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大物伝説・・・・サクラ記念日に [<学校の話、子供たちの話>]

3月6日が再び巡ってきた!と、九子は久しぶりに感傷に浸っている。



去年の3月6日は、次男Sが合格可能性10%をはねのけて、難関ではない某国立大学に合格した九子にとっては特別の日である。



俵 万智さん風に言うと



「やった!受かった!とあいつが言ったから、3月6日はサクラ記念日」



ってなもんである。 オソマツ!(^^;



彼、次男Sは、そう言えば昔から図太いところのあるやつだった。



最初に通った幼稚園の始めての作品展。

他の子たちは、たくさんの牛乳パックやら段ボールやらで、見栄えの良い作品を作っていた。

中には、自分の背丈ほどもある東京タワーを作った子もいた。



Sの作品はいったいどれだ?

やっと見つけたそれと来たら・・・・・・。



トイレットペーパーの芯を二つ、こ汚くちぎったガムテープで止めただけ!

「望遠鏡」という題名が付いていた。(^^;



この子は決して手の器用さを要求される仕事にはつけない!と思ったが、彼が選んだのは工学部だった。



あんまり心配で、九子は大学の入学式の質疑応答の時間に「うちの息子は不器用この上ないのですが、大丈夫でしょうか?」と思わず聞いてしまった。



すると教授は、「お母さん、心配ありません。今は製図でもなんでもコンピューターですから・・・。」と言われた。ほっとした。(^^;



見ず知らずの、しかも年上の男性に「お母さん」と言われたのは心外だったが、あの場合ほかにどういう呼び方があろう・・・。







三男Yに発達の遅れがあったので、なるべく早く保育園へ入れて社会性を付けた方が良いと言われ、次男Sも、通っていた幼稚園を止めて保育園へ移った。



転校初日、血気盛んな保育園の子供達が、パンチ数発で歓迎してくれた。

どうなることやらと九子はハラハラしたが、パンチで応酬した彼は、すぐに仲間として受け入れられた。



その保育園で、彼はどうしたわけか友達の髪の毛を切ってしまうという事件を起こした。その子は次の日、丸坊主で園に来た。



前の幼稚園で「S君は正義感のかたまり。」と評されていたにもかかわらず、この時はなぜか最後まで自分がやったと白状しなかった。

このハサミ事件のお仕置きで、彼もしばらく丸坊主にさせられた。



小学校6年生までスイミングに通った。スイミング教室の先生と、まるで友達みたいな口をきいた。いわゆるタメ口ってやつ。



附属小学校に毎年来る教育実習生の女の先生に、一番人気があるのがSであったと、ホントかうそか知らないが、担任の先生から言われた。



中3の時、クラスで一番優秀な女の子の隣になった。

参観日の時、Sは居眠りをしていてその女の子に突ついて起こされたそうである。そしたら彼は、「ねえ、ティッシュ取って・・・むにゃむにゃ」と言うなり、再び眠りについたそうである。(^^;



その女の子のお母さんが、卒業式で九子にこう言った。

「S君、もうちょっと早く勉強始めてたらN高絶対大丈夫だったのに、惜しかったわねえ。」



そして次の日、果たして我が家の期待の星だった次男Sは、友達がほとんど合格した中、彼女の言葉どおりN高に落ちてしまうのである。



彼女には未来が見えていたとしか言い様が無い。(^^;



そう言えば長野N大高の試験の日も、前日受験票を中学校へ置いてきたことに気づいて、試験のまぎわに中学へ寄り、大慌てで受験票を取り、一目散で試験場へ駆け込んだ。

心配した担任の先生が、玄関前で受験表を持って待っていて下さった。



そんな状況でも、決して慌てないのが彼である。

そのお陰で、滑り止めの一つだった長野N大高に受かることが出来た。(滑り止めは出来るだけ多く受けておくようにというのが、先生の指示だったので、目一杯受けた。(^^;)



N高の合格発表の日、彼は友人多数と一緒に発表を見に行った。

九子なら、そんなことはしない。

自信があるならともかく、すれすれだと思えば絶対一人で見に行く。

(いや、彼は自信があったのかもしれない。(^^;)



家族は彼の不合格を、ケーブルテレビの報道で知った。

「あっ!番号無い!落ちた・・・・・!」

 

何しろ彼は、ずっと我が家の期待の星だった。

勉強嫌いだったから成績は芳しくなかったが、N高へ入ると言う目標を持って以来、成績は右肩上がりに急上昇した。

やっと我が家からN高生が誕生する!・・・・はずであったのに。

家族の落胆もまた大きかった。



さすがの彼もその日一日はしょげていたようだった。何しろ一緒に発表を見に行った中で、落ちたのは彼一人だけだったのだから・・・。



そのわずか3日後の事である。

彼はN高に合格した友人達と一緒に、ディスニーランドへ遊びに行ってしまった。

なんと、その日は長野N大高の登校日に当たっていたのである。

仕方が無いから、九子が代わって出席した。

ディズニーランドへ行っているなんて口が裂けても言えないから、風邪をひいたことにした。



九子以外、出席しているのはみんな生徒だった。



でも長野N大高は、息子が第一志望に落ちてがっかりしている母親には優しい学校だった。



N高落ちの子だけを一室に集めて、先生が檄(ゲキ)を飛ばされた。

「皆さんはN高に落ちてさぞや落胆しているかもしれないが、3年後はN高へ行った友人達を上回る成績を取って、一流大学へ進もう!」



中には、こんなことを言われた先生もあった。

「この中から、早稲田、慶応へたくさんの生徒が入学するように祈る!」



間違えないで欲しいが、ここはN大附属高である。(^^;



この時ばかりは、休んでくれたSに感謝したいようだった。

母親の自尊心は大いに癒された。

そうだ!3年後にもう一度チャンスがある。

N高へは行けなかったが、3年後ニッコリ笑えるようになればいい!



