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不安で不安でたまらない日に坐禅(座禅)をしてみる! [<番外 うつ病編>]

前回「最低の気分の日々をかわす事が出来る薬ではないその事」と思わせぶりに書いたのは、もちろん九子が日頃からお薦めしている坐禅(座禅)・・・であるはずであった。


確かにうつ病の時はあまり役に立たないと思った坐禅だけれど、今回不安感が強かったので3日ほどは坐禅によってかなり楽にはなった。



でもやっぱり、「坐禅でこの不安感を消し去るぞ~!」と頑張りすぎるとダメなのだ。

一日ごとに坐り難くなって、集中できなくなって疲れてしまう。



結論から言うと、うつ病の時はやっぱりあんまり坐禅はうまくいかない。

決して出来ないという訳ではないが、無理を強いる事になるから、うつ病という病気にはあまりよろ しくない気がする。



だんだん坐禅の幸福感に到達するまでの時間が長くなってきて、集中力が続かなくなった。

そして、坐禅をしようという気持ちが萎えてしまった。



考えてみるとうつ病という病気そのものが、集中力が無くなる病気なのだ。



もちろんずっと長く修行されている和尚さんならこの限りではない。

かなりひどいうつ病の時でも、ウツを軽くする坐禅が組めるそうである。



以下は一応20年の坐禅歴を持つ!(^^;;九子が、うつ状態のときに坐禅をした記録である。





最後まで読んで頂くとおわかりの通り、うつ病の時にはお薦めしないが、あなたが不安や焦りや悩みや絶望感に打ちのめされている時に、坐禅はきっとあなたの頼もしい味方になる。



そんな時のために、元気な今から、 近所の禅寺(「雲水ネット」・・更新中)で坐禅を習っておきましょう!( ^-^)







前回、うつ状態の時はうまくいかないと言ったばかりの坐禅(=座禅)であるが、

この頃九子は、また熱心に坐禅を組んでいる。



理由は簡単明瞭!坐禅の素晴らしさを再確認したからである。



何十年坐ってみても、まだまだ奥がある、坐禅の凄さ、奥深さ!

(と言うか、大した坐禅も出来ていなかった九子のいい加減さ。(^^;;)



