さらば、マイケル・ジャクソン [<ダメ母のすすめ・・・・新米ママへ>]
テレビという二十世紀が作り出したおもちゃの箱に映し出された人物をナマで見る機会を得るという事は、多くの人々にとって快感であるらしい。
この至って普通の庶民であるはずの九子でさえ、善光寺の御開帳中「善光寺七名物」の一つ「雲切目薬」が蘇ったと言うので二回ほど地元テレビに出して頂いたら、お客様から「あっ、テレビに出てた人だ!」と手も握らんばかりに感激されて面食らったことが何回もあった。
セレブ、正しくはセレブリティcereblity、つまりは有名人っていうのはマスコミが作るのだ。
テレビという箱の中で笑いのつぼを刺激するような一言が言える。気の利いた発言をして皆を唸らせる。奇抜な衣装や言動で人をびっくりさせる。要するに今風に言えばテレビでウケル事が出来れば、そうしてある一定期間テレビに出続けることが出来れば、誰だって有名人になれる。
マイケル・ジャクソンの突然の死のニュースは、あっと言う間に世界中を駆け抜けた。
一応同世代の九子にとって彼の存在は大きくはあったが、それはいつも音楽的な関心の的と言うよりはむしろ、見ていて面白い対象物とでも言うべきもので、CD買ってまで聴く気はあんまりないけれどYoutubeでなら見てみたいと言う程度のものだった。
もちろん彼の場合はセレブと言っても別格だ。才能があり、その才能と絶ゆまぬ努力で独自のダンスパフォーマンスを編み出し、信じられない数のCDを売り上げ、巨万の富を築いた。
テレビが作るそんじょそこらのお手盛り有名人とは格が違う。
彼の死と同じだけの衝撃を覚えた有名人の死と言えばダイアナ妃くらいなものだろうか。
ダイアナさんと同じほど、マイケル・ジャクソンもまた世界中の誰にも知られた存在だった。
どんな風に名前が知られているのかなんていうのは実はあんまり関係ない。良くも悪くもなるべく多くの人が名前と顔を知っていてくれているという事が肝心なのだ。
マイケルの全盛期を知るはずの無い10代の末娘M子ですら「マイケルジャクソン死んじゃった!ショック!」と叫んだように、地球上のあちらこちらでたくさんの老いも若きもが、彼という特異な存在がもうこの世にいないことを嘆き悲しむ。
それが本当の意味での有名人というものではないか。
ダイアナ妃が最後まで愛に飢えていたように、マイケルもまた家族の愛には縁の薄い生涯だったようだ。
”ben”を歌った愛くるしい少年時代、父親の虐待に怯え、ステージからステージへと渡り歩く忙しい生活の中で何一つ子供らしい楽しい思い出がなかったという。
その失われた子供時代を取り戻すために彼が巨費を投じて作ったのがネバーランドであったと聞くと、なんだか切なくなる。
虐げられて育った子供は何物にも怖れを抱く。虐待者の暴力がいつ襲ってくるか不安で不安でたまらないからだ。
あれだけ偉大な存在になったマイケルでさえもその例外ではなかったと思う。
最後まで離さなかったと伝えられる痛み止めdemerol(モルヒネに近い)にせよ、麻酔薬diprivanだかpropofolだか(手術時に使われる)にせよ、多幸感を伴う薬であっただろうことは想像に難くない。
世界がうらやむ富を得てking of popと呼ばれるまでに上り詰めたマイケルが、薬に頼らなければ幸せひとつ手に入れる事ができなかったのかと思うとひどく悲しい。
少年に対する性的虐待疑惑だってそうだ。
彼はもう自分を傷つけるだけの大人の世界にうんざりして、決して彼を傷つけることのない子供達しか信じられなくなっていたのかもしれない。
子供達を見つめる彼のまなざしが母親のそれのように温かい。
そのまなざし一つで、九子は彼の少年に対する性的虐待疑惑を全否定したいという気持ちになる。
マイケルの生涯には整形疑惑がつきまとう。
確かに鼻の形が明らかに違う。そして皮膚の色が・・。
少なくとも30代の彼は、光り輝くほど美しい若者だった。
美しい物をこよなく愛したマイケルは、自分自身も美しく、一分の隙もないほどに完璧に美しくありたかったのだろうか。
ただ、その完璧の目指し方が尋常ではなかった。病的と言ってもよいかもしれない。
専門家の中には彼の醜形恐怖を指摘する人もいる。
皮膚の色の方はVitiligo(白斑)という遺伝的な病気であると彼自身は言うが、典型的な病態のようにまだらに白いのではなくて全身がくまなく白くなったのだから不思議だ。
いずれにせよ、黒人の彼がまるで白人かと見まごうような外見になった。
彼はさまざまな慈善事業を行っている。
そのほとんどが貧困と病と差別にあえぐ黒人たちに救いの手をさしのべるものであった。
だが彼自身の本音を言えば、自らのblackというアイデンティティーを捨て去って、whiteになりたかったのではないかと思わせる。
彼が本気でそう考えたとしても無理は無い。
小さい時にマイケルを虐待した父親。父もまたもしかしたらそのまた父親から同じような虐待を受けながら育ったのかもしれない。それは黒人家庭の貧しさゆえだ。
そして父もまた子供達をスターに育てることで貧困から抜け出したかったのだ。
それが虐待というべき厳しい稽古につながった。
「あの生活には戻りたくない。」マイケルはそう思ったに違いない。
"Black or white"の中に意味深な歌詞がある。
Im not going to spend my life being a color.
a color だと意味を成さないが a coloredとすると「これからの人生を黒人として送るつもりはない。」になる。
そもそものタイトルが"black or white" であり、" black and white "でないのもなぜか気になる。
そんなにも努力して白人の外見を手に入れたマイケルだったが、アメリカ社会の中では「一滴でも黒人の血が混ざっている人間は黒人」と見なされるのだそうだ。
白人の外見と黒人の血を持ったマイケルは、結局どちらの側からも反目される存在になってしまったのかもしれない。
幸いな事に人種差別とは余り縁の無い国に住む大多数の(majority)日本人である私達だが、虐待の方は当事者になってしまう機会は少なく無いと思う。
この九子がかつてそうだった。いや虐待ではなく、単なる体罰であったと逃げたい自分がまだここにいる。
当時九子は愛情を独り占めして父母に大事に育ててもらったにも関わらず、自分の性格全てを嫌悪していた。
その未熟さのまま親になり、思い通りにいかない子育てのうっぷんを長男にぶつけた。
九子が坐禅と出会って人生を生き直す事が出来た時、長男はもう3歳になっていた。
彼の「三つ子の魂」はもう形成されてしまっていた訳だ。
顔や頭はさすがに叩かなかったけれど、その代わりお尻は手の跡がつくほど叩いた。それが躾だと信じていた。
坐禅で精神的に落ち着いた毎日を過ごせるようになると子供達がそのままで仏様みたいに可愛く見えるようになって、叩いたり叱ったりする必要性など全く感じられなくなった。
そんな訳で下四人の子供達はほとんど叱られずに育った訳だ。
長男は他の子供達と比べてみると線が細い。感情の起伏が激しい。落ち込みやすい。不安が強い。
たぶん自分でも生き難いと感じているに違いない彼の性格を形作ってしまったのが母親が彼に与えた体罰であったのなら、どんな事をしてでもその埋め合わせをしなければならない。
そう思って彼に勧めたのが、自分を幸せに生まれ変わらせてくれた坐禅だった。
彼は案の定すぐに坐禅に飛びついた。何かあると必ず活禅寺(←ここ)に行くようになった。あれからもう8年。
でも彼はまだ坐禅の本当の力に気づいていない。正しい呼吸のあり方がわかっていない。
そしてもちろん、坐禅を正しくする事によって到達できる自分という人間の底知れぬ力を信じきっていない。
わかっていたら、まだ元のままの彼で居るはずがない。
さらば、マイケル・ジャクソン。
完璧主義者のあなたの巨額を投じて作り上げた美しい顔が年齢と共に崩れていくのを見る辛さはいかばかりだったろう。
自分のDNAは一本たりとも入っていない3人の白人の子供達を愛して止まなかったあなたが、子供達を幼いまま遺して死んでいくのはどんなにか無念であったろう。
最初の一報を聞いた時、ロンドン公演のプレッシャーに負けて自ら死を選んだのかと思ってしまった事を赦して欲しい。命を削って100%完璧な舞台に臨んだあなたらしい最後の純粋さと努力を心から讃えよう。