すっかり長野N大高のファンになった母親は、今年も長女N子を同校に送りこんだ。



大物伝説はさらに続くが、次回はまた某記念日に書かせて頂くことにする。( ^-^)















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ミロのビーナスの信大附属中学校 [<学校の話、子供たちの話>]

考えてみると、それはいつからそこにあったものだろう。

九子が信州大学教育学部附属長野中学校に入学した古(いにしえ)の頃
(^^;、もう体育館のステージの上に、そのミロのビーナス像は君臨していた。

どこの中学校のステージにも、いつもそれがあるのだろう・・・くらいな感覚で、別段不思議とも思わずに3年間を過ごした。

長い年月が流れ(^^;、九子の5人の子供達が次々に、場所も変わって新しくなった信大附属中学校に入学して、母親として我が母校へ再び足を踏み入れた時、あの時のまま、あの場所にあった彼女に再会した。(記憶の中ではステージの左側に鎮座していたと思われる彼女は、こんどは右側に移動していたが・・・)

その後子供達がさまざまな高校へ散らばって行き、いろいろな学校のステージを見たが、ミロのビーナス像にはどこでもお目にかからなかった。

その時点で始めて、あのビーナス像は信大附属長野中学校特有のものであったのか!と思い当たった。(信大附属松本中学校ではどうなんだろう?)

考えてみると、中学校の美術室ならいざしらず、ステージにビーナス像があるというのも不思議な話だ。一度誰かに聞いてみたいと思うが、今の校長先生より多分古い昔を知っているはずの九子が(^^;知らない訳なのだから、期待薄ではある。
万が一その謎をご存知のどなたか、いらっしゃったら御一報頂けますか?( ^-^)

九子が推測するに、美術室に置くために買ったものが、想像以上に背が高くてどの教室にも入りきれず、仕方なくなくステージに置かれた・・・なんてとこが、案外真実だったりするんじゃないかと思うのだが・・・(^^;

信大附属長野小学校ももちろんそうだが、附属中学校へいらっしゃる先生方は皆、エリート中のエリートだ。そしてそれを裏付けるように、5人の子供達の5人の担任の先生は、優劣を付けがたいほど皆素晴らしい先生だった。

前にも書いたが、信大附属小学校で根っこを育てられたものの、お勉強の方はあんまり育ってないかもしれない(^^;子供達が全体の半分を占めるこの学校で、中学校へ入った途端急激に難しくなる学習についていけない子供達を、それでもなだめたりすかしたりしながら、試験で入ってきた優秀な子供達と同レベルに引き上げようというのは、これはかなりの高度な熟練技かもしれない。

信大附属中学校の試験というのは、教科書を通り一遍にやっていたのではだめで、重箱の隅をつついたような問題が出るので、かなり周辺の中学とは違い難しいのだそうだ。事実塾へ行っても、附属の子だけはまとめて別クラスにされることがほとんどだ。

つまりそれだけ「手作り」の問題が出るってことだ。

これはたぶん附属小、中学校に共通して言える事だと思うが、とにかく先生方の仕事量が格段に多い。研究授業の前ともなれば、ほとんど夜なべで仕事をし、学校へ泊まりこむ生活が当たり前だと聞く。

そのために作られるレポートの厚みがまたただものではないらしい。
教育ということは、ひたすら書いて記録することなのだなあと思わされる。

そんな激務の先生方であるが、30代後半から40代前半の働き盛りのせいか、疲れ知らずでいつもエネルギッシュだ。このエネルギーを九子がどこで感じるかというと、たまに聞く機会のある先生方の合唱でだ。

卒業式などで先生方が卒業生に歌って下さる男声合唱の素晴らしさは、本当に例え様が無い。(信大附属小中学校の担任の先生は、9割9分男性である。)
あったっかくて、大きくて、たくましい。

人間、声に覇気が現れるというのは真実である。

合唱と言えば、附属中学校では音楽集会というのをやっていて、新入生の母親がはじめて全校生徒により歌われる「大地讃頌(だいちさんしょう)」に触れる時、皆、我が子の成長に感激するのである。
720人が声を揃えて歌うその響きを、皆さんにも是非聞いて頂きたい。
( ^-^)

とにかく合唱というのは、男性の声が力強いと迫力が全然違う。
昔から非行や不登校が少ないと言われ、「荒れていない学校」と定評のある附属中学校ならではの、男子生徒の声の美しさである。

・・・とここまでは、附属中の先生方に進んで見せたい日記・・・なんだけどお・・・。

これを書こうかどうしようか・・・でも、九子の中で鮮烈な思い出なんだよね。
ええい!書いちゃえ。(^^;

それはたまたま九子が、子供の忘れ物を届けるか何かして放課後学校へ出かけた時のことである。

九子が見かけたもの、それは異様な光景であった。

たぶん有名などこかのお偉い先生が、学校の訪問を終えられてこれからお帰りになるというところであったのだろう。

玄関から出て行かれるその先生の進む道の先には、一体いつの間に集まったのか、先生方が両側に分かれて一糸乱れぬお見送りである。

「白い巨塔」に描かれる、大名行列を髣髴(ほうふつ)とさせる回診シーンはつとに有名だが、「紺色の巨塔」とでも言うべき、先生方の縦社会ぶりというのを垣間見た思いがした。

これから先は、九子の素人考えである。どうか読み飛ばして頂きたい。

先生というのは、ただでさえ大変な職業だ。

昔はみんな、無条件で先生を尊敬していて、先生の言うことは誰もが従っていたから、まだ楽だったかもしれない。刺激も少なかったし、社会も単純だったから、育てやすい子供が多かったのかもしれない。でも、今は違う。

PTAの力が強くなり、強いお母さんにたじたじの先生方が大半かもしれない。
いっこうに減らない不登校や非行に頭を抱えていらっしゃる先生方も多いと思う。

先生方のストレスは、頂点に達しているのではないか?

