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年賀状2016 と、等順和尚  [<坐禅、仏教、お寺の話>]

18歳で進学する時とっくに済んでしまったと思っていた君たちの巣立ち。
休みとなれば帰郷し、まだまだ親の庇護の下だったそれは、巣立ちの予行演習にすぎなかったことにようやく気がついた。

親には見えない輝くものに心躍らせ、目を見開き、時にはそのまばゆさに目をくらませて、親の知らない土地での生活を選んだ君たち。
せいぜい親は経験則を振りかざし、知った風な顔して精一杯の御託を並べるのが関の山。
ああだこうだと言ってみても、たかだか30年長いだけの経験則にさしたる意味があるわけじゃない。

休みには必ず帰ってくると思い込むことも、父母や代理人の欄にハンコをつくことも、もうおしまい。
 
人生を極めることは容易ではないが、少なくとも目一杯楽しんで欲しい。
他愛ない会話に幸せを感じる笑顔あふれる日常であって欲しい。

そしてもしも堪えられなくなったなら、重石も飾りもかなぐり捨てて、
一番大事なものだけ抱えて、上を向いて長野に帰っておいで。
辛抱はもはや昭和の遺物であって、命をかけるような代物じゃない。
辛抱の半分は、きっと見栄やら世間体だったのだから。

人生は何度でもやり直しがきく。それを信じて実践するのが君たちの仕事だ。
君たちの未来が誰よりも幸せで輝いていますように。

親の戯言におつきあい有難うございます。今年もよろしくお願いします。      
                     2016年 正月

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今年は少々趣向を変えて、善光寺第80代別当 等順和尚のことを書いてみようと思う。

実は去年のご開帳中、お陰さまで2回もBSテレビに出して頂いたのだが、そのどちらもが「善光寺七名物」を訪ねる旅だった。
笠原十兵衛薬局の「雲切目薬」は、たぶん現存する中では一番古い七名物と思われるので、どちらの番組でも割合時間を割いて頂いた。有り難いことだ。( ^-^)
 
ところが「善光寺七名物」はいつ頃からあるのか?と聞かれて、はたと困った。
結局どちらのテレビにも答えらしいものが出なかったところを見ると、物を知らない九子はもちろん、誰に聞いても確たる答えを知っていた人は居なかったのだろう。
 
ところが放送が終わってしまってから、ひょんなところから答えを知っている人が現れた。
雲切目薬の古くからのお客様であり、ご祖父様が長野市のご出身という事で長野の歴史をよく研究されているまだお若い方である。
 
その方から「等順和尚」という名前が出ても、九子は言うに及ばず、信徒総代のはずのM氏も、近所のおじちゃんおばちゃんがたも、本当に申し訳ないことながら誰に聞いても首をひねった。

後からわかった事だが、等順さんは「善光寺七名物」ばかりか、7年毎の善光寺ご開帳も最初に開催されていた。

等順さんは1742年生まれだ。
善光寺七名物の中で一番若いと思われる「八幡屋礒五郎の唐辛子」が1736年創業と謳っているので、等順さんが「善光寺七名物」にこれを加えたとしても辻褄は合う。

等順さんは、善光寺百数十人の大僧正のなかで唯一長野市出身の僧侶だと言われる。
実家は大門町というから、善光寺に向かうバスの終点辺りであり、質実ともに善光寺の門前である。

いつも観光客の人並みで賑わう表参道に、九子の知る限り等順さんの生家など見当たらないし、何らかの石碑などにお目にかかったことも無い。

そんな地元の人々にも忘れ去られたような等順さんが、実は善光寺の名声をいやがおうにも高める凄いことをしていた。

1783年に浅間山が大爆発し、ふもとの村では500人だった人口がたった93人になってしまった。
被災した人々は東叡山寛永寺に救いを求めた。

たまたまその前年、東叡山寛永寺護国院の住職から、故郷善光寺の別当大勧進貫主(かんす)に就任したばかりだったのが等順さんだった。
 
自ら被災地に入り、犠牲者名を記録し、毎日、村人と念仏を唱え、死者の回向を30日間行ったと伝えられる。
何もかも無くした人々に白米とお金を与えて労ったという。
『浅間山噴火大和讃』の中で等順さんの活躍は今でも伝承され、しのばれている。

翌年の1784年、等順さんは善光寺本堂で浅間山大噴火被災者の追善大法要を行い、被災地には1,490人の名前が書かれた御経塔婆木が送られた。
また、被災した人々の心の平安を取り戻すため、『血脈譜』とよばれるお守りを大量に配った。