死してなお頑なに父を拒み続けるマイケルの激情に恐れおののきながら、息子にするべきことはまず頭を下げて心底詫びる事かもしれないと、愚かな母は今やっと思い至った。
マイケルジャクソン 虐待
向上心 [<ダメ母のすすめ・・・・新米ママへ>]
人間年をとると円くなるとよく言われる。本当だなあと九子もそう思う。
(まっ、九子の場合はまだまだ若いんだけど・・。(^^;;)
長男が生まれた時、自分ではそんなつもりはなかったのだけれど、彼にはかなり厳しく接してしまった。
男の子だし、友達の多い立派な人間になって欲しかった。
人前で彼を叱りながら、良いお母さんやってる自分に酔っていた事もある。
もともとが辛抱強くない母親なので(^^;;、自分のストレスを発散するために叱ってしまった事などしょっちゅうだ。
3歳まで甘いものを食べさせなければ甘いものをそんなに欲しがらなくなるから良い歯になると聞いて、可哀そうにRは3歳までパンにジャムもつけさせてもらえなかった。
そんなにしたのに、彼の歯は虫歯だらけだった。(^^;;
長男が2歳半、次男Sが6ヶ月の時、ジョン先生の友達の緑色の目の美しいアメリカ人メアリーさんが、薬局で生まれたばかりのSを抱き上げながら「坐禅はいいよ。」と勧めてくれた。
彼女はニューヨークで坐禅をやっており、長野へ来てからは活禅寺にも数回参禅していた。
当時軽いうつ状態がようやく治りかけていた九子は、大学時代鎌倉の円覚寺でうまく坐禅が組めずに失意のうちに3泊の接心から帰ってきた苦い経験があるにも関わらず、引き寄せられるように活禅寺に向かったのだ。
そして以来二十三年間、九子は坐禅におんぶされ、どうにかこうにか世の中を渡ってきた。
朝の坐禅を終えて家に帰ると、子供たちがみんな仏様に見えた。
幸せでたまらない九子には全ての物が美しく輝いて見えて、こんなに愛らしい子供たちを叱る必要など何も無いと思えた。
だから次男Sから下の子供たちは、ほとんど九子に叱られずに育った。(おばあちゃんには叱られていたが・・。(^^;;)
長男Rと末娘M子は8歳違いだ。
九子に一番叱られたRは「こんな事してもM子が叱られないのは不公平だ!」と不満を口にする。
もちろん叱らなくなった原因で一番大きいのは坐禅を知ってあんまりイライラしなくなったからだと思うのだが、わずか8歳だが自分が年をとった事も見逃せない。
まあ言ってみれば叱るのが面倒になった、叱るほどの事は無いと思う場面が多くなった、子供に甘くなったというのが正直なところだ。
若い時には理想が高いが、年をとると自分の分というのもわかって来るし、ナンバーワンじゃなくてオンリーワンっていう手もあるぞみたいな事にもきっと思い至るのだろう。
まあそれより何より、エネルギーが無くなるっていうのもあるよね。(^^;;
5人の子供たちのうち、長男はまじめ人間に育った。
叱られて育った割にはグレもせず、まともに優しくていい人間に育ってくれた。だが、欲を言えばなんというか遊びがない。融通が利かない。叱って委縮させてしまった弊害が出ているかもしれないとすまなく思う。
二番目以下末娘までの4人は、ただでは転ばないタイプ。(^^;; まあ、世の中を渡るには心配なかろうと思わせる。
結果だけを見れば、長い人生何があるかわからないのだから、叱られて母親の愛情にも不安を感じてびくびく育つより、叱られずに育って自分に自信がつく方がいいのかなとも思う。
九子は昔、向上心のある男(ひと)が好きであった。
一人っ子ゆえ兄貴願望も強かったので、なんでも自分よりも優れていて、頼りない自分を引っ張ってくれるような男の人がいいと思っていた。
そして、九子が人知れずお熱をあげていたのは・・・・・。
なんか言うのが恥ずかしいが、郷ひろみさんであった。今で言うところのHIROMI GO ね。( ^-^)
彼は当時アイドル歌手としてデビューしたが、ごたぶんにもれず歌唱力はそれほど優れているわけではなかった。とにかく、顔が良ければ何はなくても売れる時代であった。
ところが!・・・である。
彼の歌は、どんどんうまくなっていったのだ。
相変わらず、女の子の着るようなフリルの付いたひらひらの洋服は来ていたが、張りのある声は声量を増し、「おっ、これは!」と思わせるのびやかな歌声に変わって行った。
なんでも毎年渡米しては、歌やダンスのレッスンを積んでいるそうだった。
いつの間にかそののびやかな声量のある声に九子は魅せられるようになった。
九子が生涯で行った数少ないコンサートのうちのひとつが彼のコンサートだ。
数万円払ってホテルのディナーショーに行く事も考えたが、ケチな九子は最終的に何分の一かの出費ですむコンサートの方を選んだ。
そのコンサートすら、記憶力にも記銘力にも難のある九子の脳みそにわずかの間はしっかり刻み付けられていたのだとは思うが、今となっては当時ですらかなり若作りだと違和感のあった彼の顔が大写しにされたファンクラブの入会書とその日のチケットが残るばかりである。
(やっぱディナーショーにしとけばよかったのかしら・・。(^^;;)
確かに彼は、今でも毎年新曲を出し、変化を重ねながら芸能界でしぶとく生き残っている。
常に新しいものに挑戦し続け、進化し続ける中身とは正反対に、外見は三十数年来みじんも変っていないように見える。これって、同世代からしてみるともの凄いことなのだ!
向上心というのは、若さの同義語かもしれない。
このくらいでいいや!と思ったらそこで終わり。常に新しいものを身につけるために、絶えず努力を重ね続ける。
その人知れず行われるたゆまぬ努力と、それをし続けることが出来たという事実に対して、人々は感嘆し、賛美するのかもしれない。
ところがどっこい、理想とは裏腹に、九子が結婚したのは向上心のかけらもない?^^;;M氏であった。
そして、それが正解だったのだ。( ^-^)
へたに向上心なんぞがあると、くつろげるはずの家庭がくつろげないではないか!
だから・・という訳でもなかろうが、Hiromi Goは二度の離婚を経ていまだに独身だ。
先日ある人からHiromi Goのとんでもない噂を耳にした。
その人のお嬢さんは美貌に恵まれ、実はモデルをしていて芸能界の周辺に居る。
その人を、実は九子はあまり好きではない。実際、顔を見るのはおろか、声を聞くのもいやだった時期も長い。
20代も半ば、美しい盛りの彼女の娘は、どういう経路でかHiromi Goと接点を持った。
そして彼女はこう言い放ったと言う。「この頃毎日のように(Hiromi Goから)電話がかかってくるの。わずらわしくって・・。」
その刹那、九子の長年のアイドルHiromi Goは、がらがらと音を立てて崩れ去った。
若い女の子なんかに現(うつつ)を抜かしちゃって、向上心の無いHiromi Goなんて、最低の低!なによっ!!
もしかしてそれが九子の親友のお嬢さんであったなら、また話は違っていたかもしれないことなど気付かぬ九子であった。(^^;;(^^;;
郷ひろみ
天才の母達 [<ダメ母のすすめ・・・・新米ママへ>]
本来ならアメリカのドラッグ事情の続きを書かなければならないところなのだが、慣れない英語サイトを見続けたせいか、目と頭が疲れて、英語サイトに拒否反応を示しつつあるので、今日は「モノモライにはゆで卵」柏倉葵さんのこの記事にトラックバックさせて頂く。
そんな訳でMariaさん、続きはしばしお待ち下さい。m(_ _)m
葵さんが五嶋節さんを日記で取り上げたと知って、実は戦々恐々とした九子であった。
葵さんなら九子が書きたかったことを鋭く取り上げて、九子にはもう書く余地が残っていないかもしれない。せっかく半分くらい書いてあるこの原稿が無駄になっちゃう・・・。
しかし幸いなことに彼女が取り上げたのはテレビの映像の方で、九子が読んだ文芸春秋10月号とは情報源が違った。
良かった。( ^-^)
なら、少しは書けるかも・・・。
最初に卓球の天才少女3歳の福原愛ちゃんを見た時、「ああ、なんて気の毒な!」と思った。
自分の夢を子供に託すのだけは止して欲しいわよね。彼女に才能があれば良いけど、あれじゃあ卓球以外の子供の行くべき道を、親が勝手に摘み取ってるのと同じよね。
長女N子と同じ年の愛ちゃんはしかし、母親の思いを実に忠実に受け継ぎ、その才能を開花させ、押しも押されもせぬ卓球界のスターに昇り詰めた。
その上、彼女の言動を見ていると、16歳の少女として堂々と自信にあふれ、のびやかで隙が無い。
これは一体どうしたことか?
