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父、その後 [<介護生活、そして父母の事>]

ご報告が遅れたが、父はお陰様で2月21日に病院を無事退院した。

主治医のM先生が、退院の数日前、母と九子を見とがめてわざわざ話しかけて下さった。

「十兵衛さん、今日リハビリで歩きましたよ。しっかりリハビリすれば、もっと良く歩けるようになると思うけど・・・。どうです、退院をもう少し伸ばしますか?」

たぶんM先生も、立つのが精一杯と思ってた父が歩く姿を見て、嬉しくなって声をかけて下さったに違いない。

なぜか知らぬが、父はどこへ言っても「十兵衛さん」と呼ばれることが多い。最初は苗字を呼んでくれてる人でも、そのうち「十兵衛さん」になる。

親しみを込めて呼んで下さるのだから、もちろんそれで文句はないが、なぜか文字の方は正しい「十兵衛」はあまり書いてもらえず「十平衛」であったり「十丘衛」であったりした。(^^;

先生の「退院を伸ばすともっと歩けるようになる。」という言葉に、すばやく反応したのは、またしても母だった。

「あともう少し(病院に)居させてもらおうよ。もっと歩ければ、帰ってから楽になるよ~。」
う~ん、こうしてみると、母はいつも自分の都合しか考えていない。(^^;

でもこの意見は、九子によってすぐに却下された。

「だけどさあ、今のあのボケ状態が、もっと進んじゃったら悲惨だよ。
うちに帰って早く刺激与えてやらないと、本当にあのまんまになっちゃうよ。
リハビリなんて、きっと家でも出来るからさあ。」

父の入院はもう6週間になろうとしていた。

最初の頃は普通にしていたものの、手術後は特に、ものをしゃべらなくなり、あれほど好きだったテレビや新聞を見ようともしなくなった。

そして、ただただ「食っちゃ寝」の生活を続けていたのである。(^^;

最後に笑ったのを見たのは、手術室へ運ばれるベッドの上で
「これでお別れだね。」とおどけて言った時だったろうか?

いや!手術から3日後に東京から従兄弟のCさんがお見舞いに来てくれて、戦争の話をした時も笑っていたっけ。

父はそう言えば入院してから、やけに戦争の話をするようになっていた。
従兄弟との話は、足を撃たれた時の話。

自分は一応薬専(薬学専門学校)を出た衛生将校で、足に革のゲートルを巻いていた。
その革のゲートルを将校の印と敵に狙われて、向こうの丘から撃たれた。

MRIの検査の時、音がうるさいと言うのは受けた人ほとんどの感想だが、機械から聞こえてきた音はニ種類で、一つはかん高い音、一つは低い音だったそうな。

高い音はあたかも日本軍の機関銃のようなタタタタという音で、低い音はカタカタと、中国軍のチェコ製の機関銃の音そっくりだったと父は言った。

九子は感心した。そして、頭に刻みつけた。

だって、これで万が一・・・ってことだってある。
この話をうまいこと使えば、ちょっと気の効いた弔辞やら追悼文やらが出来あがるではないか。(^^;

だが、実はこの戦争の事ばかり・・というのが、ボケのはじまりかもしれないと言う話を、M先生から聞いた。現在の記憶が薄れる分だけ、過去の記憶が戻って来るということらしい。

そのボケのはじまり?の戦争の話すらもしなくなり、何をするのも面倒くさそうで、話しかけても返ってくる返事は「ああ」「うん」「ううん」だけ・・・になったのは、術後何日目だったろう。

その上、日がな一日、食事の時以外は寝てばかり・・。

しかもその食事も、あれほど好き嫌いがいっぱいあったのに、黙々と口を動かし、出されたものはすべて手をつけるようになって・・・・。

ただ良かったことがあるとすれば、何十年も欠かした事のなかった睡眠薬を飲まなくても眠るようになったことだけかな?

だから一日も早い退院は、父のボケ防止に取って不可欠だったのである。
でも退院しても、果たして元へ戻るのかなあ?

退院前にまずすることは、介護保険の手続きだ。

介護保険というのは、本当に有り難い。
わずかな負担で、ベッドもトイレも入浴も、安心して使えるのだ。

退院した最初の晩に、父はテレビを見始めた。
次の日の朝は新聞を広げた。
だがまだ、笑う事はなかった。

確か退院後三日目くらいだったと思う。
起きた途端に、夢から醒めたような顔で「オレ、病気か?」と言った。
きっとその時からだ。
父が、元通りの父に戻ったのは・・・。

痴呆も専門の、精神科医T先生に聞いてみた。
入院ボケはほとんどすべて、家へ帰ると元へ戻るそうであった。
な~らあの時、もうちょっと病院へおいといてもらっても良かったのねえ。
残念だったわねえ、おばあちゃん!(^^;

デイケアは、リハビリをしてくれるという外科病院の施設に決め、週に2度車が迎えに来る。
車椅子ごと入れるジェットバスがあり、父のお気に入りだった。

その後しばらく経つうちに、あんまり嬉しそうな顔をしなくなった。
理由はこうだ。

「朝行くと、お遊戯みたいな体操してなあ。歌うたって、飴だまもらって・・・・。まるで幼稚園だ!」(^^;

確かに御年寄り相手のプログラムは、ボケ老人でもわかるようにというのを念頭においているせいか、そんな風になりやすい。

まあ、それだけ頭もしっかりして来たってことだ。

歩く練習は、もっぱら寝室から食堂へ行く短い距離だけだったが、それでもだんだん力が付いて安定してきた。

四点歩行器というテーブルの足みたいなものを杖代わりにして歩くのだが、そのうち子供たちが「おじいちゃん、歩行器持って歩いてるみたい。」と言うようになった。

確かに障害物が置いてあると、それを避けるように歩行器を持ち上げ、三歩四歩自力で歩く姿が時々見られた。

そしてついに!
歩行器を使わなくても、誰かが軽く腕組みするだけで、数十メートルを歩くようになったのである。

「こんなに早く?」とも思ったが、考えてみれば足そのものが悪いわけではなかったのだから、歩けない理由はなかったのだ。

市民病院の診察の時、内科の先生は歯に衣着せずこう言われた。
「十兵衛さん、しぶとかったですねえ。」(^^;

歯に衣着せて言ってくれたのは、お見舞いにも来てくれた東京の、父より30歳も若い従兄弟のCさんだ。「また、不死鳥のごとく復活したわね。」

本当にお陰様で・・・である。
執刀医のM先生をはじめ、さまざまな方々のお陰で、父はまた、元通りの姿に限りなく近づいた。

デイケアも4月からは、歩いてはいるお風呂に代わる。
曜日も変わるから、頭のしっかりした話の合う人も見つかるよ。
万万歳だね。( ^-^)


今日も、父と母の声が聞こえる。
「おじいちゃん、さっきからどのくらい食べてるの!食べ過ぎだよ。もう、やめときな、お腹こわしちゃうよ。」
「おれの身体だ。お前に何がわかる!(うん、これは正しい、たぶん。(^^;)」

この頃とみに、口ゲンカが増えたように感じる父と母だが・・・・・。

う~んこれもまあ、限りなく元通りの姿だな・・・・(^^;
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