『血脈譜』というのは『融通念佛血脈譜』を簡素化したもので、これを持つだけで阿弥陀仏の直弟子になれると参拝者は有り難がり、また等順さん自ら全国各地を回ってこれを広めた。言ってみれば免罪符みたいなものだ。

「血脈譜」は評判に評判を呼び、等順さんは生涯で約180万部を配布、善光寺信仰の普及に大きな役割を果たしたそうだ。

この話が落語の「お血脈」の題材になったと言われる。
「善光寺縁起」をもとにした話だから、最初の方は若干面白おかしく脚色されているものの大体正しい。
ごうつくばりの月蓋(がっかい)長者が、美しい如是姫の病気をなんとか直して欲しいとお釈迦様にお願いするところから話は始まり、善光寺如来が権力闘争に巻き込まれて難波の堀に沈められてしまうが、本田善光がそばを通るのを見て「ヨシミツヨシミツ」と呼びかけて、善光の背に負ぶわれて信州までたどり着いた。

そして最後の方に出て来る等順さんの「血脈譜」の部分がこの落語のハイライトとなる。

善光寺が人々に与えた「お血脈」のおかげで、この頃地獄に来る人がぐっと減ってしまい、地獄が不景気で鬼どもがほとほと困っていた。

そこで地獄の閻魔大王が一計を案じ、地獄の住人になっていた石川五右衛門を呼び出し、大盗賊に善光寺にあるお血脈をまんまと盗ませようとした。
「お血脈が無くなれば、また地獄に人が戻ってくるだろう・・。」という目論見だ。

ところが、そうは問屋が卸さなかった・・・・・・というお話である。

「お血脈」は、「ご印文」に形を変え、善光寺ご開帳の時には極楽浄土を目指す参拝客が我先にと押寄せた。

我が善光寺の出来事が落語になって人々に伝えられたのは心底嬉しいし、何より等順さんという素晴しい僧侶が地元長野市から出たというのが誇らしい。
そしてそんな偉人がいた事を全然知らなかった九子が恥ずかしい。(^^;;

善光寺には大勧進貫主(だいかんじんかんす)と大本願上人(だいほんがんしょうにん)のお二人の別当がいる。
大本願お上人は代々女性で、天皇家に縁ある方や、身分卑しからぬ方々が任に着かれている。

問題は大勧進貫主さんの方で、せっかくの等順さんみたいな素晴しい見本がありながら、現在の貫主さんは醜聞で新聞や週刊誌を賑わしてばかりいる。

大本願のホームページには第121世鷹司誓玉(たかつかさせいぎょく)上人のお姿とご紹介が大きく出ているのに、大勧進のホームページに、九子の見る限りお貫主のお姿もお名前も無くて、写っているのは小さな後ろ姿ばかりというのは恥ずべき事じゃない?

まあでも、新しい風は吹きつつある。
大勧進には活きのいい新しい副貫主さんがいらして、大なたをふるってくれそうだ。

比叡のお山からいらして、関西ではかつて桂三枝さんといっしょに毎週テレビに出演されて、現在もご自身のラジオ番組まで持っていらっしゃるという変り種、栢木寛照(かやきかんしょう)氏。
まるで三流週刊誌を思わせるウイキペディアの評はいかがなものか?と思うけど、実際はとても穏やかで誠実で気骨のある、腰の低い方です。)
 
 何より、毎年学生たちを何十人も引き連れて、大戦の激戦地サイパンへ慰霊の旅に行かれている。近くの城山小学校の子供たちも毎年何人も行っている。
きっとスポンサーはおいでなのかもしれないが、ほとんどは寛照さんの自腹だと聞く。とても普通の人間に出来る事ではない。

ご活躍に期待しよう。(^^)

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伊閣蝶

九子さん、明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願い申し上げます。
九子さんのブログの記事を拝見すると、いつも新たな発見があり、私にとっては大変貴重な瞬間です。
今年も素敵な記事をご期待致します。
by 伊閣蝶 (2016-01-07 23:28) 

九子

伊閣蝶さん、こんばんわ。
こちらこそ、今年もよろしくお願いします。<(_ _)>

私のブログなど伊閣蝶さんの豊富な情報量と何気なく溢れる優しさや気品には及びもしませんが、今年も無理せず書いていきたいと思います。

奥様やご自身、ご無理なさいませんように。
by 九子 (2016-01-08 20:54) 

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