そんな中、レポートの厚さとか、大名行列の数の多さとか、そんなことで神経すり減らしたんじゃたまんないよなあと、九子なら思う。

信州教育を背負って立つ優秀でやる気のある先生方が、せめて病気にならずに、いつまでもエネルギッシュに、3年間を附属中学校で過ごして下さることを心から祈る。

あっ、読み飛ばしてって書いたけど、万が一附属中学校の先生方読んでいらしたら、最後の一文だけはしっかりと記憶に留めてください。

(もうすぐ卒業のN子はともかく、残っているのがあのM子な訳であるから、せいぜい媚のひとつも売っとかないと、卒業も怪しいという、切ない母心が隠れていることを、どうかわかって下さいまし・・・(^^; あっ、決して、決してごますりではありません。本心ですので、念のため。( ^-^))
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血液型人間学 [<学校の話、子供たちの話>]

2-4,3-5?何、競馬の話しかあ?と考えた御仁は、そろそろ足を洗って奥様孝行を本気で考えた方が良い。

まっ、血液型人間学と言うタイトルも少々大げさでしたね。(^^;
話は、子供たちの性格と、血液型のことである。

何しろ子供が5人もいると、いちいち名前を呼ぶのが煩わしいと思うことが良くある。そして密かに登場するのが、ナンバリングである。もちろん本人達の前では使わない。

「番号なんかで呼ぶな!私は自由な人間だ!」(知ってる人は、とてつもなく古い。(^^;)

本当は1-3-5、2-4の方が語呂が良かった。ところがである。1番、つまり長男のRは、成人映画を堂々と見に行ける年になっても、血液型がいまだにわからない。

言うまでも無いが、彼が成人映画好きということでは決してない。それどころか、少しはそういうの見たほうがいいんじゃないの?と親が心配するほどの堅物である。(^^;

長男Rが生まれたのは、長野市の繁華街G町にある、先生が東大出というので有名な産婦人科だった。その後まさかあと4回もお世話になるとは露知らず、「近いからいいよ。」と通い始めた。

繁華街であるからして、夜になると怪しいネオンの光が病室にまで入り込み、それらしい女達の甲高い笑い声がさんざめく。

長男が生まれたとき、先生は真っ先にこう説明された。
「申し訳ありませんが、この病院では血液型の検査をしておりません。実は、検査をしたがゆえに、いろいろ芳しからぬ問題が起こっておりまして・・・。」

先生はそれしかおっしゃらなかったが、あとで看護婦さんがこう付け加えた。
「この病院、こういう場所にあるでしょ。だから時々あるのよ。決して両親の血液型からは生まれるはずのない赤ちゃんが生まれちゃうことが・・・。」

なあるほどね。

その後病院は方針を変えたらしく、次男の時からはきちんと血液型を調べてくれるようになった。

つまり、長男の血液型がいまだわからないのは、現実を逃避して一夜の快楽を求めた男女の営みの結果なのであった。
どうだ!「風が吹けば桶やが儲かる」よりも、はるかに複雑怪奇な論理の飛躍!(^^;

ところで、我が家の子供達の血液型は、A型かB型のどちらかしかない。こういったら血液型に詳しい方はもうおわかりと思うが、九子がAB型でM氏がO型である。つまりAOかBOしか出ない訳だ。

AB型というのは、誰からも血液を輸血してもらえるが、AB型にしか輸血できない。その反対でO型は、誰にも輸血してあげられるのに、O型からしかもらえない。こんなところにも、役立たずの九子とお人よしのM氏という構図が見え隠れしたりしていませんかあ?(^^;

長男Rは、九子が考えるに典型的なA型である。これに関しては、家族一同が認めるところだ。ただし、同じA型でも、3-5とはやや異なるようである。3-5は、A型の変種。言われなければ誰もA型とは思わないタイプ。むしろO型に近い感じかな?

とにかく、いかにもA型らしいのは一人長男だけである。まじめで気が弱くて心配症。結構神経質かもしれない。

(神経質というのも、曖昧模糊とした言葉だわねえ。昔この九子でさえ良く神経質と言われた。(^^;
まあ、繊細、ナイーブとでも言い換えようか。( ^-^))

まあこれも、さきほどから述べている理由によって、長男がA型というのは憶測の範囲を出ないのではあるが・・・。
(でも20年以上もの間、お母さん何してたんでしょうねえ。その気になれば保健所でいくらでも調べてもらえるのに・・・(^^;)

残る2-4がB型である。

2-4の二人、つまり次男Sと長女N子の共通点は、B型人間の典型とされる社交性かな?
二人とも結構友達が多く、人気者である。友人にはとことん付きあう、人の良いところもある。

あと、昔からなんとなく親や先生に期待されていた二人でもある。お勉強はそこそこ出来る。割合図太いところがあって、本番に強いタイプだ。

その対極にあるのが3-5A型変種?コンビである。
三男Yと次女M子、誰もこの二人に、学校で良い成績を取ってきてくれと期待する者は無い。(^^;

