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古い店と元祖雲切目薬 [<薬のこと、ダメ薬剤師のこと、家のこと>]


本日はまた真面目に本業に戻って(^^;;笠原十兵衛薬局東側に残っている古い店のお話をしようと思います。



当時の「眼界堂笠原十兵衛薬房」は薬局ではありませんでした。

医薬品を扱うには薬剤師の免許=薬局の免許が必要となったのは戦後のことで、1543年以来何百年もの間ずっと我が家は「目薬屋」として代々続いて参りました。



この家は何度も火事で焼けています。明治時代も三度、それ以前も何度か、大抵は大火に巻き込まれて焼けているようです。



今残っている建物は明治24年の善光寺大火でこの辺り一帯が焼けてしまった後に建てられたもので、15代十兵衛が作ったと思われます。


DSCF0398.JPG


何しろ何度も火事で焼けて、古いものとしてはこの建物、特に雲切目薬に関しては当時目薬を売っていた店頭部分以外何も残っていないので、初代笠原十兵衛がどんな経緯で元祖雲切目薬を編み出したのか、という謎は深まるばかりです。



元祖雲切目薬が軟膏であったというのは皆様もうご存知でしょうか?



1543年の創業以来明治に至るまで、雲切目薬と言えば貝に入った灰色をした軟膏状の目薬だったのです。



それを16代十兵衛、つまり九子の祖父にあたりますが、軟膏の目薬を蒸留水に溶いて、当時一般的に作られるようになった点眼瓶に入れて、さしやすい水目薬という形で売り出したのが、昭和57年まで売られていた雲切目薬でした。



軟膏状の本来の形の雲切目薬は、そもそも戦国時代には傷薬として使われていたのではないかという指摘の通り、目の病気以外に胸に塗って百日咳等の咳止めやら、特にお尻に塗ると痔に大変良く効いたというので、商売上手の母恭子が雲切目薬にオウバクを増量して加え、ごま油なども加えて痔専用の「雲切痔退膏」という軟膏を作ったのがよく売れておりました。

目薬はすべて水目薬にとって代わられていましたし、この時点で軟膏状の雲切目薬は製品としては存在していなかった訳です。



昭和57年に雲切目薬が薬事法の改正による法律上の問題等で製造出来なくなり、同時に、母が作って評判だった「雲切痔退膏」も原料が雲切目薬でしたから作れなくなってしまいました。





元祖雲切目薬が出来た1543年と言えばまさに種子島に鉄砲が伝来した年。そして、山本勘助が武田軍に仕官した年(ディアゴスティーニ社「日本の100人第51号 山本勘助」より)でもあります。



古い雲切目薬の処方を見ると原料に硫酸亜鉛だとか沈降炭酸カルシウムだとかいう鉱石が使われていて、草根木皮と言われる生薬を使うことの多い中国の薬とは一線を画しているそうです。だからヨーロッパの香りのする処方だと言われて、ポルトガルの宣教師が・・という父の笑い話につながっています。( ^-^)



今回の御開帳中、歴史にお詳しいどこかの大学教授のような方が見えて、ポルトガルの宣教師は九州から北は山口県と京都までしか足を伸ばさなかったと言っておられました。つまり父の「ポルトガル人宣教師の善光寺参り説」はあえなく敗退する訳です。(^^;;



もちろん初代が独創的に編み出したという考え方も出来ますが、今の九子のテイタラクぶりからして初代がそれほど優秀であったとは考え難いので(^^;;その辺りの事情がまったくわかりません。



伝わっているのはただただ、嫁から嫁へと伝えられてきた雲切目薬の処方と作り方のみ・・。





父17代が晩年自慢めいて話していましたが、笠原家は明治時代に長野市議会が出来て以来百年に渡り、誰か誰かが市議会議員として議会に名を連ねていました。店主がそんな仕事をしていたため、万が一の場合店主に責任が及ばないようにするためか、店主は全く目薬作りには関与していませんでした。



だから父も祖父も、雲切目薬の作り方も、いつ作っていたかも知らず、苦労して目薬を作っていたのは嫁であった祖母と母ばかり・・・という訳です。





初代十兵衛が雲切目薬をどうやって編み出したかわからなかったのは15代十兵衛も同じだったようで、古い店にある15代が作った店の由来を金文字で書いた黒漆の額には「中元祖十兵衛が善光寺如来のお授けにより作った。」とあります。



