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兼高かおる世界の旅 [<九子の読書ドラマ映画音楽日記>]


兼高かおるさんが亡くなった。ああ、またしてもまたしても、本当の意味で昭和を生きた誇り高き女性が一人居なくなってしまった。


彼女は私の中でまさに自由自在に空を飛び、地球を駆け回り、誰にも物怖じしない堂々とした日本女性。手の届かない理想のお姉さまだった。


年齢を見て愕然とした。お姉さまどころか、彼女は九子の出来すぎ母と同じ年だったのだ!

彼女が母と同時代を生きた人だったとはとても思えない。


母は学徒動員で名古屋の工場で働き、戦時下だから鬼畜米英の言葉など学校で習うはずもなく、死ぬまで外国人を毛嫌いしていた。というよりも、英語が出来ないことが誇り高き彼女の唯一のコンプレックスとなり、彼女のプライドと負けず嫌いが外国人を遠ざけていたという方が正しかったかもしれない。


そんな時代に生まれた兼高かおるは、神戸というおしゃれな街に、インド人の父と日本人の母の愛情を浴びてすくすくと育った。田舎町の長野と神戸では、人々の心ののびやかさがまず違うのだろう。英語を話す一家に対する風当たりも、少しは弱かったのかもしれない。


彼女の母校は香蘭女学院だそうだ。黒柳徹子さんも卒業されたところだ。


徹子さんのお母さまは自由奔放過ぎるわが娘を「トモエ学園」に送り、動き回って落ち着きのない彼女の魅力を思う存分引き出すことに成功した。その賢母が次にえらんだのが香蘭女学院だったと考えるととても感慨深い。


ここでも九子は、コンピューター時代の恩恵を感ずる。


「兼高かおる世界の旅」を毎週楽しみにして見ながら、この美しいけれど、純粋な日本人には見えないこの人は、いったい何者なのだろう?半分は日本人。だけどあと半分は?というのをいつも気にしていた。だけどそういう情報を当時得る手立ては無かった。


図書館に行けばいろいろな本は手に入るが、偉人と呼ばれる過去の人以外で、テレビに出てちょっと有名な人の情報などどこにも書いてなかった。


だけど今ならウイキペディアで一発だ。

そう。インド人なのねえ。言われてみたらそうだわ。和服を着るとおしとやかな日本人だけれど、ドレスになれば、華奢な細長い手足と、豊満な胸。

いつも見開いた大きな瞳と笑うとえくぼが覗くチャーミングな顔立ち。


そう。チャーミングという言葉がこんなに似合う人はいなかった。


チャーミングなその人は、チャールズ皇太子(この人、まだ皇太子なんだ!)にもケネディー大統領にも、背筋をぴんと伸ばしたままで、怖気ることなくお話しされた。まだまだ日本が二流国、三流国と見られていたその時代に。


そのたびに、こういう自信はどこから来るのだろうかといつも思ったものだ。

当時は例外的に美しく賢く生まれついた人だから、そういう自分に対する自信から当たり前に身に付いたのだろうと解釈していたが、聞けば南極大陸に到達したり、世界一周最短時間の記録を作ったりされたらしいので、それプラス、一人で様々なことを経験した強さだったのかもしれない。

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芥川隆行さんという当世一流のアナウンサーとの掛け合いナレーションも面白かった。

芥川隆行氏は九子が当時お熱を上げていた「木枯し紋次郎」シリーズのナレーションも手掛けていた。

 

彼女の「あたくしはね・・」とか「存じませんのよ・・」とか、今はほとんど聞くこともなくなった山の手言葉は彼女ならではのもので、こういう美しい日本語の使い手が、同時に完ぺきな英語も話すというのが不思議な気もした。(彼女は神戸生まれだから、山の手言葉も異文化だったろうが。)


山の手言葉も小津安二郎映画とともに潰えてしまったと思っていたが、考えてみたら最後の生き残りはこの人だった。

今テレビに出てきてそれらしい言葉を使ってる人のは本物じゃないと思う。


30年の中でいろんなことが起こった。ずっとこの番組を陰で支えていたはずのアメリカのフラッグキャリヤーパンアメリカン航空、通称パンナムも倒産してなくなってしまった。

でも一人兼高かおるは一回も休まずに、番組のすべてを、企画から放映まで一人で背負ったという。


そして「私は理想が高すぎて、見合う男がいないのよ。」と言い放ち、生涯を独身で通された。


今頃、老いぼれた肉体から解き放たれ、若い時よりもさらに自由になった魂で、パンナムに乗って宇宙の旅にでも出発された頃だろうか?