全体の平均点を下げるのに貢献はしても、決して平均点以上に顔を出さない二人である。

M子の友達は考えてみると鋭かった。小学校5年生の時、もう彼女の今を予言する名言を吐いた。
「M子ちゃんって、決してお勉強しないわけじゃないんだよね。ただ、結果が出ないだけなんだよね。」(^^;


でも、努力することができないって訳じゃないんだから、まだいいんじゃないの?と大甘九子は思う。(親も年を取ると、だんだん子供に甘くなるのだ。)

ただその努力が長続きしないことと、努力の方向が少々間違っているだけなのだ。(^^;

だけど逆に、努力しても出来ないってある意味、努力しないで出来ないよりまだ悲惨なんじゃないの?(^^;

三男Yと次女M子は、昔から反目し合っていた。マイナス同士は反発するって、理科でも習った通りだ。(プラス同士と言わないところに、深遠な意味がある。(^^;)

似たところがあるとすれば、無類のテレビ好き、マンガ好き、そして自分の主張は最後まで押し通す。自分のこだわりを捨てない・・・・・・こうしてみると、良く似てる。(^^;

数年前まで、彼らのけんかは凄かった。けんかと言っても、とっくみあいのけんかをするわけではない。いつでも口喧嘩だ。

口の達者なM子は、4歳年上であろうと三男Yのことを最初からバカにしている。いつも些細なことから始まる喧嘩だが、どっちかというとM子が悪い事の方が多いかもしれない。

要するに、M子がYを挑発するのである。
理論整然と、しかも言葉尻を捉えて、追い詰めるのである。

甲高いM子の声は、遠くにいても良く聞こえる。
そのうちYが、我慢できなくなって手を出す。
M子がここぞとばかり泣きわめく。

そして、叱られるのはいつも三男Yであった。

考えてみるとここ一年位、二人の喧嘩はぴたっとやんだ。
まあそれなりに二人とも成長したのかもしれない。(^^;

こうしてみると我が家では、優秀な遺伝子はB型に乗っかり、そうでもないのがA型に乗っかっている事になる。

そうか、考えてみると九子の出来すぎ母がB型で、凡庸な父はA型であった。(^^;

だけどこうしてみると、O型って一体なんなんだろう?
Aという因子もBという因子も持っていないわけでしょ?つまりゼロ。

それなのに、何も無いって訳じゃなく、英雄型などと呼ばれて懐が深い。
無が意味を持ってるなんて、禅にも通じるかも・・・( ^-^)

うん、確かに奥が深い。
O型のOは、ゼロに通ずる!

確かにO型のM氏が我が家にやって来てから、我が家の懐具合は限りなくゼロに近くなった・・・と、九子は常々思っている。(^^;

 

☆人生というものはわからないもので、あれからもう10年以上が過ぎまして、B型二人は鳴かず飛ばず、というよりむしろ低空飛行・・もおりまして(^^;;、A型3人の方が大化けして優等生になったりしております。 

 


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S先生とI先生  後編 [<学校の話、子供たちの話>]

前回よりつづく)



I先生の始めての家庭訪問の時も一騒動だった。



待てど暮らせど先生がいらっしゃらない。まさかあの

個人懇談事件の悪夢再びでは・・・と心配になったが、確かに家庭訪問というプリントも来ていた。そのうちまた一本の電話が・・・。



「まさか・・・。学校でお待ちしていますという先生からの電話じゃあないよねえ。」と疑心暗鬼で出てみると、I先生からで、「あっ、ちょっと道に迷って少し遅くなります。」とのこと。



「先生はこの辺りの地理は不案内なんだし、仕方ないわ。それに、どこかのお宅で問題山積で遅くなっているんだわ・・・・」と安易に納得した九子であったが、結局先生はなんと!少しはおろか、一時間半以上の遅刻であった。



あの出会いの衝撃から思えば(^^;、思ったほど悪い先生じゃあないわあと、始めての家庭訪問を終えた九子であったが、実は先生の遅刻は、この日ばかりではなかったのである。



次の日もまた次の日も、先生は必ず道に迷われて、一時間単位での遅刻を重ねていらした。



一人のお母さんはこう言ったものだった。

「うちなんて駅から一本道。どうやったら迷うんだろう。教えて欲しいわ。」(^^;



前にも言ったように、I先生は社会科の先生である。社会科ならば、地図はお手のもののはず・・・と誰もが思っていたのだったが・・・。



一言で言うと、I先生は不器用なのであった。(えっ?九子に言われたくないって?ごもっとも。(^^;)



音楽会の日、前に出て指揮するのは、たいていクラス担任の先生だが、I先生の姿は無い。音楽の先生が代わって指揮をされる。I先生の指揮では、皆がどう努力しても合わないそうである。(^^;



先生方の合唱でも、I 先生は口パクであった。先生が歌うと音程が乱れるのだそうだ。



そんなI先生ではあったが、本業の社会科の教え方は卓越していらっしゃった。何しろI先生に習った子供達はみな社会科が大好きになった。(I先生に習わなかった次女M子だけが、今でも社会科が出来ない。いや、出来ないのは社会科ばかりではなかったが・・・。(^^;)



同じ不器用でも、九子の不器用とはそこが根本的に違うのだ。

I先生のは、他が不器用でも、肝心のところはちゃんとしている。

九子のは、肝心の本業がおぼつかない・・・。(^^;



I先生は、無事次男のクラスを卒業させた後、あるクラスを受け持たれた。それは、一年生の時からどういうわけか毎年先生が変わられて、そのせいかどうもまとまりがないと言われていたクラスだった。