と思ったことから、本日の日記が始まるのである。
のびのびしている・・・という表現にこれまたぴったりなのが、葵さんの日記にもあったバイオリンの神童 五嶋龍 である。
ジュリアード音楽院へでも入れば、主席になること間違いなしなのに、好きな物理の勉強のためにいわゆる普通の大学(と言ってもハーバードとかの難関大)に入るのだという。
龍と17才年の離れたお姉さんと言えば、言わずと知れた天才五嶋みどりである。
普通に考えれば、天才が二人、しかも父親の違う子供達が、同じお母さんから生まれる確立はかなり少ないと思われるので、これはやっぱり母親が造りだした天才達なのだろうなあと思う。
葵さんは二人のお母さん、五嶋節さんの本を何冊も読まれたと言う。
九子は一冊しか読んでないが、もし数冊が並べて置いてあったとしたら、きっと続けざまに読んでいたと思う。
そのくらい世の母親たちにとって、「天才を育てた母」というのは注目に値する人物なのである。
まあ、天才を育てるノウハウを知ったからと言って、うちの子が明日から天才になれるわけがないのであるが・・・。(^^;
五嶋節さんも、福原愛ちゃんのお母さんも、それぞれヴァイオリニストであり、卓球選手であったはずだ。
ただし、マスコミが注目するような天才と言われるようなプレーヤーであったかどうかは知らない。
たぶんどちらにも自分の果たせなかった夢を子供に託したいという思いはあったと思われる。
五嶋節さんの最初の子供みどりは、節さんが学生結婚して出来た子供である。
若かった節さんは、彼女の情熱のすべてを込めてみどりにヴァイオリンを教えたに違いない。
言ってみれば節さんの一途さがすべて乗り移ったようなみどりの性格を良く表す次のエピソードが、昔読んだ本の中に印象深く残っていた。
みどりは小学校の美術の時間、なんでも良いから粘土で好きなものを作れと言われ、時間いっぱいかかって完璧な一個の球体を作り上げたという。
彼女の完璧主義はしかし、人生の荒波を渡る際の弱さとなり、パニック障害になって長いことバイオリンを弾けなかった時期があったとみどり自身がテレビのインタビュー番組で話していた。
それから17年して授かった龍に、節さんはみどりとは少し違うアプローチをする。
「母は厳しかったけれど、姉さんの時ほどではないと言っていました。丸くなったと・・・。」
豊かな時代にもう豊かになっていた家族の一員として生まれてきた龍には、それ相応の教え方をしたのだろう。
節さんの中にあったのは『小さい子に基礎を叩き込む段階では口だけではだめ』という確固たる信念だった。
そして節さん本人も「親が叱って基礎を叩き込めるのは10歳までが限界。
基礎って言うのは、人間の生きる姿勢の基礎であってヴァイオリンに限って言ってる訳ではないのですよ。
みどりの時にわかったんだけど、親の出番はそこまでで、それ以降は外の人たちから与えられる影響の方に重みが移る。」と述べている。
九子は出来すぎ母に長いこと「お勉強さえできればいいの。」と言う教育を受けた結果、自分に自信の無い未熟な人間になってしまったという思いがあるので、親が子供を一方的に指図して、ああしなさい、こうしなさいと言って育てることに否定的であった。
しかし、こういう天才の母親たちによって、それも、親によるのだと考え直した。
節さんのはいわゆるスパルタ主義で、ビデオカメラが回っている最中でも、「アホ!」「違う!」という罵声は当たり前、蹴飛ばしたり髪の毛を引っ張ったりのも珍しくなかったと言う。
それを龍はこう述懐する。
「お母さんのは虐待じゃないんだよ。虐待というのはただ目的も無く子供をいじめる事だけど、お母さんの場合は、叩かれて蹴られて、それでも練習しているとちゃんと成果が出た。ヴァイオリンが上達したからね。」
ここまでの信頼関係を植えつけるためには、レッスン以外の時に、本当にしっかりたっぷりと愛情を注ぎこむ必要があったに違いない。
その結果、葵さんによれば、五嶋龍は朝4時に起きて宿題を片付けるそうである。その上ヴァイオリンの稽古と空手の練習と・・・。
それらの事を毎日何の苦も無く続ける事の出来る強靭な体力と気力。
節さんが育てたのは、天才ではなくて、惜しまず努力する力量と才能であったかもしれない。
そうして育てあげた子供を一人の人間として一人立ちさせる時の引き際の良さも、葵さんの日記に書かれている。
最後にこの日記のネタ本となった文芸春秋10月号「天才姉弟をこの手で育てて」より、五嶋節さんの言葉を・・・。
「お母さんだって必死だったのよ。お母さんは、あなたたちに単なる情操教育や趣味としてヴァイオリンを始めさせたわけじゃないんです。音楽家にさせるためでもない。
私は龍ちゃんにもみどりにも、よるべのない人間にならない、戻る場所がカならずある、そういう自信をヴァイオリンを通して持って欲しかった。龍ちゃんの人生の基礎となるものをつくっておきたいと思っていた。
だから、厳しくなるのは当たり前です。そういうことをしてくれるのは、世の中で親だけなのよ。」
う~ん。何と言う愛情。何と言う自信。
そうか、母親だって必死なのだ。
節さんはありったけのエネルギーをその時々一人づつの子供に注ぎこんだ。
そのエネルギーは時として体罰という形で現れることもある。
暴力か愛情か、それを分けるものはやっぱり育てられた子供から出てくるものの差であろう。
単なる虐待を受けた子供は、ドミノ倒しのように自分でもその力を単純に別のものに伝え、人に暴力をふるうようになる。もしくは、屈折した感情を自分の中へ貯めこんでいく。
それが愛のムチであるならば、その子の中に才能が育っていく。
無限の可能性が生まれるのだ。
う~ん、恐るべきは母親の力!
ああ、こうして見ると、九子はいつもエネルギーが足りなかったよ。
子供を教育しようなんという気はさらさら無かったし、そもそも子供に受け継いで欲しい夢もなかった。
あっ、ただひとつあったとしたら、それは英語かな?
自分は、小学校4年生で当時出来始めた簡単な英会話クラスに通い始めてから大台に乗った今日まで(^^;、英語に注ぎこんだ時間とお金は膨大なものであった。
それなのに、これっぽっちの英語力!!?
そして女の子二人を、幼稚園の英語クラスに入れることに成功した。
入れることには成功したが、その後の後押しがまったくなかったために彼女達二人の英語の成績は・・・・・。(^^;(^^;
まあこれについてはいずれまた書かせて頂くつもりだが、一番は母親なんである。
でもさあ、節さんだって子育ての天才だったと思うよ。努力する才能と力量を併せ持っていたもの。
そうか、努力する才能と力量ね・・・・・。
当分の間、我が家の家系には天才は育たないと思います。(^^;
息子へ [<ダメ母のすすめ・・・・新米ママへ>]
少しは気持、楽になったかい?
辛いという言葉をたくさん使う人生が決して悪い人生とは思わないけれど、なるべくならたった一度の人生、明るく笑って輝いている時間が少しでも長くあって欲しいと母は願う。
特に君には・・・。
だって君ほど笑顔の似あう子はいないと思うから・・・・。
ふだんの君の小気味良い笑い声が、毎年我が家に心地よい夏休みを運んでくる。
君を育てた最初の三年間、ママは不安と焦りと劣等感の中にいた。
君はそんな未熟な母親の一番の犠牲者だったかもしれない。
坐禅に出会って気楽な母親になれてからも、最初の子供っていうのはわからないことだらけ、いろんな失敗を重ねたかもしれない。
たとえば公文をさせたこと。
すぐ家の前が親戚がやっている公文教室で、勧められるままに君に算数をやらせたけ れど、時間にせかされるように答えだけを求めるやり方が、ただでさえ追い詰められやすい君の性分を駆りたてる結果になってしまったのではないかと、パパもママも反省した。
とにかく小学校6年生になるくらいまで、君がママの考える「理想の子供」の基準に合わない事が悩みの種だった。
外遊びが大好きで、たくさんの友だちと真っ暗になるまで遊んでいる活発な子供・・・。
自分自身がそんな理想とかけ離れた子供だった癖に、息子にはそうなる事を強く求めた。
そういう親に君は反抗もしたけれど、どこかでかなりのストレスを貯めこみながら従おうともした。
もしもあの時、ママが君の君らしさを正当に評価してやれていたなら、君はもう少し楽に生きられたのかなあと思う。
君は一番ママに似てしまったのかな?
