、英語できない上司は積極的に英語できる部下に席を譲るべき!


世紀の米朝会談の記者会見に居合わせたというそのことが偉いんじゃない!

その場で何を発言したのかが一番大切なのだという、そんな簡単なこと一つ分からない

いい大学出ただけのエリート上司には、顔を洗って出直してもらいたい!


そして、日本人の英語教育。

本当になんとかできないものだろうか?-



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