真面目なI先生は、「よし、俺だけは一年で担任を変わるようなことはしないぞ!」と心に誓われたであろう事は想像に難くない。



ところが次の年、先生に辞令がおりて、先生は若いのに関わらず教務主任というのになられ、担任を持つことが出来なくなってしまった。その時の悔しそうな先生の顔を忘れることが出来ない。



「俺はなんのためにこの学校へ残ったんだろう。」



本来は、次には教頭の地位が約束され、出世として喜ぶべき事であるのに、I先生はとても悲しそうだった。



だが逆に言えば、I先生の実力は誰からも認められていたのである。( ^-^)



こうやって見ると、本当に子供にとって良い先生というのは、皆どこか不器用なところがある先生ばかりのような気がする。



次女M子が小学校3年生まで習ったK先生も、子供達を伸ばしてくださった素晴らしい先生だった。



いつもきちんとされている先生が、参観日の日、クラスの研究テーマだった「和紙」の漉き方の実験で、突然衣装ケースに水を張った装置から水がこぼれて、先生は両手に装置をかかえたまま「お母さん、お母さん、どうしたら良いでしょう!」と叫ばれた時、みんなお腹を抱えて笑いこけてしまった。



どこか子供のような心を持つ先生に、お母さん方は弱いのである。

母性本能をくすぐられる・・・とでも言うのであろうか。( ^-^)



ところで、I先生はなんとなあくパソコンとは無縁な感じがしている。機械物は、たぶんお強くないだろうから、よもやI先生はこの日記を読まれていらっしゃらないだろうという前提の下に、いろいろ書き進めてしまった。(^^;



最後にもうひとつ、I先生の風貌を伝える長女N子と次女M子の会話を・・・。彼女達がたぶん小6と小4頃の事だと思う。



M子「ねえ、おねえちゃん。○○先生ってにんじんに似てなあい?」

N子「うん、似てる似てる!じゃあ××先生がたまねぎだね!」

M子「そうそう!なら、じゃがいもは誰かなあ?」

二人揃って「あっ、I先生だ!」

M子「これでカレーが出来るね。」( ^-^)



I先生、万が一見ていらしたら、くれぐれもご容赦を・・・。(^^;
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S先生と I 先生  前編 [<学校の話、子供たちの話>]

カメラ目線という言葉がある。カメラを、つまり視聴者を意識した目つきという意味であろうか。

でも相手を意識するあまり、ついつい自分を忘れるということは、日常生活の中で良く起こる気がする。



九子はとりわけ自意識過剰型人間なので(^^;、相手にどう見られるかを必要以上に気にする傾向がある。それが自分であんまり好きではないものだから、そうでない人に惹かれるのかもしれない。



次男Sの小学校時代の担任S先生は、子供達が習った多くの先生の中でとりわけ九子の記憶に残っている素晴らしい先生だ。そして、S先生こそが九子が惹かれる自分が相手にどう映っているかなど気にも留めず、ひたすら子供たちの事だけを見てくれていた類稀な先生だった。



前任高が我が家のすぐ近くのJ小学校だったから、「角の肉屋」のお子さんもS先生に習ったそうだ。そのお母さんが言っていた。



「S先生みたいな良い先生、見たことないよね。うちの子供が足を骨折して遠足へ行けなくなったとき、先生がおんぶして一緒に連れていって下さったんですよ。本当にあの真似はできないと思う。S先生にはほんと感謝してるわあ。」



一年生のとき、次男Sのクラスは、先生が規律を重んじるタイプだったので、「小学校一きちんと整列出来るクラス」ということで有名だった。次男Sは、実は今でも少し猫背なのだが、いつも背中が曲がっていると叱られてばかりいた。



それが!である。担任がS先生に変わったとたん、整列の時たぶん一番お行儀の悪いクラスになり果ててしまった。一年生の時の先生には申し訳無いが、子供と言うのはそんなもんである。(^^;

そして、それが子供らしさなのではあるまいか。



S先生はとにかくそんな風に、やかましい事は一切おっしゃらず、たぶんほとんど叱らず、誉めて子供達を育ててくださった。



今でもS先生の影響で、合唱や楽器を続けている子も多い。次男Sも、実は当時少々音痴なのでは?と親は気にしていたのだが、先生に「S君は本当に良い声ですねえ。」と誉められて、以来歌が大好きになった。



次男Sが四年生の時、それはS先生に教えて頂いた最後の学年だったように思うが、S先生の授業で、次男のクラスが「初研」にあたった。



たぶん全国どこの附属小学校もそうであると思うが、一年に一度全国から大勢の先生方が集まる研究会があり、一学年に一もしくはニクラスが、代表で参観クラスになる。



附属にいる平均3年間くらいの在職期間の間に、少なくても一度はどの先生もこの授業参観が当たるような仕組みになっている。



信州大学教育学部の場合は初等教育が専門だから、「初等教育研究会」略して「初研」と言われるこの研究会に、一般のお母さんたちが参加する事は、ある時期までまれであった。



しかしその年、S先生は「お母さん方もお気軽にどうぞ。」と言われて、九子も含め多くのお母さん方がS先生と子どもたちの授業を見に行った。



S先生はお気の毒な位、あがっておられた。そう思ったのは、たぶん九子一人ではないと思う。



ただびっくりしたのは、授業が終わって反省会みたいなのがあった時、S先生は一人一人の子供達がいつ何をどうやり、どう言ったのかを、つぶさに覚えていらっしゃったことだ。