悩みがちな自分を変えようと、引き寄せられるように坐禅に救いを求めたね。
楽天家の君のパパやたぶん弟妹達にも、君の痛みはなかなかわからないと思うけれど、ママには君の気持は手に取るように良くわかる。
だから辛い時にはいつでも電話しておいで。
遠慮することは無い。
そのくらいの事が出来なくてどうする。
だって君を世に生み出した責任ある母親だからね。
とは言うもののただでさえ情けない母親だ。
君の気持を受け止めきれない時もあるだろう。
的外れな事を言う事もあるだろう。
それより何より、いつまでも親が君のそばに居てやれるものでは無いって事だ。
それに気がついてか否か、君が救いを求めた坐禅は、最高の選択だったと思う。
ママも君も、自分が救われたい一心でお寺に通い出したのだが、坐禅は、いや仏教と言うものは、そんなちっぽけなものではなかったのだ。
君が13歳の時に遷化された(亡くなった)活禅寺の無形大師は、命がけで修行すれば人間は偉大な存在になれることを皆に示された。
君が求めている精神の安定なんてものはそもそも二の次で、自分を高め、その力で社会に貢献し、たくさんの悩める人々を救う事が出来る最高の人間=全知全能の仏になることを目標にして「わしに続け!」と鼓舞された。
無形大師の生涯は、本当に仏様の御生涯そのものだった。
頼って来る無数の弟子たちの苦しみを一人で真正面から引き受けて、その痛みを自分の痛みとして共感し、そしてそれを何分の一かに軽減されて返された。
そしてこうおっしゃった。
「わしを頼りにしてはいかん。解決するのはお前達だ。わしはただお前達に力を与えてやっているにすぎん。」
君はそういう仏の弟子なのだ。
君にも無形大師と同じ事が出来るはずなのだ。
君の目標はまさにそこにあるはずなのだよ。
本来自分の事でうろうろしている暇はないんだ。
とは言うものの、不肖の弟子にとって、それはあまりにも壮大な目標だ。
とりあえずはせめて君が、自分の性格や不安や要領の悪さに悩む事が無くなるまで、とことん坐りぬいてごらん。
少し元気が出てからでいいからさ。
ママは良く「坐禅で自分が生まれ変わった。」と言うけれど、それはママが全く別人のように強い人間になったということではない。
自分の弱さは弱さとして認め、その代わり自分の良さもそれなりに評価して、かけがえのない、世界でたった一人の自分として自分を心の底から愛することが出来るようになったということだ。
ママそのものは全然変わっていないのだけれど、「そういう自分で良いんだ。そういう自分が尊いんだ!」と自然に思えるようになったってことかな。
それは無形大師も何度もおっしゃっていることなんだよ。
君に前も言ったよね。
君の生真面目さが、君の不器用さが、君のまっすぐさがママは好きだよって。
そういう君らしさをどうか大切にして欲しい。
世の中をもっと楽に渡る術はたくさんあるかもしれないけれど、そういう人生は君には似あわないのかもしれない。
つっかかりながら、へたれながら、倒れながら君が君としての道を進む時、君はどこかで仏様に護られて生きていることを意識し、やがては君自身が偉大な仏性(ぶっしょう=仏の性質)を持って生まれた事を自覚するはずだ。
その日は決して遠くないとママは信じている。
もう少し君の気持が後ろ向きになった時のために言っておく。
辛かったら死にたい と言えばよい。何度言ってもそれはいい。楽になるまで言ってよい。
だけど決して本当に死んでしまってはいけない。
当たり前の事だ。
もちろん君にはわかっているよね。
命を縮めることは仏教徒最大の掟(おきて)破りだ。
次に生まれ変わる時もいっしょの世界に生まれ変われるように家族みんなを活禅寺に入門させるつもりが、君だけが別の世界に行ってしまったらそれが出来なくなってしまうからだ。
そして何より、せっかくの仏としての君の使命がまっとう出来ないからだ。
そして君を愛するたくさんの人間を、悲しみのどん底に突き落とすからだ。
人間というものは偉大な力を持っている。
自分の中にある偉大な力に、君はまだ気がつかないでいる。
早い遅いはあるかもしれないが、坐禅を続けていたらいずれそれに気がつく。
まあ騙されたと思って、とりあえず続けてみよう。
ゆっくりゆっくりでいいさ。
今の世の中、良い薬はたくさんある。
とりあえず薬を飲んで、ある程度楽になってから考えよう。
動き出したくなってから考えよう。
君の場合はママと違って、君の調子に関係なく学校があるから辛いよね。
良く言われることだけど、流れに逆らわずに漂っていれば、いつか浮かんでくるさ。
それまでは目標を低くして、頭を抱えて丸くなっていればいいさ。
とにかく良く休むことだ。眠れない日はろくなことを考えない。
明日は月曜日だね。
君にとっては辛い夜のはじまりだな。
でもこればっかりは我慢しなけりゃあ仕方が無い。
この間のことは君が気にするほど回りの人は気にしていないもんだから、普通にしていたらいい。
普通に出来なくてもめげないことだ。
明るいいつもの自分ではなくて、あくまでも調子の悪い今を基準にして考えよう。
くどいようだが、我慢していればいつか浮かび上がれる。
へたにじたばたすると、余計深みにはまってしまう。
水の流れにまかせてみよう。
大きな大きな仏様の掌(たなごころ)にお任せしてみよう。
長くなりました。
おやすみ ママ
☆公文について
誤解を招きかねない表現がありましたことをお詫び申し上げます。
公文式は世界に冠たる素晴らしい学習方式であるという認識に置いて、私自身も異存はありません。
我が家でも友人に誘われて始めた長女が、数学が一応得意科目でいられるのも、公文式のお陰だと感謝しています。
息子の場合も、もう少し親が良く見てやっていたら結果は違ったかもしれないし、結果が出る前にやめてしまったのが敗因だったかもしれないと思います。
いずれにせよ、先生も一生懸命教えてくださいましたし(長野でも有名な方だったと思います。)私自身、公文式学習法に対しての不平不満を言うつもりは毛頭無かったと言う事を、この場で改めて補足させて頂きます。
ダメ母の証(あかし) [<ダメ母のすすめ・・・・新米ママへ>]
もちろん、今時の言葉で言えば「えっ! うっそー!」という、にわかに信じられない驚きであったのだが、メルマガ「マイぷれす通信」に、「自称ダメ母親の視点からのコメント記事が面白い」と紹介して下さったのを見て、やや複雑な気持になった。
自称ダメ母親って・・・・・・・・・・、
まるで九子が ダメ母 じゃないみたい・・・・・。
心配しなくても九子の場合、ダメ母証明の機会はいとも簡単にやって来る。
翌朝の事であった。(^^;
6時15分起床。
だらだら着替えて・・・・。
不思議なことだが九子が着替えると、15分くらいは簡単に経ってしまう。
かと言って、小物に凝ったり、コーディネートに時間がかかるって訳ではない。
きのうのまんまのどうでもいい服をそのまま着ても、時間はすぐに経過する。
う~ん、謎である。
まあ実は、謎というほどの事でもない。
ふたつの事を一度に出来ない九子の手が、たびたび止るというだけのことである。
着替えながら何をするか・・・?
「う~ん掃除嫌いな九子さんの事だから、たまった埃をつまみ上げて捨てる。」と答えたあなた!
不正解だが、なかなか鋭い!(^^;
正解は、俗に言う「考え事」というやつだ。
別に手足を使って何かする訳ではないのだから、着替えしながらだって出来そうなものなのに・・・。
それが出来ない。
そしてその考え事の中身だって、人様にひけらかすような代物ではないのだ。
(^^;
とにもかくにもそうやって着替え終えると、いつものように眠い目をこすりこすり母屋に急ぐ。
「あれ?N子ちゃん、もう朝ごはん食べたの?」
(何しろN子は部活で忙しい。)
「うん。弁当も自分で作ったから、あんた、なんにもする事ないよ。」
「だって8時頃出るって言ってなかったっけ?」
「7時には出る。」
「えっ?そうだったんだ!ごめん!」
「気にすんな。最初からあてになんかしてねえよ。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
小心者の九子である。
最後の言葉は堪えたねえ。(^^;
昔、Tさん一家のすぐ後に我が家の前に引っ越してきたK3奥さんが言った言葉を、九子は今でも鮮明に覚えている。
「私ね、子供達の前では、何にも出来ないことになってんの。『お母さん出来ないから、頼っても無駄よ。』ってね。だから今でも子供達は、私が何にも出来ないって信じてるわよ。」
そう、彼女はピアニストだから、実はすごく手が器用なのだ。
だからいざとなれば、料理だって裁縫だって、掃除だって、なんでもござれの達人主婦なのである。
一度でいいから言ってみたかったよ。
「私だって、いざとなれば出来るんだから・・・。」
そして周囲の驚きの視線の前で、てきぱきと要領良く家事をこなす九子・・・・。
あ~あ、夢のまた夢だ。(^^;
悪いことは続くもので、お昼頃のこのこ起きてきた次男Sが、「なんか、食べるものないの?」と言う。
「ご飯はそこ、納豆は冷蔵庫、きのうのおつゆは自分であっためてね。」と言ったところで、今朝の衝撃がトラウマとなって九子を襲う。
まずい!たまにはなんか母親らしいことしてやらないと・・・。
「あっ、卵焼き食べる?(もちろん出来あい。(^^;)大根おろしてあげようか?そうだ、しらす干しもあったっけ。あと、みりん干しも焼いたげようか?」(どれをとっても、料理とは言えないとこがミソ。(^^;)」
ことごとくにはっきりとNo!を言った挙句、次男Sは最後のとどめを刺す。
「別に母親面することなんかないよ。最初から期待してないんだからさあ・・。」
事もあろうに同じ日に、二人のB型子供達から発せられたこれらの言葉は、九子の20年以上にわたる子育ての自信を(そんなもんあったんだ。(^^;)根こそぎ揺るがせる結果となった。
・・・って、ちょっと大げさか。(^^;
だけど、もう少し言い方なんとかなんないの?
