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母を亡くす・・・・懺悔 その2・・・・ [<父を亡くす、母を亡くす>]


コンデンスミルクの一件もあった。



1パック500円前後の苺は年中スーパーの店先で見うけられるようになったが、我が家では9人家族 だった頃から、バナナなんかで量を増やして1パックか1パック半を家族で分けて食べていた。



母がもっとずっと元気だったその頃は、当然のように自分は少なく取って良いところは子供達にたくさ ん分けてくれていた。



ところが食道癌の手術を終え、長男、次男、三男と順番にうちを離れて行き家が寂しくなる頃から、母の様子が変わり出した。



自分はもうたくさん食べられないからという理由で、料理でも果物でも家族の誰より最初に一番真ん中の良い所を自分用に取り分け始めたのだ。



むろん小食の母の事だ。そんなに大した量を取る訳ではない。



でも私にはなんとなく不満だった。



あの、私が大好きだった、自分の事は後回しにしていつも人に尽くしていた母は一体どこへ行っちゃったの?年寄りになるって恐ろしい。ああいうのを死に欲っていうのかなあ。





母は苺にたっぷりのコンデンスミルクと小量の牛乳をかけて食べるのが好きだった。



他のものは食べられなくても、好きな苺やスイカなら結構な量食べる事を知っていた私だが、母には確 かに真ん中のところは分けたけれど、母がすぐに食べ切ってしまうような量しか取らなかった。



体力が無くなって苺を一人でつぶせなくなった母に、苺をつぶしてやる事位はしたけれど、大好きだったコンデンスミルクも、そんなにたっぷりかけた訳ではない。



すると母は「コンデンスミルク、もっとちょうだい。」と言って、私がかけた同じ位の量を追加した。



このままじゃあ、コンデンスミルクだけでも結構な出費だわ。





父が亡くなった頃から、母がチューブ入りのコンデンスミルクをちょくちょく吸っている所を見かけるようになった。

考えてみれば、コンデンスミルクは母にとって貴重な栄養源だったのだ。

命綱だったとも言える。



それなのに私は、汚い!年寄りって、だから困るわ・・と呆れ果てながら、新しいコンデンスミルクを冷蔵庫にしまいこんだ。



そうする事がどんな結果を招くのかなど考えもせずに・・・・・。





食べ物の事以外でも、母に優しく出来なかった事が心底悔やまれる。



母はしきりに足の裏を揉んで欲しいと訴えた。



外で草むしりや畑仕事をするのが生きがいで、お日様を浴びてさえ居れば機嫌の良かった母だったが、大腿骨骨折以来ほとんど外へ出ることも無く、北向きの昼でも電灯が必要な家の中で、面倒くさがりの娘が昼間でもかまわずカーテンを閉めたままにしているのを、それでも元気な日には、手押し車を持っていな い方の手で、元気だった時よりも確実にゆっくりと、黙ってカーテンを押し開いては、飢えたように太陽の光を求めていた。