★その後聞いた話では、15代の奥方さんがこの夢のお告げの話をしてくれたそうです。話によると夢枕に立った仏様は「この薬をこれだけとこの薬をこれだけ調合して、困っている人たちを助けなさい。」と初代十兵衛に事細かに処方を伝えてくれたのだとか・・。

なんとなく信じたくなる気にもなって来ました。( ^-^)



その左側にある眼界堂という店の屋号が書かれた同じく黒漆の額には、梧竹という印があり、書の達人として名高い佐賀の人「中林梧竹」さんが祖先の縁で信州を訪ねた時に書いてもらったものだろうと南宜堂さんが解説して下さいました。



額の下に目を向けると古い百味箪笥があって、中身もちゃんと入っています。

白い粉が多いのですが、中には今見ても鮮やかな青い粉や、一シソー伝(一子相伝)と赤文字で書かれた紙袋に入った得体の知れないものもあります。



きたさんによるとこれはしんじょとかしんじゅとか言われていた、それこそ一子相伝ですのできたさんには当時手を触れる事すら出来なかったもので、この家の嫁であった祖母や母だけが取り扱う事が出来、たぶん全ての材料が混ぜ合わされる最後に全体の1割ほどの分量のしんじょを加えて、お薬師さまに供えていたという事です。



このお薬師さまの話は九子にとっては初耳でした。

たぶん合理的だった出来すぎ母は、お薬師さまに供えるのも、得体の知れないしんじょなんてものを加えるのも、もしかしたらはしょっていたかもしれません。(^^;;



箪笥の上の棚には、金箔と金箔をつまむ竹製のピンセットが収められていました。

金箔は金属だとくっついてしまうため、必ず竹のピンセットで取り扱うそうです。



材料はすべて笠原家の人間、つまり祖母や母の手でたんねんに薬研(やげん)にかけられ粉にされました。全ての粉を混ぜ合わせた最後の最後に、祖母が金箔を入れていた姿を九子は子供心にまだ覚えています。

その後、祖母は再び薬研を忙しく動かして金箔を均等に混ぜ込んでいました。



ここでも母が金箔を入れていた記憶はありません。もちろん入れていたのだろうとは思いますが・・。(^^;;



元祖雲切目薬はすごくしみる目薬で、もちろん鉱物性の原料の刺激もありますが、カンフル、いわゆる樟脳がたくさん入っていた事も一因だったかもしれません。



きたさんに言わせると、このカンフルをつぶして細かくするのが昔は最大の難関だったそうです。



ところが16代十兵衛の兄の忠造さんが、本来は16代として家を継ぐ立場に会った人ですが頭が良くて東大に当時長野市で真っ先に入ったもので、家を継がずに国会議員になりました。



この忠造さんの東大の時の友達が、「カンフルはエタノールに良く溶ける。」という話をしてくれて、以来カンフルを細かくする大仕事はたいそう楽になったそうです。



さまざまな粉とアルコールで溶かしたカンフルを混ぜ合わせて固い軟膏状のものが出来ると、あとはきたさんの出番です。店の裏にあった小さな工場の幅1メートル直径50センチくらいの、たぶん大理石で出来た重いドラム状のローラーが三本ガラガラ音を立てて回っている機械にかけて、ハチミツでゆるめながら肌理(きめ)細やかな軟膏に仕上げます。仕上げるまでたぶん3日くらいかかったと思います。



最後の最後に唐墨と言って、中国から買ってきた高価な墨を大きな硯(すずり)でよくよく擦った、つまり墨汁を加えます。



白い粉に黄色いオウバクとハチミツでわずかにクリーム色がかったような軟膏が、その瞬間に黒いまだらの縞模様になり、そのうち灰色の均一な軟膏になる様は、今でもそのつんとした独特な匂いとともに鮮やかによみがえってきます。



その練り目薬を蒸留水に溶いて灰色の水目薬にし、洗ったビンに詰めてふたをし、ラベルを貼り、箱に入れる。

そういう一連の作業を一人黙々とこなしていたのは出来すぎ母でした。



きたさんはもう九子が小学校の頃には独立して薬店を持っていたので、それから昭和57年に雲切目薬が出来なくなるまで20年余り、母は一人、粉を混ぜ、薬研をあて、ふるい、カンフルとアルコールをよくよく擦り混ぜ、合わせて機械にかけ、ハチミツを煮詰めて不純物をろ過し、ローラーの上からたらたらとかけながら柔らかさを調節し、箱のような大硯で唐墨を擦り、3日も機械にかけ、仕上がった練り目薬を蒸留水に混ぜ、大きなタンクに出来た水目薬を何千本にも分け、そして最後にラベル貼りと箱折りと箱詰め。