ほら、M子ちゃんなんかさあ、毎朝5時起きして自分で朝ご飯作って食べて部活に通ってるけど、文句ひとつ言わないじゃん!
ん?(^^;
いや、だが、しかし!!
これこそが九子の求めて来た究極の子育てではなかったか?
独立独歩、親などいなくてもへっちゃらな子供達を育てる!
たとえN子の作った朝ごはんが、ごはんに白菜とベーコンとチーズをのせてコンソメスープをかけてグラタン風に焼いたもの・・・という、聞くだけで???という代物であったにせよ・・・・・・・。
M子が、九子には文句のひとつも言わないくせに、あちこちの美容院をはしごしては、「うちのお母さんって寝坊してなんにもしないから、私が朝自分でごはん作って毎日食べてるんだよ。」とお客全部に聞こえるような大声でしゃっべっていようとも・・・・。(^^;
子供達よ、よくぞここまで成長してくれた。
母は満足だ。
君たちは、もう、充分母を乗り越えたのだ!
だけど乗り越え易い母を持った事を、君たちも少しは喜んでくれるだろうか?
喜んでくれるんだったら、も少し言葉使いに気を遣ってね。(^^;
「バカの壁」に寄せて・・・・受け入れる脳と拒む脳 [<ダメ母のすすめ・・・・新米ママへ>]
理系の事はどうも受けつけない・・・というか、受けつけ難い。
言いたくないが本業の薬の添付文書など、何回読んでもいつも新しい事勉強してるような新鮮な気持で読むことが出来る。(^^;
そもそも九子の脳に、不用と判断された情報はどうも入りにくい事は、養老孟司先生の「バカの壁」を読むまでもなくわかっていた。
あっ、もちろん薬の情報は薬剤師にとって必要欠くべからざる物ではあるが、笠原十兵衛薬局に見える患者さんがたは、鷹揚な方々ばかりと見えて、(そりゃそうだろう。こんな薬剤師なのを承知で処方箋持ってきて下さるのだから・・(^^;)あれこれ質問される方はほとんどいない。
あっ、そうか。聞いても無駄って思ってるのかも・・・。(^^;
そういう患者さんがたに囲まれて、いよいよ図々しくなる九子である。
これでももっと若い頃は、それなりに頑張ったつもりはある。
要らなくなった薬の添付文書をトイレにまで置いといて、用を足してる合間に読む。
はっきり言って、全然頭に入んなかったけど・・・。
腹筋と脳を同時に緊張させることは、どうやら難しいらしい。(^^;(^^;
そのうち、ある薬剤師さんが、「わたし正々堂々と、患者さんと一緒に勉強するつもりで、患者さんの前で参考書やら添付文書開いて見てるの。間違ったこと教えるよりずっといいでしょ。」と言われたのを聞いて以来、長年の悩みは氷解し、「聞かれたらそのやりかたで答えよう。」と腹をくくった。
・・・と言うことは、ますます九子の頭の中に蓄積される薬の情報は少なくなったということである。(^^;
そうなのだ。
九子の場合、理系の知識はどうも頭に入りにくい。
本業の知識ですらこうなのだからして、あとはご想像におまかせする。
ところが好きな英語の単語なんかは、わりかしすんなり入る。
いや、入った。
そう、若い九子がもっと若かった頃は・・・。(^^;
養老孟司先生の「バカの壁」を立ち読みした。買わなかったのは要するに、まだ100円本になってなかったという事だ。(^^;
バカの壁とは、自分にとって最初から不用な知識と思ってしまう事によって、脳に入って来るべき情報を遮断してしまうこと・・・と言う風に理解した。
どういう情報の時壁が作られ、どういう情報の時作られないのか・・・・。
九子の場合で考えてみよう。
例えば、漢方薬のバイブルと言われる「傷寒論」という本がある。
こういう病気のこういう症状の時には、この薬を使えと言う事がつぶさに書かれている。
これは何千年も前の中国の本だから、要するに漢文である。レ点と呼ばれる返り点も付けられ、ふりがなも要所要所にふられている。
文系頭の九子であれば、それなら大の得意か・・・と言えば、さにあらず。
(まあ、漢文はあんまり得意ではなかったのだ。(^^;)
添付文書を読むのが苦手と同じ理由・・・かどうかはともかく、どうもいつまでたっても覚えられなかった。
笠原十兵薬局がもしも処方箋調剤で成り立っている薬局であったなら、漢方専門薬局であったなら、必要に迫られて九子ももう少しはまともに勉強してたかもしれない。
必要は発明の母であり、ダメ薬剤師の気付け薬である。(^^;
そうかと思えば、九子が大嫌いな経済やら、理系の科学やらの話題は、好きな英語で読むとけっこうイケたりする。もちろんイケない場合も多々ある。(^^;
つまりバカの壁とは、どうやら至極あいまいなものであるらしい。
情報源に関する興味の有無ばかりではなく、情報の取りいれられ方、出し方によっても、壁は高くなったり低くなったりするものらしい。
例えば九子はかつて出来すぎ母に「庭の水仙きれいに咲いたね。」と言われ、咲いたのに気づかないのはもちろん、いったい水仙なるものが庭のどこにあったのかすら理解出来なかった人間である。
もちろん朝夕毎日通っている庭にあるのである。
まあ少々首をねじ曲げないと見えない角度にあったには違いないが・・・。(^^;
こういう時の九子は競馬馬と同じで、つまらん考え事をしているせいでさっぱり回りの事に目が行かないのだ。あっ、競馬馬の方は走る事にひたすら集中している訳だから、もっと優秀か・・・・・・。(^^;
これひとつとって見ても、壁は性格、つまり考え方の癖みたいなものにも多いに影響されるらしい。
九子のように内向的な人間(えっ!と思わないで欲しい。(^^;)は、いつでも自分の世界に住んでいるから回りの出来事に疎い。
出来すぎ母みたいに、小さい頃野山を駆けめぐって男の子とけんかして育った人間は、自然の変化や他人の些事に良く気がつく。その代わり、内面的な話題は苦手みたいだ。
ご存知の通り性格というものは変えようと思って変えられるものではないので、壁のこういう根本的な部分を変えるのは難しいと思う。
また、養老先生はY=aXと言う数式を使ってこんなことをおっしゃっている。
この式でaは、マイナスからプラスまでのすべての整数とする。
aがプラスであり、マイナスであれば、良し悪しに関わらず、必ず答が得られる。
世間一般で言われているように、プラスが良くてマイナスが悪いとしても、マイナスはある日突然プラスに転ずる可能性を秘めている。その逆も、またしかり。
ダメ人間笠原十子が、坐禅で生まれ変わったなんていうのはその良い例だろう。
オウム真理教に東大出のインテリが入信して殺人事件を起こしたなんていうのは、その逆の例だ。
最悪なのは、aがゼロである時だ。Xを周りからの働きかけとすれば、いくら働きかけてみても、ゼロにしかならない。ブラックホールに吸いこまれて行くようなものだ。
aがゼロとは、すなわち何物にも関心を示さない事だ。
これぞ究極のバカの壁である。
ただし努力によって乗り越えられるバカの壁もあるのだ。
M氏はすごい。
昔から、彼は自分の頭がカミソリみたいに切れるタチであるとはいささかも思っていなかった。
(うんうん、現実を直視出来る目!(^^;)
その結果、努力でそれを克服して来たのである。
100回というのはオーバーだが、彼は30回くらいは同じ本を反復して読める人なのだ。
とりあえず、最初はななめ読みでもいいから最後まで読む。わかる必要は無いらしい。
その後の読み方は良くわからないが、とにかく回数を多く、そして最後まで読むというのが大切らしい。その結果、彼の脳には知識が明瞭に焼きつけられる訳だ。
九子には逆立ちしても出来ない芸当だ。
もちろんくれぐれも言っておくが、ここでM氏の例を出したからと言ってM氏がバカだと言っている訳ではない。バカの壁は誰にでもあるのである。(^^;
バカの壁の最後で、養老先生はこんなことを書いている。
わかる、わからないは、能力の問題ではなくて、モチベーション(動機とでも訳せようか)の問題である。
「もう少し上に上がると見晴らしの良い所があるのでそこまで行ってみたい。」と思うのがモチベーションである。そこまで行ってみたいという気持が湧き上がらなければダメなのである。
知らなかったことを知る事によって、まるで生まれ変わったように、世界が変わって見えることを学生達に教えて、そこまで行ってみたいと学生たちに思わせることが、教師としての自分の責務である。・・・・・・・・・・・と。