先日も書いたように、抗うつ薬と気分調整薬のお世話になってからというもの、割りに気分は安定していた。



つまりその間は、必死になって坐禅をしようという動機に乏しかった。



その結果、九子はいつの間にか坐禅を忘れていた。

夜ウォーキングを兼ねて10日に一度活禅寺に行けば良い方だった。

昔のように、朝、坐禅をすることは稀になっていた。



ところが!である。



このところ、ウツなのか、考えてみたら更年期なのか(^^;;、とにかくまた調子が悪い。



普通の人の普通の落ち込みなら、坐禅にまさるものはない。



だけど今は、ウツかもしれない。更年期かもしれない。



どちらにせよ、坐禅はあんまり効きそうも無いかな・・・・・と最初は思った。



でも、ウツに変てこな興奮が入り混じるような気持ちの時があって、抗ウツ薬を目いっぱい飲む事が出来なかった。



そうなると、気弱人間の心配性がむくむくと頭をもたげる。



調子の悪い時の九子の気分の一番の特徴は、「流れて行かない」事なのだ。

この言葉をT先生から告げられた時「なるほど!」と思った。



流れて行かないものは、思考である。



「気分が最悪だ。ウツかもしれない、どうしよう!」と思ったとたんに、不安が頭の中いっぱいに広がって、別のことを考えることが出来なくなる。



不安が、押し込めても押し込めてものど元から溢れてきて、心臓を早打ちさせる。



その不安をしまいこんでおける引き出しがあって、素早く気持ちを切り替えられる人ならどんなに良いかと思うけれども、事はそんなに簡単ではない。



その上自分の気分というものにひどく敏感な人間だから、気分の悪さは生活上のすべてを支配して、何をやっても集中できず、楽しめなくなる。





人間と言うのは厄介なもんで、すぐ隣に居る家族であっても、彼あるいは彼女の気分と言うものを実際に味わってみると言う事が出来ない。



悲しそうとか、嬉しそうとか、悩みがちだとか、幸せそうだとかはなんとなあく想像出来るのではあるが、実際にそのおんなじ気分を味わうと言う事は出来ない。



これはある意味不幸な事であるが、大きく人類の種の保全のためには大切な事だと思う。



家族の誰がが不慮の事故で犠牲になった人の悲しみ、苦しみを、安穏と暮らす私たちには同情は出来ても、本当の意味で決して同じ深さで共感は出来ない。



ひどい言い方になるけれど、情報網の発達によりこれほど多くの別れの悲しみが日常的に私たちの目の前にさらされている今日、いちいちその悲しみを追体験しようものならたまらない。





風邪のように、あるいは疫病のように、気分が感染する事があったとしたら、きっと世界はもっといざこざの多い住み難い社会になっていたかもしれない。



気分ばかりではない。痛みも、苦しみも、熱さも、寒さも、飢えも、渇きも、決して他人はそれを自分の刺激としてわかってくれることはないのである。



そんなら自分でなんとかするしかない!



そう考えた時、そこにあったものが、いや、九子にとってはそれしかなかったものが坐禅だった。



一度はあきらめたうつ状態の時の坐禅。



九子がまだ自分の症状がウツであるとわからなかった時、医者にも行かず坐禅ばかりをやっていた時期があった。1000時間以上も坐禅をしてみた。

そんなに坐禅をしても、いつものような幸福感はやってこなかった。



以来うつ状態に坐禅は無効と決めてかかって、この時期お寺に行く事も、うちで坐ることも無かった。

それをやってみようと思ったのは、今回不安がことのほか辛かったからだ。



不安な気持ちの時にする坐禅は本当に素晴らしい!

姿勢を整え、呼吸を整え、規則正しく呼吸を数える事を30分ほど続けると、びくびくおどおどして いた気持ちがぴたりと静まっている。



そして不安の代わりに心の中を占めているのは、幸福で充実した気持ちと「どうにかなるさ。」という楽観論だ。





一口に不安と言うが、九子の場合それはいつでも自分の未熟さを受け入れられない気持ちと裏表だ。



なんでもやってくれる優しい両親の庇護の下に育って、自分では何もしないままこの年まで来てしまった。



やってもらう事は何と楽であったか!

だが、いざそれを自分がしなければならない立場に立たされた時、してこなかったと言う事は、経験 が無いと言う事は、何と心もとない事か!