傍目には緊張しまくって我を忘れていらっしゃるように見えたS先生だが、子供達のことはちゃんと見ておられたのであった。



先生の視線の先にあるものは、参観に来ている先生方でも母親でもなく、ましてや自分自身でもなく、いつも子供達であったという事実が、九子をいたく感動させた。



九子がたまにお便りを書くと、必ず丁寧にお返事を下さるS先生だが、次男と同学年だったお嬢さんは保母さんになられると聞く。



先生の子供というものは、いつも必ずお勉強が出来て(無理やりやらされて?)、どこそこの有名大学へ行くのが相場だが、S先生に温かくほんわり育てられたお嬢さんは、さぞや愛情深い幼稚園の先生になられるんだろうと、ほほえましく、いかにもS先生らしいと感心した。



そのデビューの鮮烈さも手伝って(^^;、もう一人、S先生と同じくらい九子の記憶に鮮明なのはI先生である。



I先生は、S先生をひきついで、次男の担任になってくださったのだが、実はI先生はこの後、先生方が「監獄」と呼ぶ、激務の信大附属小学校に5年も残られて、我が家の5人の子供達のうち、長男Rから長女N子までの4人に、社会科を教えてくださった。



実は信大附属小学校は、御多分にもれず「お母さん方が派手」という風評を得ている。よそを知らないから九子には良くわからないが、まあ確かに医者や、弁護士や、教授や社長の子弟がそこここにいる。



卒業謝恩会も、入学祝賀会も、一応長野の一流ホテルで行われ、お母さん方は皆、いつも着飾って美しい。(九子もまたそのお母さんの一人であるという事実を、どうか忘れないで欲しい。(^^;)



PTA役員の関係でその年の謝恩会に出席した時、I先生の席は、たまたま九子の隣であったと記憶している。



たぶん始めて出席なさったI先生は、最初から極度に緊張しておられ、終始頬を紅潮させておられた。



まあ、ただでさえ美しいお母様方に囲まれ、しかもとなりが美人(?!?)のほまれ高い九子だからして、それも致し方ないと今になれば、思うのであるが・・・。(^^;



乾杯の合図でみんな立ちあがった時、I先生のグラスが倒れて、ワインがこぼれ落ちた。先生は慌てまくって、みんなのワインを一人で飲み干したように真っ赤になって、消え入りたいような表情をされていた。



その後もI先生は、誰に話しかけられてももじもじしていらしたような気がする。



正直、「次男の次の担任、この先生にはならないで欲しい!」と九子が思っても、それは仕方が無かったのではあるまいか。(^^;



そして新学期が始まり、あのI先生が、なんと次男の担任になったと知って、「え~!大はっずれ~!」と失望した九子ではあったが(^^;、そのI先生が、実は偉大な先生だったのであった。( ^-^)



次回へ続く)
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「信濃の国」の附属小学校 [<学校の話、子供たちの話>]

うちの5人の子供達はみな、信州大学教育学部附属長野小学校の出身だ。

Tさんと話すまで、九子は信州大学教育学部附属長野小学校を別段特別な小学校と思っていなかった。九子自身が卒業した小学校でもあり、九子の父もまた、かなり早い時期の卒業生だった。

確かに当時から「フゾク、フゾク」と特別な目で見られがちではあったが、他の小学校だってこんなもんでしょうと思っていた。

ところが!である。
金沢から引っ越して来たばかりのTさんが、「えっ?九子さんのうち、子供達を附属にだしてるの?すっご~い!インテリ~!」と言ったので、九子はおったまげた。

「えっ?なんでえ~?だって、うちは長男がたまたま入ったから、兄弟関係でみんな入れるだけだし・・・。長男の時だって試験で落ちた子なんていないって聞いたよ。みんな抽選だもん。」

今度はTさんが驚く番だ。「えっ?上が入れば芋づる式に兄弟みんな入れるの?違うんだねえ、他の附属と・・・。」

「それにさあ、お勉強だってさせないんだよ。たとえばさあ、数の勉強させるのに、朝顔を植えて、花を数えたり、種を数えたりするんだって。だから、教科書あんまり進まないみたいだよ。それで、中には、子供を塾に入れてるお母さんもいるみたい。特に、転勤族で、また別の学校に移る可能性のある子は、勉強遅れちゃうから附属以外の学校へ入った方がいいって話だよ。」

「へえ~っ、世の中にそんな附属もあるんだねえ。私が今まで行った先にあった附属は、みんな金沢みたいに、試験が難しくて、競争率が高くて、お勉強出来る子が集まる学校だったけど・・・。」

お互いに目を丸くして附属談義を終えて以来、九子の頭の中で、子供達が通っていた信大附属小学校が、全国にかけがえのない附属小学校として認識されるようになった。


「根っこを育てる教育」、信大附属小学校の教育方針は、たぶんこの一言に尽きる。

今全国の小学校に導入されている生活科。信大附属小学校では、20年以上も前からこういう授業をやっていた。

羊を飼ったり、水田で米を作ったり、中には盲導犬を飼っていたクラスもある。

山羊を飼って、その出産に立ちあったクラスもあった。それが、ジェンダー(性の違いや男女の役割)や、性教育の授業につながっていったようだ。

その結果、クラス毎に、まあ違う授業が行われているわけだ。

だから、お母さんによっては、「まあうちの先生ときたら、毎日毎日山羊ばっかり・・・・。一体お勉強はどうなっているのかしら?心配だわ。」という事にもなるのである。

九子の場合は、自分が小さい頃から外遊びが不得手で、友達がいなくて、そういうことに対する劣等感があったせいで、子供達がそうやって、土にいそしんでくれたり、動物の世話を通じて、手が汚れることをいとわずに、生き物に対する愛情をはぐくんでくれたりしている姿に、ただただ感激していた。