それが教師の責務であるならば、母親の責務とはいったいなんだろう。
一言で言ったら、子供を矯(た)めないことではないだろうか。
「矯める」と言う言葉を、日本語大辞典で引いてみた。
九子が思ってたのは「矯正する」という意味だったが、辞書の意味はもう一歩踏み込んでいた。
「矯める」とは、bend into shape・・・つまり、曲げて形を直すことであった。
まっすぐなものを意識的に曲げることであった。
曲がったものをまっすぐにする事(straighten)ではなかった。
「角(つの)を矯めて牛を殺す」
子供の能力ばかりではなく、性格や人格や命まで含めて、決して親たちは子供を矯めてはならないと思う。
それが何より大切な、親の役目ではないだろうか。
「心の基地」はおかあさん [<ダメ母のすすめ・・・・新米ママへ>]
平井信義先生著「『心の基地』はおかあさん」
この本以外にもたぶんシリーズで4~5冊出てるはずだ。
いわさきちひろの絵みたいな優しいふわっとしたお母さんの絵が表紙を飾っていたように思う。
当時私は、坐禅を初めて4年目くらい・・。
毎日の気分の浮き沈みは影をひそめ、気持ちに余裕も出て、幸せなお母さんになれたと思っていたのだが、子供が悪いことをした時には人前でもことさら厳しく叱っていたように思う。むろんお尻を叩いたりもした。
私は坐禅で気持ちを安定させているのだから、絶対に感情で叱っているのではない。これは子供のためなのだと信じ込んて叱っていたと思う。
そんな時に出会ったのがこの本だった。
平井先生が提唱されたのは、「やる気のある子を育てる」という事だった。
確か「自発性」とか、「自律性」とかそんな言葉が使われていたと思う。
大人の指示がないと何も出来ない子供が増えている。
大学生になっても、自分が何をすべきかを教授に聞かないと動けない学生が多いという。
そういう子に限って、お母さんがやかましく指示を出して、子供のやる気の芽を摘んでいる。子供が自分で考える力を親が奪っている。
基本的には、子供のやりたいようにさせること。自分が何をやりたいのかを自分で見つけさせること。
そして、子供が何かに熱中している時は、決して声をかけないこと。
お母さんの仕事は、目や耳を鋭敏にして子供に危険が及ばないかを観察していることである。
もしも叱らなければならない事が起こった時は、叱らないで子供に背を向けること。そして、子供がわかるまで口をきかない事。
大好きなお母さんに話を聞いてもらえない、口をきいてもらえない事位子供にとって悲しいことはない。だから、叱られるよりもずっと辛いのだ。
愛情の反対は、憎しみではなく無視であると良く言われるが、それを逆手に取ったわけだ。
これは実際効き目があった。
いつも優しくしてくれる母親が黙りこんでいると、子供はおろおろし、要するに子供のほうから折れて来るのだ。
ただ、気の小さい子には不必要に不安を与える事にもなるので、だんまりを決め込む時間は子供の性格を見ながら判断した方がいいかもしれない。
それともう一つ「親業」という本も記憶に残っている。
親業―子どもの考える力をのばす親子関係のつくり方の画像
これは心理学のカウンセリングの手法をそのまま子育てに応用したものだ。
子供が泣いているとき、まずは気持ちを受けとめてやる。
悲しいなら悲しい気持ち、さびしいならさびしい気持ち、困っているなら困った気持ちを子供が口にしたとおりオウム返しに繰り返す。
「○○ちゃん、悲しいの・・・。」「△△さん、さびしいんだね。」「××君、困ってるんだよね。」
そして子供が口にすることだけを受けとめながら、子供が自分で答えに行き着くのを待つ。
「そうかあ。けんかしちゃったんだね。どうしてかなあ?えっ?友達がはたいて来たの?そっかあ。それで君はどうしたの?」
そうこうしているうちに、子供は相手ばかりでなく、自分にも落ち度があったことを認めて、これからどうしたらいいかを考え始める。
決して親の考えを押し付けてはいけない。
そうしながら、子供は最善の解決方法を自分で見つけていく。
叱らないと言うことは、頭で考えるほど容易な事ではない。
お母さんが疲れていたり、家庭内に問題があったり、とにかくお母さんの心に余裕がないと、気持ちを吐き出すために子供を感情的に叱ってしまうというのはよくあることだ。
そういう状態が長く続いていると、やはり子供にとっても影響が出てくるのではないか。
性格の違いというのもあるので一概には言えないのだが、我が家の場合、一番叱られた長男Rは今でも気が弱い。それに引き換え、叱るべきところも叱られないで育ってしまった次女Mは、どうしようもないわがまま娘ではあるが、転んでもただでは起きないタイプである。(^^;
子供が5人もいると、母親が反省に反省を重ねて、さぞかし一番下は素晴らしい子供に仕上がると思われがちだが、そんな事は無い。理屈通りに行かないのが世の中である。(^^;
それはともかく、これだけを見る限り、叱る、特に体罰を与えると言うことは、子供を萎縮させてしまうように思う。
ただ、あまりにも誰にも叱られずに過ごしてしまうのも、規範の厳しい小学校へ行ってからどうなるのか心配にもなる。実際そのために不登校になったお子さんを知っている。
世の中やはり中庸(ちゅうよう)というのが良いらしい。
エ~ッ、今までわかったような顔して書いて来ましたが、もともと手元に本が残っている訳ではなく、真顔でうそ八百を書き連ねてる可能性もありますので(^^;、是非ともご自身でお読み下さい。
それと、したり顔でいろいろ書いた事を九子がすべて実践した・・などとは、賢明な皆様はよもや思われますまい。
全ては九子流・・・であります。(つまりいい加減(^^;)
それから「お勉強しなさい」を言わなかった結果でありますが、たまたま長男がまじめ人間だったため、誰に言われるとも無く勉強し、弟妹たちはなんとなくそれにつられて勉強していたようです。
ただ、もし一番下のM子みたいなのが一番上であったなら・・・・と考えた時、・・・・・・・背筋がゾゾ~ッと寒くなる九子ではありましたが。(^^;
最後にもう1つ。「子どもは親の言う通りにならないもの」と言う事をどこかで自覚していると楽だそうです。親の思うままになると思ってるからあてが外れて叱りたくなる。最初から期待してなければ、それだけのこと・・・。
子育てって、本当に難しいですね。( ^-^)
車輪の下 [<ダメ母のすすめ・・・・新米ママへ>]
次は「ノルウエーの森」・・・・・のはずだったのだが(^^;、 よぽぽさんのコメントにほだされて、何十年ぶりに読んでみた。
名作ヘルマン・ヘッセの「車輪の下」は、優等生が挫折するお話・・。これが長い間の九子の認識であったし、今回読んでみても、その大筋は変わらなかった。
考えてみると、九子が昔読んだ本の内容を的確に覚えていたという事自体がひどく珍しいことだった。大抵が、本のタイトルと著者名の他は、きれいさっぱり消え去っているというのが常だからだ。(^^;
それだけ九子にとって、身につまされる話だったのである。
これは1906年、ヘッセ29歳の時の作である。
ヘッセ自身の体験をもとにして書かれたと言われている。
お勉強ばかりをさせられて育った繊細な子供ハンスが、難しい試験に合格して牧師になるべく神学校に入るが、友情に目覚め、恋に目覚め、同時に神学校での勉強や規則に縛られた生活にもはや興味を見出せなくなり、神経を病んでいるという理由で郷里に帰される。
当時神経を病んでいるという烙印を押されると言うことは、もう使い物にならない、もう未来はないと言われるのと同じ事だっただろう。
エリートとして神学校に入り、洋々たる未来が開けていたはずの彼にとって、なんという屈辱だっただろうか。
ただ、彼はその時点では現実を受けとめ、従容(しょうよう)として故郷へ帰り、新しい生活を始める準備をする。
「あの頃の私よりは、彼、ずっと大人だったわ・・・。」と九子は思う。
お勉強ばかりさせられた繊細な少女九子(ん?(^^;)は、持って生まれた幸運を武器になんとか薬大にはいるが、自分があまりにも友達に比べて幼い事に気づき、自分というものに目覚め、苦悩したものの、幸運は更に九子を見捨てず、国家試験にはなんとか受かり、体裁を取り繕って薬剤師にはなった・・・。
あれで例えば国家試験が取れなかったとかしていたら、自分は立ち直れただろうか?家族はどんな気持ちだっただろうか?