そんなことをいくら考えたところで、今更今までの人生のやり直しは出来ない。



それならば受け入れるしかないのであるが、受け入れるには自分はたとえようも無く未熟である。



こうして一応衣食たる生活をしているのに、幸せだと思えない自分。



それに引き換えM氏は、子供たちは、みんなそれぞれの大きな、小さな問題を抱えながら、テレビを見て笑える。マンガを読んで楽しめる。



みんな大人だなあと思う。

いい年をして、九子ひとりがのけ者みたいだ。



自分の気分に敏感なちっぽけな人間は、自分の事だけで頭がいっぱいだったり、誰かをねたましく思ったり、他人がみんな羨ましかったり、そういう自分自身に、まず腹が立つ。



せめて自分の不機嫌は、家族の誰にも知られたくない。



ちっぽけな矜持。

いや実は、そんな次元の問題で悩んでいる自分を悟られたくないだけ・・・。





29歳の春、坐禅に出会った。自分を変えてくれるのはこれしかないと思った。

そして生まれて初めて、自分を心の底から愛しいと思えた。

あれほど嫌いだった自分が、とても好きになれた。



こんな未熟な自分でもいいんだ!そのままの自分が尊いんだ!と自然に思わせてくれた坐禅を、どうして今まで忘れていたのだろう。





だめもとで坐った。

脳内のセロトニンがどうのとか、女性ホルモンがどうのとかいうのは一切忘れて坐ってみた。



そして30分後、規則正しい坐禅の呼吸が、はらわたの中にある黒いもののすべてをかき消して、仏に近い境地に導いてくれるのが手に取るようにわかった。



次の日も、その次の日も、目覚める時の気分は最悪。



でも30分ほどの坐禅が、突き上げるような不安をかき消して、平常心にしてくれる。

不安も焦りもねたみもうらやみも、すべての心かき乱すものたちはいつの間にか消えてしまう。



これが坐禅だ。これが坐禅の醍醐味だ!





九子は長い間「うつ病のときは坐禅がうまく組めない。」と言い続けた。

でもこれからはこう言い直そうと思う。



うつ病できちんと服薬していてもなかなか症状が取れない時、坐禅はしてみるだけの価値はある!

(もちろんこれは日頃坐禅に慣れ親しんでいる場合であり、初めて坐禅をするのがウツの時では絶対にうまく組めるわけが無いのであるが・・。)



この場合はうまくいく事をだけを目指してはいけない。

決めた時間だけ坐って、それ以上坐っても意味が無いことも多いから、その日はもうそこまでと諦めることも必要だ。



あまりしつこく坐り続けると、次の日以降の坐禅が坐りにくくなったりもする。

こういう感じを受ける時は、無理して坐ってセロトニンを枯渇させたのかなあと考えると合点がいく。



つまりうつ病であっても、坐禅はしても構わない。

いやむしろ手をこまねいているよりは、時には格段に楽になる事もあるはずなのだ。

むろん「必ず医者にかかって薬を飲みながら・・。」という条件付ではあるが・・・。



だがやはり一番坐禅の良さがわかってもらえるのは、間違いなく健康な人が不安で胸がはりさけそうな時だと思う。そういう不安を日常的に体験して治らずに悩んでおられる人が居たら、迷うことなく近くの禅寺で坐禅を教えてもらう事をお薦めする。



しばらく習えばすぐに気持ちが軽くなるのを体験できるだろう。



下腹部があたたかくなるような坐禅が組めた時には、きっとあなたの不安は跡形も無く消え去っているに違いない。



うつ病と坐禅の長い体験記をお読みになりたい方は、こちらをどうぞ。


★坐禅は基本的にはうつ病には効きません。うつ病に効くのは薬しかありません。どうぞそこのところを誤解の無いようになさってください。
☆尚、現在ウツ病で苦しんでいらっしゃる方には応援歌のつもりで書いたウツ病病みの歯ぎしりも是非御読みください。
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紋次郎の姉おみつ

[最新記事に関係なくて申し訳ないのですが・・・紋次郎関連のブログを公開しています。]
はじめまして、おみつと申します。今回「木枯し紋次郎の風景」
というブログを、「紋次郎の愛刀のように斬れ味鋭くキラリと光る多くのファンが残したコメントを集めたい」という主旨で公開いたしました。
つきましては、九子様の2006年6月18日の「木枯し紋次郎を知ってますか」の一部転載とブログのご紹介のご許可を頂きたく伺った次第です。
九子様の紋次郎に関する分析はなるほどと感服させられ納得させられました。
私のブログなど吹けば飛ぶようなお粗末なものですが、ご賛同頂ければ幸いです。
ご多忙中恐れ入りますが、下記の私のブログのメールにお返事を頂けます様、お願い申し上げます。

      monnjirounoaneomitu@yahoo.co.jp
by 紋次郎の姉おみつ (2007-05-14 10:33) 

九子

[紋次郎の姉おみつさま( ^-^)!]
そんな事でしたらどうぞどうぞ。( ^-^)
誰にも見られずに眠っている拙文も日の目を見せて頂けて、こちらこそ大喜びでございます。

