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坐禅は修行じゃありません! [<坐禅、仏教、お寺の話>]

夜の9時半近く。普段なら家族くらいしか電話をかけてこない時間に鳴った一本の電話は、首都圏に住み都心で働いている友人からだった。
用件もそこそこに彼女の口から堰を切ったように飛び出したのは、彼女を取り巻く都会の誰もが感じているらしい底知れない不安感だった。

「地震があって一週間くらいは、本当にみんな変になりそうだった。何時間も並んで電車を待って、やっと会社につくと余震があってグラグラ揺れて、仕事なんかそこそこ帰路についても電車は動かない。何時間も待って、何時間も歩いてやっとうちにたどり着けば、家は停電で真っ暗!コンビニにもスーパーにも物がない。この国、このままで大丈夫なのかなあって本気で心配になっちゃった。まあ少しづつ落ち着いては来たけどね。」


ビルに囲まれた都会の暮らし。快適には違いないが、イザと言う時に逃げ場がない。
こんな事を言っては被災地の方々に本当に申し訳ないのだが、東京が直撃されずにまだ助かった。

田舎なら、家がつぶれそうなら外に逃げ出せる。土地にも空間にも余裕があるからだ。
都市づくりのイロハもわからない九子だが、とりあえず何かあった時に避難する余裕、避難できる空間というのを真っ先に確保するのが災害に負けない都市づくりの第一歩という事くらいはわかる。

八十数年前関東大震災が起こった時、復興に奔走したのは高橋是清だの後藤新平だのという歴史の教科書に写真が載るようなビッグネームで、テレビの情報によれば震災の次の日には予算60億円という当時の国家予算の2倍にあたる復興計画が出来上がっていたと言うから驚きだ。

ずっと思ってた事だけれど、文明が発達するにつれて人間は小粒になっていく。
自分の事考えたって、とてもじゃないけれど母にも父にも体力気力ともに太刀打ち出来ない。
その父母たちだって、親には勝てないと思って生きていたと思う。

文明の利器などなくてすべて人間が肉体でこなしていた頃は、根性も体力も知力もが全ての人間に求められていた。
それらが無いと生きていけなかった。

そして当時の機械というより道具と言うものは、いざとなれば人間の手足で代用可能だった。
昔の人々がどんな時でも現代の私達より余裕があるように思えるのはそのためだろうか。

その後文明と言うものが発達して、機械が代わってやってくれるようになった。
極端な話、ボタンを押す体力さえあれば人間は生きていけるようになった。

手も足も頭も機械に頼って退化した。
その挙句、自分の身体のどれひとつとっても代用出来ない物ばかりの中で毎日生きていたことに気づく。

小粒になってしまった私達に、今出来ることは何か。日本人らしい無理の無いやり方で何が求められているのか。
それはやっぱり、一致団結して、一人一人の力を集結することだと思う。

「みんなで頑張る」のではなくて、「一人一人が頑張る」ことが大事だと思う。

頭や手足を総動員して今出来ることをする。
それを率先してやっていらっしゃるのが被災地の方々だ。
本当に頭が下がる。

スチール棚を倒して瓦礫の中の木片をたくさん入れてその上にこれも廃物の平らな金属枠をのっけて即席のコンロを作る。
それで汁物を作り、久しぶりの温かいおかずが出来たと皆が喜んでいた。そういう知恵はいったいどこから出て来るのだろう。

リーダーになるのは普段威張っている会社の社長さんじゃなくて、建設会社の現場監督みたいな人だ。
普段手足を動かしている人はこういう時も強いのだ。


大本山活禅寺では坐禅もさることながら、作務(さむ)の重要性が強調される。作務とは、「作務衣(さむえ)」の作務で、言ってみれば肉体労働のことだ。

これが大の苦手でなかなか出来ない九子の修行が誰より遅れていることひとつとってもその重要性がわかると思う。(^^;;

手足と言うものは動かせば動かすほど効率よく動くものだという事を九子は働き者の母から学んだ。
働き者の母に任せて何もしないで生きてきた九子の手足は、あと10年先だってうまく動いているかどうか怪しい。


手足を動かす事は頭も動かす事。そして動かせば動かすほど、いざと言う時、たとえば危険が迫った時に反射的に動いて身を守る事が出来るのだと思う。

これは坐禅の意義にも通じる。
無形大師は「坐禅は目的を持って坐ってはならない。」とおっしゃりながら、話の端々で「坐禅をすれば時と所に応じた最良の判断が出来るようになる。何が起きようとも慌てずに最善の行動が出来るようになる。」とおっしゃった。


坐禅についての誤解の第一は、坐禅が辛い修行だと思われている事ではないだろうか?
それがいざ、禅寺の敷居を高くしているのではないだろうか。

曲がりなりにも九子でも出来るんだよ。修行のはずないじゃん!(^^;;

もちろん道を究める和尚さま方のは修行なのだが、九子の人生を変えてくれた坐禅はそんな立派なもんじゃない。
いや、坐禅そのものに分け隔てはないのだが、九子がやるとどうもいい加減になってしまう。(^^;;

坐禅が修行じゃないなら一体何か?
九子が考えるに、これはやっぱり練習だと思う。エクササイズといった方が通りが良いか?

バレエダンサーや音楽家が練習を一日休むと勘が鈍ってしまうのと同じ事で、少し休むとせっかく覚えた呼吸のコツがわからなくなってしまうので、なるべく毎日坐るのがいいのだ。

作務が身体を動かす事によって非常時にも機敏に反応する手足を養う事であるなら、坐禅はその独特のきれいな酸素をいっぱい脳内に運んで脳細胞をいつも明晰に保つ呼吸法を、どんな危急の時であっても保持していられるために毎日コツコツ続ける呼吸法の練習なのだと思う。

たとえば背筋をまっすぐにすると気持ちがしゃんとする、伸びをすると気持ちがいい、そういう事は単純動作だからいつ誰がやってもそれなりにうまく出来るが、坐禅はもう少し複雑で、要領みたいなものがいろいろあるから、最善の姿勢や最良の呼吸がしっかり身に付くまでに時間がかかる。でも一度それが身に付けば、不測の事態だろうと慌てずにその場その場で落ち着いた最善の行動が出来るようになるのだ。

その上じわじわと湧き上がってくる不安感だって解消される。要するに肝が据わるからだ。

長年坐禅を極めた和尚さんだと坐り始めてから5分もしないうちに禅定(ぜんじょう)と言ってどっしりと安定した呼吸に行き着くそうだが、九子なんかみたいに何ヶ月もお休みしているとなかなかそうは行かない。(^^;;

姿勢が大事なのは、たとえば「半眼」と言われる薄目をあけるその目の角度ひとつで、呼吸の仕方がうまく行ったり行かなかったりしてしまうからだ。

「姿勢さえしっかり整えば数息観(呼吸を数えること。基本中の基本と言われる。)など出来なくたってりっぱな坐禅が組めるよ。」とおっしゃった和尚様もいらっしゃるほどだ。

田舎にはまだ土地にも余裕があると最初の方で書いたが、必要な事は避難する空間と精神的余裕だ。
いくら空間が確保されていても、心の余裕を無くして右往左往しているうちに逃げ場を失う事はよくあることだ。

いざ!と言う時はいつ何時来るか知れない。
坐禅で落ち着いた判断力を養い、作務で良く動く身体を作っておけば、どんな時代も生き抜ける強い強い一人一人の日本人が出来上がると思う。


・・・という事を、日頃怠けて坐禅をサボっている九子自身に一番言ってやりたかった。(^^;;(^^;;


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