これを家事や薬局の仕事の合間に、そして数年間は寝たきりの祖父の世話をしながら、いくら手早だったとは言え母がどうやって一人でこなしていたのか今もってわかりません。



とにかく母が居なかったら、雲切目薬はもっと早くこの世から消えていたかもしれなかったということ。

出来すぎ母は確かに、きたさんが言うとおり雲切目薬の、そしてこの家の「中興の祖」だったと思います。

母と九子の生まれてくる順番が逆だったら?と考えると、九子は背筋がぞお~~~っと致します。

(「それはこっちの言うセリフじゃ!!」・・・ご先祖様の声・・・(^^;;(^^;;)



元祖雲切目薬が製造出来なくなってからもう27年。一時は完全に途絶えていた雲切目薬が、幸運なことに新しい処方で蘇り、更に幸運なことに新聞やテレビで取り上げて頂いて皆様にこうして名前を知って頂けるようになりました。



「目がつぶれるほどしみる」と言われた元祖雲切目薬を九子も何度かさした事があります。受験勉強をしていてもすぐに寝てしまう怠け者だったので「目薬でもつけて目をはっきりさせたら?」と母に勧められて点してみたら・・!



しみる!!などというものではないのです。もう目なんか開けていられない!!

しっかり目を閉じてしみるのを我慢しているうちに、九子はそのまま夢の中へ・・。(^^;;(^^;;





今でもあのしみる目薬を覚えていてくださって「あれくらいしみなくちゃ!」と言って下さる方もたまにおられますが、あの処方では現在の世の中で受け入れられるのは難しかったと思います。



幸いな事に今の雲切目薬αは、元祖雲切目薬との唯一の共通薬であるオウバクの黄色い目薬で、一本あるとほとんどの目の不快な症状に使って頂ける便利な目薬に仕上がっています。

オウバクはご承知の通り少し前にピロリ菌に効くというので評判になりました。

オウバクには抗菌作用に加えて抗炎症作用もありますので、確かな効き目を実感して頂けるはずです。

目薬は苦手と言う方でも、かぶれにくくて安心して使って頂けるようです。

すっきりとした点し心地をどうかお試し下さい。( ^-^)



そして出来ましたら善光寺御開帳のこの時期に笠原十兵衛薬局にも足を伸ばして頂き、九子の顔を覗きがてら( ^-^)実際の古い店の様子などを是非一度ご覧下さい。m(_ _)m


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moko

[由緒あるお店]
こうして読むとお店と目薬の古い歴史に
圧倒されます
薬事法でも許可されていれば
この作業を九子さんひとりでやってるんですよね
九子さんの中にこの作業が
視覚的にも嗅覚的にも
インプットされてることが
すごいことだと思います

今ならビデオカメラで収めておくのでしょうが
そういう記録がないのがもったいないですね
by moko (2009-05-17 11:07) 

九子

[mokoさん!( ^-^)]
>薬事法でも許可されていれば
この作業を九子さんひとりでやってるんですよね

そっ、そんな、mokoさん!恐ろしい事を言わないで!(^^;;

母は本当に偉大でした。おばあちゃんは割りと小さい時に亡くなったので記憶に薄いのですが、きっと同じ事を黙々とやっていたのだと思います。

私がやらなくてすんだのは、私のためばかりではなく、我が家のためにも大いに幸せなことだったとほっとしております。(^^;;

そうですね。ビデオカメラがあったらよかったのにね。でもやめたのが長男が誕生した年だったので、その気になればビデオも買えたのだと思いますが・・。

とにかく今つくづく思うことは、雲切目薬が復活出来て本当によかったなあという事です。

ところでmokoさんのとこまでは新型インフルエンザまだ大丈夫なんですよね。娘がいるとこが大騒ぎです!
by 九子 (2009-05-17 21:44) 

gakudan

[目薬!]
凄い歴史ですね~!
たまに使わせて頂いておりますが、凄くシミルところが実に効いている感じでよいです!ありがとうございます!
by gakudan (2009-05-20 10:29) 

デュランティ

[私の思い出]
祖母の鏡台にはいつも雲切目薬が入っていました。
兄や私の目が赤くなっていたり、「目がかゆい」などと言うと
祖母はすぐに引き出しから出して私たちの目に入れようとしてくれたのですが、まだ幼かった私たちは良さもわからず「しみるから~」と言って逃げたものでした。
雲切目薬の長く重い歴史の横にそんな私の思い出もあるんです。
(家族みんなでひとつの目薬はちょっと問題ありそうですが)

ところでお嬢さん大変ですね。この騒ぎが早くおさまると良いですね
by デュランティ (2009-05-20 20:46) 

九子

[gakudanさん!( ^-^)]
gakudanさん、ご愛用頂き、誠にありがとうございます。m(_ _)m

>凄くシミルところが実に効いている感じでよいです!