ところで私が「紋次郎」を書いたのはたぶん一年前位で、その頃は確か余り他に書く人もなかったせいか、このマイぷれすのブログが最初の方に出てきたのですが、さっき検索してみてびっくり!たくさんの記事があれ以降に書かれたものか、わたしのを探すのはかなり大変でした。(と言うか、まだ引っかかってない(^^;;)

そんな中どうやって見つけて頂いたものか、つくづく感謝いたします。有り難うございました。m(_ _)m

ひとつお願いがあるのですが、
表紙ページの一番上記者名の赤い九子をクリックするとメールが出来ます。どうかメールを一本お願い申し上げます。

紋次郎さんが、現代に再び蘇りますように、ご活躍を祈っています。( ^-^)
by 九子 (2007-05-14 12:40) 

away

[興味があります。]
こんばんは。
座禅には興味を持ってはいるのです。
なかなかやってみる機会に恵まれませんが。。。
いつか機会を見つけてトライしたいと思います ^^
by away (2007-05-16 21:04) 

九子

[awayさんもご縁があったら是非・・。]
こればっかりは出会いと言うか、「縁」というのも大事なようで、私は大学時代にも鎌倉の円覚寺で学生接心と言うのに参加して3泊4日で参禅した経験があるのですが、(確か有名な朝比奈ソーゲン老師が健在の頃でした)今考えるとウツの真っ最中に行っちゃったんですよね。当然のことながら全然ダメで、負け犬意識をより深めて帰ってきました。

活禅寺に行った時もウツはウツだったと思うのですが、ちょうど治りかけの頃だったので、(私の場合、治る時は凄く早いので)
一度坐禅をしたらかなり気分が良くなって、もうそれ以来坐禅にのめりこんだというか・・・。

awayさんみたいにいろんな気分転換の方法をたくさんお持ちの方ならそんなに・・でもないかもしれないのですが、私は全くと言っていいほど無かったので、本当に有難かったです。

何しろ<a href="<a href="http://w1.avis.ne.jp/~kasahara/link7.htm">http://w1.avis.ne.jp/~kasahara/link7.htm</a>">「笠原十子の証言」</a>にあるように、甘やかされて育った社会に不適応だった女の子が、そこそこここまで生きてこれたのは坐禅のお陰だと思っています。

でも今思っているのは、やはり坐禅というのは仏教あっての坐禅なんですよね。私、気分転換のため・・・というのを強調しすぎて、本来そうするならば、ヨガとか太極拳とか、そういうものでも、というかそういうものの方が宗教と結びついていない分良かったかもしれないのですが、でも、私の場合は坐禅だった、それしかなかった・・・という事なんですよね。

だんだん年を取ると、仏教の中の坐禅という位置づけで捉えられるようになって来ました。というか、読経も作務も大切なのにさぼってたなあ・・とか。(^^;;

どちらにしても仏教は寛容ですから、どんな目的で坐禅を教えてもらいに行っても決して拒まれる事はありません。

「雲水ネット」が復活しましたら、どうか近くの禅寺を探してみてくださいね。( ^-^)
by 九子 (2007-05-17 10:38) 

ルフィ

[男は多かれ少なかれマザコンかも・・・]
今年3月末に母を送りました。

満中蔭法要もこの日曜日に済ませ、少しは心の平静さを取戻せるものかと思っておりましたが、母に対しての思いや悔やみは日を追うごとに増していくばかりです。

私の母も、2年前スキルス性胃癌とわかり全摘手術を受け、抗癌剤治療も効果なく腹膜・腸への転移が進み、消化器系の臓器全て蝕まれての最後でした。

九子様の『母を亡くして…』のプログを読ませて頂き、目頭を熱くし拝読させて頂いた次第です。

母にしてあげたくて出来なかった事が山ほど残っています。

もう一度逢いたい・・・
by ルフィ (2007-05-17 18:31) 

九子

[ルフィさん、お悲しみのところコメント頂戴し本当に有り難うございました。]
3月末・・。お母様が亡くなられてからまだ一月と少しですか。
お悲しみいかばかりかと存じます。