もちろん、世の中のためにはその方が良かったに違いない。何をしでかすかわからない危険な薬剤師がひとり居なくなるのだから・・・。(^^;
100年前にすでにヘルマンヘッセという偉大な詩人が、こういう本を書いて世の中に警鐘を鳴らしていたという事実に九子は驚愕する。
「大人たちよ。子供には自由を与えて、生きたいように生かしなさい。お勉強ばかり詰め込ませると、こういう悲劇が起こるよ。」
悲劇・・・・。
本のあらすじは最後まで書かない主義だったが、敢えて今回は書かせて頂く。
ハンスは凍えた川に落ちて死んでしまうのだ。
その幸せそうな顔が、悲劇を増幅させる。
死してやっと魂の居場所を見つけた彼。
自分の切ない体験と重なるので、この過度に比喩の多い装飾的な読みにくいドイツ文学もいとわず読めた。
親というものは、子供に自分と同じ過ちはさせたくないと願って、子供を教育する。
だから九子の場合の子育ての基本は、「子供に一切『勉強しなさい。』と言わない事」だった。
次回は、保育園で出会った素晴らしい本の話をしようと思う。
この本が、九子に親の姿勢を教えてくれたように思う。( ^-^)
新米ママの憂鬱・・・・子育てにイライラしているあなたへ・・・ [<ダメ母のすすめ・・・・新米ママへ>]
四六時中子供といっしょじゃあ、ストレスも限界だ。
子供の虐待が増えてるって、きっとお母さんの心に余裕が無いんだよね。
一人娘の九子は、人一倍出来すぎ母に頼っていた。
そして母も、何も出来ない娘であることを熟知していて、まあ責任上、精一杯力を貸してくれていた訳だ。これを称して「蒔いた種は、自分で刈り取る法則」と言う。(^^;
たとえば長男Rが生まれてからすぐ、夜中に何度も起きては九子が可哀想だと、母が代わりにミルクをやってくれたりした。
その上、オムツの洗濯だって、九子はほとんどしないで済んだ。
(その頃はまだ布おむつが主流で、パン○ースなど使うのは母親の恥みたいな感覚が社会のどこかに残ってた頃だ。長男の頃がたぶん過渡期で、M子の頃になるとみんな当たり前で紙おむつを使っていた。)
もちろん全然しなかったわけじゃない。
その頃たまたま友達になった子沢山のアメリカ人女性に、ウンチのついたオムツは、洋式トイレの水が溜まってるとこで直接洗っちゃえばいいのよと教えられたのを、鼻高々で実践したりなんぞした。
(これを称してウンチクと言う。(^^;)
子供たちは誰か誰か、いつの頃からかおじいちゃんおばあちゃんと一緒の部屋で寝ていた。
夜中に起きるような手のかかる子は、たいていおばあちゃんと一緒だった。
外出するにしたって、母がいつも見ていてくれたから、参観日に下の子を連れて行く必要は無かった。
役員決めの日だけは、「下の子がいます。」とアピールして役を逃れるように、子供を連れて行った。(^^;
要するに、大変なところはみんな、出来すぎ母がやってくれていたのである。
人間は経験を積んで始めて大人になる。
経験というものを積んでいない九子は、ゆえに自分をダメ母と呼び、いつまでたっても母親としての確たる自信というものが身に付かないままで、現在に至っているのである。(ぐすん。)
長男Rが外遊びが嫌いで、なかなか幼稚園で友達ができなかった話は前回書いた。
九子は慌てた。
どうにかして彼を外に連れだして、ボール遊びを好きにさせなくっちゃ。
そして、自分でも気の進まない公園へ子供達を連れて行った。
自分でも楽しいと思わないのだから、無理やりやらせて子供たちが楽しめるわけがない。
若かった九子は、それに気づかなかった。(言うまでも無いが、九子は今でも若い。より若かったという意味だ。(^^;)
自分のなかにある理想の男の子のイメージに長男Rをあてはめようと、必死でもがいていた。
九子が坐禅と出会ったのは、長男Rが2歳半の時だ。
それまでの九子は、とにかく自分に自信がなくて、うまく子育てが出来ないことにイライラしていた。
夜中にRがぐずってどうしても泣きやまなかったことがある。
頭に来た九子は、彼をベッドに投げつけた。
Rは火の付いたように泣いた。
そんな事が覚えてるだけで二度ほどはあった。
もちろん悪いと思わないはずがない。
人一倍気の小さい九子は、自己嫌悪に苦しんでいた。
ただ、自分の気持ちを抑えられなかったのだ。
だから子供の虐待がニュースになるたびに、お母さんの気持ちが分かって切ない。
九子だってまかり間違えば・・・・・・・・。
坐禅と出会ったのは、そんな自分の衝動をもてあましていた頃だ。
次男も生まれ、ますます子供に手がかかり、そしてひょっとしてうつ病の影響も多分にあって気分は最悪。
なんでも良いから、すがりつくものが欲しかった。
そうやってわらをもつかむ気持ちで出会ったものが坐禅だったなんて、九子はなんと幸運だったのだろう。( ^-^)
坐禅を終えると、本当にすがすがしい気持ちになる。
お寺に着く前、どんなにもやもやした気持ちを抱えていようとも、坐禅のゆっくりとした呼吸が、すべてを浄化し、朝の空気を一杯含んだ澄んだ血液が、からだ中を隅々までめぐっていくようだった。
そして、自分を含めてすべてのものが、自然に、心の底から、愛しく美しく思えて来るのである。
「以前は言うことを聞かない子供が鬼みたいに思えましたが、坐禅をして帰って来て見る子供達の姿は、まさに仏様みたいです。」
九子が活禅寺の機関紙によせた感想文だ。
そんな気分が1日中続くわけだから、自然に笑顔が増え、子供達を叱らなくなったのは想像に難くない。
まあ、九子がただ一つ母親として誇れることがあるとしたら、坐禅をやって日々幸せな気持ちで過ごそうとしていた事かな?
(子供達を預けられたおばあちゃんにしたら、迷惑この上なかったろうが・・・・・。
これを称して、「誰かの幸せは、誰かの不幸の上に成り立つの法則」(^^;)
もちろんいつもうまく坐れるってわけじゃないし、坐禅がうまくいかない病的な落ちこみは少なからずあったわけだから、そんな時はまたイライラ母にもどるわけだ。
結局そんなイライラ母の直接の被害を一番受けてしまったのが、他ならぬ長男Rだったのである。
長男Rの気の小さいところ、不安感の人一倍強いところ、パニックになると、どうしてよいかわからなくなってしまうところ。
もちろん生まれ持った気質も影響しているのだろうが、九子はもしかしたら・・・と後ろめたく思う。
もしかしたら、九子がベッドに投げつけたあの時の不安がまだ残っていたのかもしれない。
イライラ母に邪険にされて、愛情不足だったのかもしれない。
その上公文までやらせた。
意味もわからずせきたてられて勉強することで、彼の頭の中はパニックになったのではないか?