九子の頃には、まだ生活科はなかった気がする。教室で蚕(かいこ)を飼うくらいが関の山だった。九子はそれとて、嫌で嫌でなるべく手を触れないようにしていた。
今じゃなくて良かったあ。(^^;

授業はそうであっても、子供達の5人が5人ともみんなが動物好きであったり、土いじりが好きであるとは限らない。それがまあ、教育の限界というものであろう。

小学校には通知表がないから、中学校へ行って始めて手にする通知表で、親は我が子の成績にどんなに愕然としようが、慌ててはいけない。根っこは育ててもらっているのである。

お勉強の出来る出来ないよりも、生きる力を育ててもらったのである。ぱっとしない今は、いざという時ではないのである。本当にいざと言う時には、しっかり力を出す子を育ててもらっているのである。
(もっとも、一生「いざと言うとき」が来ないってこともあるんじゃないかと心配になったりはするが・・・・(^^;)

以前次男Sの担任だった
S先生
がこうおっしゃった。
「附属の子はやっぱり違いますね。他の学校では、先生が生徒を管理することが多いんですが、附属の子はのびのびしている。先生に管理されずに、生き生きしている感じがします。」

まあ、どっちにしても、この「根っこを育てる教育」の成果が出るのは、まだまだ先の事に違いない。

ちなみに、信州大学教育学部長野附属小学校の校歌は、長野県民なら皆知っている県歌「信濃の国」だ。附属小学校で歌うときは校歌「信濃の国」となる。

その昔、この歌を作詞したのも作曲したのも、当時師範学校と言っていた信州大学教育学部の先生だったからだそうだ。

誰もがみんなこの校歌を知っていると思うと、なんとなく歌うたびに鼻が高い気がしたものだ。

だが、Tさんの話を聞いてからというもの、鼻が高く感じるものがまたひとつ増えた。

かつて「信州教育」と言われ、数々の優秀な先輩方を輩出し、皆の模範とされた信州大学教育学部だが、最近はどうもその魔力が衰えてしまったように見える。現在、長野県の学力は沖縄に次いでワースト2になり下がってしまった。

しかし、一体学力とはなんだろうか?大学入試の成績ばかりではあるまい。一生を通しての学ぶ力と言う意味で考えたら、また違う結果が出ると思う。

そういう意味で、信州大学教育学部附属長野小学校の教育には「腐っても鯛の骨」を感じるのである。(先生方、ごめんなさい。(^^;)

根っこを育てられた子供たちは、それぞれのいざと言う時、きっと蓄えていた力を思う存発揮して人生を切り開いて行ってくれるに違いない。

今は低迷している通知表を眺めながら、「今は『その時』じゃないのよ!」と、自分に懸命に言い聞かせなければならない母親の方にも、けっこう忍耐力が要求されるものではあるが・・・。(^^;
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九子家からのまじめな年賀状 [<学校の話、子供たちの話>]

2003年は、我が家にとって夢のような年でした。まず3月に思いがけず次男Sが、合格可能性10%をはねのけて難関ではない国立大学に合格してくれ、財政難の我が家に貢献してくれました。
4月には、タナボタの如く日刊ゲンダイに雲切目薬が紹介され、お蔭様で善光寺御開帳では、薬局始まって以来というお客様が来て下さいました。

そして、今年2004年は長女N子の高校受験の年です。大学区制や自己推薦制度導入で波乱の年でしたが、彼女は推薦入学で決まる学校を目指してくれています。受験で心配するのは去年でもう懲り懲りでしたので、親はこの上なくほっとしています。

N子がその学校を選んだ理由は「掃除が行き届いていて気持ち良かったから」でした。(よほど散らかり放題の家に住むのに嫌気がさしていたのでしょう。(^^;)

親が喜んだ訳は、次男もお世話になって、安心して子供を任せられる学校だったからでした。
(本当はもうひとつ理由があるのですが、まあいずれわかると思います。)

もともと次男が第一志望のN高校にすんなり受かっていたら、決して有り得ない選択だったかもしれません。
人生何がいいのかは、死ぬまでわからないのかなあと思っています。

・・・以上本当の年賀状の内容。以下はその続きで、いつもの文体に変わる・・・

祖父16代笠原十兵衛は、今考えると大変物事の道理を良くわきまえた人だった。
「笠原十子の証言」にも書いたが、「学校の優等生、社会の優等生にあらず」という名言を私に痛烈に残してくれた。

祖父の言葉どおりの人生を歩んでしまった私は、半分人生を捨てかけていた。あの時座禅に出会わなかったら、今の幸福な私は決して存在していない。

ダメ母ではあるが、自分の失敗は決して子供達に繰り返して欲しくなくて、多分一度も「勉強しなさい」と子供達に言わなかった。

学校で良い点数を取ることなど、人生の幸福において何の意味も無いと言うことが身にしみていたからだ。

自分で自分のやりたいことを見つけて、自分で考え、行動する子供になって欲しい。

「勉強しなさい」と一度も言われなくても、なぜか子供達は必要な時には勉強しているらしい。
その勉強が効率良く点数に現れる子もいれば、そうでない子もいるが・・(^^;

子供は一人一人みんな違う。

軽音楽部でバンドを組んでベースギターを弾いている長男R。静かな時間を過ごすことが好きで、身体を動かすことは親に似て苦手だ。だが、兄妹たちに一目置かれる頼れる長兄である。