タイトルからするとルフィさんは男性でしょうか。

実は大学の同級生だった男性も私とほとんど2週間違いくらいでお母様を亡くされて、やっぱり私と同じでまさか母が亡くなるなんて思ってもいなかったと言って真っ赤な目をしてました。

マザコンとかなんとかではなくて、やっぱり母親というのは居てくれて当たり前、居ない事なんて考えられない存在なのでしょうね、全ての人間にとって。

お母様、2年間もよく苦しいご病気を頑張って下さったのですね。素晴らしいお母様ですね。きっとルフィさんやご家族と一日でも長く一緒にいらっしゃりたかったのでしょうね。

うちの母は、今になれば、もう生きるのが嫌になっちゃったんだと思います。

ルフィさんのお母様のように家族のために頑張って苦しい毎日を生きて下さったお母様に比べたら、うちの母はあまりにもあっさりと逝き過ぎてしまったような気がしてしまいますが、自分らしい生き方が出来ないのなら死んだほうがましだと思っただろう母の考え方は、これまたうちの母らしくて潔かったかもしれません。

母親のことは、何年経っても簡単に忘れられる事ではないといろいろな方から言われました。たぶんその通りなのでしょう。

でも長い間に、きっと落ち着きどころが出来てくるような気がしています。

「母親が死ぬのは一日でも後であって欲しい。」これは、人間いくつになっても考えるおんなじことのようです。

せめて末娘が私の年になるくらいまで生きていてやって、とりあえず母親顔しててやる事が私の究極の目標になりました。もちろんその前に粗末にされればその時はその時でしょうが・・。(^^;

ルフィさんのお母様の頑張りは、きっとご家族のどなたの記憶の中にも鮮烈に残っていて、困難に耐える力を下さるに違いありません。

私はここにも書きましたようにたまたま仏教徒と言う事もあるし、次の世と言うのを信じています。

次の世でも、家族はまた再び家族として助け合いながら生きられるとも思っているので、あと数十年か数百年かの後を楽しみにもしています。

きっと優しい息子さんだったであろうルフィさんのことを、お母様はきっと満足していらっしゃいますよ。「たくさんやってもらったから、もう十分だよ。」って言ってくださっていらっしゃいますよ。

偉そうに言うようですが、母親って言うもんは、そういうものみたいな気がします。
by 九子 (2007-05-17 21:18) 

九子

[それから、ルフィさん!]
もしよろしければメールを一通頂けますか?
トップページ一番上の赤い記者名の九子をクリックしてください。お待ちしています。
by 九子 (2007-05-17 21:51) 

ルフィ

[感謝]
九子様…

コメント頂きありがとうございました。

今の私は、本当に母の死を悼む素直な心情なのか、数々の親不幸を掛けて来た自己を肯定したいがゆえの偽善的な心情なのか、よくわからないでいるのが現状です。

明日オフィスから赤い記者名へメールを送らせて頂きます。

ありがとうございました。
by ルフィ (2007-05-18 00:36) 

九子

[ルフィさん!]
>今の私は、本当に母の死を悼む素直な心情なのか、数々の親不幸を掛けて来た自己を肯定したいがゆえの偽善的な心情なのか、よくわからないでいるのが現状です。


この気持ち、私も痛いほどわかります。
みんなおんなじなんですよ。やって上げられなかったと思えばきりがないし、またやってあげられたと思ってもきりがないのではないでしょうか。

私の場合は母親という立場でもありますから、やっぱり子供がやることなら何でも無条件に許せるように思ってしまいます。

だから私の母も、「九子のやることなんて所詮そんなもんだよ。九子にしてみたらまあそこそこやってくれたってもんだから、なんにも不平はないよ。」と言ってくれていると思います。

もしかしたらそれがルフィさんのおっしゃる自己肯定かもしれませんが・・・。
by 九子 (2007-05-18 10:10) 

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