ただ彼も彼なりに求めるところがあったのだろう。
大学3年生の夏に、
活禅寺の夏安居(げあんご)という一週間泊まりこみの修行に入った。
まだ坐禅はうまく組めないが、生来の真面目な性格も手伝って、お寺では大変受けが良い。
和尚様には「R君、お母さんよりよっぽど人間が出来てるねえ。」と言われて、九子は複雑な気分だった。(^^;
不安な気持ちに悩んだ人間でなければ、坐禅の良さはわからないのかもしれない。
ほかの子供達は、不安の不の字もわからないような奴らだから(^^;、ご縁がなくてもまあ仕方がないか・・・。
今、子育てで悩んでいる新米ママさん、イライラしても絶対に子供を殺してはいけない。
こんな子死んじゃったらいいのに・・・と思う分にはかまわない。かくいう九子も何度もそう思った。(^^;
だけどそう思った子供に、何年もたってから助けられた。
どうしてもイライラして仕方が無かったら、時間を作って坐禅をして欲しい。
お寺で数回、正しいやり方を習えば、あとは家でだって出来る。
母親が幸せでなくて、どうして良い子供が育つだろうか。
坐禅はどんな環境にある人でも、幸せな気持ちにさせる魔法の薬である。
お金が沢山あって贅沢に暮らしている人でも不幸な人は不幸だし、戦火にあって惨めな生活をしている人の中にも、小さな幸せを見つけられる人がきっといる。
九子は上述のような人もうらやむ環境にありながら、幸せを見つけるのが下手だった。
ましてや、助けてくれる人も無く、赤ちゃんと毎日悪戦苦闘してるあなたが、幸せだと思えないのはむしろ当然かもしれない。
その九子が、毎日ただただ坐禅をするというその努力とも言えない数十分間によって、幸せ探しの名人に変身したのである。
だから是非、あなたにも試して欲しいのだ。
こうやって坐禅だけを薦める事が、正しいことなのかどうかはわからない。
仏教と切り離したら何の意味も無いと言われることはもとより承知だ。
そもそも、何かを求めて、つまりここでは「幸せ」を求めて坐禅をするのは邪道でもある。
だけどとにかく九子は坐禅で幸せになった。
その体験を語りたい余り、活禅寺のBBS(掲示板)で何度も勇み足をした。
何と言われても良い。
今子供を可愛いいと思えずに苦しんでいる新米ママさんは、だまされたと思って一度是非近くの禅寺へ行ってみて欲しい。
新米ママ九子は今、古米ママになった。(いや古々米ママかな?(^^;)
坐禅で幸せにはなったが、やってることは昔のままだ。
そんな九子も、臆面も無く生きている。いや、生かされている。
だから・・・・・・。
あなたが幸せになれない理由など、きっと、なにひとつない。
★雲水ネットでは、あなたのそばにある禅寺が一覧出来ます。
なお参考に、臘八接心(ろうはちせっしん)も読んで頂くと、気楽にお寺に行けるかもよ・・・・(^^;
もちろん臘八接心(ろうはちせっしん)は特別なお行だから、いつもそうかと心配しないでね。
「いつでも坐禅が出来ます。」というお寺があったら、なるべくそういうお寺を選んでください。
長男R [<ダメ母のすすめ・・・・新米ママへ>]
過去の日記を読みなおしてみて、長男Rについての記述が少ないことに気がついた。
ひょっとして、「九子さんの長男って、暴走族の親玉でもやってるんじゃあないの?」などと勘ぐられてはRにも気の毒なので、今日は彼の話をしようと思う。
はじめての孫が男の子だったので、父母は大変喜んだ。
生まれたばかりの赤ちゃんの顔など、猿みたいにしわくちゃで、そんなに可愛いとは思わないが、祖父母になりたての二人は、「可愛い、可愛い」を連発した。
しかし数ヶ月経つ頃には、確かにM氏に似た色白の、目のぱっちりした顔になった。
男の子は2種類のタイプに分かれるそうである。
一つは、自動車や電車、つまり乗り物の好きなタイプ。そしてもう一つは、虫や動物に興味を示すタイプ。
我が家の男の子たちは、3人とも前者であった。
特にRは、泣いたりぐずったりする度に、古い店の前のガラス戸越しに置かれたベビーカーに乗せられた。そこから、走る車を眺めているうちに、彼の機嫌はすっかり治ってしまうのだ。
前を通る女子高生が「わ~、可愛い!」と言って通りすぎた。
彼はただただ車が面白くて見ているだけであり、逆に彼が見られている事になど毛頭考えが及ばない事では、動物園の猿と一緒だった。
ただ、手をふられたりなんぞすると、嬉しくて愛嬌を振りまいたりしていたあたり、やっぱりなんといっても外面(そとづら)の良い九子家の男の片鱗があった。(^^;
それから数年経つ頃には、道を走る車の車種を一瞬にして当てるようになった。
「この子、ひょっとして天才?どうしよう!」
そう言えば親戚のCさんも、息子さんが小さい時に「この子、東大飛び越してハーバード大へ行くかもしれないわ。どうしよう!」と思ったそうである。
二人の心配は、言うまでも無く杞憂に終わった。(^^;
幼稚園に行き出してからの彼の様子は、九子をやきもきさせた。
男の子たちが好む外遊び、中でもサッカー、キャッチボールなどのボール遊びが嫌いで、なかなか友達を作れなかった。
もちろん、お砂場遊びはなおさらダメだった。
どろんこなんかは一番苦手で、ちょっとでも指が汚れるともう顔をしかめて、その場を退散してしまうのが常だった。
情けないなあ、この子!
本当は九子だって嫌いだったのだ。ポール遊びもどろんこも、出来れば避けて通りたかった。
だけど男の子なんだから、それじゃ困るのよね。
いつのまにか九子の中には、「外遊びが好きで、スポーツが好きで、友達がたくさんいて真っ黒になって遊んで帰って来る子が一番良い子」という男の子の理想像が出来上がっていた。
Rは、そのどれにも当てはまらなかった。
新米ママ九子は、それでも頑張った。
頻繁に彼を公園に連れて行ってはボール遊びの相手をし、砂場にも誘いこんだ。
幼稚園のどんぐりクラブとかいう体操クラブに無理やり入れたりもした。
小学校へ入っても、相変わらず彼は外で遊べなかったし、友達もなかなか出来なかった。
そうして気が付いてみると、長男Rは九子の中で「困った長男」になっていた。
はじめての学級懇談会で自己紹介の時、九子は「うちの息子には手を焼いています。」と言った。
先生とのノートのやりとりは1年間で丸々一冊になった.(次男Sの時は1年でたった2ページだ。(^^;)
参観日(その頃九子は皆勤賞だった。母が元気で、薬局は母さえいれば安泰だったから・・・(^^;)、長男Rのやっぱり長男ねえってとこを見せつけられた。
理科の実験の時間だったと思う。4人グループで実験を行うのだが、Rは見ているばかりで最後まで手を出そうとしなかった。
九子はがっかりした。そして、イライラした。
コンプレックスを学習された皆さんは、もうおわかりですね。
つまりあれ!似たものコンプレックス。(^^;
小学校の時、彼は反抗ばかりしていたような気がする。
今ならわかる。彼は自分を認めて欲しかったのだ。
外遊びが嫌いでも、スポーツが苦手でも、友達が少なくても、自分はそういう人間なんだから、そのままじゃなんでいけないの?
彼は5年生の時、素晴らしい出会いをする。
手先が器用でプラモデルを組みたてるのがうまかった彼だが、ラジコンカーというのにのめりこんで、自分で作った体長50センチ位の車を使ったレースに夢中になった。
当時子供たちはせいぜいミニコンカーという車体がさらに5分の1くらいのを走らせるのをやっていて、ラジコンカーはもっぱら大人向けだったから、彼は大人の間に混じってやっていたことになる。
うかつな事に、彼の目が輝き出した事に九子は気が付かなかった。
中学校の個人懇談で、担任のS先生に言われた言葉が忘れられない。
「R君は真面目で優しくて、とても良いお子さんですよ。」
まあ真面目はわかるけど、あの子が優しい?
そう言えば一度だけ、彼の優しさに触れたことがあった。
あれは小学校の4年生頃かなあ。
例によってRを叱り飛ばして、直後に九子は気が滅入るので寝てしまった。(^^;
気が付いたらRが毛布をかけてくれたのに気づいた。
ばつが悪いので知らん顔して寝ていた。(^^;
S先生の言葉どおり、彼は真面目に勉強した。
名門N高校も視野に入れたが、何しろ気が小さくてテストの点数が悪いと言っては次の日一日学校を休んでしまうような子だったので、NY高に進学させた。
担任のK先生は、定年間際の経験豊かな数学の先生で、後からわかったことだが九子が高校生の時、若かりし先生を学校でたまにお見受けしていた。
中学校まで数学が大嫌いだったRだが、K先生のお陰で大好きになった。
将来を決める時も、「親の言うことなんか聞くな。自分のやりたい道を歩け。」と彼を勇気付けて下さった。(結局2年生の後半に、工学部への夢を捨てて今の道を歩く決断をしてくれたのだが・・・。)
ただ、クラスには最後まで馴染めなかった。
彼曰く、ちゃらちゃらした子が多くて、真面目なRには合わなかったのだろう。彼は専ら、軽音楽のバンド仲間の違うクラスの子たちと仲良くしていた。
最後にK先生が彼に言ってくれた言葉がふるっていた。
「清濁併せ呑め!」
さすが短い付き合いでも、鋭く見られていたんだなあ。
今や彼は、まさに頼れる長男になった。
弟妹たちを仕切り(彼の号令一下、弟妹たちは絶対服従だ。)、母親の話相手になり(いつのまにかM氏に似て(^^;、世間話の好きな息子になっていた。)、何より自分で決めて、父親の後継者になってくれると言う。(パパみたいにビンボーになっちゃだめよ。(^^;)
今も食堂に、RとSが水遊びしているポスター大の写真が貼られている。
何かの懸賞で当たったやつだ。
「この頃R君って、本当に可愛いい顔だったよね。」
・・・・・と言うことは、今は??(^^;