あら、そんなにしみますか?
きっと目がすごく疲れていらっしゃるんでしょう。普通のときに使うとすっきりするくらいで、格段にはしみないと思うのですが・・。

今度しみると感じられたら、5分ほどしてからもう一度つけて見てくださいな。きっとそんなにしみないと感じられますよ。( ^-^)

gakudanさんの音楽活動のお伴に、使って頂けましたら幸いです。
( ^-^)
by 九子 (2009-05-20 21:50) 

九子

[デュランティさん!( ^-^)]
ヂュランティさん、こんばんわ。
びっくりです!デュランティさんは数少ない元祖雲切目薬の体験者でいらっしゃったのですね。

>祖母はすぐに引き出しから出して私たちの目に入れようとしてくれたのですが、まだ幼かった私たちは良さもわからず「しみるから~」と言って逃げたものでした。

子供にはあの刺激はどう考えてもきつすぎるでしょう。逃げて大正解というところではないでしょうか。(^^;;

でも、雲切目薬がおばあちゃまの思い出の中に共存させて頂いていたなんて、すごく光栄な気持ちがします。

>家族みんなでひとつの目薬はちょっと問題ありそうですが・・

原則的にはそうなるかもしれませんが、目やまつげに触れないように点せば家族でひとつでも問題ないと思います。防腐剤保存剤もきちんと入っていますし・・。

そうなんです。神戸は大変なことになっているようです。スーパーにはマスクはもちろん、インスタントラーメンの類も足りないようですよ。みんななるべく家にこもる作戦のようです。

長野でもマスクがどこの問屋さんにもありません!!
早くこの騒ぎが静まって欲しいですね。

デュランティさん、お店においでになるのを心待ちに待っていますよ。( ^-^)
by 九子 (2009-05-20 22:02) 

デュランティ

[ありがとうございます]
九子さんと出会わなければ私もこの祖母とのやりとりを
思い出さなかったかもしれません。
時が経っても変わらない「もの」って本当に価値がありますね。
それを受け継ぐ苦労は想像以上でしょうけれど
「もの」と一緒にそれぞれの家族のいろいろも残っていくのですから。
お嬢さんも頑張って雲切目薬を伝えていってくださいね。

それにしても私の娘が小学校の時にお会いしていたら
絶対夏休みの研究対象にさせていただいたのに!
それだけが残念でなりません。
(孫まで待ちましょうか・・・)
by デュランティ (2009-05-21 09:05) 

九子

[デュランさん!( ^-^)]
>それにしても私の娘が小学校の時にお会いしていたら
絶対夏休みの研究対象にさせていただいたのに!

実は我が家の子供達、よほど夏休みの研究に困っていたと見え、みんな「我が家の歴史」という研究タイトルを思いつき、とっかかったことがあります。(^^;;

でも結局ものにならなかったような・・。(^^;;

我が家ではですから、孫までは絶対に期待していません。( ^-^)
by 九子 (2009-05-21 23:40) 

Cecilia

雲切目薬、点してみました。
感想を書きましたのでご覧ください。
http://santa-cecilia.blog.so-net.ne.jp/2011-12-09
練り目薬、どうやって目につけるのでしょうか?
つけているところを見てみたいです。(笑)
by Cecilia (2011-12-09 09:47) 

九子

ceciliaさん、コメントと、わざわざ記事にしていただいた事、感謝です!
近視でコンタクトやめがねを使わなきゃいけないというのはある意味わずらわしいし一生を通してみると結構な出費でもありますよね。

上の娘がひどい近視なので、レーシックやろうかと言っていたら、例のクリニックの事件があって、結局出来ませんでした。

練り目薬はまぶたの端っこにつけておけばそのうち目に入る・・みたいなつけ方だったんじゃないかしら?寝る前につけて、しみて目が開けられないから(^^;;、そのまま眠って、朝起きたら洗顔時に目の周りもいっしょに洗ってスッキリ!というのが定番の点し方だったみたいですよ。( ^-^)
by 九子 (2011-12-09 12:16) 

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