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本当の戦争の話をしよう [<九子の読書ドラマ映画音楽日記>]


この本を手にとったのは、死刑についての前回の記事で「死刑の代わりに死刑囚を軍隊に放り込んだら・・。」みたいなことを書いておきながら、実は軍隊のことも、ましてや戦争のことなどまったく知らない人間であることに若干の後ろめたさを覚えたからだ。



ティム オブライエン作。訳者はなんと、村上春樹氏であった。本当の戦争の話をしよう (文春文庫)の画像



村上氏の訳というだけあって、翻訳小説にありがちなごつごつとした違和感のある文体ではなく、さらっと読み進んでいける気がした。



この本は、実話ではないのだという。ところどころにティムオブライエンが実際に経験した事実も混じるが、(ティムオブライエンは実名で一兵士として登場する。)その多くは作者のフィクションだそうだ。



でも、この一冊を読み終えた読者は、それが事実か否かなんていうことはおかまいなしに、あのベトナム戦争の泥沼をいっしょに辿っているような気持ちにさせられる。



ベトナム戦争は、もう今から50年も前のことだ。

そして父が従軍した第二次世界大戦は、さらにそれより20年も前だ。



「本当の戦争の話をしよう」の原題は"The things they carried"だったそうだ。それが突然"How to tell a true war story"に変えられていて、村上氏が驚いたという話があとがきに出てくる。



"The things they carried"彼らが背負ったもの・・というのはそのまま冒頭の一編につけられたタイトルだ。(日本語訳では「兵士たちの荷物」となっている。)



この一編を読んで、いかに自分が想像力の欠如した人間であるかを痛切に思い知らされた。



そうなのだ。ベトナム戦争はもう50年前。第二次大戦は70年も前。



銃ひとつとっても、今のものより途方もなく重い。例えば機関銃なら10キロ以上。そして弾丸ベルトが7キロだ。



任務によって持つものも異なるが、たとえば衛生兵なら血漿やらモルヒネやら包帯やら何やかやでこれも軽く9キロはある。



少なくとも三種類の武器に加えて、彼らは戦場で見つけたありとあらゆるもの、すなわち敵を殺したり自分の身を守ったりに必要と思われるものはそれこそなんでも手当たり次第身につけた。

「それらの武器が秘めるすさまじい力に対する沈黙の畏敬」もいっしょに持ち運んだのだ。



そしてその上に、配給される水だ。食料だ。

決まって配給されるわけではないから、それが7.5リットルもある水タンクであろうと、命をつなぐために彼らは黙々と担うのだ。



その他に12・5キロもある地雷探知機とか、夜間照準機とか、13・5キロの無線機や30キロもある爆薬の塊とか、担うものは際限なくあった。



彼らの背中の荷物の重みが少なく見積もって40キロだとしても、これは途方もない重さだ。

そういう状態で毎日ただただ歩くのだ。歩きつづけるのだ。



父は大戦で中国へ送られたが、毎日40kmの行軍をしたという話をしたことがあった。

ベトナムのさらに20年も前だ。



「へえ~っ。」と九子は気楽に聞いていた。遠足で10km歩くのとそうそう変わりない気で聞いていた。

その荷物の肩に食い込む重さも、ちょっとした音にもびくびく神経をとがらす危機状況にあったことにもまるっきり思いを巡らせられないでいた。



人間はたぶん、自分が経験していない事には想像力が巡り難い。

平和な時代を気楽に生きて来た九子にとって、父の戦争の話などおとぎ話と同じだった。



ここで語られる戦争の話は、アメリカ軍のものだ。

乱暴で卑猥な言葉が飛び交うのも、自由で陽気なアメリカ軍ならではの事だろうし、文中にもあるように軍隊というのは若者の集まりなのだから、日常の空気は思いのほか明るいものだったのかもしれない。



上官の判断ミスを部下がなじったりする場面も出てきて、いかにもアメリカ的だ。



ひるがえって日本軍はどうだったか。



縦社会をそのままひきずった日本軍の様子は、戦争映画に見るそれと変わるまい。暴力が横行し言論の自由などない。



アメリカ軍の方がずっと人間を人間として扱ってくれたように思う。



兵士たちが心の底から望んだもの、それは、手柄を立てることでも、敵を打ち倒すことでもなく、ただただ生きて家族の待つ故郷に帰ることだった。それは国の違いを問わず、兵士たちの本音とするところに違いない。





この短編集の中で村上氏の言うところの「はらわたの直感にずしりと来る」本当の戦争の話は、ずばり「本当の戦争の話をしよう」と題された一編に集約されているように思う。


銃撃戦のあと、そこには強烈な生きることの喜びが存在する。(略)
変な話だけれど、死とすれすれになった時ほど激しく生きているときはないのだ。(略)
少なくとも一般的な兵隊にとって、戦争は決して晴れることのない深く不気味な灰色の霧の如きものである。彼らはそれを精神的な感触として知る。そこには明確なものは何ひとつないのだ。(略)
戦争において君は明確に物事を捉えるという感覚を、失っていく。そしてそれにつれて、何が真実かという感覚そのものが失くなっていく。(略)