兼高かおるさんに乾杯!


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九子家の年賀状2019 [<正統、明るいダメ母編>]

  

  謹賀新年

長女N子が大学のあった街神戸北野ホテルで結婚式を挙げました。4月には第一子が誕生予定です。
指折り数えないで下さい。(笑)結婚式は平成29年夏。昨年お出し出来なかったのでお披露目致しました。
振袖を着ている次女も嫁ぎ先が決まり、あとは薬局19代目を継いでくれるのは誰か?由々しき問題です。
良い一年をお過ごしください。

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作った後から気が付きました。おっと、夫君が写ってない!(^^;;

夫君は次の年に赤ちゃんと一緒に登場してもらいましょう。

 

さて、次女がイブ入籍を果たして娘二人が九子家姓ではなくなってしまった暗雲立ち込める我が家です。


もともと九子は男の子三人ではなくて、女の子のどちらかに19代を継いでもらうつもりでした。もちろん理由の一つは、女の子二人が薬剤師になってくれているから。


でももう一つ、大事な理由があります。そしてそれは我が家の家訓に関係してきます。


一番大事な我が家の家訓は「信用第一」

もちろん目薬を売る際もそうですが、16代と17代、つまり九子の祖父と九子の父は二人で40年づつ、合計80年も長野市の市会議員をやっていたので、これは彼らにとってもとても大切な家訓でした。


お金は無くとも信用があれば、人々は味方になってくれる。困ったときにも助けてもらえる。

我が家はそうやって18代470年を生きて来ました。


「最悪のことを想定して事にあたれ」というもうひとつ大切な家訓があるのに、騙されて保証人になって監獄へ行き、その後も今のお金で一か月に100万円づつ十年間も、大陸へ逃げてしまった本人の代わりに返済し続けていた人の良い16代は、もう一つ家訓を遺しました。

「保証人には絶対になるな!」


そして19代を継ぐのは娘が良いと九子が考えている訳が次の家訓です。

「細く長く!」


とても優秀で、東京に出て事業を大きくしようなどと考える先祖が居なかったからこそ、雲切目薬は18代まで続いた。父母も九子もそう思いますし、その思いは先祖たちも同じだったのでしょう。


事業を拡大するとリスクも生じます。大きな工場を建てて手広くやっていたとしても、もっと大きな製薬会社に目をつけられて、パクンと飲み込まれてしまうかもしれません。


だから、「細く長く」なのです。

そういう風にしてくれるのは、真面目に今の路線を引き継いでくれて、大きなことを考えない女の子が向きます。


その上雲切目薬に残っているのは今やブランドのみです。内藤了さんの小説「藤堂比奈子シリーズ」に取り上げられた30年前のしみるユニークな目薬は、もう法律上作れなくなってしまったのです。


今でもいろんな人が「雲切目薬、こうすればもっとたくさん売れるのに!」と言ってくれます。我が家の男たちもそうですし、赤の他人で口をはさんでくる人もいます。そういう意見はとても有難いと思いますが、私の目の黒いうちは、今まで通りにしたいと思います。


もちろん私にも雲切目薬をもっとたくさんの人に知ってほしいという気持ちはあります。

そのために私が選んだのは「坐禅の本」の出版でした。


もちろん自分が坐禅で幸せになった体験を、あの頃みたいに毎日が不幸で不幸でたまらない人たちに届けたいというのは真っ先に考えた夢でした。


そして「九子」という著者名のまま出版社に持っていこうとしたら、編集者でもあるハトコがこうアドバイスしてくれたのです。


「九子ちゃん、ただの何も持たないずぶの素人の主婦が本を出すなんて、まず無理!いったい誰が買ってくれると思う?絶対に売れっこない!あなたは雲切目薬を背負ってるんだから、本名で、雲切目薬の名前も出して本を書くべき!」


そして初めて、九子は雲切目薬、薬局名、本名を出すことにしたのです。


その時初めて思いました。ああ、人助けになるばかりじゃなくてこれで雲切目薬も少しは売れるようになるかもしれないな。


そういう有名になり方だったら、ご先祖様も喜んでくれそうな気がしました。

「信用第一」の我が家の家訓に恥じない売り方だと思いました。



どちらにせよ、坐禅の本の出版はなかなか厳しいです。毎年毎年「今年こそ!」と事情を知っている方々には添え書きをして、もうたぶん10年の月日が経ち、本を持って行って真っ先に見せたかった何人もの恩人たちにも先立たれてしまいました。


そして、また同じことを申しましょう。


今年こそ、坐禅の本が出版出来ますように!(笑)


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