そんな母の仕草に込められた太陽を浴びたいという切実な気持ちすら、鈍感な私は当時わかろうともしなかった。



だから母の足は、むくみも手伝って白くてぽっちゃりしていた。

もともと22センチにも満たない可愛らしい母の足だった。

他が骨と皮ばかりだったから、すべすべした白い足は本当に綺麗だった。



母が亡くなった時、高校生の娘二人はとっさに母の手足の指に真っ赤なマニキュアを塗った。

80年近くも生きたとはとても思えない少女のような小さな足に、マニキュアは本当に良く似合った。





その足が、あれほど動くことの好きだった母の足が、思うように動かせなくなってからと言うもの、母は、足がだるくて重ったるいから揉んで欲しいと口癖のようによく訴えた。



「たのむわ、九子。ほんのちょっとでいいんだよ。」



母の「ちょっと」は、文字どおりそんなに長い時間では無かった。

ほんの3分か5分もすれば「はい、ありがとう。」という返事が返って来る事がほとんどだった。



たまに、ごくたまには、10分か15分位返事がないこともあった。

返事が聞こえないと、私は勝手に打ち切った。



今から思えば、それが15分だろうが30分だろうが、思いきり気の済むまで揉んでやりたかった。



それなのに、私のしたことと言ったら・・・。



一日に何度も頼まれるし、特に夜中起きたときに頼まれるのがしんどかったので、足裏マッサージ機を買ったのだ。それも、ネットで安く売ってる奴だ。



一応安い割にはクチコミで評判の良い機種だったけれど、痩せこけた母には機械の揉み方は強すぎたのだろう。

一度使ったきりで、「もう、たくさん。」と言った。



せっかく買ってあげたのに・・・。まったくもう、贅沢なんだから・・・。



母が亡くなってから、自分で試してみた。

確かに母が言う通り、そんなに具合の良いものではなかった。





母が亡くなって呆然とする私の脳裏に真っ先に浮かんだ事、それは、「これは仏様の罰に違いない。母を大切にしなかったバチが当たったんだ。」という事だった。



今まで我が家は本当に順調だった。順調過ぎるくらい順調だった。



母の食道癌の手術も、父の85歳を過ぎてからの腰の手術も、子供達の進学だって、みんなうまく行った。

これはひとえに、仏様が守って下さっている証拠だと長い間私は思いこんだ。



でも母が、かけがえのない母が、死ぬはずの無かった母が死んでしまった。

きっと私の親不幸が、仏様を怒らせてしまったに違いない。



母を亡くしたショックの中、仏様にも見放された気がして私は途方にくれた。





毎日、悲しくて切なかった。



でも今から考えてみると母が亡くなって数週間というもの、一番私が心を痛めていたのは、せっかく父が80歳まで働いて貯めてくれた年金が、母を粗末にしたせいで全く入って来なくなってしまったという事実だったような気がする。





父が払っていてくれた固定資産税その他もろもろの税金に加えて、薬学部志望の長女と次女のこれからの学費を、一体どうやって捻出して行けばいいのだろう。



うつ状態の妄想のひとつに「自分は一文なしになってしまった。」と思い込むというのがあるそうだが 、それを差っ引いても、これからの生活に対する不安は止めどなかった。





本当に私は、生まれてから今まで、父母の溢れるほどの愛情の中で生きてきた箱入り娘だ。

欲しいものはすぐに手に入る。がまんなどしたことも無い。お金の心配など皆無だった。





母の死に装束に、もうちょっといい着物を着せてあげてと義姉に言われた。

「おかあさんあんなにお洒落だったんだから、そんな寝巻きじゃ可哀想。どうせ焼いてしまうのだから高いものでなくていいから、お母さんの友達が見に来ても恥ずかしくないものを着せてあげなくちゃ。」



そんな時でもなんだかもったいないような気がしてしまう情けない娘は、初めて母の桐の着物箪笥を開いてみた。



母に着せる着物はすぐに決まった。

少々薄手だったけれど黒い縞が入った粋な柄物の着物だった。

娘たちのしてくれたマニキュアにも不思議に良く合った。



何気なく隣の箪笥を開けてみてびっくりした。

上から下まで15ほどある引き出しには全てにびっしり私の名前が書いてあり、、手を通した事も無い着物がきれいに畳まれて入っていた。



母は勝負事が大好きだった。

スポーツではプロレス。一人で騒いでテレビにかじりついていたし、野球も巨人が負けると不機嫌だった。



そんな母がもうひとつ凝っていたのが株だった。



たぶん株で儲けた時に、これだけの量の着物を私のために買い込んでいてくれたのだろう。



たった一枚。薬大の卒業式やM氏とのお見合いの時に着た、見る人が見ればいかにも高そうな振袖だけが、唯一私が手を通し、知っていたものだった。



もちろん私はただ着ただけ。脱げば脱ぎっぱなし。



きれいにきちんとたたむのも襟やそでをベンジンで拭くのもみんな母がしてくれたから、着物の在り処などもちろん知る由もなかった。



「あんたに着物たくさん買ってやってあるんだよ。」



「そんな余計なもの勝手に買わないでよ!」



母が亡くなるこの日まで、箪笥を開いたことも無かった。

むろんお礼のひとつも言った事は無い。



見覚えのある母のしっかりとした字で自分の名前がいくつもいくつも書き連ねられた引き出しを眺め、ついさっきまで「焼いてしまうのだから母に着せるのは新しい寝巻きでいいんじゃないの。」などと考えていた罰当たりな自分に腹が立って腹が立って、勝手に涙があふれ出て来て困った。



そう。一人っ子の私は、全てにおいて愛情を与えられる事に慣れすぎていた。



なんでもいざとなれば、お金も愛情も湯水のように注いでくれる両親が居た。

そうしてくれるのが当然だと思っていた。



両親を亡くしてみて始めて、今まで当然と思っていたものがいかに当然ではなかったのかをまざまざと思い知らされた。



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