こうしてまとめてしまうと、残念ながら本当の戦争の話の本当のところはたぶん伝わらない。

ぜひ一冊を通して読んでみることをお勧めする。



ティム オブライエンの娘のキャスリーンは、父にこう尋ねた。

「お父さんは戦争で人を殺したの?」

九子が父に向かってなぜか最後まで発しなかった疑問を、アメリカ娘はいともたやすく口にした。



ティムは物語の中でベトナム人の二十歳前後のやせたインテリの若者を一人殺している。



積極的に殺した訳ではなく、誰かの気配を感じて恐怖の余り投げた手榴弾が運悪く彼の足元で炸裂してしまったのだ。



ティムは彼女に、殺したとも、殺してないとも取れる答え方をしている。



もし同じ質問を父にぶつけていたら、父はなんと答えただろう。

その答えを聞く機会は、永遠に失われてしまった。



九子がキャスリーンのように想像力たくましい少女ではなかったことに、今は少しほっとしている。


(☆父の戦争の話は、こんなところに出ていました。)
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轟 拳一狼

[戦争の狂気ってのは・・・]
私はもちろん戦争を経験していません。だから九子さんと同じく、軽々にものは言えません。ただ漠然と、テレビなどで戦争の体験話を聞くたびに、戦争ってのは、人間を人間でなくしてしまうものなんだろうなあと思うだけです。

私の両親は戦前の生まれでしたが、終戦の年まだ小学生でしたので、実際に従軍したわけではありません。それでも戦争の話を聞けば何か知っているのかもしれませんが、あまり子供の頃の話は興味ないみたいで、聞いても多くは答えてくれません。言うのがいやなのかもしれません。
『ディア・ハンター』と言う映画がありました。これはベトナム戦争の狂気を描いた映画でしたけど、この映画を観ても、また先の大戦で生きて帰ってきた元日本兵の人たちの話を聞いても、そこから感じられるのは、生の喜びよりも、死んでいったものたちに対する後ろめたさみたいなものでした。「あいつは死んでしまったのに、自分は生き残ってしまった・・・」みたいな。

戦争とははるかに違うレベルですが、私は22のときに阪神大震災を経験しました。そのとき、こんなことを経験しました。

<a href="http://blogs.yahoo.co.jp/zolotvolkov/30596927.html">http://blogs.yahoo.co.jp/zolotvolkov/30596927.html</a>

ここには書きませんでしたけど、機動隊に入っていた友人から、どうしようもない救出活動の話も聞いたこともあります。目の前で次々と人が死んでいく。でもそれをどうすることもできない。助かりそうな人たちから助けなければならない。そんな修羅場でした。

本当の修羅場になると、人間は感情というものが死ぬんですね。そして何もできないまま生き残った私は、若干ながら、後ろめたさを感じました。

地震でこれほどのことが起こるのですから、それが先の見えない戦争ともなると、まさに人間というものを外から中からすべて破壊しつくすような状況になり、善も悪もなくなってくるのでしょう。私にはその程度しか想像できません。

やはり、戦争というものを何とかこの世からなくさなければと、そういう思いを強くしました。
by 轟 拳一狼 (2008-05-23 22:45) 

九子

[拳一狼さん!( ^-^)]
>本当の修羅場になると、人間は感情というものが死ぬんですね。
>やはり、戦争というものを何とかこの世からなくさなければと、そういう思いを強くしました。

まったくその通りです。戦争中にあった事なら、すべてが「仕方が無い」と言い訳出来そうです。そうする事の良し悪しを別にして、本当に戦いの中では一人の人間の出来る事なんてたかが知れているのだと思います。

阪神大震災を体験された拳一狼さん、さぞや辛い思いもされたのでしょう。

神戸の人々が暴動も盗みもすることなく整然と列に並ばれてお互い助け合っていらっしゃった姿は、日本人の誇りでした。

神戸の方々の優しさは、辛い記憶を共有された優しさかもしれませんね。
by 九子 (2008-05-26 19:38) 

三ねんせい

[父の戦争体験]
父が海軍に召集されたのは敗戦の年の春のことでした.37歳でした.ろくな装備の残ってない時期のこと,幸いに飛行機に乗ることもなく軍艦にも乗らず陸にいて,生きて帰ってきました.旧式の銃が部隊に二丁だけあったそうです.重たくて,しかも一発撃つ毎に手動で弾丸を込めるやつ.鉄砲さえも行き渡らぬ部隊で何をしていたかというと,全員にもたされたのはシャベル.本土決戦に備えて塹壕掘りの作業の日々.海軍が土を掘ってるって格好悪いけど,生還できたのはそのおかげかも知れません.
敗戦後しばらくして,やせ衰えて帰ってきました.元気だった父がほんの数ヶ月の間に病人みたいに弱々しくなってました.
仮に,部隊で死刑囚といっしょにされてとしたら,イヤだなあと思います.
by 三ねんせい (2008-05-28 00:28) 

九子

[三ねんせいさん!( ^-^)]
お父様、徴兵されたのですね。37歳。当時としてはもう若くは無いお年ですよね。終戦間際。よほど兵隊が足りなくなっていた頃でしょうか。

本当に無事生還されて良かった!

父が良く「生きて帰って来られたのは運が良かったとしか言いようが無い。」と言っていましたが、父が生きて帰ってきてくれたからこそ私と言う人間がここに存在すると考えると、命の重さを今更ながら思い知らされます。

>仮に,部隊で死刑囚といっしょにされてとしたら,イヤだなあと思います.

最後のお言葉、重いです。
本当にその通りでしょう。

ただ、私にはどうしても、人の命をむやみに奪った人間がのうのうとして生きているという状態が許せないのです。

もちろん反省して生まれ変わったように生きているなら情状酌量ももちろんありですが、不可抗力ではなく意思を持って人を殺しておいて、一人の人間の全てを奪っておいて、幸せになる資格なんか無い!

仏教徒の癖に、つくづく寛容のかの字も無い九子をお笑いください。これは頭で考えてどうのこうのというのではなく、感覚的、生理的な嫌悪感なのでお赦し下さい。
by 九子 (2008-05-29 12:08) 

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