一番友達の多い次男S。仲間と過ごす時間が、何よりの息抜き。苦手なスポーツも、仲間の影響で、中学高校6年間を運動部で過ごした。

漫画や映画が大好き。いつもは自分の世界の中で楽しんでいる三男Yだが、三度のご飯より大好きな旅行に出るときは、社交家に変身して写真を撮りまくる。(しかし教えられた住所に写真を送ったためしは無い。)

兄妹きっての頑張りや長女N子。小さい頃から折り紙や、工作や、手を動かすことが大好き。見かけや言葉使いは男っぽいが、心根の優しい女の子だ。実は将来漫画家になる事を夢見ている。

日がな一日テレビを見まくっている次女M子。そして「人生に必要なことはすべてテレビで学ぶ」と公言してはばからない。(当然の結果として、お勉強は出来ない・・・・(^^;)

長男の時は親もまだ新米だったので、親が考えた「良い子」の枠に彼を無理やりはめようとして、失敗続きだった。反抗ばかりしていた彼が本当の意味でいい子になったのは、彼がラジコンという趣味を持って、共通の趣味を持つ大人達と付きあうようになった小学校6年生頃のことだ。

「子供は、特に男の子は、集中出来るものに出会うと成長する」という事を、彼は身を持って私に教えてくれた。

テレビが悪い、テレビゲームが悪いと、子供達に時間をやかましく制限した時期もあったが、だんだん親も年を取り、面倒くさくなってきた。そして考えた言い訳がこれである。

ブレーキをかけるのは、彼あるいは彼女自身でなければならない。補助ブレーキは、教習所の中でしか効かないのだから・・・。

彼あるいは彼女のブレーキが、欠陥品の如くにかなり甘かった結果として、人様のお宅よりテレビが占める時間は断然多いかもしれない我が家である。でもまあ今更仕方が無い。

本当はマンガではない本もたくさん読んで欲しいと思う。だが、大きな事は言えない。自分自身が高校生のとき、一冊も本を読まなかったことを自慢していた人間だからだ。

祖父はもうひとつ「鶏頭となるとも牛尾となるなかれ」という言葉も折りに触れて言っていた。
説明するまでもないが、上のランクの一番下にいるよりも、次のランクの一番上にいたほうが良いということだ。

父がかつて同窓会長をし(もちろん優秀だったからでは当然無い。そこそこ名が売れていたからである。)、M氏も卒業生の、地元憧れのN高に、とうとう我が家の5人の子供達は誰一人行けなかった。(もちろん次女M子が残っているが、可能性としては限りなくセロに近い、いやゼロである。(^^;)

はっきり言って、最初は寂しかった。子供をN高に入れたお母さん方が、N高の話しをしているのを聞くのは切なかった。(学校の点数など意味が無いと言いながら、子供には出来ることならなるべく良い学校へ入って欲しいと願う矛盾した親である。(^^;)

だが、長男が、そして次男が、本人の好むと好まざるとに関わらず、運命によって定められて入った高校から、現役で行きたい大学へ入学したのを見届けて、ようやく親は目が醒めた。

「鶏頭となるとも牛尾となることなかれ。」 高校は、所詮通過点に過ぎない。

祖父は「仏の十兵衛」と称される位、穏やかな人だった。「まあまあ」が口癖で、調停役にはうってつけだった。

そんな祖父だったが、祖母には頭が上がらなかったという。

祖母は若い頃「マリーネデートリッヒ似」の美人だった。今でも古い写真を見ると、なるほど、はっとするほど綺麗な人である。ただ、豪商の末娘で、気性が烈しかったらしい。父いわく「ありゃあおやじさん、顔だけ見て舞い上がって結婚して、後で後悔したんだな・・・。」

その上、祖父は名誉職の、つまりただ働きの、市会議長であったから、祖母は雲切目薬を作って、売って、一人で店を切り盛りしなければならなかった。

さぞやストレスもたまったことだろう。
私はあまり知らないが、父は、祖父が祖母にガミガミ言われて、頭を抱えてじっと押し黙って我慢に我慢を重ねていた姿を良く覚えていると言う。

つまりとても辛抱強い、気の長い人だったわけだ。

ところがどこでどうして遺伝子の配列が変わってしまったのか、父17代はずいぶんと短気である。
父に限らず、父方はどうも気の短い人間が多いように思う。

かく言う九子も、実は余り気の長い方ではない。要するに、辛抱強くないのである。自分はトロい癖に、相手にはある程度のすばやさを要求する、まったく呆れたヤツである。(^^;

そんな九子家に、辛抱強い事では多分右に出るものはいないM氏が、仲人口に乗せられて気楽なノリでやってきた。(あっ、お仲人さん、こちらサイドの九子はいつも感謝しております。あちらサイドは存じませんが・・・(^^;)

さて、根性の人M氏の血筋が半分入った我が家の子供達。

どんな人間に育ちあがりますことやら・・・・。( ^-^)


「牛に引かれて善光寺参り」よろしく、年賀状に引かれてはじめて九子のダメ母の証(あかし)日記に来てくださった皆様方、どうもありがとうございました。( ^-^) お正月休みののんびりした時節柄ゆえ、本当は右側の目次より23タイトル、最初から順番に読んで頂きたいところですが、一応お勧めは「M氏の弁明」であります。M氏をご存知の方には、余計楽しく読んでいただけると思います。(^^; また、題名に「事件」と付くものは、ドジが際立っていたという証拠ですので、笑って頂けるかもしれません。では、どうぞ。

次回の日記(1/4予定)に詳しく書かせて頂きますが、1月5日(月)地元SBC(信越放送)テレビ夕方4時55分~(Uパレード)に生九子が出演します。ほんのわずかな時間と存じますが、お暇のある方は御覧下さい。
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